投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
F1の新シーズンの幕開けが迫るサーキットには、そわそわ逸る気持ちを抑えきれないでいる
人々が大勢いて、その光景を目にするだけで心が浮き立ってくる。
陽が昇り、ぞくぞくと到着する関係者たち。
刻一刻と近づく開幕戦に、アシュレイも身震いするほどの高揚を感じていた。
マシン整備で慌しいピットガレージ裏のパドック広場では、各チームのスタッフが溢れ返り、
そこかしこで今シーズンの展望をにぎやかに論じている。
各種メディアやスポンサーなども入り交じるなか、アシュレイは見知った男と出くわした。
「よっ、注目のルーキー! 全身まっ赤って、遠くからでも目立ちまくりだな」
陽気な笑顔で声をかけてきたのは、カート時代からの親友で、アシュレイより2年先にF1へ
参戦している柢王だ。
若手ながら勝負ぎわの駆け引きがうまく、疾風迅雷の走りが魅力的なこの男は、近い将来に
ワールドチャンピオンの称号をも獲るだろうと目されているほどだ。
アシュレイにとっては、昔から遊びでもレースでも全力で競い合ってこられた仲間でもあり、
なにかと頼りになる兄貴分でもあり、思い描く未来を一歩先で体現している存在でもある。
そんな柢王のことで、シーズン直前に衝撃のニュースが飛び込んできた。
驚いたことに、最大のライバルチームのひとつであるマジェスティーズ・フォーミュラから
メインのレースエンジニアを自分の担当として引き抜いたというのだ。
レースエンジニアとは、レース中に高速で走り続けるドライバーと無線で交信し、最適な
パフォーマンスを発揮できるよう、瞬時の状況判断や戦略選択によって補佐する役割を担う。
狭いコックピットの中で全神経を研ぎ澄ませて戦うドライバーの、目となり耳となり、頭脳
ともなって、共に高みを目指す。
ひとりのドライバーに対し、レースエンジニアもひとりしか存在せず、まさに片腕・相棒と
呼べるほどの、密接な信頼関係の構築が欠かせない。
命の危険と隣り合わせの世界で、相互の信頼関係が戦績にも大きく影響するのだ。
そのようにチームで重要な鍵をにぎる立場にある者の突然の移籍は、通常まずありえない。
しかも、マジェスティーズのチーム代表の秘蔵とも囁かれていた人物の思いがけない離脱に、
F1界全体が驚愕を隠せなかった。
加えて、くだんのエンジニアには、ある事故から暗い憶測もつきまとっている時期だった。
その渦中の人物が柢王と連れ立っているのを見て、アシュレイの表情が険しくなる。
「…なんか知らねェけど、おまえこそヘンな噂で目立ってんじゃねーか」
(俺にひとことの相談もなく勝手に決めちまいやがって!)
柢王が先にF1の舞台へステップアップした頃から、なんだか置いていかれたような気がして
接触を避けだしたのは自分のほうなのに、理不尽に恨んでしまう気持ちを抑えられない。
でも、飄々とした態度の友人は、
「そうそう、ちょうどおまえに紹介しようと思ってたとこなんだ」
やや後ろで静かに佇んでいた細身の男の肩に、がしっと腕を回してまた向き直る。
スキンシップが大好きな褐色の腕は、くっつきすぎですとやんわり払われていたが、そんな
親しげなやりとり自体も気に食わなくて、アシュレイはさらに意固地になってしまう。
「ハッ、紹介なんかいらねー。ライバルチームに乗り換えるような奴は信用できねーからな!」
きつい言葉に柢王は頭を掻きながらも、
「まぁまぁ、俺の話も聞けって。な?」
へらりと絞まりのない笑みを浮かべている。
まいったな、という素振りで肩を竦めつつ目線を合わせて近づこうとするので、アシュレイは
うっかり気を許してしまわないよう距離を空けたまま睨みつけた。
「…なら、正直に答えろ」
「おう、なんでも聞いてくれ」
「…なんでわざわざそんな、よその奴を引っこ抜く必要があんだ!」
「なんでって、俺がこいつに一目惚れしたからさ」
「……はぁっ?! 一目ぼ…って、そ、そんなふざけた理由があるかーっ」
「そう言われてもなぁ。実際2年前から口説き続けて、やっと承諾してもらえたんだぞ?」
にやっと嬉しそうにウィンクしてくる友人に、アシュレイは空いた口が塞がらない。
正直、噂だけじゃなく根も葉もない陰口まで耳にして、すごく心配していたのに。
柢王がどういうつもりでどこまで本気なのか自分には全然わからなくて、情けなくなってくる。
うつむいて黙ってしまったアシュレイの後頭部を、力強い手のひらがポンと包んだ。
「おまえがそこまで俺のこと心配してくれてたなんてな、サンキュ」
昔と変わらず、うまく言葉にできない気持ちをちゃんと汲んでくれる親友にほっとしながらも、
「そんなんで納得すると思うなよ。そいつのこと、俺はまだ認めてねーからな!」
最後まで素直になれないまま、捨て台詞のように言い放ってその場を離れた。
*
「…なんですか、あの警戒心むきだしのサルは」
「サルって、ははっ。あいつはカート時代からの仲間なんだ。でもゴメンな、俺がちゃんと
先におまえのこと話してなかったから、あんな態度になっちまって」
「別に、気にしてません。突然の移籍で周りじゅう似た反応なのはわかっていますから」
実際アシュレイだけに限らず、F1関係者すべてが、昨シーズンまではライバルチームにいた
ふたりが今こうして連れ立っている事実に、好奇と注意の目を向けている。
覚悟して決めた道ではあるが、あることないこと騒がれるのは、煩わしくもあった。
「まぁ野次馬の奴らはともかくとして、アシュレイは昔っから正義感が人一倍つえーからな。
俺の立場や今後なんかも気にしてくれてンだろ」
悪気があるわけじゃないんだ、許してやってくれ、と人懐っこい苦笑をこぼす男に、
「そういうあなたは、そうやって人をたらし込むのが得意なんですね」
なかば呆れたような溜め息と視線が返される。
そんな怜悧な表情にも臆することなく、
「おまえも俺にほだされた?」
顔をのぞき込みつつ寄り添おうとする体を、すらりとした腕がさりげなく押し戻す。
「そもそも、あんな説得力に欠ける説明で納得させられるはずないでしょうに」
「や、でもホントのことだし。おまえに一目惚れしたのも、そこから必死に口説きまくって
ようやっと俺のモノにできたってのも、全部そのまんまだし」
取り繕うことなく言い切る男のストレートさに、気を抜くと乱されそうになる内心は伏せて、
「あなたの担当にはなっても、あなたのモノになった憶えはないですけどね」
さらりと受け流す。
そのまま颯爽と歩き出そうとする背に、めげない声が追いかけてくる。
「それもきっと時間の問題だって。まぁ見てな、信じてもらえるまで何度でも繰り返すから。
覚悟してろよ、桂花」
耳元で名を呼び、たっぷりと自信に満ちた瞳が、甘やかに紫水晶の瞳をからめとる。
一瞬、返す言葉につまった隙に、絹のような髪がひとふさ手に握られる。
「仕事上のパートナーとしてだけじゃなくて、おまえの体も、心も、この髪も、その瞳も、
全部まるごと欲しい。ずっと探してたんだ、俺と一緒に走れる奴」
真摯なささやきと、心の奥底まで射抜くほど力強いまなざしに、全身がとらわれそうになる。
(あのとき、絶望に苛まれてF1から去ろうとした吾を、引き止めたのはこの男だった…)
柢王は2年前にはじめて出会ったときから、自分の片腕になってほしいと何度も誘いにきた。
ただ桂花は、恩義のあるマジェスティーズを離れるつもりはなく、柢王の本気は感じつつも
一貫して断り続けていた。
でも、そんな折に、自らが担当していた大切なひとの選手生命が絶たれてしまう事故が…。
自分がもっと慎重にフォローしていれば、あるいは別の選択肢をドライバーに伝えていれば
事故など避けられたんじゃないかと、どんなに悔いても悔やみきれなかった。
(あの李々が、もう走れないなんて…)
ドライバーを支える役割を担うはずが、なんの手助けもしてやれないなんて。
もう二度と、かけがえのないひとを目の前で失うような思いは味わいたくなかった。
だから、この世界から完全に退くつもりだったのに。
『俺は何があっても走り続けて、必ずおまえのもとへ帰る。絶対だ。約束する』
おまえが必要なんだと、代わりはいないんだと、揺るぎない心をひたむきに伝えてくる柢王に
つかまってしまった。
この男の強靭さを信じたい気持ちと、また身近なひとが危険に晒されるかもしれない戦慄との
狭間で悩んでいた桂花を、李々の言葉が後押ししてくれた。
『私はここまで、自分の思うままに走れて幸せだったわ。あなたとふたりだったからこそ味わ
えた喜びや瞬間がたくさんあったのよ。だから、あなたの存在を求めているひとがいるのに、
辞めるだなんて言わないで』
あのとき彼らがいてくれたから、今の自分があるのだ。
(柢王とこの道を進むと決めたからには、全身全霊をかけて守って、支えて、ついていく…)
柢王と桂花、それぞれに絶対の誓いを交わし、新たな喜びと試練の道へ歩みだす。
疾風のように瞬く間に駆け抜けるフォーミュラカー―――
体の奥底にまで響き渡るエキゾーストノート―――
サーキット全体を熱くとりまく大歓声―――
モータースポーツの最高峰であるF1の世界を生まれて初めて目の当たりにしたアシュレイは、
圧倒的な音とスピードの迫力に、一瞬で魅了された。
これまで体感したことのない熱気に包まれて、大きな瞳をきらきら輝かせながら、
「うわぁ…! すげぇ…!」
と、言葉にならない感嘆の声を上げて、ただただ魅入っている。
興奮のあまり、頬までぷっくりと紅潮するほどだ。
そんなアシュレイの様子に、思いきって観戦に誘ってみたティアも胸が高鳴る。
「よかった、君ならきっと喜ぶと思ったんだ」
「おう、おまえンちがこんな面白いことやってるなんてな!」
まだ幼いアシュレイはよく知らなかったが、ティアの家は世界に名を馳せる自動車メーカーだ。
高級スポーツカーとレーシングカーのみを製造し、F1にも代々参戦し続けている。
ティアは、自社にとっての誇りともいえるF1の世界をアシュレイも気に入ってくれたことが
嬉しくてたまらない。
車とかレースにどこまで興味を持ってくれるかはわからなかったけれど、自分の大切なものを
大好きな相手と一緒に楽しめたらいいなと、今回はじめて観戦に誘ってみたのだった。
世界最速を競うサイド・バイ・サイドの凌ぎ合いに、アシュレイは一目で惹き込まれたようだ。
「はえーなぁ! かっけーなぁ!」
目の前で熱いバトルが繰り広げられるたび、大はしゃぎで体を揺らしている。
そんな幼なじみに、ティアはドキドキしながら尋ねてみた。
「ねぇ、どのチームのマシンが好き?」
ひそかに望む答えがあって、小さな手は祈るように胸に当てられている。
「う〜ん、どれもカッコイイけど…、おれはあの赤いのがいっとう好きだ!」
まさに願っていた通りの返事に、胸の鼓動がますます弾む。
「ほんとっ? あれ、ウチのチームなんだ。私もあのキレイな赤色がいちばん好きだよ!」
だって、君の髪や瞳みたいに鮮やかで…と、うっとり口の中でつぶやく。
同じものを好きと言ってくれたことに舞い上がっていると、
「よしっ、決めた! おれ、あの赤いのに乗って世界一になるっ」
力強く立ち上がって、アシュレイが宣言した。
突然の展開にティアはびっくりしたが、
「おまえンとこのチームでチャンピオンになって、わくわくさせまくってやる!」
その気持ちが嬉しくて、満面の笑顔でうなずき返す。
「うん、アシュレイなら誰より速くて強いレーサーになれるよ。それだったら私も、君の夢を
支えてあげられる最高のマシンを作って、いちばん近くで応援したい!」
たった今ひらめいたばかりの思いだが、ふたりとも天の啓示を受けたように心がときめいた。
一緒に夢を叶えるんだと、幼い手をぎゅっと握り合って約束を交わしたのだった。
*
あれから幾年―――
新シーズンの幕開けを迎える春先、とうとうF1ドライバーの証であるスーパーライセンスを
取得したアシュレイは、念願の赤いレーシングスーツを身にまとってサーキット入りした。
アシュレイが所属するチームは、名門中の名門であるスクーデリア・エメロード。
“レーシングドライバーであれば、誰しもがエメロードで走ることを夢みる”とまで謳われる
F1界を代表するチームだ。
本来であれば、それほどのトップチームがF1初参戦の新人ドライバーをいきなり起用する
など考えられないことだが、様々な要因が重なって、異例のデビューが決まったのだった。
まず一つに、アシュレイがエメロードの若手育成アカデミーの出身で、F1への登竜門である
下位カテゴリーのレースでも早くから頭角を現していた注目のホープであること。
粗削りではあるもののアグレッシブで怖いもの知らずな走りに、エメロードの熱狂的なファン
であるティフォシ達も将来的な期待をかけている。
次に、ここ数年はライバルチームの後塵を拝しており、改革が求められていること。
これまであまたのタイトルや記録を築いてきたが、近年は成績がふるわず低迷しがちだ。
勝てない時期が長引くと、ドライバーや幹部の更迭など不穏なお家騒動まで勃発してしまう。
このまま転落して取り返しのつかない事態になる前に、新しい人材を加えることにしたのだ。
ただ、各チームには2名ずつ正ドライバーが存在するが、一度に2名とも変えるのはリスクが
大きいため、1名は実力者である山凍、もう1名は勢いのあるルーキーを選ぶことにした。
実力も名声も兼ね備えた山凍がいるからこそ、もう1名は冒険できたともいえる。
それでも、F1での実績が何もない新人に、伝統あるエメロードのシートを与えることを渋る
意見が多いのも事実で、アシュレイは初戦から高い成績を求められることは必至だった。
そんな途方もない重圧がのしかかる状況でも、
(絶対にやってやる!)
アシュレイの闘志は燃え上がるばかりで、早く戦いたくてうずうずしていた。
今もまだ朝もやが漂うなか、待ちきれずに起きだしてきたのだ。
急ぎ足でチームの施設へと向かう。
マシンの置いてあるピットガレージに着くと、同じく朝一で来たらしいティアと遭遇した。
まだ他に人影もない静けさのなか、しめし合わせたわけでもないのに行動が重なったことに、
トクンと小さく鼓動がはねる。
ティアは、今期からアシュレイが乗る赤色の車体を、そっと愛おしそうに撫でていた。
そのマシンと同じカラーのレーシングスーツ姿に気づくと、瞳を細めてまぶしげに眺め、
「よく似合ってる…。私たちの夢への第一歩だね」
潤むように感激した表情で手を差し伸べてくる。
けれどアシュレイは、ついにこのときが来たと熱いものが込み上げる気持ちとはうらはらに、
「まだ走ってすらいねェんだから、格好くらいでいちいち騒ぐな」
照れ隠しと開幕戦への張りつめた緊張感で、思わず彼の手を突っぱねてしまう。
ほんとは、おまえの期待に応えられるようにがんばるからって伝えたいのに。
今だってこうして、誰より早く真紅の姿を見てもらえて嬉しいのに、うまく言葉にできない。
アシュレイの大抜擢の裏では、エメロード社の御曹司であるティアが必死になって陰で後押し
してくれたことも、噂で聞いて知っている。
そんなことティアは微塵も顔に出さないけど、まだ何も成し遂げていない自分の力をまっすぐ
信じていてくれることに、内心ではものすごく感謝しているのに。
バツが悪くてそっぽを向いてしまったアシュレイに優しく苦笑しながらも、
「夢への挑戦がいよいよ始まるね。良かったり悪かったり迷ったりするときもあるだろうけど、
君と一緒ならどんな険しい道も乗り越えていけるって信じてるよ」
そう言って、こわばっていた肩を抱いてくれるティアのぬくもりが、とても心強かった。
ひとりじゃないんだと感じられて、体じゅうに力がみなぎってくる。
「…おう、俺の走りを楽しみにしてやがれ」
「ふふ、じゃあ私は、アシュレイが思うままに操れるマシンを作らなくっちゃね」
「…なら俺は、そのマシンで世界一になって、おまえを最高にわくわくさせてやる」
幼い日の約束そのままに、肩を抱く手に手を重ねて誓い合う。
今、ふたりで夢への旅路を走りだす。
―――七月。
草原の緑が濃くなり、その上を光る風が吹き渡ってゆく
その風はかすかにひんやりとして、すでに秋の気配も漂わせている。―――夏という季
節の短い草原が 一番美しく映える月だ。
「桂花!」
草原を駆ける馬上で幼い声とともにカイシャンが笑顔で手を振る。
「カイシャン様!手綱をしっかり持ってねえと危ねえって!」
疾走する馬の背に一人で乗る子供は幼く、草原の生まれ育ちではない馬空などは、あん
なに走らせて、鞍から転がり落ちやしないかと半ば青ざめながら、おろおろと桂花の隣で
見守っている。
「・・・落ち着け、馬空。バヤン殿が並走されているから大丈夫だ」
声音は落ち着いているが、桂花も内心は もっと速度を落として走ってほしいと思って
いる。
知識として、草原の国の人間の習慣を理解している桂花だが、つくづくと思い知らされ
る。
ここは、人馬の国なのだ、と。
草原の子供は産まれて腰が据わると、すぐ馬の背に乗せられる。
両親あるいは年長の者の鞍の前に乗せられて、朝に、晩に草原を移動する。そうしてい
るうちに子供は馬上での姿勢の制御を体で覚えるのだ。
体が大きくなるころに、父親がよしと判断すれば、そのまま手綱を渡され、一人で馬を
乗り回すことをおぼえる。
しかも、その乗り方が、また尋常ではない。
木に布を張っただけの堅い鞍なので、優雅に座って馬を走らせるなどということは出来
ない。
『立ち鞍』といって、草原の人間は鐙(あぶみ)に全体重をあずけ、鞍をまたぐように
して立ったまま、馬を全速力で走らせる、という、凄い乗り方をする。
この時代、馬を農耕・運搬、移動の手段として使役することがほとんどだった大陸の他
国の人間の目に、地響きのような馬蹄の音をとどろかせ、すさまじい速度で攻め込んでく
る彼らの姿は 人と馬が一体化した怪物に映ったことだろう。
「―――桂花!」
草原の光と風を体いっぱいに受けて、馬上でカイシャンが笑っている。
笑い声が吹きわたる風に乗って草原に響く。 カイシャンは一人で馬を乗り回すことを
ゆるされたことが嬉しくてたまらないらしい。
高い丘陵がそこここに連なるが、そこに生えているのは草と低い灌木だけである。見渡
す限り地平線の草原の中を、川はきらきらと光りながら蛇行する。
水面の反射を背に受け、草原の生命そのもののような少年の笑顔が桂花に向けられる。
今は地下に眠る恋人の、かつての笑顔の面影を探してしまわないよう桂花はまぶしいよ
うに目もとに手をかざした。
陽が落ち、バヤンたちの泊まるゲルの持ち主が羊を屠り、宴を開いてくれた。
長時間馬を乗り回した昼間の疲れがいっぺんに出たのか、カイシャンは食事の途中で頭
が揺れ始めた。まだ飲み続ける気満々の男たちを とっとと見限って桂花のゲルに連れて
ゆくと、着くなり眠ってしまった。
少年の健やかな寝息と寝顔を見守りつつ、書物を広げたり、薬を調合する桂花の耳に、
酔った男たちの陽気な笑い声 羊や牛、馬たちの鳴き声がとぎれとぎれに風に運ばれて届
く。
やがて長く騒いでいた男たちもようやく寝静まった夜半、雨を伴わない雷雲がゲルの上
空に現れた。
雷光と轟音に、少年は目を覚ますどころか、かすかな笑みさえ浮かべて、深く寝入って
いる。
明かりを落としたゲルの中、桂花はカイシャンに寄り添って横になっていた。
風はゲルを包む布地の輪郭を丸くなぞるように吹き渡っては、過ぎてゆく。
(雷、風、・・・―――)
傍らに眠る少年の 守護の象徴―――
・・・穏やかな、震えるほど平和なこのひとときを桂花は何かに感謝すらしたいと思う。
そしてその直後に思い知る。
(いつまでこうやっていられるのだろうか―――)
馬に一人で乗れるようになれば、ほぼ一人前だ。
少年の寝顔を桂花はそっと見る。
(・・・ああ、大きくなった―――)
少年の成長に、残された時間の少なさに、桂花は胸に重苦しい つかえを感じる。
彼と未来に行くことはできない。それは最初からわかりきっていること。桂花に出来る
のは、カイシャンの『今』を守ることだけだ。
(もう少し――― )
時が止まればいいとは思わない。けれど、少しだけ、もう少しだけ、おだやかに過ぎて
ほしいと桂花は願う。
「―――・・・」
何度目かの雷光と雷鳴の下、桂花の感覚に 何かが触れた。
音もなく身を起こすと、桂花はゲルの上部に目をやった。ゲルの真上には換気兼採光口
としてゲルの骨組みに布を張らない部分がある。そこから空が見える。
有事の際の用心として、桂花はその上部の骨組みの部分に細工を施していた。
風に草原の草が波打つ。その草をかき分けるようにして、桂花のゲルに近づいてくる獣
がいた。
やわらかい子供の血肉のにおいが獣を引き寄せたのだろうか 雷光の下を接近してくる
のは、一頭の巨大な狼だった。 銅貨のように光る双眸はゲルの出入り口のはためく布の
奥に向けられ、ぞろりと牙の生えた口から血の気配を漂わせる息を吐いて舌が長く垂れ下
がっている。
その狼の進行方向に 音もなく上空から降りてきたものがあった。
雷光が視界を青白く染め上げる。
牙をむきかけた狼が、本能的に身を低くし、背中の毛をそそけ立たせた。
雷光の下、紫銀の双眸が光る。吹きわたる風に白い長い髪を生き物のようにうねらせて
立つ、人ならざるもの―――
雷鳴が響き渡る。
びりびりと大気が振動する中、光を失わない紫銀の双眸が狼を見下ろす。
そして、低く それはつぶやきにも似た声だったが、狼の鼓膜に雷鳴の振動よりもはっき
りと響いた。
「子供の眠りを さまたげるな。去ね」
―――狼が人の言葉などわかるはずもない。しかし狼は桂花の足元に完全に屈服した。
桂花は狼の眉間あたりに軽く触れ、行け、と促した。
狼が遠く走り去るのを見届け、身をひるがえしてゲルの中に入ろうとした桂花が、目を
見開いた。
ゲルの出入り口の布が風に大きくはためいている。
はためく布の奥に、夜具の上に座ってこちらを見ている子供と目が合った。
「・・・ ・・・カイシャン 様?」
魔族の姿を見られただろうか
しかし子供はゲルの外に立ちすくむ桂花にむにゃむにゃと言葉にならない何かをつぶや
き、コテンと横になって再び眠ってしまった。
翌朝、気持ちよく目覚めたカイシャンは 今年生まれた仔馬を見に行くというバヤンに
ついて、朝駆けに出かけた。
寄ってきた仔馬のたてがみを撫でてやりながら、バヤンの隣で さまざまな毛並みの仔
馬たちをカイシャンは面白そうに眺める。 良く走る丈夫な仔馬は草原の民の財産だ。
仔馬はじきに大きくなって戦士を乗せて走る。
「カイシャン様、昨日はよく眠れましたか? 夜中に雷が鳴ったから眠れなかったのでは
ないですか?」
「雷が鳴ってたのか?よく寝てたから気づかなかった」
バヤンが我らが王子は豪胆だ、と笑う。 雨を伴わない雷雲が出る そんな夜は、雷光
を頼りに狼が家畜を狙うのだそうだ。
「実際、昨夜はあちこちで子羊や仔馬が狼に襲われて大変だったそうです」
この仔馬たちは運が良かったのですよ、とバヤンがカイシャンのそばの仔馬のたてがみ
を撫でた。 それで思い出したのですが、とバヤンが懐を探り、昨夜世話になったゲルの
家族からもらったお守りですが、ぜひ王子に持っていてもらいたい、と素朴な紐にくくら
れた白い小さな塊をカイシャンの手のひらに乗せた。狼の骨だという。
「狼の骨は魔よけになるそうですよ。」
「・・・・・」
狼の骨をてのひらで転がしながら、カイシャンは 昨日の夢を思い出した。
(・・・不思議な夢 だった。)
―――狼を従えた、長い白い髪の、不思議な肌の色をした人が、カイシャンの名を呼ぶ。
ただそれだけの夢だったのだが
(・・・なんだか、とても懐かしいような・・・・・)
懐かしいと思ったのは、昔、一度夢で見たことがあるからだ、とカイシャンはようやく
思い出した。
小さいころ、病気で命が危なかった(らしい)時に、夢で見た。
その夢のあとで、カイシャンの病気は治ったのだ。(命懸けで治療してくれたのは桂花だ
ったのだけれど。)
あの時は、夢の中で 風に乗って空からおりてきて、怒ったような困ったような顔で、
カイシャンに何かを言っていた。
普通なら、怖いと思うのだろうけど、なぜか少しも怖くなかった。
とても きれいだ と思ったからかもしれない。
桂花と同じ、紫色の瞳だったからかもしれない。
(・・・・・もう一度 逢いたい )
カイシャンの夢の中に現れる、不思議な、―――人。
(・・・夢の中で 逢えるなら――― )
「カイシャン様―――」
名を呼ばれて振り向けば、桂花と馬空が馬を並べてこちらに向かってきている。桂花の
髪が草原の光で金の色に光る。馬空が馬上で大きく手を振っている。
バヤンがカイシャンのそばを離れ、二人の方へ行きながら何か言っている。
馬を下りた二人が、バヤンとともにカイシャンの方を見て笑った。
「・・・・・」
―――桂花がいて バヤンがいて 馬空がいる みんないる。 魔物が入る隙間なんて
ない。
(・・・でも、夢の中で 逢えるなら――― )
心の中でバヤンに謝りながら、今年生まれた仔馬のたてがみに お守りをそっと結びつ
けてやると、カイシャンは三人の待つほうへ笑って駆けだした。
こんなことを思ったのは初めてで、どう言えばいいものか吾には判りません。
吾が、あなたが思っているよりもよほど満ち足りているということを。
それが多分、幸せと呼ばれるものなのだろうと。
幸せというものがなんなのか、吾は考えたこともなかった。
それをあなたならどう表すでしょうか。心を通わせた相手といること。望まれる喜び。力を尽くし、何かを成し遂げた後の達成感。それともほかの何かでしょうか。
あなたのことだから、美味な食事と心地よい寝台があれば、それで良いと言うのかもしれませんが。
あなたが吾を天界に繋ぎ留めたことを、あなたは忘れていない。ただそれは吾にとっては、それほど意味をなさないものです。
吾にとっては、天界だろうと、魔界だろうと人界だろうとたいして変わりがない。どこでも同じです。
だから、どこにいようと構わない。
李々が姿を消してから、人界にあったのは刹那の快楽ですらない――終わることのない暇つぶしの積み重ねだけだった。
吾はいつも退屈していた。
死んでないから生きているだけだった。
だからと言って、魔界を懐かしむほど酔狂でもありません。そもそも、それほど覚えていませんし。
――ね? だから、あなたが何かを背負う必要はない。
あなたはとても手がかかる。吾に甘えて、我侭を言って、こき使ったり置き去りにしたり、吾は落ち着く暇がありません。あなたの不足を補おうと思えばこそ書庫に入り浸って知識の海に浸ることもしたし、あなたのお務めのために策略を練ったり部外秘の資料を片っ端から読み込んだり、計画を立てたりするのは結構楽しいものです。知略を尽くしてぎりぎりの綱渡りをすることは、人界では望むべくもないことでした。
あなたといると退屈しない。それが魔族にとっては、一番の褒め言葉なのだと覚えてください。
あなたといると、生きているという気がするので。
吾はあなたといるから生きている。
心も体も、満たされていて――しあわせ、です。多分。
手紙って苦手でさ。
なんかこう、まだるっこしいっていうか。面倒だろ。
改まって書くことなんかない。俺はいつだって、伝えたいことは口に出して言ってるつもりだ。
――伝わってほしいこと、って言ってもいい。
おまえは馬鹿にするけど、一応これでも、俺って王子様だからさ。確実に伝わってほしいことや誤解されたらまずいことははっきり言うし、言っちゃまずいことは言っていないつもりだ。
だからこれは、絶対におまえに伝えるつもりはないこと。
それでも形にせずにはいられないってあたり、俺もまだまだだよな。
おまえのこと愛してる。それは本当だよ。
ずっとほしかった、俺と一緒に走れる奴。俺に全てをくれる奴。
ようやく見つけたんだ、それが魔族でも構わないと俺は思っていた。
だけど――だけどさ、ほんの少しだけ。おまえが魔族でなかったら、俺はこんなにも自由ではいられなかったんだろうと思う。だからおまえにしたんだろうかと、思う。
天界人だったら、家族がいる。例え天涯孤独だったとしても、友達がいて、知り合いがいて立場があってしがらみがある。
だけどおまえには何もない。
会ったときのおまえは、本当に一人だったよな。養い親とはぐれて、飼っていた鳥は死んで。人界に心とらわれるものなんて何一つなかった。
まして天界に、おまえが気を惹かれるものなんてあるはずがない。
おまえの世界は俺だけだった。
俺は、おまえ一人だけを背負えばそれで済んだ。
一目惚れしたのは本当なんだぜ。初めて見た本当の姿のおまえは、信じられないくらい美人だった。きついところもゾクゾクした。
死なせたくなんかなかったし、俺に惚れてほしかった。どんな美人にだって、こんなことを思ったことなんかないんだぜ。いや、本当に。
おまえにはなんだってしてやりたいし、そうしてきたつもりだけど。
天界で一人だけの魔族で、おまえの周りは敵しかいなかったから、唯一の味方だった俺におまえがすがって転んで、惚れちまうのは、当然だったのかもしれない。
俺の我侭につきあってくれて、俺に振り回されてくれるおまえが、どうしようもなく愛しくて、時々少しだけ可哀想になる。自分を曲げるつもりはない俺のせいで傷つくおまえが。
足手まといになる奴がほしいわけじゃない。枷になる奴がほしいわけでもない。
俺はそういう男だからさ。
おまえは誰よりも頭が良くて、腕も結構立って、ものすごく俺の力になってくれた。
おまえに会えてなかったら、俺はあのまま猫を被って兄貴達をやり過ごすだけの男だったかもしれないな。おまえに会えたから、おまえが、おまえを守る力がほしくて、そのためなら誰を敵に回してもいいって思った。
誰に好かれなくてもいい。おまえがそばにいてくれれば。
おまえのおかげで俺は自由になれたんだ。
最後の最後でおまえを置いてってごめんな。
おまえ、どれだけ泣くんだろうな。
ただ、ひとつだけ。絶対に聞かないから、言うだけ言わせてくれ。
俺がそうだったくらい、おまえは俺といて幸せだったか?
俺がおまえから奪ったもの、おまえに背負わせたもの。それと引き換えになるくらい。
なあ。俺は、おまえを幸せにしてやれてただろうか。
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