投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
「アシュレイ…!? どうしたの、いったい」
コツコツと窓を叩く音にティアが目をやれば、そこには数刻前に帰ったはずのアシュレイがいた。
ティアの元を訪れるようになって数年が経っていたが、アシュレイが夜訪ねたことは一度もなかった。
心配げに自分を見つめるティアに、アシュレイは言葉がなかった。
衝動的にここに来てしまったが、どうすればいいのか。
ただ、許せない気持ちだけで父王に反抗し、どうしようもなくティアに会いたかった。
でも、どうすればいいのか分からない。
「ティア…」
「アシュレイ? どうしたの? なにかあったの? どこか痛い?」
はじめて見たアシュレイの涙に、ティアはなにごとかを察し不安になった。
「ティア、ここを出よう…!」
「……とりあえず、中に入って」
「ティア…っ!」
「待って、…ね? まず話を聞かせて」
そう言うと、いつものようにティアは奥の小窓に向かって結界を張る。
(そういえば…)
初めて会ったときからずっと、アシュレイがこの部屋を訪れたときには、ティアは必ず結界を張っていた。今まであまり気にも留めていなかったが、さっきの父王とのやり取りで、八紫仙がただの世話係ではないのだとようやく思い至る。
(ティアだって、お目付け…って言ってたじゃないかっ)
自分の単純で能天気な脳みそに腹が立つ。
(あいつはずっと見張られてた…監視されてたんだ…っ)
「おまえが…犠牲になることなんてないっ…!」
「犠牲…?」
「世界のための祈りって…。それだけのために…祈れなくなったら代わりがいるなんて…そんなのっ…そんなのっ…!」
ティアが、どんなに一生懸命祈っていたか。
いつ尋ねても、ティアは祈りを捧げていた。ティアが祈らない日はなかった。
いつだったか、すごく具合が悪そうなティアに訳を訊けば、祈りのほかにも、世界の苦しみや悲しみをその身で浄化する仕事もあり、そのため心身ともにひどく消耗することを知った。
「そう……」
アシュレイの言葉に、ティアは一瞬驚きはしたものの、すぐにその表情は悲しく曇った。
「行こう!!」
ティアの腕を取り、窓の外へといざなおうとするアシュレイの手を、ティアは静かに振りほどいた。
「ティア…!?」
「私はここにいるよ」
「ティア!!」
「ここを出てどうするの? どこに行くの? なにをするの?」
「あ…」
激情のまま父のもとを飛び出し駆けつけたアシュレイに、なんの手立てがあるわけもない。
ただ、ここから連れ出さねば、とその一心だった。
「とにかく…出よう。行き先は…そうだ、俺の乳母の実家がいま空家のはずだから、そこへ…!」
アシュレイの言葉にティアは静かに首を振った。
「ここに、いるよ」
「なんでっ…!」
君に迷惑はかけられないし、ここにいれば…君を…君のいるこの世界を守れる。
たとえ、二度と会えなくなっても…。
それだけでいいんだ。
そう心の中だけでささやくと、ティアは言った。
「……気持ち、悪く…ない?」
「え……」
「アシュレイは、私が気持ち悪くはないの…? 私は…私は自分でもよく分からないんだ。物心ついたときからここにいて、ここで祈りを捧げてた。この世界の人々の苦痛と悲しみを浄化してた。私が消えるまでそれは続く。でも、私にはわからないんだ。自分がいつから存在して、いつ無に帰すのか…誰も知らない、誰も答えてくれない。私は…君達とは違う生き物なんだ…」
「ティア…」
「気持ち悪いよね…いいんだ。それでも」
それでも、私は君が好きだよ……。
心でだけティアは宣言した。
「おまえはバカか!!」
「…ばっ…?」
「おまえはバカだ!!」
「……アシュレイ」
「俺は…姉上や父上や乳母やウサギやリスや…好きなものがいっぱいある。もちろん、嫌いなものもあるし、つか、父上や姉上を森のウサギたちと一緒にしたのがバレたらスゲー怒られるだろうけど、でも、好きなもんは好きなんだっ、俺とウサギは違う生き物だけど、関係なねぇっ! この世界は、ひとつの生き物だけの世界じゃないっ。俺とおまえがちょっとくらい違ってたって…俺とおまえは友達だろっ」
「アシュレイ…」
アシュレイが怒るのは何度も見たが、怒りながら泣くのは初めて見た。
「俺は、おまえに自分をもっと大事にしてもらいたい。俺の大事な友達だから、もっと大事に考えてもらいんだ…っ」
「アシュレイ…」
……いつも、感じていた。
君が外に連れ出してくれても、本当に自由にはなれない、私には鎖がある、と。
この塔から、本当の意味で出られることはない。
ここを出るのは、『私』が消えるときなんだ。
まるで最初から存在しなかったかのように『無』となって、新しい『祈り』を捧げるものが現れる。
それだけのこと。
すべてはあらかじめ決められたことで、それに従うだけ。
…それでいいと思ってた。
でも今は、できるだけ長くこの世界を守る『祈りを捧げるもの』でありたいと願ってる。
―――君が私を変えたんだよ。
君だけが、私を変えた。
「…ありがとう」
ティアは、心からの感謝を込めて言った。
「すごく…嬉しいよ。君がいなかったら…きっとこの世界を本当には愛せなかったと思う」
「ティア…」
「…本当言うと、私は、神の使いなんかじゃなく、罪人なんかじゃないかと思ったことがあるんだ。この印も…」
そう言って、さらり…とティアは前髪をかきあげ自分の額に手をやった。
「ほんとは神様が私につけた罪の証なんじゃないかって…」
「バカなこと言うなっ!!!」
ティアの告白に、アシュレイはただもう悔しくてたまらなかった。
ティアにそんな思いを抱かせたのが"神"なら、絶対許さないと思った。
ギリ…ッと、制御しきれない感情をおさえるために噛み締めた奥歯がきしんで嫌な音をたてる。
「うん…ごめんね。でも、いま私が心からの祈りを捧げられるのは、君がいるから。君が、うわべだけじゃない、心を私にぶつけてくれたから。…だから、わかってほしい。強がりでもなんでもない、私の意思で、ここにいたいと思ってる」
「…でも、おまえばっかり損してる…っ。おまえ、浄化とかしてるとき凄いつらそうだし…っ。なのに、おまえ絶対そんなこと俺に言わないし。でも、そんなティアを見るのは、俺だってつらい…つらいんだっ!」
「…ごめんね」
ティアの謝罪の言葉に、アシュレイは気がついた。
(俺は…)
俺は、自分がつらいのがいやなんじゃないのか?
ティアが、じゃなく、俺が…。
俺が…我慢できないだけで…。
「アシュレイ。これだけはわかって。私は、君がいるからこの世界を守りたいと思う。君がいる世界の幸せを心から祈りたいと思うんだ。…私に、君のことを、君の世界を守らせて」
(俺に、そんな価値ない…!)
ティアの言葉に首を振りながら、アシュレイは新たな涙をこらえ切れなかった。
「俺は…俺は…っ、おまえがそんな思ってくれるほどの奴じゃない…。俺が、お前を守りたいって…そう思ってたのに…なんでっ…俺がおまえを縛ってるんだ…っ!」
「…アシュレイ」
アシュレイの叫びに、ティアは決心したようにテーブルから刃先の丸いハサミを取り出した。
はらはら…と、金色が揺れて床に落ちる。
「なっ…」
「ああ、すっきりした」
「お…まえっ、なにをっ…!!」
「こんな髪だから、アシュレイは私のことをひ弱なお姫様だと思ってしまうんだ」
だっておまえはお姫様じゃないかっ!
と、ティアの外見に心で文句を言う。
「私はね、アシュレイ、お姫様なんかじゃないって何度も言っただろう?」
「…う」
「第一、……君の夢を壊すようで言えなかったけど、私は男だよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・は?」
「聴こえなかった? 私は…」
「なんだとーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっ!?!」
「…き、聴こえてたみたいだね」
耳を押さえてティアが言う。
「うっ…嘘だっ! そんな…そんなことっ」
途端、うろたえるアシュレイをティアがギューッ!と抱きしめる。
「ほら、ね?」
「うわっ…!」
確かに…、女ではなかった。
初めて会った頃は、こんな…こんなじゃなかったのに。
さっきまで、ティアの立場やおのれのご都合主義的思考に苛立ったり打ちのめされたりしていたアシュレイだったが、今は全く違ったことで錯乱していた。
「アシュレイ…!?」
ティアの青い目が、黙って固まってしまったアシュレイを心配げに見つめてくる。
ふと、ティアの肩先で跳ねる金色が目に入った。
心なしか、錯覚か、…なぜだか男らしく…見えなくもない。
(髪…切ったからかな…)
「アシュレイ。君は、私が姫だと…女だと思ってたから、助けてくれようとしたの?」
「…違うっ」
ティアの言葉にビックリしてアシュレイは否定する。
「俺は…、確かに最初は、お姫様なのにこんなとこでひとりで…って思ってたけど。でも…おまえはおまえだ。男でも女でも…お姫様でも、変わらない、関係ない!」
「アシュレイ…」
少しだけ、ティアから肩の力が抜ける。
「でも、」
「でも?」
アシュレイの続けた言葉にティアは思わず凝り返す。
「でも…そうだな…。よく考えたら、…おまえ、そんなに姫らしくなかったよな…」
少し笑いながらアシュレイは呟いた。
(なによりティアには最強の結界がある…)
「俺が…おまえを守りやすいように、そういうとこ見ないようにしてたのかもな。俺が、おまえのそばにいやすいように」
ティアは女で、お姫様で、ひとりでずっとこの塔の中でみんなのための仕事をしている。
つらくてさびしい、ティア。
だから、俺が守る。
俺は、ティアの友達だから。
でも、友達を守るのに男とか女とか関係ない。
なんで俺はこだわっていたんだろう…。
「アシュレイ…! 嬉しい…よ…」
ただ立ち尽くし、静かに涙をこぼすティアに、アシュレイはなぜだか胸が騒ぐ。
「…な、泣くなよ。なんで泣くんだよ」
「だって…」
「ああ…なんかもういいや」
「え…」
「おまえがここで頑張るってんなら、そうすればいい」
アシュレイの突然の容認に、ティアは少し不安な顔を見せる。
「その代わり、つらいときや泣きたいときは、絶対俺に言え!」
ティアの肩をつかんで、きっちり目を合わせてアシュレイが言う。
「絶対、ひとりで我慢するな」
「……」
「おまえが、俺のために祈るなら、俺はそんなおまえの心を守る」
「アシュレイ…。顔、真っ赤だよ…」
「…わ、わかったな!? じゃあ、また来るから!」
そういうと、アシュレイは窓から暗闇へと飛び立ち、ふと振り返り、言った。
「おまえの額の印」
「え…」
「この塔の外側の壁にもでっかく書いてあってさ。…ここはおまえのウチだって、そういう意味かと思ってた。名前の代わりに、おまえの印が入ってんのかなって。いろんな考え方できんなら、いい方に考えたほうがいいよな!」
それだけ言うと、最後に力強い笑顔でティアを見て、今度こそ本当にアシュレイは帰って行った。
来たとき同様、突然に。
「…ふ、ふふっ、あははははっ」
アシュレイの言葉が、凄く嬉しかった。
赤面したアシュレイが、凄く愛しかった。
照れて、そそくさと帰るアシュレイが凄く可愛くて…おかしかった。
…この、額の印を、そんなふうに考えてくれてたアシュレイが、大好きだと思った。
「アシュレイ…」
声を出して笑うことは、アシュレイが教えてくれた。
楽しいとき、おかしいとき、自然と笑い声が出るものなんだと、ティアはアシュレイに会うまで知らなかった。
アシュレイといると、全てがプラスの方向に向かうような気がする。
「ぜんぶ…君が私に教えてくれたんだよ」
誰かと触れ合うことも、その手が熱いことも。
暗闇の中飛び立ったアシュレイの軌跡が見えているかのように、窓の外へとティアは呼びかけた。
季節は巡り、度々アシュレイはティアを塔の外――と言っても森の中限定でだが――へと連れ出すようになっていた。
初めて外へと出たときあんなに喜んだくせに、それでもティアは外に出ることをためらった。そんなティアも、回を重ねるごとに、自分で見たいものや行きたい場所を、遠慮がちにアシュレイに申し出るようになった。
そんなとき、アシュレイが塔に出入りしていることが父王にバレた。
珍しく父王が王子宮を訪ねてきたと思えば、アシュレイの顔を見るなり開口一番怒鳴られた。
「アシュレイ! おまえ…森の中の白い塔に行ったというのは本当か!?」
「…行っちゃいけないのか」
父王の訪問に喜んだ自分がバカみたいだと思ったのも束の間、意外な詰問にアシュレイは戸惑いを隠せない。
「当たり前だ!」
「…んなこと聞いたことねーっ!」
「お父様っ、申し訳ありません、私が…!」
「…人払いを命じておいたはずだが?」
声のした方を見ようともせず、炎王の不快気な声が低く室内に響く。
父の突然の王子宮訪問が気になり、そっと物陰から伺っていたグラインダーズだったが、険悪な雰囲気につい口を挟んでしまった。
「姉上は関係ないっ!」
「…グラインダーズ、下がれ」
「でもお父様…っ!」
「姉上っ…!」
アシュレイなりに姉を庇おうと、目でグラインダーズを退出させようとする。
「父上! ティアは、なぜあんなとこにひとりで祈りを捧げねばならないのですかっ」
「…おまえ…会ったのか!? では、音楽催でおまえと一緒にいて、そのまま森の中へと向かったというその子供は…もしや…!」
「やっぱり…父上もあの子を知ってるんだ…!」
「………」
息子の指摘に、炎王は一瞬言葉につまり苦虫を噛み潰したような顔を見せた。
一度でいいから奏器の演奏を聴いてみたいともらしたティアの呟きを、アシュレイは聞き流せなかった。
遠見鏡で見るだけの奏器がどんな音を奏でるのか、聴いている人々の表情に、その素晴らしさを思い憧れる少女の願いをかなえてやりたかった。
森から出ることを躊躇う少女を説得して、自国の音楽催へと誘い出しのはアシュレイだった。
「父上、ティアを塔から出して下さい!」
「ならん! …第一、私の関知するところではない」
「なんでだよっ。父上はこの南の王じゃないかっ。森はちょうど真ん中にあってどこの国にもかかってないけど、父上の力なら…っ」
「あれは、この世界のためにある。どの国も、口出しはできぬ」
「どうして…っ!?」
「…あの方の祈りがなければ、この世界は崩壊する。世界のために存在する、それがあの方の、あの方々の宿命なのだ」
「かたがた、って…」
「お前は私の次に王となる者。だから、言っておく。あの方の存在はこの世界の最大の隠事、神の使いとしてこの世界につかわされている神の代理。祈り続け、祈り疲れれば、代わりがつかわされる。だが、このことは各国の王しか知らぬこと。八紫仙以外、塔に近寄ってはならん決まりだ」
その八紫仙すら、直接の接触はない。
神秘の存在と力は世界を脅かす。
また、知れば人々の崇敬は王室ではなく塔へと向かう。
もっともらしい理由のほかに、各国の思惑もあった。
「……なんだよ、それ…!!」
代理? 代わりって…。
神だと言いながら、父王の言葉にはなんの崇敬の念も感じられない。
ティアは…道具じゃない!!
ティアに代わりなんてない!!
言いたいことが喉元にせりあがり、悲しくて苦しくて悔しくて、アシュレイは声に出来なかった。ただ、ただ、涙があふれて止まらない。
「…もう頼まねぇっ…! クソジジイ…!!」
ほえるような一言を父王に叩きつけると、アシュレイは城を飛び出した。
実のところ炎王は、息子の塔通いをそれほど問題視してはいなかった。
アシュレイひとりが塔に通ったくらいで、どうにもなるものではない。
第一アシュレイ以外に、あの森の中を進み入り、天を突くほど高い塔の天辺にいる神の代理の元に通える者が、そうそういるはずがないのだ。
問題は、塔と塔の中の存在が明らかになることだけで、その点、炎王はアシュレイの口の堅さを信用していた。
ただ熱心に噛み付いてくる息子に、しばし親子喧嘩を楽しもうと決め込んだだけの話で。
炎王としては、普段王子宮で離れて暮らす息子を思いきり甘やかせてるつもりだった。…息子には全く伝わらなかったが。
「なんと…口の悪い。本当に王子か、我が息子は。…グラインダーズ」
「………」
「そこで聞いておったのだろう? 出て来い」
「…父上。アシュレイは、」
「フン。甘い奴だ。捨て置け。どうせなにもできん。…できても困るがな」
独り言のように呟くと、炎王はほんの少し楽しそうに笑った。
「駄目になれば次が来る。どちらにしろ、この世界に変わりはない」
それからアシュレイは、姉のグラインダーズにも誰にも内緒で、森の中の白い塔を訪ねるようになった。
いつ訪ねて行っても、少女は窓際の生成り色の布の上に跪き祈りを捧げていた。
少女の仕事を邪魔したくなくて、祈りが一段落着くまで外で待っていると、やがて窓の外に気がついた少女が中に迎え入れてくれる。
そして「もう少し待っててくれる?」という少女の申し訳なさそうな声に、「気にすんな!」と勝手に椅子に座って転寝する振りで、そのままアシュレイは祈る少女を見ていた。
それから、祈り終えた少女の淹れたお茶を飲みながら、アシュレイが持ってきた菓子を食べる。
アシュレイのたわいない話を、微笑みながら楽しそうに嬉しそうに少女が聴く。
ガキ大将なアシュレイの塾での自称・武勇伝や、老元帥たちの話す魔物との戦闘、乳母に聞いた物語。
特別なことはなにもない。
一緒にいるだけで、よかった。
一度、こんなことがあった。
中を覗けば、いつもいるはずの窓際の生成りの場所に少女の姿が見えず、訪れた窓の外、浮き立った心が一瞬で冷え、窓(というか結界)を叩いて名前を叫んだ。
「どっ、どうしたの、アシュレイ!?」
壁の本棚の陰から現れたティアは、まさに風呂の途中、急いでタオルだけ巻いて出てきたといった姿だった。
無造作に巻かれたタオルからこぼれる、湯の雫と金色の長い髪の筋。ほんのり上気した真珠の肌からはまだ湯気が立ちのぼる。
アシュレイは、安心と、驚きと…わけのわからないドキドキで瞬間湯沸かし器のように沸騰し、真っ赤になった。
「ごめんね。お風呂に入ってたんだ。この本棚…」
そう言ってティアは説明してくれた。
「こうすると動いてもうひとつ小部屋に通じてるんだ」
可動式のそれは、奥にお風呂場とか洗面所とか、日常生活で必要な、今までどうしてるんだろうと心配していたアシュレイの疑問を解いてくれるものだった。
(とりあえず、不自由はない…のか)
ほんの少し安堵したアシュレイだった。
「すげぇー!」
その日、アシュレイはティアに初めて遠見鏡を覗かせてもらった。
机の脇の、真っ暗な鏡。
その鏡面に突然浮かぶさまざまな景色に、人、人、人。
驚くアシュレイに、ティアは嬉しそうに話して聞かせた。
「ここが、君の国。そして……ここが君がこの前壊した休火山」
切り替わった画面を見ながら、ついそのときのアシュレイの様子を思い出したティアが、その姿のまま、愛くるしい声で笑う。
「…見てたのかよ」
「だって……。ごめんね」
アシュレイと出会ってから、ティアは無意識のうちに遠見鏡でアシュレイを探し追うのが習慣になっていた。
口ごもり許しを請う上目遣いに、アシュレイは、怒ってない、と告げる。
「でも、音とか声が聴こえないのって不便だよなー」
「前は音も聴けたらしいんだけど」
「ふーん」
なんで今は聞けないんだろう、と一瞬思ったアシュレイだったが、聞かれていたら、それはそれで恥ずかしいかも…と思った。
「キキッ!」
突然子リスが一匹、アシュレイの足元にからんできた。
「うわっ…と、なんだ、おまえ、探検はもう終わりか?」
森の動物も遠見鏡でしか見たことがないティアに、来る途中で見つけた子リスを懐に入れ連れてきたのだが、中に入った途端、子リスは勝手にそこらじゅうを走り回りだした。
「この子がこんな声で鳴くことも、知らなかったんだ」
「…そうか」
「かわいいね」
子リスがティアの床まで伸びた髪にじゃれつく。
「よかったな」
アシュレイの返答に、ティアは少し不思議そうな顔をしながら、ふと思いついて言った。
「どうしてアシュレイはこんなに私によくしてくれるの?」
「どうして、って…」
「私は嬉しいけど、アシュレイは大変じゃない? ここは森の中で、私しかいないし、退屈じゃない?」
退屈?
「おまえがいるじゃないか。俺とおまえは友達だろ? 友達に会いにくるのが大変だなんて思うほど、俺はまだそんな年寄りじゃないぞっ」
「ともだち…?」
大きく頷く赤い瞳に、ティアはどう返していいか分からなかった。
「ともだち…って、なに?」
ティアの言葉にアシュレイは胸を打たれた思いがした。
ティアは、おそらくとても賢い子供なのだとアシュレイは感じていた。
塾に通う自分の知識とは全く質が違う。
自分のことだけで精一杯の自分と違い、ティアは自分のやるべき仕事を知り勤め続けている。ティアの言葉にはとても力があったし、重みがあった。
書棚にはアシュレイが題名さえも到底直視したい日が来るとは思えないような分厚い本が何冊も並んでいる。
なのに、ときどきこんなふうに当たり前のことを知らない。
子リスの鳴き声も、『友達』の意味も。
(…俺が乳母から聞いた物語の話してやると、すごい喜んでた)
ここにある本にはそんなこと書いてないし、…こいつにそんな話聞かせてくれる奴もいなかったってこと…だったんだよな。
「…友達ってのは、ずっと心が一緒だって意味だ。俺とおまえは、友達だから、離れてても寂しくない、心が一緒だからな。でも、会えたほうがもっと嬉しいだろ」
「ずっと…一緒…?」
「ああ…!」
母親がいなくて、耳がとがってて、角があって。
たとえ直接耳に入らなくても、そいつらの目で、態度で分かる。
南の王子は、不吉だって。気味が悪いって。
父上とも姉上とも、他の誰とも違う姿。
俺はひとりだと思ってた。
でも、俺には父上もいて、姉上もいて、斬妖槍もある。
乳母に使い女たちだっている。
遠見鏡があったって、本があったって、こんな…こんなところにずっとひとりだったら…俺ならきっと気が狂っただろう…。
一度、冠帽がずれてティアに角を見られたことがある。
ティアは、小首を傾げて「ふふ、アシュレイのこと、またひとつ知ったよ」って嬉しそうに笑った。「こんなとこに可愛い角を隠してたんだね」って。「可愛いなんて…未来の武将に対して、ちっとも誉め言葉なんかじゃないぞ!」ってあの時は言ってしまったけど……。
アシュレイは、ぐっとこみあげてきた涙をこらえるとティアの手を取った。
「ここから出よう」
「でも…私にはここで仕事があるから」
「そんなのっ…!」
なんでおまえだけが、祈り続けなきゃならない!?
ひとりで、みんなのために、なんでおまえひとりがこんなさびしいところで…っ。
そんなの理不尽だ…っ!
「私は大丈夫だよ。…でも、君がそう言ってくれて、凄く嬉しい。君の気持ちが嬉しいよ。ありがとう」
「…ティア」
「今までは、私もよく分からなかった。けど、今度からは、君へのこの気持ちのままに祈りたいと思う。君が…皆が幸せで過ごせますように、って」
そう言って、ティアこそが幸せそうに微笑んだ。
(駄目だ…っ!)
アシュレイは、無理やりティアの体を引き寄せると、そのまま窓枠に飛び移り、宙へと踏み出した。
「…うわぁ…!」
アシュレイの突然の行動に一瞬言葉を失ったティアだったが、すぐに今度は感動で声が出なくなる。
今まで、ただ眺めることしかできなかった、外。
これが大気…。
知らず、ティアの身体がブルッ…と震える。
「空気が…動いてるよ…?」
肌を撫でる、髪が乱れる、これは何だろう。
「ああ…えっと、もしかして"風"のことか…? 下はそんなに強くないはずだけど、上はやっぱり風があるからな」
「そうか…これが…」
風。
遠見鏡に映る風景に、洗濯物や木の葉が揺れたり、女の子達の髪が踊ったりしてたのは、こんな感じだったんだ。
「寒いか?」
「ううん…」
風。
これが、風。
(アシュレイは、いつもこんな風を感じなから、ここまで訪ねてきてくれてたんだね…)
「…アシュレイには、塾にも『ともだち』がいるの?」
「塾!?」
乱暴者で喧嘩っ早く、しかも南の国の太子であるアシュレイに、対等な友達と呼べる級友はいなかった。
(喧嘩友達ならいるけどな…)
そういえばアイツなら塔の部屋ん中でも風が呼べるかも…と、風雷を操る二歳年上の少年を思い浮かべて即行で打ち消した。
(アイツはダメだっ!)
あんなタラシ紹介できねぇっ!
「俺の友達は、おまえだけだ」
だが、ティアの目を見つめてそう言い切るアシュレイ自身、喧嘩友達が見たら「テメェこそ無意識にタラシてんじゃねーよ」と言われても仕方がないほど、ティアの顔は真っ赤になっていた。
「…? 熱いのか?」
「そ、そうじゃなくて…。あ…っ!」
ヒクッ…とティアの鼻をならすようなしぐさに、アシュレイがニコッと笑って言った。
「梔子だ。どっかに咲いてんだな。風が運んできたんだ。…おまえとおんなじ香りだな」
はじめて会ったときから、ティアはいつも梔子の香りの玉を身につけていた。
「ほんとだ…同じ…」
でも…。
同じだけど、違う。
私のつけてる香玉は、もっと…静かだ。
こっちのほうが、すごく生きてる感じがする…。
空気も、温度も、香りも違う。
ただ、自分をとりまく実体のないものが、こんなに愛しく感じられるなんて思わなかった。
外の空気は、こんなに自由なんだ。
「ティア…?」
黙ってしまったティアに、アシュレイは少し後悔しかけた。
(…いきなり連れ出したりして…強引だったかな)
「アシュレイ…」
そのとき、どこか遠くを見たままのティアに呼ばれた。
「な、なんだ…うわっ!!」
「ありがとうっ…ありがとう、アシュレイ!!」
「ティア…っ!?」
突然強く抱きつかれ、うろたえる。
「外って…全然違うんだね。すごく綺麗で優しくて…。すごく、嬉しいよ。ありがとう…」
初めて会ったときより、少し背が伸びたティア。
(俺が守ってやる…!)
ティアを抱く腕に力が入る。
絶対このままじゃいけないと、子供心にアシュレイは強く思った。
この限られた小さな部屋だけが私の居場所。
唯一与えられた"外"を見る目で、世界を見守り、幸せを祈る。
苦痛を取り除き、痛みをやわらげる。
色とりどりに咲く草花、街を行き交う人々、広場で遊ぶ子供達。
目に映る美しい風景。心和む優しい情景。
決して触れることのできない世界。
この世界を守ることが私の仕事。
そのための存在。
…それだけの存在。
守天は額の印にそっと手をやり、目を伏せた。
この世界の中央の、緑濃い森の中には白い塔がある。
天を突くほどの森の木々より高く、その塔の側面の中央には不思議な模様が印されている。
塔の天辺には窓がひとつ。その窓に、ときおり小さな影が映るという。
「その塔がなんのためにあるのか、誰が建てたのか、誰かいるのか、なにがあるのか…。誰も知らないわ」
「だれも…?」
「そうよ、誰も」
「姉上も?」
「もちろん、私もよ」
寝台横に立ったグラインダーズは、一向に眠る気配のない弟の顔を覗き込んで神妙な声で言った。
ひとり王子宮で育てられている弟と違い、父王とともに王宮で暮らしている姉のグラインダーズは、今夜はアシュレイの乳母の急な帰省のため、就寝前の様子見に王子宮を訪れていた。
母は違えど、お互い早くに母を亡くした身。しかも弟はまだ小さい。
グラインダーズは母親代わりに五歳違いの弟の面倒をよく見ていた。
「塔の話はおしまい。さ、もう寝なさい」
大好きな姉の久しぶりの訪問と不思議な塔の話に、目が冴え、なかなか眠ろうとしない弟の胸元の毛布を引き上げると、グラインダーズは部屋の灯りを消して出て行った。
アシュレイは、乳母や使い女たちはもちろん、それがたとえグラインダーズであっても、そばに誰かがいれば寝つくことはない。
「…森の中の白い塔」
姉の話に、まだやんちゃな盛りのアシュレイは、声に出して言ってみる。
あの綺麗で賢くて優しくて強い、大好きな姉・グラインダーズでさえも行ったことのない塔。
「なにがあるのか、誰がいるのか…」
誰も知らない塔の中。
明日はそこに行ってみようと思いながら、アシュレイは眠りについた。
アシュレイはまだ四歳だが、一年前から塾にも通い始めたし、その体内には武器を持っている。
アシュレイとともに成長する神器だ。
これさえあれば、たとえ白い塔にどんな奴がいたって大丈夫だとアシュレイは考えていた。だからこそ、共の者を振り切り、ひとりでそんなところへ行こうと思ったのだ。
「あれか…!?」
森の上空を飛びながら、しばらく行くと円柱の形をした白い塔が目に入った。
「ほんと真っ白だ」
『その塔がなんのためにあるのか、誰が建てたのか、誰かいるのか、なにがあるのか…』
昨夜のグラインダーズの言葉を思い出す。
実物を目にして、初めて実感としてその疑問がアシュレイの胸に広がった。
だが、ままよ。自分には斬妖槍がある。
アシュレイは神器を手に大胆にも塔に近づいた。
慎重に地上に下りながら塔の側面を観察する。
グラインダーズの話しの通り、側面の白い壁には不思議な模様があった。出入り口らしきものは見当たらず、もう一度宙に飛び、塔への唯一の出入口に思える窓にそっと近づく。
そっと…そっと…
「…おっ…おひめさま…なのか!?」
「え…?」
窓は、ちょうどアシュレイの背丈より少し小さいくらいの大きさで、幅がアシュレイの両腕を広げたくらい、長方形で上の部分が半円になっていた。
その中に、自分と同じくらいの年の愛らしい少女を見つけ、アシュレイは思わず叫んでいた。
長い金色の髪を編みこんだ、色白で華奢な、見たこともない美少女。
物語好きな乳母が好んでする話のひとつに、悪者にさらわれ捕らわれた姫を助ける王子の話があった。
(間違いないっ)
この美少女は、囚われのお姫様だ!
「どっかの国のお姫様だろ! 悪い奴らに閉じ込められたのか!?」
「…ちが…私は」
「もう大丈夫だっ。すぐに助けてやる!」
そう言って、窓枠に手をかけ中に入ろうとして、
「俺はア…っ!! …なんだっ、これっ!?」
アシュレイは、突然なにかにはじかれ手にした斬妖槍を構え直した。
入ろうとして、はじかれた。自分を、というより、たぶん外界を拒絶してるのだ。
「な、なんだ…っ、いったい…」
(結界…か!? でも…)
こんな結界は初めてだった。
父王も、異世界からの魔物の進入を防ぐため、世界の安寧のため、結界を張っていることは知っているし、実際その現場も見たことがある。
だが、こんな強力な結界は知らない。
結界の存在を感じさせず、近づいた途端、完璧な拒絶を示す。
こんなところに閉じ込められたら出られないし、…助けられない。
勝気なアシュレイが、一瞬で諦めの念を抱くことなど珍しい。それほど、いま目の当たりにした結界は強烈だった。
「…だいじょうぶ?」
中から、震える声がアシュレイに問いかけた。
「…ったりまえだ!」
そうだ。
この子は、さらわれて、ずっとこんなところに閉じ込められてるんだ。
こんなに小さくて弱そうなのに、たったひとりで…。
(こんなことくらいで、負けてられない…!)
全てアシュレイの勝手な妄想だが、いまのアシュレイにはそれこそが力となった。
「待ってろ、すぐに助けてやる!」
「あの…ちょっと待って! いま結界はずすからっ」
「心配すんなっ! すぐに…っ…って、え!?」
目を瞑り、なにごとがつぶやいた少女が、微笑んでアシュレイを見た。
「もう平気だよ? どうぞ」
「…へ?」
なんだかわけが分からないながらも、アシュレイは言われたとおり、窓の中へと進み入る。
「…なんだ、こりゃ」
さきほどとは打って変わって今度はなんの障害もなく、スルッ…と中へ入れてしまった。
中は、大人だったら少し狭く感じるかもしれないが、天井が高いので圧迫感はあまりない。
壁面の本棚にはぎっしりと本が並べられ、真ん中に机と椅子があって、その隣に小さな寝台、そして窓の下には、床一面に敷かれた白い敷物の上にもう一枚、アシュレイが腕を広げたくらいの正方形の生成り色の布が敷いてある。
天井も壁も床の敷物までが白く、無機質な印象の部屋の中で、唯一、机の脇に置かれた黒く大きな鏡だけが異色な存在だった。
「えーと…。あの、はじめまして。君は誰…?」
少女の戸惑う声に、少々呆けていたアシュレイは我に返り、さっきしようと思ってできなかった自己紹介を試みる。
「俺は、アシュレイ。南の国から来た」
「アシュレイ?」
「そうだ。…は、はじめまして、…えっと、」
「あ…ああ…私は、私の名前は……ティア…ティアランディア」
「はじめまして、ティアランディア姫!」
「ひ、ひめ…? えと、さっきもなんかそんなこと言ってたけど、私は姫なんかじゃ…」
「で、悪い奴らはどこにいるんだ!?」
「…は!?」
「悪い奴らにさらわれて、こんなところに閉じ込められてるんだろ?」
「えっ、あの…」
「どこの国の姫かは知らないけど、俺がちゃんと送ってってやるからなっ」
身体より大きな武器を持った自分と同じくらいの少年の、鼻息荒い意気込みに、少女は一瞬言葉を失ったが、すぐにひとつ息をついて言った。
「私は…たぶんさらわれてきたわけじゃないと思う。私にもよくわからないけど、……私は、ここで祈りを捧げているだけなんだ。なにも危険なことはないし、これが私の仕事だから、ここを出るわけにはいかない」
「……へ?」
少女の言葉が理解できない。
綺麗な音だけが、自分の耳を素通りしていく。
そのとき、控えめに扉を叩く音がして、アシュレイは反射的にそちらに向け斬妖槍を構えた。
見ればアシュレイが立つ窓際から奥へと入ったところのつきあたりの壁、アシュレイの胸の高さくらいの位置に、小窓がある。
外から見たときにはこの塔に出入り口は窓より他にはなかったはずだ。
(いったい誰がそんな小窓の向こうにいるんだ?)
そこまで思って、ふとアシュレイは不思議に思った。
(そうだ。出入り口はこの大きな窓しかない。この子はどうやってここにいるんだ? 小窓の外にいるらしい奴はどうやって外と出入りしてるんだ?)
「守天殿? 物音が致しますが、なにかございましたか?」
しわがれた声が小窓の外から尋ねる。
「変わりないよ。鳥が来ただけ。大丈夫」
「承知いたしました」
ほのかに赤いくちびるの前に人差し指を立て、アシュレイに静かに…と示しながら、少女は外からの声に答えて小窓に向かってなにかをつぶやいた。
「今のは…?」
アシュレイの問いに、少し迷ったように、
「私の世話をしてくれる八紫仙っていう人たち。ここには入ってこないから気にしないで。…念のため結界も張っておいたし、声も届かないと思う」
世話…?
「そう、世話。」
心で呟いたつもりが、声に出ていたらしい。
しかも、思いっきり不審げな声だったようだ。
「お目付け…っていうか…。食事とか衣服とか、私に必要なものを届けてくれる」
「でもこの塔に出入り口は…」
「ないようだね。私も知らないけど、地下に連絡通路があって街と行き来してるみたいだよ」
「…なんでまた」
こそこそと面倒なことしてんだ?
ていうか、私も知らないけど、って!?
「…ちょ…待って。おまえ、ここ出たことないのか!? そいえばさっき仕事って言ったよな? 出るわけにいかないってどういうことだっ!? 出たくないのか!?」
アシュレイの言葉に少女は知らず微笑んでいた。
笑んだその心の奥の慣れ親しんだ諦めを、すでに少女は意識すらしていない。
(もし…)
自分がここにいる理由、ここでひとりで祈り続ける理由、すべてがわかったとしても、たぶん君には、いや、誰にも話せないことだろうと、少女は思ったのだ。
(それにしても、私がさらわれて閉じ込められた姫だなんて…)
「ここを出るなんて…考えたこともないから、わからないよ」
「でも…おまえ、さびしいだろ?」
アシュレイは幼く、また、元来機微に聡いほうではない。
ただ、動物好きのアシュレイは『好きだから』彼らとの間に信頼を築き心を通じさせようと努力する。人との関係も、それと同じだった。好きだから、自分から近づく。努力する。
少女に内面的な強さを感じとり、知らずアシュレイは彼女に好感を抱いていた。
はじめて出会った不思議な少女のことを、わかりたいと思ったのだ。
「さびしい…?」
きょとんとした顔で少女が続ける。
「この塔はこの世界で一番高い建物なんだって。ここで世界の幸せを祈ることが、私の仕事。それしか考えたことなかったから…ごめんね、君の言ってる意味がよく分からない」
そう言って謝りながらも笑みをたやさない少女が、アシュレイにはとても儚く見えて、なぜだかとても胸が痛かった。
「祈る…って、おまえは、巫女姫か?」
「巫女…姫…とは違うかな…」
首をわずかにかしげ困ったように答える少女に、たぶん、それ以上は訊くべきではないのだと、アシュレイは感じた。
「わかった。おまえは、ここで大事な仕事をしてるんだな」
「うん…」
「だったら、俺がここに来る!」
「えっ」
塾もあるし、王子という立場上、本当なら勝手に一人で城外に出ることは許されてはない。だが、アシュレイにとってそんことたいした問題ではない。
「…来ても、おまえが結界解いてくれなきゃ中には入れないけどなっ」
照れくささを隠して、少々偉そうにアシュレイが言い放つ。
「………ほんと…?」
「来てもいいか?」
「また…来てくれるの?」
期待に戸惑いながらかすれる少女の声に、アシュレイは力いっぱい大きく頷いた。
頬染め、嬉しそうに笑んだ少女から、かすかに花の香りがした。
そしてそのとき初めて、アシュレイは気がついた。
少し長めの前髪に隠された少女の額に、塔の壁面と同じ不思議な模様が刻まれていることに。
「おい、おまえこっちこいよ」
嫌な笑みをうかべた同じクラスの連中を、桂花は眼に力を込めて睨み返した。
ここで負けたら、このあとの学校生活でずっと弱者の側に分類されてしまうことが、
今までの経験から分かっている。
腕力には覚えがないので、眼と口で勝つしか方法はないのだ。
「吾に用はありませんので」
これ以上無いくらい冷ややかに返答して堂々と踵を返す。しかし、相手はしつこかった。
ぐい、と肩を掴んで引き寄せられる。桂花の肌に鳥肌が立った。
「つれなくすんなよ」
「そうそう、俺らと遊ぼうぜ」
「さ、わらないで下さい!」
転校そうそう、これである。泣きたかった。
留学生である桂花は、大きな問題を起こしたら国に返されてしまう。
喧嘩は御法度だというのに。
助けを求めて周囲を見回したが、廊下に人影はなかった。
もう放課後なので、チャイムは期待しても無駄だ。
このままさらに人気のないところに連れ込まれたら、諦めるしかない。
桂花は唇を噛みしめた。
渾身の力を込めて、自分を拘束している腕を振り払った。
怪我さえさせなければ証拠はない。後は逃げるだけだ。
足には自信があった。
「待ちやがれ!」
追いかけてくる二つの足音を背後に、桂花は長い廊下を全力疾走した。
しかし、焦るあまり前方に注意を向ける余裕がなかった。
手加減なしに、前から歩いてきた生徒と衝突してしまったのだ。
受け身を取る余裕もなくリノリウムの床に倒れてしまい、強かに腰を打ちつけた。
「っ……痛っ!」
足音は見る間に近付いてくる。もう無理だ、逃げられない。
諦めたとたん、身体から力が抜けていく。涙も出なかった。
放心したように座り込んでいると、だらりと投げ出された腕を強く掴まれた。
「おい、大丈夫か?」
追いかけてくるクラスメイトの声ではない。
顔を上げると、そこには見知らぬ顔があった。
空色の瞳が印象的な、精悍な少年。
今自分がぶつかった相手なのだと認識した瞬間、強引に立たされる。
「まだ走れっか?」
頷こうとしたが、足がおかしい。
おかしな倒れ方をして捻挫でもしたのだろうか、力が入らない。
桂花は首を横に振った。
「無理です……すみません、ぶつかってしまって。行って下さい。あなたまで巻きこまれる」
「馬鹿野郎。こんなとこで怪我人見捨てて逃げたら寝覚めが悪いだろーが」
それに、もう奴らは目の前だ。
「そこで見物がてら、休んでろよ」
桂花を背中に庇いながら、少年は三人を向こうに回して不敵に笑った。
「弱い者いじめは感心しねーな。おまえら、バレたら停学だぜ?」
「はっ、そんなマヌケなことすっかよ」
「そーそー、おまえも痛い目見たくなかったら、その生意気な男女おいて消えろよ」
「それとも、こっちにまざるか?」
数で勝っているという余裕が端々に見られる。非常に不愉快だった。
ひとりでは何もできないくせに。
しかし、そんな連中に手も足も出せない自分のほうが、もっと惨めだった。
唇を、切れるほどに噛みしめる。
前に立っていた少年がちらりと振り返って桂花と視線を合わせ、
安心させるように片目を瞑ってみせた。
それも一瞬で、すぐに前を向いてしまう。
「頭の悪い奴とつるむ趣味はねーな。ボコボコになって恥晒したくなかったら消えろよ」
威勢の良い啖呵である。勝ちを確信した連中が、ここまで言われて黙って引き下がる道理もない。
あっという間に乱闘になった。
もう桂花にはどうすることもできない。
ただ、人が来ないことと、巻きこんでしまった少年の怪我が軽く済むことを祈るだけだ。
しかし、桂花の悲観的な予想は思いのほか早く外れた。
時間にして数十秒、床に沈んだのは桂花を追い回していた三人組だったのだ。
本当にあっという間だった。
鮮やかとしか言いようのない手際の良さで、
少年は当然のように勝ちをおさめていた。
一人目は股間を容赦なく蹴り上げられて悶絶、
続いて二人目は首の後ろに手刀を叩き込まれて意識を失い、
多少は武術の心得がありそうな三人目も、
一撃も少年に加えることができずに蹴り倒されていた。
桂花があっけにとられていると、少年は人好きのする笑顔で手を差しのべてきた。
「よし、行くか」
「どこに、ですか?」
「とりあえず保健室だろ? その足、なんとかしてもらわねーと。
そのまま職員室行って、あいつらの処分を決めてもらう」
「だ、」
「だ?」
「駄目です。吾が騒ぎを起こしたら……国に帰らされてしまう」
「だから、だよ」
少年は真剣な顔で説明する。
「このまま黙ってたら、間違いなくあいつらはおまえにやられたって騒ぎ立てるぜ?
おまえひとりで反論したって、信じてもらえんのか?
あいつら、理事会に親だの親戚だのがいるんでやりたい放題してるって有名なんだ。
先手を打たれて書類に判押されちまったらどうしようもない。
良いから俺に任しとけって。幸い、今なら理事長が帰国してっからな」
ほれ、っと背中を向けてしゃがまれ、桂花は困惑した。
「あの……?」
「歩くと痛むだろ。おぶってやっから」
とっさに、桂花は後退った。
初対面の相手に丸ごと身体を預けるなど、桂花にはできない。
「自分で歩きます。肩だけ貸して下されば」
頑なな態度に、少年はあっさり諦めて立ち上がった。
なんとか自力で起きた桂花の片手を肩に回し、ゆっくりした歩調に合わせて歩いてくれる。
じれったいほどの速度のはずだが、少年はいやがる素振りすら見せなかった。
一階の隅にある保健室は、恐らく校内で図書館に並ぶほど静かな場所だ。
常時待機している保健医の一樹は、
腫れあがった桂花の足首を見るなり顔をしかめ、
原因を問いただす目を少年に向けた。
「例の三馬鹿トリオに絡まれて、逃げてる途中で俺と正面衝突。
転んだんだよ」
「また彼らか。困ったものだね。きみ、大丈夫?」
やわらかな声に問われて、こくりと首肯する。
「留学してきたところらしいんだけど、
どうも一般の留学生とは扱いが違うらしいんで、
報告がてら理事長に探りをいれてこようと思ってる。
悪いけどその間、ここで預かっててくんねーかな。
誰が来ても渡さないで欲しいんだ」
「かまわないよ」
「助かる。じゃあ、ちょっとここで休んでてくれ。
あとで絶対に迎えにくるから。知らない奴についていったりするなよ」
まるで幼児にするような注意を残して、少年は行ってしまった。
「災難だったね」
手際よく足に湿布を貼りながら、一樹は一方的に話し続けている。
少年が出て行ってから、桂花はまだ一言も発していない。
「あの連中には教師も手を焼いていてね。
でも最近は少しやりすぎだね。
泣き寝入りしてきた生徒も多いことだし、
そろそろ上も動くと思うから、安心するといい」
「……」
「警戒しなくても、俺はきみに危害を加えたりはしないよ。
名前だけでも、教えてもらえないかな?」
この微笑みを前に警戒心を続けるのは難しい。
いつの間にか心が弛んできている自分に、桂花は呆れた。
異国の地で、これほど穏やかな気持ちで誰かと向かい合ったことなどなかったのに。
「桂花、と申します」
「きれいな名前だね。きみにぴったりだ」
「この国では、女性に付ける名と聞きましたが」
「俺は本人に似合っていればそれで良いと思うよ。
それに、これだけ国際化が進んだ時代に名前云々であれこれ言うのはナンセンスだ」
「ありがとう、ございます」
大好きな人にもらった名を褒められるのは、単純に嬉しいものだ。
自然と桂花の顔は綻んでいた。
解き放てば無差別に人に襲いかかる獣のような扱いで入国審査を受け、
何枚もの誓約書にサインするまで手足の拘束すら解かれなかった桂花の心は荒みきっていた。
敵対国からの留学生を見るこの国の人々の目は冷たかった。
つい数年前も大きな戦争があったところなのだ。
何万人もの人々が桂花の国によって命を奪われた。
もちろんその逆もあった。
ようやく和平条約が結ばれたあとも、
国家間の関係が完全修復されたとは言い難い関係が続いている。
そんな中での留学だった。
この国の人間は桂花の国を蛮族の国と蔑み、
それを理由にいつまでたっても対等な立場で交渉のテーブルにつこうとはしない。
それならば、同じように理性と知性を持った人間であることを証明しようと、
国は桂花を差し出した。
容姿に優れ、頭脳明晰の天才と名高かった桂花は、
あらゆる物事に対して一切の抵抗を禁じられ、
ほとんど問答無用で敵国に送り込まれたのだ。
それで心安らかに過ごせるはずがない。
監視付きのひとり住まいで、一時たりとも気の休まる時のなかった桂花の緊張が、
立て続けの刺激で一気に弛んだ。
気付けば、頬に冷たい感触。
それが自分の涙だと分かった時には、一樹の唇が頬に触れていた。
「辛かったね。でも、もう大丈夫。ここにいれば俺が守るし、柢王もいる」
「てい、おう?」
「ああ、きみをここに連れてきたさっきの子だよ。柢王というんだ」
「柢王……」
「彼が本気で動いたら、いくら彼らのバックに理事会がついていても無駄だからね」
「そう、なのですか?」
「彼はこの国の王族の直系だからね。
それに、個人的に理事長とも懇意にしている。
校長や教師との駆け引きも上手い。だから、安心しておいで」
「でも、それならなぜあいつらが手を出してきたんですか?
敵に回したくないでしょうに」
「柢王は自分の身分を表沙汰にはしていないからね。
直系といっても末っ子で、継承権も三番目。
王族として人前に出たことはまだないんだ」
桂花は眼を見開いた。
「そ、んな……極秘事項を、吾になぜ」
「きみは秘密を守れる子だ。無闇に人に話したりはしないだろう?」
桂花は、真っ直ぐ寄せられる信頼の眼差しから視線を逸らした。
そんなに簡単に、信じたりしないで欲しかった。
「吾は、そんな人間ではありません」
「俺は自分の直感を信じてるんだ。
きみなら、柢王の良い友達になってくれるような気がしてね」
「ともだち?」
「あの子も、なかなか自分の領域に人を受け入れないから、
同年代の友人がほとんどいないんだ」
「だからといって……」
「もちろん、無理強いはしないよ。
でも一緒にいて楽しいと思えたら、
あの子の力になってやって欲しいんだ」
そうまで言われて、頭から拒否するのも大人げなく思えた。
この人には、なぜかイエスとしか言えない気がする桂花だった。
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