投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
「カイシャン様!」
やっと店にたどり着けた桂花は、丁度店から落ち着き払って出てきたカイシャンを捕まえた。
「カイシャン様、何をしていらしたのです!?」
しかし彼は桂花の前を無言で通り抜けた。そして少し歩いたが、なぜか大通りを逸れた。そのまま店と店の間の狭い路地を進んで行ったが、やがて突き当たりで立ち止まり・・・。
吐いた。
(しばらくお待ち下さい)
カイシャンは桂花が携帯していた薬を飲んで、背上の人になっている。
「まったく何をやっているんですか、あなたは」
桂花の説教に背中にへばりついているカイシャンは意味不明のうめき声で答えた。酒を飲んだ経験はあるが、一気飲みしたことはない。そこは常に周りの大人が加減をしてくれるからだ、あれでも。桂花は自分の不注意を心から悔やんだ。カイシャンへの注意事項がまた一つ増えたようだ。馬空には必ず申し送りをしておかないと。ついでにそれにも関わらず不注意をしでかした暁には桂花にどういう目に遭わされるかということも頭に叩き込ませなければならない。
2人は賑やかな市場を抜けて、富裕層の住宅が軒を連ねる静かな住宅街に入っていた。桂花の館もこの一画にある。
「帰ったらまた薬を飲んで、しっかり休んで下さい」
カイシャンは桂花の背中で身じろぎをした。
「お前の館へ帰るのか?」
「当たり前です。吾がついていながらこんなことになったなんて。陛下に知れたらそれこそ困ります」
カイシャンは無言で桂花の肩に顔をうずめて「ごめん」と呟いた。先ほどの態度との落差に思わず口元が緩んだが、アルコール度数だけはやたら高い安酒特有の下品な臭いが鼻を直撃して桂花は顔を顰めた。その臭いでカイシャンが飲んだ酒がよく馬空やその仲間達が飲んでいるものと同じものだということを知る。
全くあの男はろくなことをしない、と桂花はカラコルムの方向を睨んだ。(彼の地では馬空が大都の方角から絶対零度の冷気を感じて身を震わせた)
「あのさ・・・」
カイシャンが桂花の肩にまだ土気色の残る頬を押し付けながらぽつんと言った。
「なんです?」
「俺ってまだお守が必要なのかな?」
どうやらさっきは「お守」と「ガキのお散歩」という男の言葉がカイシャンの闘志に火をつけたらしい。
桂花は体を揺すってカイシャンの体をずり上げた。
「そうですね。どうも吾はまだまだ殿下から目を離すわけにはいかないようです」
カイシャンは桂花の首筋に額を押し付けて、くぐもった声で言った。
「お前が傍にいてくれるなら、俺は子供のままでいい」
桂花は思わず足を止めた。
「俺が子供でいる限り、お前はどこにもいかないだろう?」
何があっても、誰が迎えに来ても、お前は俺から離れていかないだろう?
カイシャンの問いに桂花は頷くことができなかった。
桂花の無言に、彼の胸の前に回されている腕の力が強くなった。まるで縋り付くように。視線を落とすと随分と長くなった腕が目に入った。
この腕の力は、そう遠くない日にもっと強くなってしまうだろう。その腕でこんな風に抱きしめられてしまったら。
地底にいる柢王の形をした抜け殻と、柢王の魂を持ったぬくもりとに心を引き裂かれて。
吾はきっと壊れてしまう。
けれど今は倒れるわけにはいかない。桂花は目の前を睨んだ。
自分はもう走り出したのだから。それが柢王の望まない方向であっても、桂花を心配してくれている人達を裏切る方向であっても。自分は世界を崩壊に導く方へ走ることを決めてしまったのだから。
もしかしたら最も世界の終焉を願っているのは桂花自身かもしれない。
世界が崩壊して、全てが消え去ればこの苦しさもなくなる。
自分の身勝手さに自嘲の笑みが零れる。
置き去りにされることの絶望感を嫌というほど知っている自分が、1番守りたい人の魂を、自分の勝手な望みのために傷つけようしているのだ。
「いつまでも子供のままでは困りますよ。あなたはこの国を担う方なんですから」
桂花はやっと押し出すように言った。
その時、カイシャンが桂花の背中から滑り降りた。そして前に回りこんで桂花の顔を見上げた。
「お前だってお守が必要だ」
「え?」
「お前、今、迷子の子供みたいな顔してる」
「・・・」
カイシャンは空を見上げた。吸い込まれそうな程空は高く、一面に散らばる星屑は澄んだ銀色をしている。
「俺、お前の言う通り、大人になるさ。早く大人になって、今度は俺がお前のお守をしてやる」
「お守?あなたが、吾を?」
カイシャンは桂花を振り返った。
「そう。お前が迷子にならないように俺が傍に付いててやる」
「カイシャン様・・・」
「子供である俺には今はお守が必要さ。だから俺が大人になるまでお前は俺の傍にいろ。けど俺が大人になったら今度は俺がお前の傍に付いてる。大人なのにそんな顔してるお前の方が、俺より長くお守が必要っぽいからな」
カイシャンはニヤッと笑った。そして桂花の手をとって、その手を上げてみせた。
「ずっとこうしててやるから、迷うことないぞ」
「・・・いつ頃からあなたは吾のお守をしてくださるんです?」
「決めてない」
桂花は呆れたようにため息をついてみせた。
「そんなの待てません。もう元気になられたのならご自分で歩いて下さい」
そう言うと桂花はさっさと歩き出した。涙が零れる前に。けれどつないだカイシャンの手はそのままだった。
―柢王。
今だけは許してください。あなたと、あなたの魂を持つ、全く別のぬくもりとの間で彷徨う吾のことを。吾は必ずあなたの元に戻るから。
だから、もう少し、もう少しの間だけ・・・。
この束の間の夢にまどろませて。
桂花は空を見上げた。濃紺の闇は果てしなく深く静かだった。
この彷徨の果てに何があるのかはまだ知らない。けれど今は自分の手を包むこのぬくもりだけは確かだと思いたかった。
「カイシャン様、もう帰りますよ」
桂花とカイシャンは昼前から「勝ち抜き大会」を覗いたり、出店をひやかして周ったりして一日中市場を歩き回っていた。
人ごみが苦手な桂花は少し疲れていた。
カラリと青かった空はいつの間にか群青色に変わり、西の片隅にわずかにオレンジ色を残すのみになっている。薄闇の中に沈み始めた市場の中はあちこちで灯籠に火が入れられ始めた。
あちこちに金色の光が浮かびあがり、市場は浮かれ酔わせるような艶やかさを帯びた、華やかな装いに変わっていく。
人波の中を流れるようにゆっくり歩きながら、音楽や嬌声が聞こえる酒家を見るともなしに眺めているカイシャンに桂花は帰宅を促した。
「今日は一日中歩き回ったんですから、お疲れでしょう」
「別に平気だ」
カイシャンは目を酒家に向けたまま言った。
「昨日は帰っていないのです。今日はお帰りにならないと皆が心配します」
カイシャンは桂花の館に滞在している。本当なら昨晩、宮廷に帰らせるはずだったのだが結局泊まっていったのだ。
「お前がいるんだから心配する必要はない」
「カイシャン様」
桂花が少し厳しい口調になった。
「お立場をわきまえて下さい」
カイシャンは口をへの字にまげて黙った。黙ったが桂花に従う素振りもなく、頑固に立ち並ぶ酒家を見つめたままだ。
桂花はため息をついた。カイシャンは最近反抗期を迎えて本当に扱いが難しくなった。しかし、今日は少しそれとは違うように見えた。いつも通り元気に駆け回っていたが、時々鬱屈したものが見え隠れしていた。カイシャンのことは何もかも知っているつもりでも、時々全く分からなくなることがある。それは年頃の少年特有のものなのか、天真爛漫のようで、底が見えない最愛の男の特徴を受け継いでいるせいなのか。
・・・さんざん振り回されてその都度怒ったり心配したり。
でもいつも最後には暖かな腕の中にくるんで、包み込むような空色の瞳で見つめて安心をくれた―・・・。
桂花は記憶と呼ぶにはあまりにも生々しい感触が一瞬怒涛のように押し寄せ、全身を撫でていったような気がして眩暈を覚えた。
「桂花?」
我に返るとカイシャンが心配そうに桂花を見上げている。
「何でもありませんよ、カイシャン様」
桂花は安心させるように微笑むと、腰に手を当ててわざと明るい声を出した。
「さぁ、帰りますよ。我儘はおしまいです。もう子供ではないのでしょう?」
カイシャンはまだ探るように桂花を見つめている。その視線を避けるように桂花は先に歩き出した。カイシャンも仕方なく桂花の後についてきた。これで今日は帰らせることができると桂花がほっとしていると
「おっと、そこ行く兄さん方。寄っていかないかい?いい酒が入ってるよ」
軽くて陽気な声がかかった。見ると酒家の呼び込みらしい男が近寄ってきた。
「お兄ちゃん、見たところ結構イケるクチじゃないかい?俺はこんな商売やっているから見る目はあるんだな。いい男は酒の方もいけるって相場が決まってるもんだ」
男は2人の前に回りこんでカイシャンの顔を覗き込んだ。
カイシャンは背が高いし、年齢より大人びている。酒も大人に混ざって口にしているが如何せん、まだ12才だ。
何が見る目はある、だ、馬鹿らしい、と桂花は無視して通り過ぎようとしたが、カイシャンは興味を示すような素振りを見せた。それに素早く反応した男はさらに畳み掛けた。
「そうさ。男前だしこんな別嬪さん連れているんだ、いい男に間違いねぇよ。兄ちゃん、若けぇのに大したもんだなぁ。どうだい?彼女にいいとこ見せなきゃ、だろ?」
しかも桂花を女性と間違えている。しかしカイシャンは本格的に立ち止まって考え始めた。
桂花の頭の中で警報が鳴った。
「カイシャン様、いけません。帰りますよ」
カイシャンを牽制して桂花は男を睨んだ。
「この方はまだ12才だ。そんなことも分からずによく客引きができるな」
男は切り捨てるような視線と思いがけない男性の声に狼狽して体を引かせたが、悔し紛れに呟いた。
「何でぇ、優男のお守り付きでガキがお散歩中だったのか。相手にもなりゃしねぇ」
本当なら不敬罪ものだが、身分を隠している上では逮捕するわけにもいかない。大体そういう身分でこんな時間まで街をうろついているのはこちらの方だから仕方ない部分もある。
桂花はカイシャンを強引に促そうとしたが、すでにカイシャンの姿はなかった。
慌てて周囲を見渡すとカイシャンはスタスタと男の店に入っていくところだった。
「カイシャン様!?」
桂花は男を押しのけ、人ごみを掻き分けてカイシャンを追った。
店内では、すでに出来上がった客達があちこちで盛り上がっていた。その中の何人かが、やけに堂々と入ってきたがどう見てもこの場に不似合いな少年に気が付いた。しかしカイシャンは好奇の視線に対して特に気後れする様子もなく、客や行き交う従業員でごったがえす中をすり抜けながら、奥に空いている卓を見つけて腰を下ろした。その隣の卓を陣取っていた男達の一人がニヤニヤしながら従業員を呼び、カイシャンを示して
「こちらの方に俺からの一杯を差し上げてくれ」
そして何事かを耳打ちすると従業員もニヤニヤしながら頷いた。 カイシャンが物珍しそうに煤けた壁を眺めていると、先ほどの従業員が透明な酒で満たした杯をカイシャンの前へ置いた。
「あちらの方から、お客様へ」
カイシャンは杯の中身を一瞥すると、隣の男へ会釈を一つ。周りの視線を浴びる中、一瞬の躊躇もなく杯を一気に干した。そして空になった杯を卓へ置くと、椅子からストンと降り、もう1度見惚れるほど優雅に会釈をするとスタスタと店から出て行った。
客達や従業員はポカンとその姿を見送った。
カイシャンに奢った男と同席していた男が、カイシャンが飲んだ酒と同じものを注文した。それを口にした瞬間、派手にむせた。
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