投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
冰玉の夢は、早く強く大きくなって大好きなパパとママを翼に乗せて天界を一周することだ。
そのために毎日、栄養価ばっちりのご飯を食べ、翼力トレーニングもしているのだが、水鏡に映してみてもまだK1選手のようにも官庁のようにもなっていない。
(早くママみたいに美人で頭がよくて気が利いてパパみたいに強くてカッコよくて女ったらしの龍鳥にならないかなぁ)
パパとママがお互いを誉めあっている言葉を思い出して願ったりもしている。
そんなある日、冰玉は遊びに出た街である人の噂を耳にした。
クリスマスセールとかいう特別な日に何でも願いを叶えてくれるサンザンクロースルとか言う人だ! いいこでお弔いをしていたら願いをかなえてくれるらしい! 冰玉は早速土を盛り上げお墓を作り、大好きな赤い実を供えてお祈りをした。
(早く大きくなってパパとママを乗せて飛べますように)
(ボクがパパとママの翼になれますように)
大好きなパパとママが喜んでくれる顔を想像して、龍鳥の雛は嬉しげに子の刻参りを続けたのだった。
クリスマスセールの前夜、夢の中で赤いビラビラを着た巻き毛の人が魔法の杖を冰玉に振って、
(おまえがあんまり愉快だから願いを叶えてあげる。このチタンマグネシウムの粉を大さじ3杯、水3カップに砂糖少々、塩適宜、人面草の根と笑い茸を加えてよーくかき混ぜればあらふしぎ。結果は見てのお楽しみだねっ)
目が醒めると体がなんだか重かった。
(もしかしてもしかして)
大きくなったの? 強くなったの?
わくわくしながら水鏡を覗きに行くと、そこに映っているのは青い鱗のような堅い超合金に包まれたカッコイイ龍鳥だ! 冰玉は飛び上がった。翼を動かしてみる。パッサバッサ。森の木がメリメリと倒れる。すごーい。
(パパ、ママ大きくなったよーっ)
叫んでみると堅い嘴から出る超音波で木がどかんと割れる。すっごーいっ。小躍りすると森全体がメキメキどかんっと祝福してくれる。
森林破壊など物ともしないムテキの龍鳥は喜び勇んで家路を急ぐ。
(パパ、ママ、起きてーっ。早く天界を見て廻ろうよーっ)
「こいつ、器用だよな、寝ながら踊ってんぞ」
止まり木の側にいた柢王が心から感心したように呟いた。台所にいた桂花も覗きに来て驚いた顔になる。
眠りながら、その青い翼を羽ばたかせて嬉しそうに囀っている小さな龍鳥。
クリスマスプレゼントの革紐が首に巻かれいるのも知らないのだろう。成長に合わせて調整できるそのバンドには赤い実を思わせる小さな石がいくつも嵌め込まれている。
「なんかすっげーかわいーよなぁ」
柢王が、桂花の肩に顎を乗せて囁く。桂花も頷いて、
「よっぽど嬉しい夢なんでしょうね」
寄り添いながら微笑んで、眠る雛の様子を見守った。
相も変わらず、子の心などかけらも知らない親ではあるが・・・・・・
目の前の、青い小鳥はふたりの宝物だ──
Touch・・・and Go,Together!
「きっと機内では気が張っていたんだね、桂花。でもよかったよ、無事で」
知らせを受けてやって来たティアが、桂花と柢王の顔を見比べて微笑んだ。同じく、朝一番で来た柢王も、
「なんかあれこれ心配したけど、まあ終りよければってことだな。アシュレイはどうしてる?」
ティアは微笑んでドアの方を差した。そちらを見ると、そろそろと開かれて行くドアのすき間からなにか白いものが見える。
「なにやってんだ、アシュレイ」
いきなりドアを引かれたアシュレイは、わっと叫んで部屋に転がり込んできた。顔を上げると、
「お、俺は姉ちゃんに命令されたからっ、そいつが倒れたの、俺のせいだって言われたから、だから来たんだからなっ!」
真赤な顔で叫ぶのに、ティアと柢王が噴出しそうな瞳を見交わす。その手の花束まで姉ちゃんの命令? だが、ふたりはそれには触れず、
「桂花ね、もう退院できるって。脳震盪だったし、どこにも異常ないからって」
「ほんとか」
アシュレイはほっとした顔をしたが、すぐに赤くなった。心では礼を言っても本人に言うには深呼吸が必要だ。息を吸い込み、
「昨日は助かった・・・サンキュ」
呟くようにそう言うとぷいと顔を反らす。耳まで真赤なその様子に、桂花は穏やかな声で、
「よけいな心配かけましたね」
「おまえが悪いんじゃない」
アシュレイは視線は向けないままで花束を差し出した。もう少しで手が届かない桂花のために、柢王がそれを受け取り、桂花に渡す。白い薔薇とかすみ草に赤いリボン。桂花にも、アシュレイにもよく似合う色だ。
「ありがとうございます」
桂花の礼に、アシュレイの頬に小さな小さな笑みが浮かんだ。が、ふいにその瞳がはっと見開かれ、
「でもおまえの不倫問題はまだ解決してないからなっ!」
柢王があっ、と口を開くより早く、アシュレイはすごい勢いでティアを向き直り、
「おまえも知ってたんだろ、ティアっ。こいつが冥界航空の誰かとできてたのっ!」
「でっ、できてたっ?」
「そ、そりゃ何かわけがあるかもしれないけど、でも、話してくれなきゃ俺は仲間としてこいつのこと──」
「ちょっと待ってください」
桂花の声が、あぜんとしたティアと赤い顔で続けようとしたアシュレイの会話を遮った。
「吾があのオーナーとできていたというのはどういう話なんですか」
視線の先はピシリと柢王。−273.15℃の視線の体感は、他人なら奇跡。自分だと凍結。俺は信じてねーってと説明する前に破裂しそうな柢王は、即座に口を開いてアシュレイの話の顛末を語った。
「・・・ってことで、こいつはそれをおまえの不倫だと思った、と」
説明したのに、桂花の視線はアブソリュート・ゼロのままだ。俺のせい?
「だってそう思うしかないだろ。おまえのこと聞いた時に、ティアも何か隠してるみたいだったし、おまえとあの女だってその旦那のこと、おまえに執着してたって──」
「い、いや、アシュレイ、そうじゃなくてね」
言いかけたティアを、桂花が遮る。
「いいですよ、オーナー。吾から説明しますから」
ティアがすまなさそうな顔になったが、桂花は落ち着いて、
「これは天界航空に来る前にオーナーにはお話したことですが──もともと、冥界航空は李々の会社なんです。オーナーは婿養子で。吾は親がいなくて、たまたま同郷の李々と知り合って引き取って育ててもらったんです。吾がパイロットになったのもそういういきさつからなんですが」
ちらりと柢王に向けた視線は自然温度──解凍された柢王が息をつく。ああ、寒かった。
「李々もオーナーも赤の他人の吾にとても親切で、不満は何もなかったんですが、ただ、オーナーは少し変わった趣味のある方で・・・・・・」
桂花は、ある映画のタイトルを上げた。知っていますかと聞かれて、柢王が、
「なんか美にこだわる芸術家のじーさんが旅行先ですっげぇ美少年に出会って、ストーカーみたく物陰から眺めてつきまとってるうちに、島に流行ってた病に罹ってぽっくり逝くって話だろ」
「非常に情緒の欠落した解釈ですが、概ね正解です。オーナーもそう言う傾向が──悪い人ではないんですよ。ただ美しいものにとても執着心のある方で。自宅や社屋が美麗なのはもちろん、冥界航空のあの黒い翼もオーナーの発案ですし。吾も、まあ鑑賞されたりとか写真を部屋一面に貼られたりとかは別によかったんですが・・・遠くに言って欲しくないからと内勤に回されそうになるとさすがに・・・・・・」
「パッ、パイロットやめろって言ったのか、そいつっ」
「最初は国内線でどうかと。でもそのうち国内線の方が頻繁に出かけるからと」
「そんな奴は地獄に落とせっ! なんて奴だっ、パイロットにそんなこと言うなんて!」
アシュレイは怒りのあまり真赤で──つまりはずっと真赤だ。ティアが困ったような顔をして言った。
「冥界航空の李々夫人とは以前からの知り合いでね。ある日電話があって、自分の会社のパイロットを雇って欲しいって言われたんだ。せっかく優秀なのにこのままじゃ飛べなくなるから、この子の翼を守ってやって欲しいって」
「李々は吾がパイロットを楽しんでいるのを知っていましたし、飛べない鳥は不幸だと知っていましたから」
「それでおまえは詳しい話を聞いて桂花を雇ったんだな、ティア?」
「うん。会ってみたらそのオーナーの気持ちもわかったよ。桂花はちょっと手の触れられない感じの美人だし」
ちらと柢王を見て、
「パイロットとしても責任あるスタッフとしてもぜひうちに来て欲しかった。ただ、あんまり冥界航空のことが面に出ると向こうにも迷惑がかかるし、変な噂で桂花が傷つくのも嫌だったからおまえたちにも言わなかったけど」
「オーナーのご温情には感謝しています」
「何言ってるの。君がうちに来てくれて本当に助かってる。みんな君のこと信用してるし、私もそうだよ。色々と繋がりのある冥界航空を離れてとまどうことも多かっただろうにいつも冷静で。君を見ていると私ももっと強くなれると思えた。アシュレイ、柢王、桂花がうちに来たのはそういうわけだよ」
意外なことの真相に、柢王は軽く肩をすくめた。アシュレイも呆然としていたが、
「じゃ、じゃあ俺が勘違いして・・・・・・」
「事情がわからなければ仕方ありません。社内にも多少の誤解はあったようですが、まあ、オーナーは存在自体が不可解な方ですから」
「有能な人なんだけどね。私も何度か会ったけどちょっと回路が変わっているっていうか・・・・・・まあそんな人」
どんな人だ。が、二人は突っ込まなかった。たぶんその人は理解しない方がいい人だ。
「でも天界航空に来たのはよかったと思っています。飛ぶ場所は変わりませんが、スタンスは変わりましたから。飛ぶことの、重さというものがね」
静かに言った桂花に、柢王は微笑んだ。アシュレイの瞳にはちょっと恥ずかしそうな色が浮かんだ。ティアはその、適えた夢の始まりに大事な事を学んだ親友と、他人を受け入れる気になったらしいクールなパイロットの顔とを見比べて微笑んだ。
自分もこの会社の中で学んだことだ。それぞれが、それぞれとして鮮やかでいる、そのことも大事だけれど。
そのカラーを活かしながらも、みんなで華やかにものびやかにも自由にも楽しげにも、キャンパスを彩る大きなひとつの絵を描くことも出来る。そんな風に、お互いを高めあうことも、助け合うことも出来る。
(それが、チーム、なんだよね──)
「ちょっとコーヒーでもって言ってくれるとこだよな、ここは」
マンションのドアの前で、柢王が桂花の瞳を見据えてそう言った。桂花もそれに頷いて、
「送ってもらった礼くらいはしますよ」
が、柢王ははっきりした口調で言った。
「礼じゃなくて詫び。おまえが倒れた時、心臓止まるかと思ったんだからな。言っとくけど──かわすつもりならいつまでかわしてくれたって構わないぜ。俺はいつまでだって追いかけるから」
「あなたは、たしかに諦めてくれなさそうですね」
「なんだよ、信用してないな? 俺は本気だぞ」
「そんなことは初めからわかっていますよ」
「わかってて完全無視か?」
「無視していたわけではありません」
「じゃ、もっと押して欲しかった?」
「それもないですね。そういう遊びはしないことにしていますから」
「遊びが嫌なら本気になれよ。おまえが本気になってくれたら、俺も全力でいけるから」
「あなたの本気はこわそうですね」
それに、と桂花が囁く。見えない磁力に引かれるように、ドアの前、二人の距離が近くなる。
「吾の本気も、こわいですよ?」
挑むようなまなざしに、柢王は微笑んだ。白い髪に指を滑らせ、
「こわい方がいい。優しくかわされるよりはずっといいよ。おまえの生身が欲しいんだ」
青く光る瞳に真剣さが宿る。桂花はその瞳を見上げて、
「あなたの瞳・・・本当は何色なんです? 青にも灰色にも見えるけど」
柢王は笑って、桂花の顎に指をかけた。
「もっと近くで見ればわかる──」
*
そして、全ての事が治まった、と思ったとたんにまた新しいあれこれが起きる人生は、常にタッチ・アンド・ゴーの連続だ。
またまた誰もが忙しく動き回る天界航空のビルでも──
「なあ、次の休みいつだ?」
「あなたのフライト中です」
「んじゃその次は?」
「それもあなたのフライト中」
「十日は俺の休みだけど」
「十日は吾がフライトですから」
「んじゃ問題解決のために来月から一緒に住むってことでどーだ?」
営業部のドアの前、宣言した柢王に、桂花は顔を仰ぎ見て、
「今夜、寝ながら考えておきますよ」
クールに答えてきびすを返す。柢王は眉を吊り上げ、
「今夜、電話するから出ろよ!」
桂花は軽く手を上げるだけだ。時間がない柢王は大声で、
「絶対出ろよっ、出るまでかけるからっ!」
細い指がひらひら揺れて、舌打ちした柢王が営業部のドアを開けた瞬間、
「柢王」
振り向くと、こちらを見ている美人な機長が、打ちのめすような笑みを浮かべ、
「Good Luck」
よい旅を。再び、きびすを返した背中に猛ダッシュで行くより先に部長の声が、
「柢王っ、なにやってんだ、もう時間ないぞっ!」
歯軋りしたい機長は、悩殺美人の面影を振り払えないまま会議に連行──。
機長VS機長の競い合いは、今日もホワイトカラーが優位の模様。それでも、このチェスボードの様相は常に、いつ逆転するかわからない緊迫戦だ。
対して、もう一方の二人では、
「アシュレイ、君、合コン行ったんだってっ?」
オーナールームに呼びつけられた赤毛の機長が、顔を真赤にして怒っている金髪美人との対決だ。
「ごっ合コンって俺はただおいしいものがありますよーって言うからついてっただけでっ」
「しかもCAに持ち帰られそうになったんだってっ?」
「たっただ腹一杯だから帰ろうと思ったらデザートがあるでしょって言うから、まだ行くのかと思ったら皆が出てきてなんか大事になって──」
『デザートはあたしのよっ』『何言ってんの、あたしのだったら!』。
その場のCAたちが何を競っていたのか、デザート本人だけがわかってない。ただ、きれいな顔を強ばらせて怒っている親友をなだめたくて、
「も、持って帰ればよかったか? だ、だよな、おまえデザートとか好きだもんな。次は持って帰るから──」
「次っ? しかも持って帰るってCAをっ?」
「し、CAっ?」
そんなデザートあるのか。とまどう機長は地上にはまだ目の行き届かないところもあるようで。そんな親友の顔を見てため息をつくオーナーも、幼馴染の大事な機長にはまだ告げきれないことも多いようで。
赤と金とのミックスは、まじりきらずに不安定。それでもそのまばゆい輝きは、いつも華やかであたたかい。
それぞれのカラーを持った存在は、空にいても陸にいても、それぞれの鮮やかさで共にひとつの絵を描く。
その人生のフライトはまだ始まったばかりだ。
なにはともあれ、よい旅を──。
Trust your operation,and your team!
機体には他の部分への激しい損傷はなかったらしい。それを確認して、空也は明らかにほっとした顔になったが、アシュレイはまだ体を強ばらせて操縦ホイールを掴んでいる。
「やれやれだったなぁ。だけど、まあ上出来だよ、よくやったな」
柢王は微笑んだが、
「おまえらならもっとうまく回避できただろ──」
アシュレイの声はふるえていた。前を見たまま、叩きつけるように、
「わかってんだろ、翼取られたのは俺が判断が甘かったからだ──ちゃんと見てたらわかったのにっ、俺が見逃したから・・・・・・こんなの上出来なんかじゃない! おまえたちなら客はこんな危険な目にあわなくてすんだんだっ!」
感情が、溢れ返りそうで、アシュレイはホイールを握る手をふるわせた。
初めての非常事態で、無我夢中になりながらも回避は出来た。それはわかっている。
だが、それを上出来だなんて思えるはずがない。
問題はそれ以前──よく見ているつもりなのに。よく見て確認したはずなのに。いや。はずなのになんていい訳だ。気をつけて、確認して、でも積乱雲に翼を突っ込んだのは自分のミスなのだ。
落雷を受けない加工はしてあっても、飛行機は鉄の塊だ。気流で翼が破損していたら、あるいは他にも深刻なダメージが生じたら、失墜していたかもしれないのだ。
(客を乗せてるのに・・・・・・!)
(指揮が取れたのは俺だけだったのに・・・・・・!)
どんな時でもアクシデントの可能性はある。それが空の上だ。それでも、回避できることもある。それが出来なかったのが、くやしくて、申し訳なくて。ほんの数分、だが、乗客はどんなに怖かっただろう。CAたちもどんなに慌てただろう。一歩間違えば怪我人が出たかもしれないのだ。
過ぎた事にこだわってはダメだ。少なくとも、いま、飛んでいるうちは。
なのにいまになって気持ちが高ぶって。くやしくて──どうしてもくやしくて。
(そんな奴、機長失格だ・・・!)
「機長、機長の判断は正しかったと思います」
空也は言ったが、後ろのふたりは黙ったままだ。アシュレイの言葉をどう受け止めているのか──甘えと取られても仕方がないのは自分でもわかっている。ふたりがあんな揺れのなかで手を貸してくれたのは、自分がふがいないからではなく、パイロットなら誰でもそうするから。それだけなのに。
本当は後ろにいてくれて心強かった。
桂花のことも──トラブルが回避できたかは計器を見ればわかるし、エンジンの火災は自動でただちに消火する仕組みになっている。それでも、気がかりだし、心に余裕がないときに、そうわかっているから見に行ってくれたのだと。揺れている機内を全部。
わかっている。でもその余裕がくやしい。客を危険な目に合わせて、空也にもプレッシャーをかけて、助けてくれた相手にまで八つ当たりをして・・・・・・。
「おまえたちが機長だったら──」
「機長はあなただけです」
ふいに後ろから桂花が言った。
「いまこの便に乗っている乗客にも、乗務員にも、離陸から着陸まで、コクピットに機長はあなただけしかいない。代打はありません」
「でもっ、俺はこんな──」
「信頼に応えるのは容易じゃない。でもその重さがあるから応えなくてはならないとわかる。反省は後からでも出来ますが、いま回避できたのはあなたが適切だったからです」
「桂花の言う通りだぞ、アシュレイ。初めから何でも出来る奴はいない。反省と後悔は違う。自分を責めるより、正直に現実と向き合って改めていく方が誠実だ。それに・・・・・・」
柢王は一度言葉を切ると、優しい声で続けた。
「誰もおまえ一人で完全にやれなんて言ってないんだよ、アシュレイ。旅客機は客を乗せる。空の上でのミスは他でのミスとは意味が違う。その意味で、機長の責任は確かに重いけど、それをサポートしてくれるスタッフは常にいる。空也も、CAたちも、陸にも、ティアだってそうだ。皆おまえがその責任を果たせるようにサポートしてくれてるんだぜ。アシュレイ、完璧なフライトなんてないんだ。あるのは常にベストを尽くしたフライトだけだ。確実に飛びたいのなら、自分を信じて、仲間を信じて、経験から学ぶ自分のベストを更新し続けていくしかない。それが信頼に応える唯一の道だ。桂花も、俺も、他の機長たちだってそう思ってるから飛べるんだぜ。ひとりで完璧にするんだなんて思ったら、怖くて飛べねーよ」
「──」
「大体、おまえみたいな勝気なのがしおれたりなんかするから積乱雲に突っ込んだりするんだってーの。ほら、とっとと進めて早く降りようぜ。ティアもきっと心配してるから」
「柢王・・・」
ふいに視界が鈍くなった気がして、アシュレイは首を振った。振り向きは出来ない。でもわかってくれているとわかる。隣で空也も微笑んでいる。
まるで子供の時みたいに一人よがりになった──そんな自分が恥ずかしくてよけいに悔しくて。でも、そのことさえ、オーケー、わかったよと受け止めてくれる仲間がいる。柢王も空也も、そして、たぶん桂花も。
未熟でひよっこで、そんな自分に腹を立てることさえ腹だたしい。でも、そのことさえ含めて、オーライと言ってくれる相手がいる。
だったら、きっと正解はそれを恥ずかしいとは思わないでおくことだ。受け止めてもらった自分の姿を、反省して、変えていく。その積み重ねがきっと、いい機長を作るのだろうから。
「あ、どこ行くんだ?」
桂花がふいに立ち上がった。尋ねた柢王に、
「客席に戻ります。吾は客ですから、機長を信用して客席で着陸を待ちますよ」
答えると、コクピットを出て行く。
大嫌いだった奴なのに──大嫌いな落ち着き払った声なのに。泣きそうになるなんて・・・・・・。
「お、おまえは戻らないのか」
ようやく柢王に向けて声が出せた。
と、幼馴染の親友は、いつものあたたかい声で、
「着陸態勢まではいてやるよ。俺も客だけど──友達でもあるから」
「HAL307便、着陸を要請します」
『307便、許可します』
管制塔のクリアランスを受けて、アシュレイは隣の空也に頷いた。ゲートウェイに到着。順番を待って、機体を下降させていく。徐々に見えてくる空港の建物。滑走路。雨はやんで滑走路が光っている。
(おまえ左足だけ強く踏む事あるから気をつけろ)
柢王のしてくれた注意を思い出しながら、その滑走路へ向けて降りていく。滑るように機体が近づき、タイヤがトンッと触れた。空也の顔が輝く。
『ナイス・ランディング、307便。B3から出て下さい』
管制塔の指示に従い、タクシーウェイに入る。ゴトゴトタイヤの音がして、やがて機体が駐機場にぴったりと止まった。ほっと息をつく。その耳に管制の声が入る。
『お疲れ様でした、307便。お帰りなさい──』
見も知らない相手の声が、トラブルを知っているのだろう、あたたかくそう告げてくれるのに目頭が熱くなる。ありがとう、その言葉を言う時は、いつも本気だ。
「アシュレイっ」
ロビーを駆けて来たティアが肩にしがみついた。
空港では、コクピットをチェックした後、整備士たちに機体を預けてきた。黄金の翼に触れて、
「ごめんな。ありがとう」
そう囁いた。
そして、皆と一緒に本社のロビーに入ったとたんに、ティアやスタッフたちに取り囲まれたのだ。
「無事でよかったよ、アシュレイ!」
涙をにじませて微笑むティアと、
「お疲れ様でした」「よくがんばったな、アシュレイ」
微笑んでいるスタッフたち。本気で心配して、本気で安心して。誰も責めない。責めなくてもわかっていると知っているから。また視界がぼやけた。もう揺れてなどいないのに。
「申し訳ありませんでした」
本気で、頭を下げた。後ろにいる空也、揺れが治まった後は何事もなかったようににこにこ接してくれたCAたち。ついて来てくれた柢王と桂花。みんなのサポートでいまこうしていられるのだ。
「無事で帰ってくれたらそれでいいよ。本当にみんな無事でよかった」
ティアが瞳をこすりながら微笑を浮かべた。航務課長も微笑んで、
「まあ、説教は明日にしてやる。みんなよくがんばってくれた。お疲れさん」
「お疲れ様でした」
CAたちがにこやかに通路を去っていく。グラインダーズも誇らしげな笑みを見せてくれた。空也も微笑んで、
「さあ、機長、手続きに行きましょう」
柢王たちとはそこで別れた。
「んじゃ、またな」
微笑んだ柢王に、アシュレイは振り返ったが、柢王はティアを差し、唇だけで頼むよと囁いてウィンクをよこした。桂花はすました顔のままだ。その顔に、心の中で礼を言う。助けてくれて──ありがとう。
伝わったかどうかはわからないが、顔が赤くなった気がして、アシュレイは慌ててティアのほうを向いた。
「さ、そんじゃ俺らはうちに帰るってことで」
スタッフたちを見送った柢王は、笑顔で言った。ティアのあの笑顔。今日は絶対にアシュレイを側から離さないだろう。心配して心配して。側にいられないからよけいにだ。当分、顔を合わせる度に、最初のフライトに同乗できなかった事を愚痴られるに決まっている。
(やれやれだよな)
笑いながら振り向いて、柢王は眉をひそめた。
「桂花、どうした?」
真っ青な顔でふらついている桂花の腕を掴む。と、桂花の持っていたスーツケースが手から離れて倒れる音に、周囲の人間が振り向く。
「桂花ッ、桂花! 誰かっ、救急車呼んでくれっ!」
腕の中に倒れこんできた体を抱きとめて、柢王は叫んだ。
「ったく、脳震盪なんか我慢できるもんかぁ?」
柢王は呆れた顔で言った。
空港病院のベッドに寝かされた桂花は、静かな声で答えた。
「我慢はしていないですよ。社に着くまで頭痛もしませんでしたし。そんなに強くぶつけた覚えもないんですが、気が緩んだのかもしれませんね」
桂花は、軽い脳震盪だったらしい。機内でぶつけたのが原因のようだ。検査にまわされ、脳波も異常なかったが、病院の勧めで今日は泊まることになる。柢王はつきそいを申し出たが、完全介護を理由にきっぱりと断られた。柢王的にははなはだ不満だ。
が、それを疲れているだろう桂花に言うつもりもない。いつものように軽く笑って、
「どーせ腕に倒れてくれるならもっと色っぽいほうがよかったけどな。でもまあ、今日はゆっくり休めよ。荷物、俺の車に乗せとくから。朝、退院できるんだろ。迎えに来るよ」
「吾のことは構いませんから休んでいて下さい。明日はフライトの翌日と変わらないですよ」
「どっちみちレポートあるから早起きすんだよ。つか、You haveで甘えろよ、こんな時くらい。他にいるもんあったら持って来るけど」
「いえ、大丈夫です」
桂花は青白かった顔色も元に戻り、クールな様子もいつも通り。ただ肩の力が抜けたのか少しやわらかな表情をしている。
「んじゃ、明日な」
その顔をいつまでも見ていたくなりそうで、柢王は腰を上げた。ドアに手をかけた時、桂花が、
「柢王」
「ああ?」
「ありがとう」
激変、ではないものの、浮かんだその微笑が胸を貫いて──
眠れないこと決定の柢王は、なんと答えたかもわからないまま、よろよろと自宅に戻ったのだった。
Weather is sometime capricious like you.
「降りますね」
レストランの窓から、晴天の空を眺めていた桂花が呟く。口一杯に皿の上のものを頬張った柢王は、答えられないので黙って頷く。
職業柄、気候にうるさいかれらはすでに、今日のフライトが上空で低気圧に出くわす事を承知している。予定より早い。夜なら遭遇しなかったのに。
「着陸二時間前の辺りと言うと、高気圧の圏内でしたよね」
尋ねられた柢王は、今度はああと答えた。
「今日は積乱雲山積みだな。あの辺りだとたまに成層圏まで続いてて、そっちに気を取られてたら迂回先も積乱雲ってこともあるよ。しっかし、初めてのフライトが雷だらけってのも気の毒だよなぁ。俺なんか雷と相性がいいのか、いっつも避けて通れんのに」
積乱雲はパイロットの『立ち入り禁止区』だ。
高気圧と低気圧が入り乱れ、雷を包含したその雲の中にまっすぐ突っ込んだら、その機体はかなりの確率で出て来ない。感電している洗濯機で回されたティッシュペーパーのように粉々になって墜落するという話だ。命のスペアがない限り、試してみたい人もいないだろうが。
「ま、機長のお手並み拝見ってことだよな」
気楽そうに笑った柢王も、目の奥まで笑う余裕はない。
「主任、307便、上空で前線に遭遇します」
通信係のアランが上司にそう報告する声に、すみの机にいたティアは顔を上げた。307便はアシュレイたちが乗る機だ。
(大丈夫だよね・・・・・・)
通信室は飛んでいる全ての自社機と交信している。ティアは決して邪魔はしないからと誓いを立てて、今日もここにいさせてもらっているのだ。大画面で雲をチェックしているスタッフに図々しく事情を確認する勇気はない。
気圧がぶつかる範囲は前線と呼ばれ、乱気流が発生し、風圧も強く、気体が揺れる。しかもその辺りはもともと積乱雲が発生しやすい場所だ。積乱雲についてはティアも少しは知っている。パイロットなら近づきたがらない危険地帯。アシュレイだってわかっているはずだ。
(アシュレイ・・・・・・)
ティアは、アシュレイが初フライトの時に買ってくれたブレスレットを握りしめて呟いた。
大丈夫。アシュレイならきっとやれる。
コクピットにいたアシュレイは、空也と空模様を見ていた。前線に遭遇する事はふたりともとっくに知っている。キャビンクルーにも伝えてあるし、必要なら退避姿勢の指示を出すとも伝えてある。適宜、雲を避け、高度を下げて航行するなどの打ち合わせももうしてある。積乱雲も、パネル全面のウェザーレーダーで確認できる。
(大丈夫だ)
アシュレイは呟いて、離陸の準備を始めた。
そんな機長たちの心配をよそに、307便は定刻通りに離陸した。晴天の空は穏やかでスムーズな航行が続いた。機内のサービスにも滞りがなく、アシュレイの挨拶もまあ滞りなく。油断なく全てを確認するコクピットのふたりとは裏腹、順調に帰着空港に近づいていく。
変化があったのは、あと二時間ほどで着陸するかという頃だ。高度は三万フィート。機体は自動操縦で飛行していた。計器を見ていたアシュレイが、眉を寄せて言った。
「空也、乗務員にベルトの確認、指示してくれ。五分後にサイン出すからって」
「了解」
空也がキャビンに指示を伝える。アシュレイは続けて、
「風が出て来た。揺れるぞ。乗客にしばらく揺れるからと伝えさせてくれ。ベルトサイン出したら、手動に切り替えて高度を下げる」
「了解しました。管制に許可を取ります」
「頼む」
アシュレイは計器をすばやくチェックした。コンピューターパネルのなかでエアプレッシャーの値が揺れている。風も強い。操縦ホイールをしっかり掴み、流される気体を左に戻しながら少しずつ高度を落とす準備をする。
視界には雲が幾筋も流れている。高気圧と低気圧がぶつかる前線の圏内に入ったのだ。ウェザーレーダーにも雲の様子が次々と映されている。
CAがベルトを確認したとの報告をよこした。アシュレイは手動に切り替えると、CAたちにも早く席に着くように指示させた。右手前方に切り立った積乱雲。それは予期していた。管制の許可通り、修正した進路に進む。耳には気象情報を告げる通信。積乱雲が発生し、気流が乱れている。テキパキと判断していくのにあわせて、空也への指示も丁寧ではなくなるが、空也も必要最低限の返事しか返さず、計器を読み上げていく。
大きな積乱雲の側を迂回して、ほっと息をつく。と、ふいに機体がぐらりと揺れた。
「やな予感が──」
アシュレイが呟いた瞬間、
「うわぁっ」
ドンッと大きな衝撃が来たかと思うと、ガガガカガガガッとすごい音とともに機体が激しく揺れ始めた。客席で悲鳴が上がる。視界がぶれ、計器画面が揺れて見えない。警告を告げる赤いランプがいくつも目の前に点滅する。
「キャビンに退避姿勢を命令! CAを絶対席から立たせるなっ」
「了解っ! キャビン、コクピット、空也ですっ。退避姿勢を取って下さい、CAも席を立たないようにっ!」
空也の声を聞きながら、アシュレイは吸い込まれるように左に傾く機体を必死で立て直そうと右に操縦ホイールを切った。レバーを引いて出力を上げる。木の葉のように揺れる機体の前に稲妻が走る。巨大な白い塊が目の前に聳え立っていた。
隠れていた積乱雲に左の羽を取られたのだ──
その直前、キャビンでも。
「揺れてきましたね」
桂花が瞳を細めた。柢王も窓の外を見て、
「やばいぞ、この雲──」
いいかけた瞬間、電灯が点滅し、機体に衝撃が走った。悲鳴が上がる。足元からすくわれるような揺れに、テーブルの上の新聞や雑誌が通路に転がり落ちる。窓の外、ピシャリと稲妻が走った。
「片翼取られやがったな!」
柢王がベルトを外して立ち上がった。とたんにぐらりと揺らいで、椅子に手をつく。エコノミーの方から鋭い悲鳴が上がった。柢王は桂花を見た。桂花も立ち上がっている。
「姿勢を低くして下さいっ」
「額に手を当て、姿勢を倒してくださいっ、ヘッダウンっ!」
CAたちが説明した退避姿勢を取らせるために大声で叫び始める。乗客たちは従いながらも揺れるたびに悲鳴をあげる。
体が斜めに押しつけられるような揺れに必死でバランスを取りながら、
「どこ行くんだ?」
柢王はコクピットとは逆の方に行きかけた桂花の腕を掴んだ。桂花は振り向き、
「あなたは先にコクピットへ。吾はエンジンを見に行きます」
「おう、気をつけろよ!」
二手に分かれて、柢王はコクピットに急いだ。とはいえ、歩こうとすると座席に突っ込みかかる揺れだ。乗客の体が伏せたまま、揺れては戻り戻っては揺れ、
「きゃあっ」
「ああっ」
「体を倒して、頭を低くして下さいっ!」
グラインダーズがジャンプシートから叫んでいるのを横目に、這うようにしてコクピットのドアを叩いた。
「アシュレイっ」
アシュレイは両手両足フル活用で目一杯だった。
空也の声が切羽詰って故障個所を報告していく。
「セカンドエンジン、ファイヤ!」
「レフトウィング、スラストダウン!」
パネルの計器の一部が赤とオレンジに激しく点滅している。非常事態だ。
視界は白と灰色の霧のように激しく揺れ動いている。客席からCAたちの声と乗客の悲鳴が聞こえてくる。ガタガタと翼がぶれる音がコクピットまで聞こえる。
(落ち着け! 落ち着け、落ち着けっ!)
視界を切り裂く閃光に身震いしながら、アシュレイは自分に言い聞かせた。
高度を下げろ! だが、出力は落とすな! 自分の体を半分に引き裂かれるように、機体が雲の方に引きずられていく。左のエンジンが火を噴いて停止したので揚力が足りず、高速で飛んでいたらどんどん左に引き込まれる。だが、パワーは落とせない。機体がバランスを崩して雲の中に失速したらアウトだ!
頭のなかを様々な情報が駆け巡る。操縦ホイールを握る手まで揺れるほど機体がガクガク上下する。アシュレイは必死で抵抗のあるホイールを切って右下へと迂回しようとした。腕が強ばり、冷や汗がどんどん流れてくるが、取り乱している暇などない!
(止まるな、絶対に止まるな、動いてくれ!)
機体にそう話しかけながら、
「空也、エルロン切れッ」
「は、はいっ」
尾翼の補助翼を切らせる。行けるか──まだ抵抗が強い。
「キャプテン、第二エンジン消火しましたっ」
「ラジャー! セカンドエンジン・アウト! 高度はっ」
「二万五千──下降していますっ」
後ろの席に滑り込んだ柢王はそのやり取りを息を呑んで見つめている。
アシュレイの両手はがっちりと操縦ホイールを掴み、肩には力が入っている。めまぐるしく動く計器を見ながらすばやく判断し、空也にオーダーする。空也もただそれに従うだけだ。
ふたたび視界に閃光が走る。切り立った巨大な雲に柢王も眉をひそめる。まるで巨大な壁のようだ。計器はまだ赤く点滅し、柢王の膝の上の手がぶれるほど揺れている。
雷のなか、大きな波に浚われるように揺れている機体が少しずつ右に旋回していく。
じれったいほどゆっくりと──
第二エンジンが止まったせいで左の出力が足りないのだ。失速を避けるにはまだまだ下降するしかない。
「高度二万二千フィートに入ります!」
「二万千、二万──」
空也のカウントが短くなっていく。高度が下がっていく。あるいはもう下げすぎだ。
「機長、高度一万八千を切りましたっ」
空也が悲鳴のような声を上げる。
「大丈夫だ! 落ち着けッ」
アシュレイが叩きつけるように叫んだ時──
ふいにふわりと機体が軽くなる。
ランプが赤からオレンジに変わる。
まだ揺れながらも機体が右に大きく迂回し、それに合わせてアシュレイが出力レバーを引き上げた。
「高度二万フィート、二万千──」
機体が上昇していく。そのバランスをホイールとペダルで取りながら、アシュレイが空也に言う。
「風速は?」
「二百二十です」
「このまま持ってあがるぞ!」
「了解!」
ゆらゆらと揺れる機体が上空を目指し始める──
ノックの音がしてコクピットのドアが開いた。入ってきたのは髪も乱れた桂花だ。こめかみを押さえている。
「どうした」
尋ねた柢王に、
「揺れてちょっとぶつけただけです。機長」
後ろの席に座った桂花は、冷静な声でアシュレイの背中に話し掛けた。
「セカンドエンジン以外のエンジンには異常はないようですが、左翼にダメージはあるかもしれないですね」
目に見えない裂傷が入っているかもしれない。アシュレイもぶっきらぼうに、
「わかってる!」
答えた後、目を見開く。まだ雲の圏内にいるから手足も目も空いてない。振り返れないし、振り返りたくもない。でも、
「見に行ってくれたのか」
桂花は落ち着き払った声で答えた。
「自社機ですからね。客室はCAが落ち着かせていますよ。グラインダーズ主任がいますから問題ないでしょう。怪我人もないようです」
「違いねぇ。姉ちゃんときたら俺らより度胸あるからな」
柢王が笑う。
ようやく視界が明るくなって雲の流れも速く、層雲の域に入ったらしい。計器のランプが緑に変わる。揺れが治まり、エンジンの音が静かに聞こえてくる。風はまだ強いが、機体に激しい損傷がなければ、まあ問題ないだろう。
柢王が手を伸ばして空也の肩に軽く触れた。緊張のあまり前かがみになっていた空也が、はっと気づいて姿勢を起こす。
やがて機体は安定し、ふたたび自動操縦に切り替えられたのだった──。
月はない。
静まりかえったその闇に映るものは、いくつかのかたまり。
無表情のまま、手にしていた花を見ると、茎はがっくりと折れ大半の花びらが散ってしまっていた。
桂花は舌打ちすると、倒れている男たちにそれを投げつけ振り返りもせずにその場を後にした。
人という生き物はおよそこんなものだ・・・・・・・いや、始めのうちはまだ良い。
自分の処方する薬がとても効くと、崇められる程度なのだから。
それが、時が経つにつれ儲け話を持ちこんで来る者、脅して配合法を聞きだそうとする者、薬を盗もうとする者・・・・・後を絶たない。
もちろん中には親切な人間もいるが、同じ所に長居することはしなくなった。
親しくなりすぎれば相手の情が厭わしくなるのは目に見えていたし、深入りしたところで、所詮寿命も異なる異種だ、年をとらない自分の容貌を怪しむ者が出てくるだろう。
まるで逃亡生活のような日々。
何かに追われているわけではないのに一定の場所に留まることができない。
「魔族なんて何のために生みだされたんだ・・・・・・」
せめて自分が人間ならば良かった。信じられないほどの短い時間の中で、人はたくましく強く、時には汚く愚かに生を尽くす・・・・・・・そして再び転生する。
魔族には望んでも無理な話だ、魂がないのだから――――――。
魂が無いというのなら・・・・この感情はなんだ?自分にだって感じる心がある、それは魂があるからこそじゃないのか・・・・・魔族など・・望んだわけでもないのに・・・。
先の世での罰だとしたら、これは転生なのか?そして、罰だから来世はないのか。
「何をもって、誰が吾を魔族とした・・・・」
月がない。
普段は押さえ込んでいられる感情の制御が上手くできない。
「ふふ、李々・・・李々が桂花なんて名をつけたりするから・・・・」
弱気な自分を誰かに見られる心配すらない今の生活に、ほんの少し疲れていた。
こういう時ばかり、ふらりと人間の男の元を訪れてしまう自分にも、嫌気がさしている。
できるだけこんな明け方は外に出ないようにしていたのだが、上客が発熱し夜中に呼び出されたのだ。医者ではないというのに。
不機嫌を隠し、処方を済ませた桂花に家人が差しだしたのは報酬のみではなかった。
庭で花を咲かせた鮮やかな赤。
それを受けとると、飾らない笑顔を桂花は返したのだった。
「せっかくの花がだいなしになった」
先ほどの不愉快な連中は今ごろ意識が戻って、また性懲りもなく待ち伏せしたりするのだろう。
「短い生をなぜもっと有意義に過ごせない」
皮肉な笑みを浮かべたまま更に歩を進める。
『月は太陽のような恵みの光を持たないわ。でも、ごらんなさい。月を見ているだけでこんなにも心が休まる・・・・そこに在るだけで安心できるの。太陽のように直視できないほど遠い存在じゃないから・・・』
氷のような月を見上げて親しげに、懐かしげに語る李々の傍らで・・・桂花は李々にとっての自分は、あの月のようでありたいと願った。
「だけど李々・・・吾は李々の月にはなれなかったんだね・・・」
じきに夜が明ける。
その時はもう、いつもの自分に戻っている。
今までそうしてきたように。
李々が去った今、彼女以外だれもいらない。
心を開く相手など、必要ない。
その日、運命の相手とめぐり合うことも知らずに桂花はひとり朝を迎えた。
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