投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
アシュレイの人指し指に小さいけれど深い傷あとがある。
保護したばかりのうさぎに噛まれた時のものだ。
彼にとって初めて自分で保護して塾に連れてきた動物。
人馴れしてなかったうさぎは彼の指に噛みついたが、それを叱りもせずに根気よく世話を続けたアシュレイ。
当時、自分とはあまり口をきいてくれない彼だったので、ティアがその傷が残ってしまっている事に気づいたのはかなり後になってからのことだった。
親友と認めてもらえたあたりから何度か傷あとを消そうかと申し出たが「いい」とそっけない返事ばかり。
どうやらアシュレイはその傷あとを見ては、もう亡くなってしまったうさぎのことを思い出しているらしいのだった。
意外な一面を発見するたび、ますます彼に惹かれたティアだったが、彼の指に残る痕は解せなかった。
その原因をはっきりと悟ったのは―――――。
アシュレイが窓際の席で外に視線をやりながらその指をそっとさすって、無意識なのだろう、唇を押し当てたのを見た瞬間どうしようもない感情に突き動かされた。
ティアは無言で彼の前へ行くと、その傷あとを手光で消してしまおうとしたのだ。
いきなりの事に驚いたアシュレイがティアを突き飛ばし華奢な体が床に転がると、悲鳴をあげた女子がティアの元へと駆けつけた。
思わず逃げ出した彼を追おうとしたが、自分に群がってくる女子に邪魔されて、彼女達の間から見送るだけとなってしまう。
遠ざかる赤い髪を見つめたままティアは唇をかみしめた。
―――――――彼の体に一生残る傷あとを、私もつけたい。
守護するために存在する自分が、何かを傷つけることなど出来ないのはじゅうぶん過ぎるほど承知している。
しかし、うさぎにつけられた傷をあんな風に愛しそうに扱われたらたまらなくなってしまった。
誰よりも大切にしたい存在だからこそ、誰よりも自分のものだけにしたいと思う自我にティアは愕然とした。
人を想うという気持ちには・・・・こんな昏い、濁った感情もあるのかと。
「アシュレイが怪我っ!?」
朝、ティアに会うなり柢王がアシュレイ情報を流してきた。
「昨日な。また魔族狩りに行ってたらしい、しばらく塾休むってよ」
「それで!?ケガってどんな?!」
「わかんね。俺も今朝早くに見舞いに行ったけど謝絶されたから会ってねンだ」
・・・・・どうしよう、自分があんな事を・・・・。
「行かなきゃ!」
「へっ?塾は?八紫仙に怒られんぞ」
「アシュレイの方が大事だよ!」
「・・・・・分かった」
柢王は焦るティアをなだめて、文殊先生から天守塔の方へ連絡を入れて欲しいと頼んでくれた。
「ありがとう、柢王」
「そんな顔すんなよ、アシュレイなんて殺したって死にゃあしね―よ」
ティアの、あまりの顔色の悪さに柢王はアシュレイよりこっちの方がヤベェんじゃないかと、気を揉んだ。
しばらくして、天守塔から護衛の者がやってくると、柢王は「じゃあな、うまくあいつの機嫌直して来いよ」とウィンクをよこした。
「・・・・・やっぱり・・・ばれてる」
最近アシュレイに避けられ続けている自分を気にしてくれていたに違いない。
アシュレイに対するこの気持ちだって、柢王はきっと感づいている。
謝絶されたと言っていたから、本当のところは柢王だって同行して見舞いたいはずだ。
しかしどこまでも気のまわる親友は、自分にアシュレイと二人きりになるチャンスをくれたのだ。
こんな時は本当に守護主天でよかったと思う。
自分が行けば、謝絶されるどころか喜んで招き入れられるに違いない。
「待ってて、アシュレイ」
「なんだよ、思い出し笑いなんて気味悪ぃ」
「―――え?」
手を切ってしまったアシュレイに、手光を当てながら懐かしいことを思い出していたティアは、声をかけられて我にかえる。
「ああ、ごめん・・・ちょっとね」
こうして何度この手に手光を当ててきただろう。
あのころ頑なに、うさぎの噛み傷を消すことを拒んでいたアシュレイだったが、彼が例のシュラムで瀕死状態となったとき、ドサクサにまぎれてとうとう傷あとを消してしまった。
アシュレイは気づいていたようだが、何も言ってこなかったので、ティアも敢えて口にはしなかった。
「――――――そういやお前・・・この指の傷、消したな」
「・・・・き、傷?」
まさにたった今、思い出していたことを指摘され少なからずうろたえてしまう。
「とぼけんな。お前、異様にここの傷あと消したがってたよな・・・そんなに傷あとあるの・・・・嫌か?」
何か勘違いしているようにアシュレイはチラッとティアを見た。
あれは・・・初めて嫉妬という感情を知った日だったのだ。
まだまだ子供の自分に「嫉妬する気持ち」というのは取り扱いが難しく、なんという心の狭い情けない守護主天なのだと自己嫌悪に陥ったものだった。
けれど、今なら甘えついでにかるく「嫉妬してる」と告白できるし、今でも我ながらあきれるくらい色んな物に(者にも)嫉妬し続けている。
「嫉妬だよ。うさぎの噛み傷に嫉妬してたんだ」
「へえぇ?」
アシュレイが間の抜けた声をあげた。
「だって、私には君に傷あとを残すことなんてできないし、それを残して君に一生覚えててもらうことすら不可能だったんだもの」
「・・・なんだそりゃ?」
「でも、もういいんだ。だって・・・・大切な君に傷あとなんて残せるわけないよ。それに今ならこうして・・・」
ティアは素早くアシュレイの首筋に吸いつくと、鉄拳が繰り出される前に凶暴な両手を掴んだ。
「この『あと』はすぐ消えてしまうけど、一生つけ続けるつもりでいるから・・・ね」
何の目的で何をされたのか分からなかったアシュレイが、ハッと気づいた時にはすでにティアのベッドに移動された後だった。
Welcome to the Golden wings!
画面一杯に広がる青い海と白いさんご礁。
真っ青に輝く空に、金色のラインをほどこしたジェット機が優雅に翼を傾け、下降していく。
その後ろに見える七色の虹。美しい音楽。あたたかなナレーターの声が告げる。
『黄金の翼で行く楽園の旅──天界エアラインで、あなただけのリゾートへ』
画面を見終わったティアランディアは、美しい顔に安堵の色を浮かべて頷いた。
『アウトラインはこれで問題ないかと思います』
先程、そう告げて部屋を出て行った山凍の笑みを思い出す。
問題ない。というより問題解決。持つべきものは頼りになるスタッフだ。ティアは満面の笑顔で壁にあるご先祖様の写真に手を合わせた。
ここは空港ターミナルにほど近い、『天界航空』のビルの最上階にあるオーナールーム。一面の窓からは離着陸する航空機の姿を望む事もできる。ティアにとっては幼い頃から見てきた大好きな光景だ。
業界大手の航空会社を先代から譲り受けて二年。歳若いオーナーが老舗の会社を管理するのは大変な仕事だ。
もともと親族会社、教育は子供の時から受けてきたが、現状は往々にして教育とは異なる。時に気疲れする事もあるが、ティアにとっては幼い頃からの夢である会社だし、改正や競争のある市場にも熱意と創意性で対応してくれる有能なスタッフたちにも恵まれていた。
自分ひとりで気負わなくてもいいとの信頼はスタッフにも伝わっていて、この二年、天界航空は順調に業績を伸ばしていた。
まあ、たまにごく迷惑な問題も起きる事もあるが・・・・・。
と、ためいきをついたティアの気をノックの音が変えた。秘書を通さずここに来るのは二人しかいない。瞳を輝かせて、どうぞと答えると、
「よう」
ドアが大きく開いて、男が顔を出した。黒髪に輝く瞳、着ているのは国際線の機長の制服だ。男は陽気そうな笑顔でティアに手を上げた。
「久しぶり。待たせたか」
「ううん、全然時間どおりだよ、柢王! さあ座って、変わりない?」
ティアは矢継ぎ早に言うと椅子を勧めた。
「あいかわらずこき使われてるよ。あれ、俺ひとりか」
「あ、桂花はすぐ来るよ。さっき営業部から連絡があったから」
柢王、と呼ばれた男はそれにへぇと答えると、ソファにどっかり腰をおろした。
「なんか疲れてんな、大丈夫か」
尋ねられて、ティアは思わず微笑んだ。
柢王は、天界航空の機長であると同時にティアの幼馴染だった。父親も天界航空の機長だった関係で、同じ境遇の柢王の副機長アシュレイとともに、幼い時から側にいた気の置けない親友なのだ。
「平気だよ。実はさっき山凍部長が夏の企画を持ってきてくれて──」
「ああ、あの世行き直行便!」
「だからそれを訂正したんだってばっ!」
ライバル会社の冥界航空が売り出した旅の企画『大人の贅沢、古都の旅』は、高級感溢れる画像と、黒い翼を持つ機体が古い優雅な街並みの上を行くイメージとが当たったのか反響を呼んでいた。
その対抗策として、天界航空でも、新規乗り入れをしたリゾート地への市場を広げる狙いもあって、リゾートへの自社旅行の企画を組む事になったのだ。が──
どこから話を聞いたのか、古くからいる重役たちがいきなりその企画のキャッチコピーを掲げて来たのには一同あぜんだ。しかも、
『天界航空──天国への翼』
いや、確かにそのリゾートは奇跡のように美しく、まさに天国と賞される場所。今後も期待のリゾートだ。
が、地に足のつかないフライトで『天国への翼』は笑い事ではない。
噂を聞いたパイロットたちはみんな『縁起でもない』と呆れたし、柢王などは大笑いして言い放った。
「事故が起きたら絶対『あの世行き直行便』だって叩かれんぜ!」
古くからいる社員を若い社長がどうするかはどこの会社でも思案のし処だろう。相手はティアが赤ん坊の時から知っているのだ。だけにその忠誠心と責任感もわからないではない。が、なにせ歳のせいかボケている。
幸い、今回もまた誠実実直で岩のようにゆるぎない広報部長山凍のおかげで事なきを得たが、ティアは時々、そのモグラのような神出鬼没な年寄りたちに、ハンマーをよこせといいたくなることもないではなかった。
「まあ、じいさんたちも愛嬌だよな。やることねぇから仕方ねえよ」
柢王が笑って、秘書の持ってきたお茶を飲む。ティアも苦笑いを浮かべた。ティアが時に青二才の自分にいらだつ事があるときでも、柢王は朗らかに気持ちをほぐしてくれる。その余裕がスタッフから信頼され好かれているのだ。
「ま、おまえもあれこれ心配だよな。来月にはアシュレイが機長になるし。おまえ、また無理やりコネ使って管制塔まで入り込む気だろ?」
「だって、柢王、初めてのフライトなんだよ。少しくらい見守ったって──」
「初めてじゃねえよ。俺と何度も飛んでる路線だ。南回りは雷に遭遇しなきゃそう心配するこたねえよ。ま、俺としては隣が淋しくなるけど、あいつの腕は信用してるからな」
「私だって信用してるよ。でも──」
いいかけたティアを遮るようにノックの音がして、秘書が桂花が来たと告げた。柢王が、おっ、と呟いて姿勢をおこす。その瞳にきらめきが宿る。
ティアはその顔に目をやりながら、入ってもらうように告げた。
「失礼します、オーナー」
機長の制服を来た男がドアから入って来る。すらりとした四肢と白い長い髪。赤い尾髪の、美しい男だ。かれは、ティアとソファにいる柢王とを確認すると、落ち着いた声で言った。
「お待たせして申し訳ありませんでした」
ティアは笑顔で椅子を勧めた。
「こっちこそ呼び出してすまないね、桂花。座って。お茶は何がいい?」
「いえ、いまは結構です。ありがとうございます」
「よ、久しぶり」
向かいの席に腰を下ろした桂花に、柢王が笑顔で挨拶する。その顔に、ティアに対する時ともまた違う種類の生き生きとした表情が浮かんでいる。対して、桂花はいつも通り落ち着いた──落ち着き払ったとでもいいたいような笑みを浮かべて答えた。
「久しぶりですね」
瞬間、ティアはオーナーの椅子からわずかに身を起こした。
なにが、というのでもないがいつもティアはこの二人が揃うと食い入るように見てしまうのだ。いや、実際、同じ国際線の機長であるふたりが顔を合わせる機会は少ないはずなのだが、にも関わらずこのふたりは、初対面の時からいつも、ティアにその、微弱な電流が肌にピリピリ触れるような、言葉にいいにくい雰囲気を感じさせるのだった。
とはいえ、そんなことを確認するために呼んだのではなかった。ティアは渋々好奇心を忘れて、話を切り出した。
それは来月行われる航空業界主催の若手のパイロットの研修の件で、それは業界の若手の交流とスキルアップを目的としていた。今回、営業部から推薦されたのがこのふたりなのだ。
柢王はもちろん、半年前に冥界航空から移ってきた桂花も技能的にも優れたパイロットだ。ほぼ満場一致のその採決を、当人たちももちろん知っているし、詳しい話も聞いているはずだった。
ティアがふたりを呼んだのはもう一度その趣旨を自分の口から伝える事と、天界航空としてもふたりに期待していると伝えるためだ。大した用ではないし、オーナーの仕事でもないかも知れないが、ティアはなるべくスタッフと接触の機会を持つようにしていたし、パイロットが会社にいる時間は少ない。それが正しいやり方かどうかはともかく社内に反対らしきものはなかった。
それに、会場でもといた会社のパイロットと顔を合わせる予定の桂花のことも心配だったからなのだが・・・・・・。
「・・・・・・ということで、私の話は以上だけど、なにか心配に思うこととかある? 桂花も遠慮しないで言っていいよ」
何気ないつもりで水を向けてみたが、桂花は落ち着いた顔でいいえと答えた。
「主旨はいまオーナーから改めて伺いましたし、いまの時点では特に」
本当に? ティアは聞きたくなったが、口をつぐんだ。桂花が問題ないといえばそれは本当に問題ないのだ。というよりもこのクールで美形な機長は誰より問題を抱えそうにない。
(ま、そこが問題なんだけどね)
行っても仕方ないことは仕方がない。ティアは微笑むと、柢王にちらっと視線を投げ、
「では、その件に関しては頼んだよ。ふたりとも、明日からも気を付けて」
「はい」
ふたりは一礼すると部屋を出て行った。
「なあ、せっかく会えたんだし、飲みにでも行かないか」
ちょうど来合わせていたエレベーターで、営業部のある階に降りる途中、柢王が人懐こい笑顔でそう尋ねた。
それに対する桂花の答えは、
「あいにく明日早いので」
「あ? 明日は短距離だろ?」
「距離は関係ありませんよ」
柢王は苦笑した。フライト十二時間前からの乗務員の飲酒は禁止されているが、それ以前に、会う度に何事かを誘い、その度にさらりと断られるのはこの男の人生にそうはない経験だ。
「女の子たちもおまえだけは何度誘っても合コン来てくんねぇってがっかりしてたぞ」
肩をすくめてそう笑うと、
「そういうあなたは常連らしいですね」
「へえ、俺のこと、気にかけてくれてたんだ?」
「あなたの噂は嫌でも耳に入りますよ」
チン、とエレベーターが止まり、桂花が先に出る。後に続いた柢王に、
「では、吾はここで」
「寄ってかないのか」
「ええ、連絡事項は確認しましたから」
「何事にも抜かりがないな」
苦笑いした柢王に、桂花は初めて視線を合わせて笑みを見せ、
「ありがとう」
微笑んだその顔は、しかし、営業用とでも書いてあるかのようだ。
その笑みのまま、ではときびすを返した相手に、柢王はため息をついて肩をすくめた。
どんな時でも冷静で頼りになるパイロット。人懐こくはないが、いつも丁寧で穏やかだ。この半年の間で、桂花の関係者間での評価はますます上々だった。
空恐ろしいほどの美貌とフライトセンス。来る前に飛び交った噂では、超がつくほどクールで取り付く島もないと言われていたが、実際には、桂花はいつ見ても落ち着いていて、穏やかな笑みを浮かべていた。
だが、その丁寧さの根底にある絶対の距離。柢王は初めて見た時からそれを感じている数少ないスタッフのひとりだった。
スタッフを信用しないというのではないだろう。自分以外のスタッフを備品のように扱うパイロットもいる。桂花はそんなタイプではなかった。だが、誰にも心に触れさせない。切り立った山に積もる常雪のように、誰からもかけ離れている。
ティアはそんな桂花の性格を気にかけていたし、アシュレイは反感を持っていた。
『あいつは信用できねーんだよっ』
酔った弾みで自分にそう言ったアシュレイの言葉の真意を、柢王は理解していた。感情豊かで人情的なアシュレイには、桂花のその一見優しそうな冷ややかさはよけいに腹立たしいのだろう。実際に何か問題があるわけではないのだが、桂花とのコンビだけは嫌だと拒んでいたのだ。が、それももうないことになる。
「高嶺の花、か」
柢王は肩をすくめると天井を見た。
初めて会った時の、心臓を貫くような衝撃がいまも思い出せた。冷たい刃物のような美貌。なにがあっても仮面を崩しそうにない強さ。その内側に、何があるのか知らずにはいられない。そう思う気持ちを自分がいまも持ち続けている理由もわかっている。
「冷たくされるとよけいに惚れたくなるよなぁ」
あれほど強く胸を貫かれたら、誰にでもわかる。
どうしようもないほど好きになるだろうということが──。
・・・・・ ピシャン・・ ―――
金に光り輝く黒き水が、また ひとしずく 暗い虚空へと立ちのぼっていった。
「・・・反応が悪いな。補助脳の一つもつけてやれば良かったか?」
暗い水面に映し出される巨虫の姿を見据えながら、教主は手に持つ扇を音を立ててとじた。
巨大化しすぎて神経系統に命令が行き届かないのか、動きが今ひとつ悪い。水面に映し出
される巨虫の動きを目で追いながらさらに言葉を継ぐ。
「動きの悪さはこちらで補ってやればいいのだが・・・」
閻魔の助力を得て魔刻谷より運び出させた、魔族のカケラを埋め込んだ岩を基点に直径5
00メートルの円筒形状の結界を教主は展開させている。
結界に満たされたのは、冥界の黒い水だ。
冥界から力を通し、天界に巨大な水槽を展開させた教主は、水槽の底に沈んだ巨虫の姿を
苛立たしげに見つめた。
「さすがに結界内といえど、泳ぎ出すまでにはいたらぬか・・・」
天界に力を渡し続けることは教主の力をもってしても、なかなか思い通りにはならなかっ
た。力を通すための『管』の役目として、力のある魔族を冥界の道をはじめ、魔風窟、そし
て魔刻谷には最強の兄妹を中継として置いてなお、困難だった。
最大の障害は、結界で緩和されているとは言え、結界内に満たした黒き水と天界に満ちる
霊気とが、干渉、相殺し合って刻々と蒸散し続けていることだ。
そのため、結界内部に満ちるのは、水と言うよりは濃霧に近い。それゆえに、黒き水の中
でこそ真価を発揮するはずである水棲の巨虫の動きに生彩がないのだ。
「・・・力が足りぬ」
教主が時を置かず力を渡し続けているのはそのせいでもある。嘆息に混じる苛立ちに、
李々がわずかに肩を引いた。
「・・・シュラムは良かったな。」
根の先から岩をも溶かす成分を分泌し、岩盤の内部に根を下ろす種目の植物を基にして作
らせた、水陸両用の植物系魔族。
「・・・それに比べれば、これらのものなど屑にすぎぬ」
シュラムのように霊気を即座に察知して自ら攻撃し、意志のあるように動く何十本もの触
腕をもっているわけでもない。
冥界の水を得なければ動くこともかなわない出来損ないたち。 巨虫達はシュラムが創り
出されるまで、創っては廃棄されてきた、いわば試作品だ。
「・・・結界内の濃度を上げぬ事には話にならぬな・・・」
階から身を乗り出して、教主は水面に手をかざした。・・・新たに湖面に立つ波紋を見つめ、
李々はかすかに息を詰め、瞳を閉じた。
「南領および天主塔の各隊長、点呼ォ! 被害状況を報告しろ!」
なおも吼え続けようとするアシュレイの頭を押さえつけ、柢王が空中にひとかたまりにな
っている兵士達に向かって言った。 その声は大きかったが決して鋭いものではなく独特の
深みのあるその若い声は、恐怖による恐慌状態の兵士達の目を覚まさせ、安堵の念を引き出
すのに十分なものだった。
恐慌状態から抜け出せば、兵士達の行動は迅速だった。各隊長の指揮の下、隊列を組み直
した兵士達が空中にそろう。
「・・・・・」
柢王の横で、アシュレイが小さく笑うような吐息をついた。
・・・あの状況下にもかかわらず、信じがたいことに全員がそろっていた。
死者がなかったことが奇跡のようだ。
おそらく狭い範囲でかたまって作業していた事が幸いしたのだろう。各自がとっさの判断
で、それぞれ手近の者を助けあげて空中に待避していたのだ。
「・・・兵士の一人が片足を喰われました。 それから、崩れ落ちた瓦礫に巻き込まれて骨折
した者数名、全身を強く打って意識がない者もいますが、これは救助済みです。あと、瓦礫
の破片で負傷した者多数です。
・・・その、足を喰われた兵士が、最初にあの化け物を見ておりますが・・」
「・・・その時の話を聞きたいが・・・話せるか?」
「はい・・・」
膝上から下を無惨に喰われた兵士は、かろうじてまだ意識を保っていた。
傷口から上の腿の部分を止血のために幅広の剣帯できつく締め上げられ、その痛みにうめ
きながら、血の気を失った唇をふるわせて必死になって語ろうとした。
「・・・さ・最初に瓦礫からアレが出てきた時は、もっと小さかったんです・・ ・・妖気が・・・
2メートルくらいのヤツで・・・ ・・水音が・・・ 俺が警戒の声をあげたら・・・ みんなが
こっちを向いて・・・ そうしたら、見てる間にヤツが大きくなって ・・・水音が・・・ なりな
がら・・こっちに向かってきて・・ ―――俺の、俺の・・足を」
血の気を失ってがたがた震えながら必死に語る負傷者に柢王は携帯していた小瓶の聖水
を1/3ほど飲ませる。
「残りは意識のない奴らに等分して含ませろ。口を湿らせる程度だぞ。飲ませようとはする
な、つまらせるからな。・・・負傷者達を天主塔に運べ!ゆっくりとだぞ、意識のない奴らは
特に慎重に運べ。」
柢王がティアから受け取った書状を隊長格の男に押しつけるように渡し、矢継ぎ早に指示
を飛ばす。その的確さにアシュレイが目を丸くした。
「・・・うちの優秀な副官の真似事さ」
小声で言って、柢王は片目を瞑って見せた。
「ま、悔しかったら、お前もメチャクチャ頭がよくて気がよく回って、自分に惚れてくれて
る、三国一の美人副官を捜すんだな」
誰よりも頭がよくて、気が回って、自分に惚れてくれている天界一美人の上司ならいるの
だが・・・とそこまで考えて、アシュレイは我に返った。
「・・・何言ってやがんだぁぁ! 」
真っ赤になって怒鳴るアシュレイをほっといて柢王は最終指示を飛ばした。
「ティ・・守天殿がこの状況をごらんになっておられれば、救援を寄越して下さっている。
さあ、怪我しているヤツは全員ここから離れろ。かすり傷のヤツもだ! 残りの兵士は半径
200メートル地点まで後退、上空で待機!
―――アシュレイ!待て!一人で行くなっての!」
20名にも満たない無傷の兵士達が遠巻きに見守る中、アシュレイと柢王は地表近くに浮
かび上がった。 斬妖槍を構えたアシュレイと剣を構えた柢王は1メートルほど距離を取る
と互いに背を向けた。 つまり互いの背中を守るようにして戦闘に備えたのだ。
土埃が立ちこめた地表は、奇妙に静かだった。 アシュレイが ふいに低く言った。
「昔に帰ったみたいだな。・・・魔風窟や魔界でさ、多勢に囲まれた時はいつもこうしてた」
「・・・ああ」
「柢王、・・・何か策はあるか?」
「あるわけ無いだろ、あんなデカブツ相手に。・・・けど、思ったよりも動きが早い。気をつ
けないと、かすっただけでも吹っ飛ばされるぞ」
「でも、シュラムほどでかくねーし、シュラムみたいに何十本って素早い動きをする触腕が
ついてるわけでもないし。・・・ま、いけるんじゃねえ?」
「行き当たりばったりってのはいつものことだしな」
柢王が笑いながら言い、アシュレイに提案を持ちかける。
「あいつの頭に近い方が主戦権握るってのはどうだ? で、残った方がフォローと万が一の
ための結界を張る役に回る」
「フォローはともかく、何で結界?」
「あんなデカブツ、大技でぶっ飛ばす以外ないだろ?」
「・・・おまえ、もしかしてそのために兵士達をあんなに後退させたのか?」
返事はなかったが、こちらを向いてニヤッと笑ったその表情で解る。
「ま、200メートルも離れてりゃ大丈夫だと思うがな。おい、アシュレイ、俺になら遠慮
はいらないぞ。ガンガンいけ」
アシュレイがどれほどの大技を放とうと、柢王ならば闘いながらでも完全に防ぐ。
だから安心して思いっきり闘え。・・・柢王はそう言ってくれているのだ。
「・・・やっぱ、そーこなくっちゃな」
正面に向き直り、斬妖槍を一瞬強く握りしめ、アシュレイは肩をすくめて低く笑い声を立
てた。
柢王も笑っている。 こんな状況で笑っていることを異常なことだとは二人とも思わない。
武者震いと同じようなものだからだ。
―――体の奥から、突き上げてくる震えがある。
叫び出したいような、この衝動。
―――ぞくぞくするような この感じ。
ここでしか、この状況でしか、味わえない。
危険の中に身を置き、その中で己の命を見いだす。
そうすることでしか、己の存在を確立できない―――。
(・・・・・餓えに餓えた獣だな。あいつの戦闘霊気ときたら)
背を向けていても柢王はアシュレイの戦闘霊気が暴発寸前まで高まっているのを感じ取
ることが出来た。
・・・アシュレイの、飢えに似たその衝動を、一番近くで共に闘ってきた柢王はよく知って
いる。彼もまた同じような衝動を深いところに隠し持つ者だからだ。
「アシュレイ、おまえ、ここんとこ やりたりてないんだろ?」
「―――な! な、な、何 言って・・っ!」
柢王の笑いを含んだ声に、何かを勘違いしたアシュレイが真っ赤になって振り向く。感情
の混乱ぶりに彼の戦闘霊気がボンッと音を立てて吹き出した。 突然の霊気放出に柢王も面
食らった。背中に押し寄せてきた熱気に何事かと振り向く。
―――この時、アシュレイは柢王の背後の瓦礫が弾きあげられるのを、柢王はアシュレイ
の背後の瓦礫が弾きあげられるのを見た。・・・そして かすかな水音を 聞いた。
「そこかあっ!」
斬妖槍を構えたアシュレイが柢王の方へ完全に体を振り向けるのを、アシュレイの背後を
みていた柢王が叫んだ。
「ちがう! こっちは尾だ! ―――アシュレイ!後ろだ!来るぞ!」
瞬間、大量の瓦礫をはじき上げて巨虫の頭部がアシュレイの背後に迫った。
「・・っ!」
振り向いて頭部に炎を叩き込もうと狙いを定めたアシュレイが、わずか一瞬で眼前に迫っ
た一対の巨大な大顎に目を見開いた。
(加速した・・―――!?)
横合いから来た衝撃にアシュレイは弾き飛ばされて地面に叩き付けられた。
「・・って・・」
とっさに受け身すらとれなかった己の間抜けさを呪い殺せるものなら呪い殺したい。
素早く身を起こし、周囲を見回し、上空を見上げる。
「―――柢王!」
巨虫は長い巨体を地中から引きずり出して上空へ伸び上がっていた。
柢王がいない。
「柢王!」
とっさに横合いから自分を突き飛ばして巨虫の大顎から逃してくれた彼が。
「―――柢・・」
上空に伸び上がった巨虫の周囲から降り落ちてきたものがアシュレイの頬に落ちる。
「う・・・」
ぬぐい取った手についたものを見て、アシュレイは叫んだ。
「うわあぁぁぁぁっ!」
叫びながら、凄まじい早さで巨虫の巨体の上を駆け上がる。
(嘘だ!)
手についた、赤黒い液体―――・・・
(嘘だ!嘘だ!)
「柢王!」
一気に巨虫の頭部を飛び越えて上空に飛んだアシュレイが、巨獣の口元を見て青ざめ、
言葉を失った。
「で?」
「で、って言われても…」
アシュレイは、自店はもちろん、商店街と自治会両方の会長までを若くして務める幼馴染の気苦労を思い、毎日とはいかないが仕事の合間を縫ってたびたび『天主塔ベッド』に顔を出す。と言っても、アシュレイの父、つまり鮮魚店『阿修羅』の店主である炎帝も現在商店街壮年部ツアー参加中のため、そう長居はできない。
たいてい隣の『ペットショップ・自由人』のレースガフト・パフレヴィーに店番を頼んで出てくる。少しくらい遅くなっても文句を言う奴じゃないのは分かっているが、それに甘えるわけにはいかない。ふたつの店を見るのはなかなかに神経を使うし、魚はやっぱり自分が直接見てさばいて焼いたものを、お客さんに買ってもらいたいのだ。
その日も、すぐに戻るからとレースに頼み込み、ティアの顔を見て二言三言言葉を交わし、じゃあな、と帰り際。
離れ難い思いに何の気なしにティアがもらした、そういえばこの前初めて湯屋に行ったよ、という一言にアシュレイの足が止まった。
振り向いたアシュレイに、ティアが喜んだのも束の間だった。
「水晶宮貸し切って、おまえはなにしてたんだ」
「なにって…。普通に湯船に浸かったりサウナに入ったりしてただけだよ。皆には申し訳なかったけど、一回だけのことだし」
「一回だけのこと…?」
「アシュレイ? 君ももしかして入りたかった?」
アシュレイの家には、炎帝ご自慢の五右衛門風呂がある。
死ぬほど熱くないと風呂ではない、という持論(極論とも言う)から、家族以外は隣のレースくらいしか入る者はないという。
「…裏のじぃちゃんは、足が悪いからそうちょくちょくは湯屋に通えねぇ。週に一回通うのがやっとだ。それでもすげぇ楽しみにして、リハビリにもなるからって言って一生懸命自分の足で歩いて湯屋へ行く。それが、この前行ったときはなんでか臨時休業で入れなかったって…っ。おまえがっ…」
そこまで言われて、ティアも気づいた。
自分のために、風呂を追い出された者たちばかりでなく、湯屋の前まで来たにも関わらず風呂に入れず無駄足を踏んだ者もいるのだ。しかも、その無駄足は、一言で済ませられるものではない。ゆっくりと、一歩一歩を懸命に踏みしめて湯屋へとやってきた老人の楽しみを、自分は奪った。
「…アシュレイのとこの裏なら、『水晶宮』よりうちのほうが近いね」
そうして、ティアはすぐに裏の爺様の家に使い羽をやった。
もちろんそういったご老人は、なにもアシュレイの家の裏の爺様だけではない。ティアもアシュレイもわかっている。だからこれは特別。一回だけのお詫びの気持ち。
鮮魚店『阿修羅』の定休日、送り迎えはアシュレイが背負い、湯殿ではティアが背中を流し、使い女に風呂上りのコーヒー牛乳を差し入れられ、爺様は涙を流し、何度も何度もふたりに手を合わせた。
だが、爺様思いのアシュレイとティアの行動は、ふたりの知らぬところで思わぬ噂の種をまいた。
噂とは、雨の日のナメクジのようにどこからともなく湧いて出るものらしい。
なぜかその『爺様が天主塔で風呂をもらった話』が尾ひれつきで商店街界隈に回った。
まずご近所では、使い女経由か、商店街で買い物途中の主婦連を中心に、妙にリアルな脚色つきで。
「天主塔ベッドの大浴場で、酒池肉林!?」
「なんでも混浴らしいよ」
「若様自ら、三助になって背中を流してくれるんだって!」
「それっていつでも入れんの!?」
「私が聞いた話じゃ、特別ご招待だとかなんとか…? たぶん、ベッドとか買ったらいいんじゃないかしら」
「枕じゃ駄目かねぇ…」
「ベッドカバーはっ!? 一応『ベッド』って言葉入ってんだけど!」
「九分九厘ダメだと思うよ」
「…ああ、入ってみたいねぇ」
――――はぁぁぁぁ…………。
尾をひく大きなため息が、しばらくの間あちらこちらから聞かれたと言う。
そして『水晶宮』でも。
「混浴!? 三助…って、湯を沸かしたり背中を洗ったりを? 兄様がっ!?」
「なんと…。守天殿が先日見えられたのは湯屋業界進出のための敵情視察だったか…っ! 冥界センターの泥風呂『ブラック・バス』などより、守天殿のセクシー三助のほうがよっぽど手ごわいですぞ、坊ちゃん!」
「せせせくしーーっっ…………」
「鼻血出してる場合ではありませぬぞ! …旦那様はこんなときに限って親父ツアー中だし。…ああ、なにかいい策はないものかッ!」
そうして、『守天三助絶対反対派』の跡取り息子と『水晶宮第一』の番頭、その他『水晶宮』で働く者達全員で、入浴客奪取のため(実際は奪われてないのだが)案を出し合い、手始めにお年寄り優先の日時を設け、その日は予約さえあれば送迎も行うことにした。
「いらっしゃいませ」
「おう坊ちゃん、今日もたのまぁ!」
「ありがとうございます。今日は冷えるから、ゆっくり温まっていって下さいね」
番台のカルミアも店主代理が板についてきたようだ。
先日も、たまに湯船にオモチャを持ち込んだり泳いだりする子供がいることに着目したカルミアから、『水晶宮 DE こどもの日』を新たに設け、思いっきり子供達に湯船で遊んで、その中から湯屋の楽しさを見い出だし『水晶宮』を好きになってもらおうという案が出された。
まだ採用は検討中だが、カルミアのその姿勢がトロイゼンにはなによりも嬉しかった。
水帝もツアーから戻れば、可愛い息子の成長ぶりに驚き、そして喜ぶだろう。
男湯の脱衣所の隅から、盛り上がった筋肉をぴくぴくさせ、二つに割れた顎の間を撫でながら、トロイゼンは満足げに笑んだ。
結局は、湯屋にも客にもよりよい方へと転がった。
そしてそれはつまり、商店街全体にとっても間違いなくよいことなのだった。
ちなみに、先日オープンした冥界センターの『ブラック・バス』は、特製の黒い泥風呂で美白効果があり、別料金で全身エステの予約も取っているとか。
もちろん「髪と地肌」のマッサージの取り扱いについては言うまでもない。
終。
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(余談ですが。)
『天主塔ベッド』では――――。
【噂のプライベート大浴場も見学できます。〜天主塔ベッド〜】
柢王 「おまえんとこのあのチラシ。なんなんだ、いったい」
ティア 「私にもよくわからないんだけど、八紫仙達に今はお風呂場がブームだから、
うちの湯殿も是非お客様に見学させてほしい、って言われて」
アー 「ブーム〜〜〜!?」
柢王 「ボケたか、八紫仙。(八人一緒に)」
桂花 「突っ込むところは、そこじゃないでしょう……。(噂、ってとこなんじゃ……)」
ティア 「中には記念写真まで撮っていく人もいてね。…ときどき一緒にって頼まれるんだ。(照れ笑い)」
桂花 「でも確かにこちらの大浴場は気持ちがいいですし」
柢王 「おまえ、入ったことあんのかっ!?」
ティア 「桂花には商店街の仕事も手伝ってもらってるからね。お礼に」
桂花 「カイシャン様が広いお風呂が好きなので、一緒に」
柢王 「なんで俺じゃなくてあのガキなんだーーーーーっっ」
アー 「…つか、突っ込むとこは、そこじゃねぇだろ。(様づけ、ってとこなんじゃ……)」
珍しく(?)、冷静なアシュレイでした。(その分、柢王が熱い)
商店街には湯屋がある。
事故で亡くしたカルミアの母を唯一最愛の妻として再婚はせず、一粒種の息子を溺愛する水帝洪瀏王の経営する『水晶宮』がそれだ。
だが、甘やかすばかりでは将来『水晶宮』の立派な跡取りにはなれない。
水帝は心を鬼にして番頭トロイゼンに息子の教育を任せ、自身は商店街壮年部の熟年ツアーに出かけることにした。
カルミアには、『水晶宮』のためしばらく各地温泉旅館の水質・効能・サービス等々のリサーチの旅に出るが、留守の間、番頭トロイゼンにならい『水晶宮』の跡継ぎとしてこの湯屋を守るのだ、と言い置いて。
「ぼっちゃん、お願いね」
「坊ちゃん、お手伝い偉いねぇ」
「髪も洗うから宜しくー」
「サウナ、使わしてもらうよ〜」
近所のおじさん、おばさんたちが、一声かけて小銭を置いて中へと入ってく行く。
(洗髪は追加金…………サウナも追加料金………)
番台の少年は、少々ふてくされた様子でぶつぶつ料金を計算しながら、それらを受け取り銭箱へとしまった。
「坊ちゃん、もっと愛想よく」
番台は、湯銭の受け取りはもちろん、脱衣所の見張りも兼ねているため、大人でも見上げる高さにしつらえてある。その男湯側の番台横に立った筋骨隆々の堂々たる体躯が、番台に座るカルミアを見下ろしてピシャリと言った。
およそ「愛想」などという言葉とは縁遠い厳つい顔に、頭髪を短く刈り上げ、頭に布を巻いている。この布は風呂焚きの際、滝のように流れ落ちる汗を食い止めるためにするもので、『水晶宮』に働く者の必需品。
水帝の信頼も厚い番頭トロイゼンは、水汲み・風呂焚き・風呂掃除は言うに及ばず、薪を割らせたらこの業界で右に出る者はいないと言われるほどの、たたき上げの湯屋人(造語)だった。だが、
(さっきなんか湯船にアヒルとか戦艦とか浮かべて遊ぶ子供とかいるしさっ…)
トロイゼンの言葉も、過保護に育てられ、まだまだ幼さの残るカルミアにはうるさいだけだ。アシュレイが聞いたら「子供が『子供』とか言うな、クソガキ!」と突っ込まれそうな愚痴を心でこぼしている。
仕事でしばらく出かけることになった父親の言葉に最初は張り切って店の番台に上ったカルミアだったが、番頭トロイゼンの細かい指摘に加えて厭きも来て、少々うんざりしていた。
「だって」
「だって、ではありません。坊ちゃんも、お風呂はお好きでしょう」
「……」
「ここに来てくださるお客様方も同じ、お風呂が大好きで、『水晶宮』が大好きな方達ばかりです。…お分かりになりますね?」
「…うん」
「だったら、もっと愛想よく。代金の計算はちょっとくらい時間がかかろうとそれで腹を立てて帰ってしまわれる客などおりません」
「………」
「気持ちよくお風呂に入って気持ちよく帰っていただきたいと思いませんか」
「そうですね。さすがはトロイゼン殿」
「これは…守天殿」
『水晶宮』には外気を防ぐための外扉がある。次に内扉があり、その奥に男湯と女湯、それぞれの入り口が暖簾で明示されている。
入り口の暖簾をくぐり、二人の前に現れたのは『天主塔ベッド』のうら若き店主、ティアランディアだった。
「兄様っ…ど、どうしたんですかっ?」
守天を見て、今までのふくれっつらはどこへやらのカルミアが、驚きながらも頬を紅潮させて尋ねる。
『水晶宮』の常連客には、家に風呂がない者だけでなく、あっても、大きな湯船にたっぷり浸かりたくて訪れる者も多い。
しかも、壁の白虎を象った湯口から絶え間なく湧き出る『水晶宮』の目玉『洪洒の湯』は、エメラルドグリーンと淡いピンクを交ぜたような不思議な七色をしていて、見て楽しく、入れば身体の芯まで温かく、なぜか香りは甘やかでもあり爽やかだ。昔から自然と『水晶宮』の地下に集まる清浄な水を汲み上げて焚き、そこへ『水晶宮』一子相伝、門外不出の奇蹟の入浴剤とまで言われる『洪洒』を使っているからで、特に美肌効果に優れており、常連客の肌は老若男女問わずツルピカで美しい。
だが『水晶宮』ほどではないにしろ、『天主塔ベッド』内の二十人は一度に入れようかという大きな湯殿のことは、ご近所では有名な話だ。前(さき)の守天の代に大理石で作られた立派なそれは、決して『天主塔ベッド』で働く者達の大人数用ではなく、守天のためだけに作られたプライベート浴場だ。
また、守天の名を継ぐ者はなぜか代々美しい。生まれついてのこともあるだろうが、昔は寝具業とともに化粧品店も経営していたという『天主塔』秘蔵の『聖水美容液』『守護膜パック』のおかげもあるらしいと巷ではまことしやかに囁かれている。
ゆえに、守天が「大きい湯船に浸かりたい」とか「美肌になりたい(?)」とかいう理由で『水晶宮』へ来るわけがない…はずなのだ。そんな見るからに着替えやタオル等が入ったと見られる風呂敷包みを持ったいでたちでは……。
「それがね…」
守天は苦笑しながら答えた。
「うち、ボイラーが故障しちゃって…。すぐに修理には来てくれるみたいなんだけど、せっかくだし一度湯屋に行ってみたいなと思って」
「それはそれは」
やり手の番頭トロイゼンに、理由はいらない。ただ『水晶宮』に来てくれればいい。
トロイゼンは厳つい笑顔と揉み手で守天を歓迎した。
「そんなわけで、初めてなんだけど…えっと…前金制?」
「ええ。お待ちくだされ。…坊ちゃん。坊ちゃんから、ちゃんとご説明して差し上げて」
「……に、に、にいさま。こっ、ここでっ、はははは入るのですかっ!?」
「え、うん。入らせてもらいたいんだけど。…もしかして、予約制だった?」
「いえ、そんなことは。坊っちゃん!」
先を促そうと次代の店主に目を向け、番頭は一瞬引いた。『水晶宮』の目玉である『洪洒の湯』と同じ、エメラルドグリーンと淡いピンクを交ぜたような不思議な七色の目を、パッキリ見開いたまま固まっているカルミアにやっとこさ気づいたのだ。
「坊ちゃんっ!?」
(……に、兄様がっ、うううう、うちのお風呂に…っ)
兄様が風呂に入る、ということは、脱ぐってことで―――
兄様が脱ぐ、ということは、全裸になるってことで―――
しかも湯屋で……ということは、他のお客さんも、近所のおじさんもお爺さんもお兄さんも、子供までもが、兄様の肌を兄様の全てを見るという………
「………そんなの許されませんっっ!!」
「ぼ、坊ちゃん…?」
いつもはおとなしめなカルミアの突然の大声に、トロイゼンも守天も驚く。
「トロイゼン!!」
「は、はい!?」
「店閉めてっ」
「は、はっ!?」
「……カルミア?」
「心配しないで、兄様っっ!! 兄様(の肌)は僕が守ります!!」
「……まもる?」
そうして、カルミアの剣幕と我侭におされた番頭以下が平謝りに謝り頭を下げまくって、湯に浸かっていた客、身体や髪を洗っていた客、サウナで我慢大会していた客、すべての客に、『水晶宮』からお引取り願い、締め切られた外扉には『本日閉店』の札が下げられた。
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