投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
バヤンは武人のわりに文学を好んで読む男だったし、四年前に亡くなったチンキムの愛読書は唐の太宗と臣下との政治論議をまとめた『貞観政要』だった。
チンキムの残した大量の蔵書のうち、フビライの許可を得てバヤンに譲られた書物の中に、唐代の小説家、段成式の『酉陽雜俎』全三十巻があり、それを譲り受け拝読したバヤンが、その中の一篇を是非にとカイシャンに贈ってきたのは自然なことだった。
「桂花……」
カラコルムから届いた本の話を早く桂花にしたくて、カイシャンは走った。
「桂花…っ!」
「どうしたんですか、カイシャン様」
いきなり宮廷内の廊下で大声で呼びかけられ、驚いて桂花は足を止めた。
「月の桂樹の話を知ってるか?」
弾む息でそう尋ねられ、桂花は「いいえ」と答えた。
「バヤンからチンキム様の本が届いて、それを読んだんだ」
「読めましたか?」
「…まだ少し難しかったけど、おもしろかった」
子供の満足げな顔に、桂花も微笑んで返す。
「それで?」
「月には桂樹がある」
「ええ……」
「月の桂樹は五百丈もあって、斬っても傷つけても、すぐにその傷口がふさがるんだ。それで、桂樹は『再生』や『不死』を象徴するようになったんだって」
――― 再生?
――― 不死?
「だから、」
――― だから?
「同じ名前の桂花がいるから、ずっと陛下はお元気でいられるんだ!」
……誇らしげなその笑顔がにじんで映るのはなぜだろう。
この子は、自分を慕ってくれている。
わかっている。
(だから…)
だから、その説話を知って、嬉しくてすぐに自分の元に走ってきたのだろう。
「……桂花?」
名前を呼ばれたが、桂花はカイシャンの顔を見ることができず、前へと足を踏み出した。
「桂花?」
「……お茶を淹れますから、一緒にいかがですか?」
「うんっ!」
宮廷には、桂花用に整えられた小部屋がある。
その部屋へと向かう一歩一歩を踏みしめる。
歩く。
呼吸をする。
話をする。
「カイシャン様…」
「なんだ?」
嬉しそうに自分を見上げてくる子供。
(……この身体も、斬られても傷つけられても、傷口はすぐにふさがるのです。痛みもなく、元に戻るのですよ…)
なんの感慨もない、不死の身体。
それでも、手ばなすことのできない生。
吾こそが、あなたの完全な「再生」と「不死」を妨げている。
あの人の右腕を奪い、作られた人形を糧にし質にされ、あなたの肉体も魂も、本当の意味での再生も不死もない、……ありえない事態を招いてしまった。
(吾こそが………)
後悔しているのだろうか。
しても詮無いことなのに。
ただ、自分にはそれしかなかった。
その道しか、なかった。
後悔も罪も、だから吾だけのもの。
あの人形のような柢王にも、あなたにも、なんの責任も咎もない。
(……あるとすれば、吾を置いて行ってしまった男の傲慢さが許せない)
「桂花?」
「カイシャン様は、不死をお望みですか?」
カイシャンの顔は見ずに、前を向いたまま問いかける。
「俺だけが長生きしたって仕方ない」
「は…。ませたことを」
「だったらおまえはどうなんだ」
桂花に子供扱いされ、少しむくれたようにカイシャンが尋ねる。
「吾は……。そうですね。吾も同じです。ひとりでは生きていけませんから」
「………」
「……カイシャン様?」
いきなり熱い手に腕を取られて、視線を下げ子供を見る。
声の感じで、今までずっと見上げるように自分に話しかけていた子は、うつむいていた。
「カイシャン様…」
「桂花は寂しいのか?」
「……は?」
そう真剣に問いかけてくる子供のほうが寂しそうに見えた。
それでも桂花を気遣うような声音の子供に、なぜか無性に愛しさが募る。
「いまは一人じゃありませんから…」
寂しくないですよ、と言外にほのめかすと、子供は安心したように顔を上げた。
数日後。
宮廷内に住むことを断り続ける桂花に、フビライが用意した館が一般居住区にある。
そこにカイシャンから手紙が届いた。
――― 秋になって白い花が咲いたら、一緒に見に行こう。
――― 橙色に比べたら香りは少し弱いけど、俺は白いほうが好きなんだ。
読みながら、まだ幼いカイシャンに、文字とは、手紙とは、と説いたことを思い出した。
口にできぬ想いを伝えるものだと、そう教えた。
人の生は短い。
終わると分かっているものに、心を残してはならない。自分がつらいだけだ。
それでも……。
桂花は刹那の幸せを噛み締めるように、カイシャンからの手紙を胸に抱いていた。
一般に木犀と言えば、銀木犀を指す。
金木犀は銀木犀の変種で、オレンジ色の花をつけ、その香りは銀木犀を凌ぎ、夏の梔子と並ぶ。
銀木犀の中国名は桂花。
白い花をつけ、漢名を銀桂と言う。
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