投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
「桂花、ただいま」
窓から飛び込んだ柢王は桂花が顔を上げるより早く細い身体を抱きしめた。
心地よい胸に額をギュッと押し付け「おかえりなさい」とつぶやく桂花に柢王は更に
抱擁を強くする。
「・・・桜?」
「さっすが」
ニヤリと笑う彼は、どうやら桜の香を桂花に移そうとしていたようだ。
「満開の桜を抱えてたンだ。おまえ好きって云ったろ?」
「ええ、でも・・・あの木はうまく切らない枯れてしまうんですよ」
「ぬかりねぇ。庭師に頼んだ」
「―――――枝は処分しました?」
「蒼穹の門でな」
上機嫌な柢王の顔がわずかに曇る。
「持ち帰ってもよかったンだぜ?」
「しなくて正解です」
言い切る桂花に柢王はため息を落とした。
「でもよ・・・」
「嬉しいです。正しい判断をくだしてくれて」
「俺のモンは黙認のくせに・・・刀とか」
「己の責任を己でとるのは当たり前です」
『ですが吾の責任は貴方にまわってしまう』と桂花は無言で語る。
それでも柢王の気持ちが嬉しくないわけなどなく、桜をも黙らす艶やかな笑みで恋人を包み込んだ。
「さ、桜の香りも満喫したことですし、そろそろホコリを落としてきてください」
「えーーー、もう少しこうしてようぜ」
「汗くさいですよ」
「そうかぁ?」
「ついでに冰玉も洗ってやってください」
グルリと自分を見回す柢王の甘え巻きつく腕を外し、呼び寄せた冰玉を押し付けた。
窓越しに纏わりつく冰玉とじゃれ合い泉に向かう柢王を見つめ、桂花は桜の香の残る身体を抱きしめる。
桜の香は好きだ。
だけど今はその香すら邪魔になる。
数刻後には跡形もなく塗り替えられるだろう喜びと消え行く香を慈しみ、桂花は静かに目を閉じた。
―「いっぺん、桜の木の下に埋まってみますか?」
人間界の桜を眺めながら、柢王は、天界にいる相棒の言葉を思い出していた。
あれは、いつだっけ?
思い出せねぇな。
その時の表情や、声はすぐに浮かんでくるのに、原因は思い出せない。
ま、いっか。
なんかで、あいつを、恥ずかしがらせた時だ。
いつもは、青白い毒舌も、そんな時は、この桜の花のように染まって…
何度でも聞きたくなるんだよな。
その時の表情ときたら…
頬が緩むのがわかる。
桜を眺めながら、にやけてるなんて、誰もいないとわかっていても、
辺りを見回してしまう。
相変わらず、群生する桜の花が、まるで雲のようにたなびいているだけだった。
一斉に咲き乱れる姿は、妖しく美しい
まるで、桂花みたいだ。
あぁ、そうだ。
―「あなたが養分の桜なら、吾が大切に育てます」
なんて言うから、桜なんて勝手に、咲くんじゃないかと言ったら、
「桜は、少しの傷にも弱い、手のかかる植物なんですよ。
だからこそ、咲き乱れる姿は美しいんです」
人間界の桜を懐かしく思い出すように、桂花は遠い目をしていた。
危ないところだった。
任務の途中で、ここに立ち寄ったのは、あまりにも桜が綺麗だったので、
この桜を桂花への土産にしたら、喜ぶかなと思ったからだ。
桜を、手折ったりしたら、桂花を悲しませるところだった。
風に乗って、微かに春の甘い香りがする。
―もちろん、桂花には、俺が養分になったら困るだろうことを、
寂しさを吹き飛ばすくらい、しっかり教えたけどな。
さっさと任務を済ませて、桂花のそばに帰ろう。
それが、一番の土産に決まってる。
自信ありげに柢王は笑って、最後にもう一度、満開の桜を見上げた。
風に吹かれて、桜がひらひら舞い落ちる
その中の1枚が、柢王の服にくっついて
天界で、桂花に見つけられ、
また、寄り道してましたね
と、軽く睨まれて、
桜の話をしたら、
気持ちだけで吾はうれしいですよと
微笑うのが愛しくて
柢王は思わず、桂花を抱き寄せた。
そんな日常が、薄紅色。
今から二年ほど前、江戸で美少年が演じる若衆歌舞伎が流行ると、男性の間でたちまち美少年趣味が生まれた。
その流行りにのり、客と買われた少年の密会のために作られた場所を「陰間茶屋」という。
陰間とは本来、歌舞伎役者の修行中である、「影の間」をさす言葉だったのだが、やがて役者の副業だけでなく、売春専門の男娼があらわれると「陰間」はもっぱら男娼を表す言葉となっていった。
『冥界茶屋』と名付けられたこの建物も、数ある陰間茶屋のひとつである。この界隈でもっとも美しい男娼がいると評判で、いちばん人気の陰間を相手にする客のみ、他に類をみない決めごとがあった。
無色透明なびいどろの、吊り行灯がふたつ。
行灯とは言っても、庶民が使用する魚油を用いるものとは異なり、中にはほっそりとした蝋燭が立っていた。
それだけでもぜいたくだというのに、行灯には松に楼閣が配され、その裏面には花卉文を加飾してあり、吊り紐は紫水晶や玉髄などの玉をちりばめた、手の込んだ細工であった。
その下で男が、吉原格子に腰を落とし、通りを行き交う人々を見下ろしていた。
浅紫に染められた、異国の衣をまとう姿。全身のどこで区切られているのか、あいまいなそれは、長い袖が時おり吹く風になびいている。
形のそろったヒスイ、コハク、サンゴにメノウの髪飾りがあしらわれた髪は、一部がかるく結ってあり一本簪で留められていた。
男娼であるこの美しい男。彼は初めから体を許すつもりなどなく、そしてそれが許される唯一の陰間『桂花』だった。
「う・・・・」
つらそうなうめき声に振りむくと、うつぶせになったままの僧侶がこちらの方へ手を伸ばしている。
「斯様なところへ足を運ぶひまがあるのでしたら、修行をされた方が・・?」
高僧相手に修行が足りぬと辛辣な台詞を吐いた麗人は、呼鈴を手にとる。
「御仏に仕える御身、これ以上吾につきまとえば、儚いものとなりますよ・・・ご自愛なされませ」
言葉と裏腹な流し目を餞別代りにくれてやると、鈴を鳴らして終了の合図をおくった。
指一本触れることすら叶わなかったというのに、僧侶は恍惚とした表情で引きずり出されていく。
やっと一人になった桂花はイラつく気持ちを鎮めようと煙管に手を伸ばし・・・・やめる。
「李々・・・」
大切な大切な人の名。穢れたこの場所に、清浄を取りもどせる気がして、日に数回くちにしてしまう。
「生きて再び会える日は来るのかな・・・」
親のような、姉のような存在だった人。彼女もまた―――――吉原に囚われている。
いきなり戸が開かれたと思いきや、ひとりの男が敷布の上へと転がされた。
「この男は?」
「外で寝ていたのでな。この男、かなりの上客となろう」
怪しげな笑みを浮かべたのは「冥界茶屋」の主、教主である。
「これだけ酔いが回っているなら、懐を失敬して放っておけばよろしいのでは?」
「その場しのぎの儲けで満足できるか?こやつを常連にするまでよ」
ホホホと、わざとらしく声をたてて笑いながら、教主は部屋を後にした。
男は泥酔のようすで身動きしない。
「運の悪い男だ」
桂花はフッと息を吐き、ふたたび煙管に手を伸ばしたが、やはりやめる。
「吸えばいい、俺に遠慮は無用だ」
ハッとしてふり向くと、転がされていた男が敷布の上であぐらをかいていた。
「お前!」
ニヤリと笑った男に桂花の顔がこわばる。何の構えもないのに隙がない・・・ここは慎重に事を運ばねば。
「旦那・・・斯様なところは初めてで?」
「ああ、でもお前を抱くための決まりがあるのは知ってるぜ。有名だからな」
そう、桂花を相手にするには一つだけ掟がある。吉原ほど手のかかる決めごとや、大枚も時間香も必要ないが、やはりそれなりの金を積まねば桂花に目通りすることは叶わない。
たとえ部屋へ通されても、そこで簡単に彼を抱くことはできない。桂花と勝負し、腕ずくでものにできた男だけが、思いを果たせるのだ。
「自信がおありのようで」
「まぁな、お前の『初めての客』になってやる」
かすかに眉を顰めた桂花だったが、ゆっくりと胸元に手を差し入れると、挑発するかのように自らはだけて見せた。
「面白いことをおっしゃる」
その目が細くゆれる行灯の火をとり入れ光った瞬間、あぐらをかいていた男が飛び退いた。
重い鞭の音を追うように、ヒュウと鳴った口笛。
「ンな所に物騒なモンかくし持ってんなよ!」
つぎつぎ振り落とされる鞭をよける男は軽業師のように身軽だ。
それまで相手を追っていた鞭を置くと、桂花は微笑を浮かべ敷布に横たわる。
「おい?」
「あなたのような方は初めてですよ。とても吾の敵う相手ではない」
「あ、そお?分っちゃった?」
(馬鹿な男だ)
心で罵りながら、結った部分の髪を下ろそうとした桂花のうでが、いきなり掴まれそのままねじり上げられた。
「っ!」
痛みに耐えかねた桂花の手から、簪が落ちる。
「こんなもんまで仕込んでるとはな。こいつで喉元狙われたらイチコロだ」
桂花が髪を下ろすしぐさに見せかけて引き抜いたそれは、ただの簪ではなく、琉球で「ジーファー」と呼ばれている護身武器だった。
「俺の勝ちかな」
「退け!」
「シ、大声出すなよ。や、耐えられないほど良かったら我慢しないで聞かせてくれてもいいけどよ」
「ふざけたことを!」
男はもがく桂花の首筋に顔を埋める。
歯をくいしばっているその唇に指をすべらせると、すかさず牙をむく麗人。
「気性の荒い美人も好みだぜ」
「いやだっ」
「俺の名は柢王。甘い声で呼んでくれ」
どこまでも軽薄な口調だったが、その目は獲物を捕らえた獣のように鋭く桂花を見下ろしていた。
びゅう、と強い風が舞いこみ揺れる行灯。
ゆら。ゆら。ゆら。
それに合わせて二つの影が、伸びたり縮んだり。
観念した桂花がそれを目で追っていると、大きな手で視界をふさがれた。
夜陰を這う衣擦れの音。
ゆるやかに忍び込んできた手を拒絶しても、次には強引な態度で押し入ってくる。
自分の領域に土足で踏み込んできた男の背中に爪をたてながら、桂花は意識を手放した。
「ほら」
口から紫煙を吐きながら煙管を差し出す柢王に、起き上がることもできない桂花が横になったまま首を振る。
「なんだよ、吸えないわけじゃないだろ」
「願掛けで・・・・会いたい人がいる」
疲労で、抵抗する気にもなれない。
「なにっ!?決まったやつがいるのか!?俺が調べさせた資料にはそんなこと―――」
興奮して大声をあげた柢王が、口をあけたまま固まる。
「調べさせた?」
問うと、彼はくやしそうに舌打ちをして口を割った。
「いつもそこの窓から、通りを見下ろしてるお前に一目ぼれした」
「は?」
「で、調べさせたら、お前はここにきてから客の相手をまともにしたことがないって知って、慌てて来た。間に合ってよかったぜ」
「来た?来たって・・・あなたまさか」
「演技は役者並みだろ?」
「酔った振りをしていたって?」
「俺めったに酔わないし」
強いもんなー。と、言いながら桂花の体にすり寄ってくる。
「・・・・会いたい奴って?」
「恩人・・・」
「ただの恩人なんだな?色とかじゃないな?」
「フ・・・ええ」
柢王は、桂花の体を起こし自分に寄せると、煙管をムリヤリ彼の口に突っ込んだ。
驚きむせる細い背をたたいてやると、桂花は目に涙を浮かべながら柢王をにらむ。
「お前の会いたい恩人って、吉原にいる李々か?」
「!?・・・なぜそれを」
「調べさせたって言ったろ。分かった、俺が会わせてやる」
「え?」
「あと、お前の身請けもする」
「そんなこと・・・・無理だ」
不意に顔色を変えた桂花は、飾られていた瓶細工を手にとった。そのひょうたん型のびいどろの中には、手まりが入っている。
どのようにして手まりを入れたのか見当がつかず、柢王は桂花から取り上げたびいどろを揺らした。ころころと中で転がる手まり。
「どーなってんだ?」
「それは、中身を抜いた状態の手まりを畳んで、びいどろの中に入れるんですよ」
「中身?」
「ええ、その際、糸で手まりの口が開くようにしておいて、そこからもみ殻や小豆などを詰め込むんです」
「めんどうだな」
桂花は軽く頷いてつづける。
「最後は折箸で糸をたぐり寄せるようにして、手まりの穴をふさぎ、形を整えて完成です」
「なかなか手が込んでるな、お前のものか?」
「いいえ、ここにあるすべてのものは教主のものです・・・・吾も含めて。吾はもうここからは出られない、その手まりと同じ」
パリン、と砕け散ったびいどろに、俯いていた桂花が顔を上げる。
「同じだって言うならお前も自由だ」
壁に当たり弾かれた手まりが、柢王の手元に転がりすくいとられる。
「俺がここから出してやる」
「あなた・・・一体、何者なんです?」
行為の最中、いつものように呼鈴が鳴らないことを訝しんで、様子を見に来た男たちをあっという間に伸して縛り上げると、別の部屋へ放り込み、とうとう出てきた教主までも倒してしまった柢王。その間、逃げることもできたのに、なぜか桂花は彼を待ってしまっていた。
「紀伊國屋蒼龍王って、知ってるか?」
「もちろん。たびたび吉原を貸し切る大金持ちの馬鹿商人でしょう」
紀伊國屋蒼龍王は、材木で巨万の富を築いた天下の商人。そして、その紀伊國屋と並んで財を成したもう一人の豪商、奈良屋洪瀏王。
二人は、互いの財力を見せつける豪奢な遊びとして、大門を閉めさせ他の客の出入りを禁じ、吉原を貸し切ってしまったことが何度かある。
「俺の親父だ」
「えぇっ!?」
「俺は三男で、親父の金とか店とか継ぐ必要もないから、自分で道場 兼 護衛所をやってんだけどな。この前、道場に来たやつに残った富くじを強引に買わされたんだけど、そいつが大当たり♪しちゃって、まー使い道に困ってたっていうかなんて言うか。だからお前を見受けしようかとv」
「・・・くだらないウソを」
「や、ホントだって。っていうか、どっちを信用してない?親父の方?富くじ?」
「両方ですよっ、バカバカしい。どうせつくならもっとましなウソをつけばいいのに」
一瞬でも、信じた自分がはずかしい。
「・・・・・ま、信じなくてもいいけどな。」
苦笑して覆いかぶさってきた柢王が、桂花のみだれた髪を梳く。
「それで?いつ吾を見受けしてくれるんです?」
「なんだよ、信じてないんだろ」
「ふふ、信じてみてもいいかな・・・あなた、よくわからない人だけど」
「ばっか、こんな分かりやすい男はいないぜ?おまえが欲しい。それだけだ」
柢王はそのまま細い首筋に吸いついて、満足そうな笑みを浮かべた。
「よし。印もつけた。もうお前は俺のもんだ」
やることがあまりにも幼稚すぎて、桂花は声をたてて笑った。
今日。
たった数時間前に初めて存在を知った男。
けれど、桂花はこの男に急速に惹かれている自分を認めざるを得なかった。
運命の相手だなんて、今はまだ言わないけれど。そういう出会いもあるのかもしれない。
その日を境に、冥界茶屋から桂花の姿は消えた。
注意! この小説は、遊郭を舞台にしたパロディです。
桂花は散茶女郎(中級の遊女)、柢王はそのお客です。
この設定がお気に召さない方は、すみませんがお読みにならないでください。
開け放した窓に切り取られた夜の向こうから、白い薄片が舞い込んできた。
「散り時か」
低い呟きに、思いがけず声が返る。
「咲いた端から散っていきますからね。お武家さまが潔いと尊ぶ所以でしょう」
緋襦袢を肩に引っかけただけの婀娜っぽい姿で、白い髪の散茶が長煙管に手を伸ばしていた。
火鉢にかざして吸い口を唇に含み、火がついたのを確かめてから、すいと情人に差し出す。
受け取った柢王は桂花がしたように煙管をくわえ、煙を吸い込んで満足そうに吐き出した。
「散ったら困るんじゃないのか? おまえたちは、さ」
「お生憎。お客を呼び込む手筈に、なか(吉原)が抜かりのあろうはずがありんせんえ?」
柢王が嫌う花魁言葉で、桂花はむき出しの両腕を柢王の肩に回した。
後ろから頬をすりよせるように体重を預けてくる敵娼(あいかた)の、手練手管では説明しきれない心安い仕草に、柢王は頬で笑う。
桜の名所は数あれど、ことに普段は桜のない遊郭吉原の、盛りの時期だけの花は、大門をくぐる口実を男たちに与えてくれる。遊里と言えば柳、とは大陸の影響だが、不夜城吉原を一層にぎやかす大役は、そのためにこの時期だけ余所から持って来られる桜にとっても、決して不足ではあるまいと柢王は思う。
いや――他の地であれば主役になれようものを、大門の中にあっては引き立て役に甘んじなければならないのだから、桜にとってはやはり役不足だろうか。
「月に叢雲、花に風・・・」
ひらひらと、桜の花びらが風に舞っている。強い風に淡い色の塊が崩され、散っていくのが目に見えるような気がした。
「どうしたんです? 今日はずいぶんと風流ですね」
桂花が耳元で笑う。
「あなたでも、花が散るのは悲しいと思うんですか?」
「俺でも、散らないでほしいと思う花はあるさ」
耳を掠める唇を己のそれで掠めると、それは酒の味がした。
「こら、手酌で飲むなよ」
杯を差し出せば、丁寧な所作でそれが満たされる。徳利を奪って桂花の杯も満たしてやり、ついでのように柢王は、掌に落ちた花弁を滑らせた。
「桜の酒ですか」
いただきます、と桂花は両手に持った杯を一息に空ける。
「お、いい飲みっぷりだな。もう一杯」
紫水晶の眼差しが、再び満たされた杯に、次いで窓の外に向かって動いた。
「あなたの分の桜が飛び込んできてくれませんね」
「いいさ。俺が酔ってくれないのが判ってるんだろ」
柢王は手を伸ばして窓を閉めた。むき出しの肌を打っていた風がやむ。
「俺は花では酔えない」
それ以上の言葉を言う前に、唇がふさがれた。
甘い香りが微かに鼻に届く。そして人の気配。
数日続いた重い会議、そして書類の山。横で手伝ってくれている桂花も心配するほどの疲労がたまっていたらしい。いつもより長く寝すぎたのと桂花から報告で、使い女達が気を利かせて甘い飲み物を用意してきたのかとティアは一瞬思った。
しかし十重二十重と張り巡らされた結界、誰一人入れるはずがない。自分が許可しているのは…自分の部屋に自由に入れるのはたった一人だけだ。
「そこにいるの…アシュレイ?」
「あっ!! ゴメン…起こしちまったか?」
「ううん大丈夫。もう起きる時間だったし、少し余分に寝ちゃってたかもって思ってたから」
身体を半分起こし、寝台の上から声のするほうへ視線を向ける。
アシュレイも、まだ早いからもう少し寝ていろと甘い香りのするマグカップをベッドサイドのテーブルに運び、チョコンと寝台縁に腰を下ろす。
「ね、何かあったの? こんな早い時間に君がここにいるなんて…。人界で……」
「いや、毎日深夜までの会議でおまえが疲れ切ってるって──────お前の秘書から連絡を受けてっ…」
酸欠の金魚のように口をパクパクさせて、しどろもどろに桂花から連絡を受けてこちらに様子を見に来たことを報告するアシュレイに、ティアはにっこりと笑みを浮かべて、両手を広げ自分のところに来るように仕向ける。
が、頬を真っ赤にして視線を外し、サイドテーブルに置いてあったマグカップを物も言わずアシュレイはティアの方へ渡す。
「え? 何?」
「いいから飲め」
濃く甘い香りが寝台中に広がる。ティアはゆっくりとカップを受け取り一口、口に含む。
「甘いね」
「そーか、お前用に作ったって言ってたから甘いんじゃねぇのか?」
熱くなかったか? と、猫舌なのを知っているので心配しつつも口に含めたことで少しは冷めたのかなと安心し、桂花から『薬だ』と聞いてきたので苦いのではないかとハラハラしていたが、ティアの一言でホッとしながらアシュレイはティアの方を向く。
ティアの方も用意してくれたのは桂花なのだなの言葉から取れるが、アシュレイに何も言わない。二人が自分のために気を使ってくれていることがありありと伝わってくる。
「で、アシュレイ。今日は一日ここにいてくれるの?」
霊力でカップをテーブルに戻し、そのままアシュレイを寝台へ引きずり込み、ぎゅうぅぅぅっとアシュレイの感触を全身で感じ取るように抱き締める。
アシュレイも抵抗することなくティアにされるがままになっているが、無情な一言がティアの耳に届く。
「悪ぃな、直ぐに戻んねぇと。黙って来ちまったからな」
部下を放り出してきちまったし、今回はお前の顔だけ見に来ただけだ と、苦笑いを浮かべるアシュレイにティアは、離すつもりはありませんとばかりに更に力を込めて抱きつく。
「な、あんまし無理すんなよ。お前…守護主天は1人しかいねぇんだし、代わりは誰もできねぇんだから」
ティアの髪を優しく撫でるアシュレイにうっとりするが、抱き締める腕の力は緩むことはなかった。
「ほら、お終いだって」
ポンポンッとティアの肩を叩き無理やり引き剥がすと、アシュレイはいつもの如く窓から出て行ってしまった。
「ありがとう、君のお陰で嬉しかった」
「そうですか? それは良かったですね」
「それにしても、あの甘い飲み物はなんだったの? 桂花」
「ホットチョコですよ、セミスイートチョコ」
ニヤッと笑う桂花に、ティアは一瞬考えを廻らし今日が何の日か思い出す。
「本当にありがとう、きっとアシュレイは気付かなかったと思うよ。──柢王にも用意したの?」
「もちろん、特別なものをね」
今日の書類はこれです と、机につっと山積みの書類を渡し、午後の会議前に片づけるべくサラサラとティアはサインをし始めた。
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