投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
F1の新シーズンの幕開けが迫るサーキットには、そわそわ逸る気持ちを抑えきれないでいる
人々が大勢いて、その光景を目にするだけで心が浮き立ってくる。
陽が昇り、ぞくぞくと到着する関係者たち。
刻一刻と近づく開幕戦に、アシュレイも身震いするほどの高揚を感じていた。
マシン整備で慌しいピットガレージ裏のパドック広場では、各チームのスタッフが溢れ返り、
そこかしこで今シーズンの展望をにぎやかに論じている。
各種メディアやスポンサーなども入り交じるなか、アシュレイは見知った男と出くわした。
「よっ、注目のルーキー! 全身まっ赤って、遠くからでも目立ちまくりだな」
陽気な笑顔で声をかけてきたのは、カート時代からの親友で、アシュレイより2年先にF1へ
参戦している柢王だ。
若手ながら勝負ぎわの駆け引きがうまく、疾風迅雷の走りが魅力的なこの男は、近い将来に
ワールドチャンピオンの称号をも獲るだろうと目されているほどだ。
アシュレイにとっては、昔から遊びでもレースでも全力で競い合ってこられた仲間でもあり、
なにかと頼りになる兄貴分でもあり、思い描く未来を一歩先で体現している存在でもある。
そんな柢王のことで、シーズン直前に衝撃のニュースが飛び込んできた。
驚いたことに、最大のライバルチームのひとつであるマジェスティーズ・フォーミュラから
メインのレースエンジニアを自分の担当として引き抜いたというのだ。
レースエンジニアとは、レース中に高速で走り続けるドライバーと無線で交信し、最適な
パフォーマンスを発揮できるよう、瞬時の状況判断や戦略選択によって補佐する役割を担う。
狭いコックピットの中で全神経を研ぎ澄ませて戦うドライバーの、目となり耳となり、頭脳
ともなって、共に高みを目指す。
ひとりのドライバーに対し、レースエンジニアもひとりしか存在せず、まさに片腕・相棒と
呼べるほどの、密接な信頼関係の構築が欠かせない。
命の危険と隣り合わせの世界で、相互の信頼関係が戦績にも大きく影響するのだ。
そのようにチームで重要な鍵をにぎる立場にある者の突然の移籍は、通常まずありえない。
しかも、マジェスティーズのチーム代表の秘蔵とも囁かれていた人物の思いがけない離脱に、
F1界全体が驚愕を隠せなかった。
加えて、くだんのエンジニアには、ある事故から暗い憶測もつきまとっている時期だった。
その渦中の人物が柢王と連れ立っているのを見て、アシュレイの表情が険しくなる。
「…なんか知らねェけど、おまえこそヘンな噂で目立ってんじゃねーか」
(俺にひとことの相談もなく勝手に決めちまいやがって!)
柢王が先にF1の舞台へステップアップした頃から、なんだか置いていかれたような気がして
接触を避けだしたのは自分のほうなのに、理不尽に恨んでしまう気持ちを抑えられない。
でも、飄々とした態度の友人は、
「そうそう、ちょうどおまえに紹介しようと思ってたとこなんだ」
やや後ろで静かに佇んでいた細身の男の肩に、がしっと腕を回してまた向き直る。
スキンシップが大好きな褐色の腕は、くっつきすぎですとやんわり払われていたが、そんな
親しげなやりとり自体も気に食わなくて、アシュレイはさらに意固地になってしまう。
「ハッ、紹介なんかいらねー。ライバルチームに乗り換えるような奴は信用できねーからな!」
きつい言葉に柢王は頭を掻きながらも、
「まぁまぁ、俺の話も聞けって。な?」
へらりと絞まりのない笑みを浮かべている。
まいったな、という素振りで肩を竦めつつ目線を合わせて近づこうとするので、アシュレイは
うっかり気を許してしまわないよう距離を空けたまま睨みつけた。
「…なら、正直に答えろ」
「おう、なんでも聞いてくれ」
「…なんでわざわざそんな、よその奴を引っこ抜く必要があんだ!」
「なんでって、俺がこいつに一目惚れしたからさ」
「……はぁっ?! 一目ぼ…って、そ、そんなふざけた理由があるかーっ」
「そう言われてもなぁ。実際2年前から口説き続けて、やっと承諾してもらえたんだぞ?」
にやっと嬉しそうにウィンクしてくる友人に、アシュレイは空いた口が塞がらない。
正直、噂だけじゃなく根も葉もない陰口まで耳にして、すごく心配していたのに。
柢王がどういうつもりでどこまで本気なのか自分には全然わからなくて、情けなくなってくる。
うつむいて黙ってしまったアシュレイの後頭部を、力強い手のひらがポンと包んだ。
「おまえがそこまで俺のこと心配してくれてたなんてな、サンキュ」
昔と変わらず、うまく言葉にできない気持ちをちゃんと汲んでくれる親友にほっとしながらも、
「そんなんで納得すると思うなよ。そいつのこと、俺はまだ認めてねーからな!」
最後まで素直になれないまま、捨て台詞のように言い放ってその場を離れた。
*
「…なんですか、あの警戒心むきだしのサルは」
「サルって、ははっ。あいつはカート時代からの仲間なんだ。でもゴメンな、俺がちゃんと
先におまえのこと話してなかったから、あんな態度になっちまって」
「別に、気にしてません。突然の移籍で周りじゅう似た反応なのはわかっていますから」
実際アシュレイだけに限らず、F1関係者すべてが、昨シーズンまではライバルチームにいた
ふたりが今こうして連れ立っている事実に、好奇と注意の目を向けている。
覚悟して決めた道ではあるが、あることないこと騒がれるのは、煩わしくもあった。
「まぁ野次馬の奴らはともかくとして、アシュレイは昔っから正義感が人一倍つえーからな。
俺の立場や今後なんかも気にしてくれてンだろ」
悪気があるわけじゃないんだ、許してやってくれ、と人懐っこい苦笑をこぼす男に、
「そういうあなたは、そうやって人をたらし込むのが得意なんですね」
なかば呆れたような溜め息と視線が返される。
そんな怜悧な表情にも臆することなく、
「おまえも俺にほだされた?」
顔をのぞき込みつつ寄り添おうとする体を、すらりとした腕がさりげなく押し戻す。
「そもそも、あんな説得力に欠ける説明で納得させられるはずないでしょうに」
「や、でもホントのことだし。おまえに一目惚れしたのも、そこから必死に口説きまくって
ようやっと俺のモノにできたってのも、全部そのまんまだし」
取り繕うことなく言い切る男のストレートさに、気を抜くと乱されそうになる内心は伏せて、
「あなたの担当にはなっても、あなたのモノになった憶えはないですけどね」
さらりと受け流す。
そのまま颯爽と歩き出そうとする背に、めげない声が追いかけてくる。
「それもきっと時間の問題だって。まぁ見てな、信じてもらえるまで何度でも繰り返すから。
覚悟してろよ、桂花」
耳元で名を呼び、たっぷりと自信に満ちた瞳が、甘やかに紫水晶の瞳をからめとる。
一瞬、返す言葉につまった隙に、絹のような髪がひとふさ手に握られる。
「仕事上のパートナーとしてだけじゃなくて、おまえの体も、心も、この髪も、その瞳も、
全部まるごと欲しい。ずっと探してたんだ、俺と一緒に走れる奴」
真摯なささやきと、心の奥底まで射抜くほど力強いまなざしに、全身がとらわれそうになる。
(あのとき、絶望に苛まれてF1から去ろうとした吾を、引き止めたのはこの男だった…)
柢王は2年前にはじめて出会ったときから、自分の片腕になってほしいと何度も誘いにきた。
ただ桂花は、恩義のあるマジェスティーズを離れるつもりはなく、柢王の本気は感じつつも
一貫して断り続けていた。
でも、そんな折に、自らが担当していた大切なひとの選手生命が絶たれてしまう事故が…。
自分がもっと慎重にフォローしていれば、あるいは別の選択肢をドライバーに伝えていれば
事故など避けられたんじゃないかと、どんなに悔いても悔やみきれなかった。
(あの李々が、もう走れないなんて…)
ドライバーを支える役割を担うはずが、なんの手助けもしてやれないなんて。
もう二度と、かけがえのないひとを目の前で失うような思いは味わいたくなかった。
だから、この世界から完全に退くつもりだったのに。
『俺は何があっても走り続けて、必ずおまえのもとへ帰る。絶対だ。約束する』
おまえが必要なんだと、代わりはいないんだと、揺るぎない心をひたむきに伝えてくる柢王に
つかまってしまった。
この男の強靭さを信じたい気持ちと、また身近なひとが危険に晒されるかもしれない戦慄との
狭間で悩んでいた桂花を、李々の言葉が後押ししてくれた。
『私はここまで、自分の思うままに走れて幸せだったわ。あなたとふたりだったからこそ味わ
えた喜びや瞬間がたくさんあったのよ。だから、あなたの存在を求めているひとがいるのに、
辞めるだなんて言わないで』
あのとき彼らがいてくれたから、今の自分があるのだ。
(柢王とこの道を進むと決めたからには、全身全霊をかけて守って、支えて、ついていく…)
柢王と桂花、それぞれに絶対の誓いを交わし、新たな喜びと試練の道へ歩みだす。
疾風のように瞬く間に駆け抜けるフォーミュラカー―――
体の奥底にまで響き渡るエキゾーストノート―――
サーキット全体を熱くとりまく大歓声―――
モータースポーツの最高峰であるF1の世界を生まれて初めて目の当たりにしたアシュレイは、
圧倒的な音とスピードの迫力に、一瞬で魅了された。
これまで体感したことのない熱気に包まれて、大きな瞳をきらきら輝かせながら、
「うわぁ…! すげぇ…!」
と、言葉にならない感嘆の声を上げて、ただただ魅入っている。
興奮のあまり、頬までぷっくりと紅潮するほどだ。
そんなアシュレイの様子に、思いきって観戦に誘ってみたティアも胸が高鳴る。
「よかった、君ならきっと喜ぶと思ったんだ」
「おう、おまえンちがこんな面白いことやってるなんてな!」
まだ幼いアシュレイはよく知らなかったが、ティアの家は世界に名を馳せる自動車メーカーだ。
高級スポーツカーとレーシングカーのみを製造し、F1にも代々参戦し続けている。
ティアは、自社にとっての誇りともいえるF1の世界をアシュレイも気に入ってくれたことが
嬉しくてたまらない。
車とかレースにどこまで興味を持ってくれるかはわからなかったけれど、自分の大切なものを
大好きな相手と一緒に楽しめたらいいなと、今回はじめて観戦に誘ってみたのだった。
世界最速を競うサイド・バイ・サイドの凌ぎ合いに、アシュレイは一目で惹き込まれたようだ。
「はえーなぁ! かっけーなぁ!」
目の前で熱いバトルが繰り広げられるたび、大はしゃぎで体を揺らしている。
そんな幼なじみに、ティアはドキドキしながら尋ねてみた。
「ねぇ、どのチームのマシンが好き?」
ひそかに望む答えがあって、小さな手は祈るように胸に当てられている。
「う〜ん、どれもカッコイイけど…、おれはあの赤いのがいっとう好きだ!」
まさに願っていた通りの返事に、胸の鼓動がますます弾む。
「ほんとっ? あれ、ウチのチームなんだ。私もあのキレイな赤色がいちばん好きだよ!」
だって、君の髪や瞳みたいに鮮やかで…と、うっとり口の中でつぶやく。
同じものを好きと言ってくれたことに舞い上がっていると、
「よしっ、決めた! おれ、あの赤いのに乗って世界一になるっ」
力強く立ち上がって、アシュレイが宣言した。
突然の展開にティアはびっくりしたが、
「おまえンとこのチームでチャンピオンになって、わくわくさせまくってやる!」
その気持ちが嬉しくて、満面の笑顔でうなずき返す。
「うん、アシュレイなら誰より速くて強いレーサーになれるよ。それだったら私も、君の夢を
支えてあげられる最高のマシンを作って、いちばん近くで応援したい!」
たった今ひらめいたばかりの思いだが、ふたりとも天の啓示を受けたように心がときめいた。
一緒に夢を叶えるんだと、幼い手をぎゅっと握り合って約束を交わしたのだった。
*
あれから幾年―――
新シーズンの幕開けを迎える春先、とうとうF1ドライバーの証であるスーパーライセンスを
取得したアシュレイは、念願の赤いレーシングスーツを身にまとってサーキット入りした。
アシュレイが所属するチームは、名門中の名門であるスクーデリア・エメロード。
“レーシングドライバーであれば、誰しもがエメロードで走ることを夢みる”とまで謳われる
F1界を代表するチームだ。
本来であれば、それほどのトップチームがF1初参戦の新人ドライバーをいきなり起用する
など考えられないことだが、様々な要因が重なって、異例のデビューが決まったのだった。
まず一つに、アシュレイがエメロードの若手育成アカデミーの出身で、F1への登竜門である
下位カテゴリーのレースでも早くから頭角を現していた注目のホープであること。
粗削りではあるもののアグレッシブで怖いもの知らずな走りに、エメロードの熱狂的なファン
であるティフォシ達も将来的な期待をかけている。
次に、ここ数年はライバルチームの後塵を拝しており、改革が求められていること。
これまであまたのタイトルや記録を築いてきたが、近年は成績がふるわず低迷しがちだ。
勝てない時期が長引くと、ドライバーや幹部の更迭など不穏なお家騒動まで勃発してしまう。
このまま転落して取り返しのつかない事態になる前に、新しい人材を加えることにしたのだ。
ただ、各チームには2名ずつ正ドライバーが存在するが、一度に2名とも変えるのはリスクが
大きいため、1名は実力者である山凍、もう1名は勢いのあるルーキーを選ぶことにした。
実力も名声も兼ね備えた山凍がいるからこそ、もう1名は冒険できたともいえる。
それでも、F1での実績が何もない新人に、伝統あるエメロードのシートを与えることを渋る
意見が多いのも事実で、アシュレイは初戦から高い成績を求められることは必至だった。
そんな途方もない重圧がのしかかる状況でも、
(絶対にやってやる!)
アシュレイの闘志は燃え上がるばかりで、早く戦いたくてうずうずしていた。
今もまだ朝もやが漂うなか、待ちきれずに起きだしてきたのだ。
急ぎ足でチームの施設へと向かう。
マシンの置いてあるピットガレージに着くと、同じく朝一で来たらしいティアと遭遇した。
まだ他に人影もない静けさのなか、しめし合わせたわけでもないのに行動が重なったことに、
トクンと小さく鼓動がはねる。
ティアは、今期からアシュレイが乗る赤色の車体を、そっと愛おしそうに撫でていた。
そのマシンと同じカラーのレーシングスーツ姿に気づくと、瞳を細めてまぶしげに眺め、
「よく似合ってる…。私たちの夢への第一歩だね」
潤むように感激した表情で手を差し伸べてくる。
けれどアシュレイは、ついにこのときが来たと熱いものが込み上げる気持ちとはうらはらに、
「まだ走ってすらいねェんだから、格好くらいでいちいち騒ぐな」
照れ隠しと開幕戦への張りつめた緊張感で、思わず彼の手を突っぱねてしまう。
ほんとは、おまえの期待に応えられるようにがんばるからって伝えたいのに。
今だってこうして、誰より早く真紅の姿を見てもらえて嬉しいのに、うまく言葉にできない。
アシュレイの大抜擢の裏では、エメロード社の御曹司であるティアが必死になって陰で後押し
してくれたことも、噂で聞いて知っている。
そんなことティアは微塵も顔に出さないけど、まだ何も成し遂げていない自分の力をまっすぐ
信じていてくれることに、内心ではものすごく感謝しているのに。
バツが悪くてそっぽを向いてしまったアシュレイに優しく苦笑しながらも、
「夢への挑戦がいよいよ始まるね。良かったり悪かったり迷ったりするときもあるだろうけど、
君と一緒ならどんな険しい道も乗り越えていけるって信じてるよ」
そう言って、こわばっていた肩を抱いてくれるティアのぬくもりが、とても心強かった。
ひとりじゃないんだと感じられて、体じゅうに力がみなぎってくる。
「…おう、俺の走りを楽しみにしてやがれ」
「ふふ、じゃあ私は、アシュレイが思うままに操れるマシンを作らなくっちゃね」
「…なら俺は、そのマシンで世界一になって、おまえを最高にわくわくさせてやる」
幼い日の約束そのままに、肩を抱く手に手を重ねて誓い合う。
今、ふたりで夢への旅路を走りだす。
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