投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
ティアが八紫仙に連れられ会議へ向かったあと、彼の部屋でひとり暇を持て余していたアシュレイが、何気なく机のいちばん下の引き出しをあけると、平たい紙の箱が入っていた。
何が入っているのだろうと、遠慮なくあけて、首をかしげる。
「なんだ?これ・・・」
中には透明なファイルが、数枚重なって収められていた。
取り出してみると、チョコレートかキャンディーが包まれていたであろう銀の紙が、きれいに皺を伸ばされ正方形の状態で挟まっている。
そのすぐ下に、ティアの字で、なにか書いてあった。
『アシュレイからもらったチョコレート』
「・・・・は?」
わけが分からないまま次のをめくる。
『アシュレイと交換したチケット』
「なんだ?」
次のも、そのまた次のも、ゴミとしか言いようのないものがファイルされていた。
「なんだよコレ・・これじゃあ俺がティアにゴミしかあげてないみたいじゃないか」
柢王が居たら「 問題はそこかっ!? 」と突っ込まれるであろうアシュレイのズレた感覚に、この後ティアは助けられることとなる。
会議が終わるまで待っていると言ってくれたはずなのに、大急ぎで戻ってきた時、部屋に期待の笑顔はなかった。
「え・・・・帰っちゃったのアシュレイ・・」
うるさい八紫仙の言うこともガマンして聞いたし、上の空にならないよう部屋で待っているアシュレイのことを考えないで頑張ったのに・・・。
「退屈だったんだろうな・・・お菓子だけじゃなくて動物の写真集とかも用意しておけば良かった」
大きな椅子に体を預けガックリとうなだれていると、いきなり突風が吹いて、書類を数枚持って行かれてしまった。
「あぁっ、窓が開いてたのか」
しゃがみこんでそれらを拾い集めていると、見覚えのある靴が視界に入る。
「アシュレイ」
「会議終わったのか」
「うん・・帰ったんじゃなかったの?」
「ちょっと出てた」
一緒に書類を拾い終わったアシュレイが、ポケットからなにやら取り出して、ティアに手渡した。
「なに?」
「やる」
一瞬、泣きそうな顔をしてから、ティアは結んであるリボンを外して丁寧に包み紙を開いていく。
「・・・その紙とリボンは捨てろよ」
「えっ・・・・・わかってるよ?」
ギクリと止まった指をすぐに動かしながら、ぎこちなく笑ったティアは中身を見ると声をあげた。
「わぁっ!香袋だね!?」
「気に入ったか?」
「うん!ありがとうアシュレイ!」
淡いクリーム色をしたレースの袋は、香り玉を入れられる。
「でもなんで?」
誕生日でもないのにアシュレイからのプレゼント。不思議に思ったティアが問うと、アシュレイは正直に、勝手に引き出しの中の箱を見たこと話した。
「や・・・やだ、な、見たの?アシュレイ・・」
めまいを覚えてふらついたティアはその場に座り込んでしまった。
(どうしよう・・・変なことしてるのバレちゃった・・でも・・それなのにプレゼントくれるって・・・?)
青ざめたティアの肩をポンポンとアシュレイがたたく。
「大丈夫だって、誰にも言わねぇよ。うちの使い女にもいるぜ、きれいな柄の包装紙とか空箱とか記念のチケットとか捨てられないやつ」
「えっ?・・うん、そう!私も捨てられないんだ!」
「でもあれは捨てろよ。食いモンの包み紙やらケシゴムのケースやら。俺がお前にゴミばっかやってるみたいじゃんか」
「うん。わかった・・・それでこんなステキなプレゼントを用意してくれたの・・・」
ホッとして笑顔を見せたティアにアシュレイが頭をかきながらつけたす。
「まあ・・さ、お前はなかなか自由に出歩けない身だから、ああやって想い出のチケットをとっておくんだろ?だから・・・やっぱりチケットはとっといていい。俺が天界一の強い武将になったら、お前の護衛して色んなとこ連れてってやるからな」
「アシュレイ・・・」
今度は本当に涙ぐんで、ティアはアシュレイの体にしがみついた。
「ありがとうアシュレイ、ありがとう・・・大好きだよ」
アシュレイの顔に頬擦りしたドサクサにまぎれ、ぷにぷにのホッペに唇を押しつける。
「わーかったって、くすぐったいだろ、こら、ティア離れろって」
「本当に大好きなんだ」
「そうかよ」
みんなの人気者のティア。
きれいで頭がいいティア。
誰にでも平等に優しいティア――――――でも本当は平等じゃない。
彼が、ほかの誰より自分のことを、優先してくれていることが嬉しい。
「ほら、いいかげん離せ」
笑いながらやわらかな金の髪をクシャッとして、いつまでもしがみついているティアを剥がすと、アシュレイはさっきのファイルを手にとりチケットだけ抜き出して他のものをあっという間に燃やしてしまった。
「あーっ!?」
「・・・なんだよ、分かったって言ったろ?」
「・・・・・そうだけど・・」
アシュレイが帰ったら、箱に結界を張って別の場所に隠すつもりでいたのに、せっかくコツコツ集めていたティアの宝物は、想い人の手によって、跡形もなく消されてしまったのであった。
(でもいいや。いちばんの宝物は、きみ本人だもの)
その笑顔が見られるだけで、幸せになれる。
これからさきも、ずっと。いちばん近くにいたい。
残ったチケットを手に、ティアは想い人に向かって微笑んだ。
「お疲れ様でーす」「お疲れーっす」
放送が終了したスタジオはホッと緩んだ空気が流れる。
スタッフ達はそれぞれの持ち場から三々五々片付けのために散っていった。
本番中とは打って変わって緩慢な動作でスタジオ内を交差するスタッフ達の間を、ほっそりとした肢体が流れる風のようにすり抜け、スタジオを出て行った。
「お疲れー!」
後ろから軽やかな足音と共にポンと肩を叩かれた。誰か、は振り向かなくても分かるが、桂花はため息と共に仕方なく振り向いた。
「お疲れ様です」
予想通りディレクターの柢王がニコニコと立っていた。
「いやー、今日もばっちり、完璧だったぜ、桂花。さっすがだな。ティアがいなくてもお前一人で番組成り立つじゃん」
「あの人のあの行動は今に始まったことじゃありませんから。誰だって慣れます」
桂花は素っ気なく言い、ついでにいつの間にか肩に回されていた腕をぺっと払い落した。
氷の方がまだ温かみがありそうな対応にもお構いなしに柢王は上機嫌で再び喋り出した。
「そっか?ま、お前が慌てたところって見たことないけどな。いつだったかカメラ担いだまま川ン中入ったアシュレイ追ってティアも水ン中入ったはいいけど溺れかけて。それがばっちり生で流れちまった時だってお前慌てず進行したじゃんか。あいつ、泳げないくせにさー、アシュレイのためなら文字通り火の中水の中なんだからな」
「彼ならカメラ捨ててでも助けるのは分かっていましたから」
「そーそー。本来なら上から怒られるところだったのが、溺れた拍子にいつの間にか手に犯行の証拠品握っていたんだよな。それがまたスクープになっちまったのと、お前のフォローのコメントが効いてお咎めなしになって。あいつら、わざわざネタ拾いに行かなくても存在自体がネタなんだよな」
桂花はヘラヘラ笑っている柢王を冷ややかに一瞥するとさっさと歩きだした。
「あ、待てよ、桂花!」
柢王が慌てて後を追った。
廊下を行き来するスタッフ達の会釈や挨拶に軽く手を上げて返しながらも、柢王はなおも喋り続ける。
「お前、最近忙しいじゃん?ちゃんと息抜きしろよな」
「体調管理はちゃんとしていますよ。誰かみたいに底なしの体力があるわけじゃないことくらい自覚していますから」
「俺だって消耗するぜ、たまには。だからお前で充電しようとしているわけで」
「吾は充電器じゃありません」
報道センターに入り、自分のデスクに着くなり桂花は帰り支度を始めた。
「あっ、もう帰る気かよ。なぁたまには飲みに行こうぜ。最近全然行ってねーじゃん」
柢王は桂花の鞄を取り上げた。
「またやってますねー」
「いっつも振られるのに懲りない奴だよな」
見慣れた光景にスタッフ達が笑い合う。他の番組の人間も笑いながら眺めていた。
桂花は無表情を通し、柢王は半ば呆れているギャラリーに軽口を返している。
その隙に桂花は鞄を取り返して報道センターを出たが、エレベーターで再び柢王が追い付いてきた。
「本当に冷てーな。置いて行くことないだろ」
「一緒に帰る約束なんかしていないでしょ」
「俺はお前と一緒に帰りたいの」
柢王はエレベーターの回数表示を見つめたままの怜悧な美貌をじっと見つめた。桂花はちらりと視線を寄こして、また視線を戻した。
「最近、飲み会にお忙しいんじゃないんですか?女子大生やOL相手ばっかりの」
「あれは単なる情報収集だぜ。情報だってタダじゃもらえないんだ。俺はお前がいるから気が乗らないけど、メンツが足りないって言われるし…」
「まったくどんな情報なんだか」
「すぐにはニュースにはならないけど、情報は色々ストックしておかないと。どこでどう繋がるか分からないわけだし。ほら前だって、俺が六本木のクラブで掴んだネタ、議員の収賄と繋がって話題になったじゃん」
「次はどんなスクープを持ってきてくるんでしょうね。そのうち社長賞でも、もらえるんじゃないですか?」
「社長賞なんかいらねーよ。俺はお前に認めてもらえる仕事ができればそれでいいんだ」
「別に認めてないわけじゃ…」
桂花は小さな声で言った。
これでも日本一の高視聴率を誇る報道番組のディレクターである。話題に対して目も鼻も利く。取材の目筋も良い。編集会議でも番組中でもさり気なくチームを引っ張る頼れる男なのだ。
普段はただのチャラ男に過ぎないが。
いつも若いスタッフと一緒に小学生のように騒いでいるくせに、何かの拍子に桂花に見せる温かくて力強い視線が、無言で励ましてくれる。色々なマイナス感情が誘蛾灯に群がる蛾のように纏わりつき、心身を食い尽くされそうになるこの世界で、彼はよすがとも言える存在になっていた。
…なんてこと、口が裂けても言えないが。
とは言え、この男は桂花のそんな心中をとうに見透かしている節がある。腹の立つことに。
そんな時、彼のことが少し苦手になる。
どんな顔をして良いか分からないから、桂花は俯かざるをえなくなるのだ。
そんなところ、誰にも見せたことがなければ自身でも見たことがない。
彼と出会って知らない自分がどんどん出てきてしまうので、時々自分が怖くなる。
知らない自分を、自分は制御することができるのだろうか?
制御できなくなったら、この人は手に負えなくて去ってしまうのではないだろうか?
ほら、また思考が意図しない方向へと流れてしまった。
無意識にそんな風になってしまう自分が不安になるし、腹立たしくもなって嫌になる。こんな時は一刻も早く離れたいのに、この男は素知らぬ顔をして桂花の傍にいる。
振り回しているようで、自分が振り回されているのだ。
愛おしくて堪らないのだ、と雄弁に語る目で桂花を見ているのが分かる。
早くエレベーターが来てほしい。胸が苦しくて堪らないから。
それなのに行先回数は相変わらずノロノロと動いている。こんな時に限って利用者が多い。
無言でエレベーターを睨んでいると、背後から声が掛った。
「あっ、柢王、何してんだよ。もう行くぜ!」
柢王がギクリと体を強張らせた。
振り向くと柢王の同期の男性2人が廊下の向こうから手を振っている。確かバラエティ番組を担当していた。
柢王が妙にギクシャクとした動きで振り向いた。
行先表示は一つ下の階を示している。
「主催が遅れてどーすんのよ」
「今日は美人CA勢ぞろいなんだろ?一段と期待できるよなー」
「夜間フライト、行きませんか?とか言われちゃったりしてー!」
絶妙なタイミングで現れ、勝手に盛り上がっちゃっている友人達を、柢王は引きつった笑顔で見つめた。
チーンと軽やかな音がして、エレベーターが到来を告げた。
柢王が慌てて振り向くと桂花はすでにエレベーターに乗っていた。
「け、桂花っ、これは…」
「世界の果てまで飛ばしてもらってきて下さい」
桂花は1階のボタンを押した。
「今夜は帰って来ないで下さいね」
にっこり笑顔の桂花を乗せたエレベーターは柢王の鼻先で重い扉を閉めてしまった。
柢王は呆然とエレベーターを見つめた。
今夜は約2週間ぶりに侘しく自分のマンションに帰宅しなきゃならないらしい。
…自業自得だけど。
2人が秘密の交際を始めて、まだ間もない頃のお話…。
―――『それ』は、長い間 ただ 漂っていた。
・・・・・眠りを享受し、 ただ 押し流されるままに 出口のない あたたかな場所を
ただ 循環していた。
・・・ただ、廻りつづけていた。 死のようにどろりとした まどろみは 『それ』を
包み込み、心地よい一定の振動を 繰り返しながら 循環する。
・・・ただ、ときおり訪れる 数瞬の意識の目覚めの中で『それ』は 少しだけ 世界を
認識 する。
はるか先に 水面が見える。 波打つ光の中に 何かがあるのだが 『それ』には
わからない。
何かが聞こえるような 気がするのだが、 水に阻まれて、ぼんやりとしか 聞こえない。
ひどく 深いところに いるのだと 認識する。
そして それもまた、 眠りの流れに 押し流される。
循環を繰り返す うちに この閉じられた 海の 中(なめると塩辛い味がしたから)に
は規則正しく律動する いくつもの道筋が あることを知る。
幾度も通り抜ける 脈打つ道を 束ねる 太陽の中が 結構気に入っていた。
道は多岐にわたっていた そしてどんな 細い道筋 でも 『それ』は 難なく
通り抜けた。
何千回、何万回、何億回 繰り返し 循環する うちに 『それ』は、すべての道筋 を
覚えてしまった。
―――ときおり、海は ひどく 熱を 孕むことがあった。
そんな時、『それ』の眠りの ヴェールは薄くなる。 そんな時 何かが見える気がし、
ほとんど感じることの できない 体の感覚が、 ・・・どこかに、手や足が ある気がした。
手を伸ばせば、そこにある脈打つ太陽や、海の水に 触れることが できる と思うの
だが、『それ』 には手も足も ない。 その感覚すら『それ』は忘れている。
そのことに いら立つこともあったが、 それすらもまた、 眠りの流れに 押し流さ
れる。
―――ときおり、閉じられた 海を こじ開けて 外から注ぎ込まれる 甘い 香りの
する 苦い 水や、 白い 水は 『それ』の眠りを深くし、動きを鈍く させた。
・・・巡り 巡るうちに、少しずつ 何かを思い出す。 そしてまた眠り 忘れ去る―――
己の名を 忘れ なぜこんなところに 自分がいるのかということさえ 忘れ果て――
・・・眠りの流れが 砕かれることは ない。永遠に。
ただ巡り、巡るだけ。・・・この海が 死に 絶える その時まで―――
・・・そのはずだった。
―――このときまでは。
『それ』は 唐突に 目覚めた。
―――黒い 水。
わずかな ほんのわずかな ひと しずく。
・・・冥き、生命の 水―――
それが、この海に 落ちてきた 瞬間 ―――『それ』は 目覚めた。
―――境界。
――― 額から頬を伝って流れおちるものが、汗なのか、血なのか、柢王にはわからない。
全身から叩き込まれる痛みに、視界がかすむ。
両側の巨虫が暴れるたび、稲妻が食い込んだ外甲殻が ギギギと音を立ててきしむ。 一
瞬たりとも気を抜く事の出来ない力の拮抗を繰り返しながら、柢王はさらに霊力を送り込む。
途端、視界が揺れた。いや、揺れたのは意識のほうだった。
(・・・・・まずい。限界が近い・・・)
肉体の損傷度合いが、自分自身で手当てができるか、あるいは手当をしてくれる者の所ま
で意識を保ってたどり着けるギリギリのところまでが、柢王の認識する限界だ。(ただし、
万能の癒し手を友にもつ彼の限界は、常人よりもはるか高みに設定されている)
柢王は武人だ。
武人と称される者として、戦いが好きなことを隠すつもりはない。
だが、戦いを続けるためには、生きていなくては意味がない。
どんなに戦果をあげたところで、生きて帰らなければ意味がないのだ。
文殊塾時代より、魔風窟にて自分の力を試し続け、何度も死地に身を投じ、何度も限界を
超え、生命を危険にさらし続けた結果として。 ―――そういう意味で、柢王は己の限界を
わきまえている。
・・・肉体の損傷は限界を超えている。しかしそれは、いつものことだ。限界を認識してい
たところで、戦闘のさなかに限界を超えたからと、戦いをやめるわけにはいかない。
自分の思い通りの戦いができたことなど、片手の指に満たない。
戦闘は生き物であり、それゆえに生半可な力では自分の意志など通用しない。・・・だから
こそ、面白いのだ。
戦闘が思い通りにならず 肉体的に限界に追い込まれた時―――そこで重要になってく
るのが、自分の意志であり、意識だ。 たとえ四肢が折れていても、意識さえ保っていれば、
霊力を使って飛んで帰ることができるのだ。
―――つまり、意識さえ保つことができれば、霊力の使いようで限界を引き延ばすことは
可能だ。
だが、その意識が途切れようとしている。
「・・・・・!!!」
今、このギリギリの拮抗状態で意識を手放したらどうなるのか。
縛雷で地につなぎとめた巨虫達はゆるんだ拘束を即座に引きちぎって柢王に襲い掛かる
だろう。
アシュレイの性質からして、彼は自身の危険も顧みず、柢王を守って戦おうとするだろう。
―――巨虫 五頭を相手にして。
( だめだ )
いくらアシュレイでも無理だ。
アシュレイ一人ならば、大技を放って一掃することはできるかもしれない。しかし大技を
放つには、極度の精神の集中が必要になってくる。意識を失った自分をかばいつつ闘いぬけ
るほど、戦局は甘くない。
アシュレイの重荷になれない。
アシュレイの為だけでなく、自分のプライドにかけて断じて出来ない。
だから何としてでも、この二頭だけは潰してしまいたかった。
なのに。
両腕に絡む縛雷にさらに霊力を送り込む。その途端。
「・・・・・っ!!!!」
頭が割れるように痛む。
額が熱を持っている。
意識をよこせと。
言っている。
「・・・っ!」
額の内側を ざらりと熱い狂喜の舌がなめあげる。
霊力を上げれば上げようとするほど、内部のモノの力が増す。
―――柢王になす術はなかった。
・・・・・ ピシャン・・ ――――――
冥界のしじまに響き渡る水音。
地上の騒動など届かないこの場所を覆い尽くすのは 薄暮の闇と、幾多の命をその奥底に
納めて さざめく黒き水。
湖の中央に結跏趺坐の形で浮かぶ教主は長い腕を伸ばして その黒き水に両手をひたし
ていた。ひたされた所から、黒水は金へと色を転じ、波紋ではなく小さな渦となり、教主を
中心にゆるりと弧を描き出す。
伏せられていた教主のまぶたがぴくりと動いた。
「・・・・・誰ぞ 介入したか?」
黒い水の存在するところ総てに繋がっている教主の感覚に、何かが触れた。
両手を水から抜き出さないまま、教主はちらりと視線を流す。
黒い水面に映し出される境界の光景に、変化はない。
氷暉たちの動向にも、変わったところはない。
教主は冥い色の瞳をゆっくりと閉じた。
「・・・どうなろうと 興味はない」
彼らは捨て駒にすぎない。
教主にとって重要なのは、境界で繰り広げられる力の拮抗の行方ではなく、天界の中央で
この騒動に心を痛めているであろう貴人のことだった。
―――ぷつり と 何かが途切れたような感覚があった。
「?!」
境界で、三頭の巨虫を相手に、スピードを上げて旋回しながら一頭の巨虫の外甲殻のつぎ
目に斬妖槍を突き入れざま、身をひるがえす。今までアシュレイが居た場所を、一頭の巨虫
の大顎がかすめた。槍を抜き取り、上昇する。
頭部を炎に包まれた巨虫がそれを追ってくるのを目の端に確認しながら、アシュレイは先
ほどの違和感の根源をつきとめるべく、周囲を見回した。
地上の柢王は、2頭の巨虫を抑え込んでいる。アシュレイはそれにほっとする。だが、急
がねば。柢王の傷は深い。手遅れになれば、さしもの彼も危ない。早くこの三頭の巨虫を倒
して、彼の加勢をし、一刻も早く天主塔に連れ帰らねば。
そう思い、さらに上昇する。追ってくる三頭の巨虫に正面から激突しようと身をひるがえ
した その瞬間。
視界に広がっていた、炎の結界を支える旋風が突然消滅した。炎の壁が がくんと下がる。
それが 意味するものは―――
「・・・柢王!?」
地上では縛雷が消滅し、解き放たれた瞬間、巨虫達はその長大な身を起し、土埃を巻き上
げながら空高く伸びあがった。
「柢王!」
地上を見下ろしたアシュレイが、柢王の姿を認める。そして、背筋を凍らせた。
―――土埃にさえぎられ、遠く離れているため、見えないはずだった。
なのに、ありありと分かった。
彼は、こちらを見上げていた。―――口角をつりあげて、白い犬歯をさらして。
―――鉛色の瞳で。
息をのむアシュレイの背後から 黒々と立ち上がった幾本もの巨大な竜巻が 怒涛の勢
いでなだれ込んできたのは、次の瞬間だった。
茶の支度を終えた乳母や使い女達を下がらせ、芝生の上に広げられた敷布の上で、三人
は気軽なお茶を楽しむ。
茶の支度が出来上がるまでレースに長棒の相手をしてもらったアシュレイは、相変わら
ず簡単にあしらわれていたが 結構楽しそうに見えた。
アシュレイは菓子をぱくぱく食べながら、グラインダーズに会えなかった一週間の出来
事を楽しそうに話す。
「姉上、今日はね・・・」
今日見た人形劇が楽しかったのか、弟は嬉しそうだった。
年長組も上級生クラスになるとそういった娯楽教育は子供向けの劇ではなく演奏会や
難解な台詞の多い古典劇に取って代わられたが、それでもそういう日は、彼女も楽しみだ
った。
「あのね、姫君がね、姉上みたいにかっこよかったんだ!」
弟が実に嬉しそうに笑うので内容を聞いてみると、昔自分も見たことのあるものだった。
「・・・懐かしいわね」
グラインダーズは微笑んだ。
どうして忘れていたんだろう。 昔々に作られた話を題材にした、天界でないどこか
不思議な場所で暮らす元気な王子と王女が出てくる話。
「私も大好きだった・・・」
お茶とお菓子で食欲がとりあえず満たされて、眠くなったアシュレイがグラインダーズ
の膝枕で軽い寝息を立てている。
かわいい、と思う。 アシュレイは、この年代の子供にしては細身だが、こうして寝顔
を見ていると、ほっぺがふくふくと柔らかくて、赤子の時とそんなに変わらない。
弟はとても強いけれど、本当にまだまだ小さな子供なのだ。
こんな風に膝枕で無防備に寝ているところを見ると、それを実感する。
ストロベリーブロンドの髪を指で梳いてやりながら、グラインダーズは顔を上げずに隣
のレースに小さな声で囁いた。
「・・・レース。・・・・・・父上に叱られた?」
武術の指南役をつけて貰う事を希望したのは、グラインダーズ本人だ。けれど、そうや
ってグラインダーズが武術に関して不祥事を起こせば、その責の全ては、グラインダーズ
ではなく、指南役である彼に負わされる事になる。
「いえ、何もおっしゃいませんでした。・・・少し、何か思い悩んでいらっしゃるようにお
見受けしましたが・・・」
レースもこちらを見ることなく小さな声で応える。
「・・・・そう・・」
ほっと息をついた。レースに咎が及ばなくて本当によかった。父の怒りは凄まじいから
だ。その恐ろしさを、幼いころからグラインダーズは見続けている。
(・・・・・でも・・・)
・・・・・父王は見舞いに来なかった。
そのことにほっとしている反面、ひどく腹を立て、そしてまた恐れている自分にグライ
ンダーズは気づいていた。 例え父が見舞いに来たところで、会うことを拒絶することは
自分でもわかっていても、だ。
(・・・甘ったれているわ)
なんて自分勝手なのだろう。
「・・・・・・こんな事で、強くなれるのかしら」
くしゃくしゃとアシュレイの髪を掻き回すグラインダーズに、レースは眉間にしわを寄
せて見せた。
「・・・お嬢。さっきから、強い強いって言われていますけど、お嬢の言うところの『強い』
って、どんな強さの事ですか?どんな意味で強くなりたいのですか?」
「どんなって・・・」
「たとえば、基準みたいなものとかないんですか? あと、理想とか。誰かのようにとか、
何かのようにとか」
「・・・・・誰かのように・・・? ・・・ 」
グラインダーズは首をかしげた。
・・・そういうのはピンと来ない。
「・・・ちがう、と思う・・・・・・」
「・・・お嬢?」
うつむいたまま、グラインダーズは必死で言葉を探し続ける。
言葉にできない場所に、自分の叶わなかった願いや望みが埋もれている。そんな気がす
る。―――私の願いは。 私が望むのは。
気難しい顔で黙り込んでしまったグラインダーズの、手元だけは忙しく動いて、すかす
かと眠り続けるアシュレイの髪を、指に巻きつけたりほどいたり引っ張ったりを繰り返し
ている。が、その事も、彼女は気づいていない。
隣のレースは、アシュレイが目を覚まさないかとひやひやしている。
「お、お嬢?」
「・・・ちがうわ・・、レース。 ・・・何かじゃなくて・・・誰かじゃなくて・・・」
―――そういうのではないのだ。何かの真似ごとではなく。私がなりたいのは。
私は―――――
グラインダーズの手元がようやく止まった。
「・・・・・自分で あり続けるって事よ」
「お嬢?」
何になりたいのか。ではなく。―――私が望むのは。
「・・・私は、私でいたい」
王の娘でもなく
女でもなく
―――ちがう、否定したいわけではない。
私は女で
私は王の娘だ。
それは、ただの事実だ。
グラインダーズは、顔をまっすぐあげた。
「私は私でいたい。―――私以外には、なりたくない。」
言い切ってから、ふと口をつぐみ、そして静かに首を振った。
「・・・いいえ、そうじゃない。どれだけ変わっても私でありたい。・・・それだけなのよ」
いつだって。どんなときだって、これが私だと。
誰でもない、何でもない、私は私だと。
いつだって、そうありたい。
ただそれだけなのだ。
「・・・そのために、強くなりたいの。」
レースが、複雑な顔をしている。それを真正面から見据える。
「・・・答えになっていないかもしれないけれど。これが、今の私の正直な理想よ」
「・・・・・」
膝の上のアシュレイが身じろぎした。小さなあくびをして、まばたきを繰り返す。
小さな手のひらで目をこする。伸びをして、ぱっちりと目をあける。レースとグライン
ダーズが自分を覗き込んでいるのとそれぞれ目が合って、恥ずかしそうに頬を赤らめて照
れ笑いをする。つられるように笑ったグラインダーズがその頬を突っつくと、今まで眠っ
ていたのが嘘のような動きでそれを避けるように、ぴょんと跳ね起きた。
「 レース! さっきの、棒で飛ぶやつを教えてくれ!」
足元に転がる長棒を拾って振ってみせる。 日々、斬妖槍を振り回しているだけあって、
堂にいっている。 すぐに行きます、とレースが応えると、二カッと笑って開けた場所を
目指して駆けだす。
その後ろ姿を見ながら、レースが低い声でつぶやいた。
「・・・完全に理解したわけではないですが・・・。お嬢の言うところの「強くありたい理想」
ってのは、複雑すぎて、私には一部しか手伝えないだろう―――ということは、何となく
わかった気がします」
「それでいいの。・・・私だって、あんまりにも漠然としすぎて、よく分かっていないとこ
ろがあるから」
グラインダーズも声をひそめる。・・・何だか、いま、自分は、とてつもなく遠大な理想
を掲げてしまったのではないのだろうか。
「・・・・・」
先をゆくアシュレイの頭の片側の髪がぐりんぐりんに跳ね返っている。グラインダーズ
が指でいじった跡だ。アシュレイは気づいていない。歩くたびにぴょこぴょこ跳ねている。
かわいい。
・・・強い強い弟。
―――でも、とてもかわいい弟。
「・・・レース。今になってだけど、理想とする強さの基準を思いついたわ」
掲げついでに、もう一つ。―――追加してしまっても、いいかもしれない。
「・・・笑われるかもしれないけれど。そうね・・・アシュレイを守れるくらい強くなりたい・・
―――というのが、一番の理想かしら?」
「・・・―――は・・?」
レースが、ぽかんとした顔でこちらを見る。それが、なんだか楽しい。
「だって、アシュレイを守れるくらい強いのならば、どんな事にだって負けやしない自信
になるわ。 そう思わない?」
奇妙なお食事会がお開きになったのは一時間後。終始一貫でたらめ盾に新婚ごっこを続けたオーナーはだいぶ機嫌が直ったが、
赤毛機長はげっそりしていた。
「いいか、ティア、俺は明日待機だからなっ、家までは送るけどそれ以上は知らないからなっ!!」
本当はもう家にかけ戻って布団にもぐりこみ、今日のことは蜃気楼かオーロラだったと自己暗示かけたいアシュレイが叫ぶのに、
ティアも渋々頷いて、
「わかってるったら。でも、柢王、ほんとに大丈夫? なんだったら酔いが醒めた頃にうちから迎えを寄越そうか?」
ティアが浮かれている間、低気圧に老酒あおっていた柢王は、すぐにタクシーに乗ったら吐きそう、というレベル。いつもなら
酔っ払うことはあっても賑やかな柢王の酩酊ぶりに、さすがにティアも心配になって尋ねたが、本人は苦笑して、
「へーきへーき。この辺なら休むとこあるしさ。だから心配しなくていいからな」
その傍らに立つ桂花もうなずいて、
「おふたりとも明日は仕事でしょう。心配はいりませんから気をつけて帰ってください」
揃ってのその言葉に、ティアも頷くしかなかったが、
「じゃ、桂花、なにかあったら遠慮しないでいつでも電話してね」
念を押すと、アシュレイとふたり、タクシーに乗りこんだ。
「──大丈夫ですか、柢王?」
親友たちが消えた瞬間、げっそりした顔で膝の間で頭を抱えた男に、桂花が尋ねる。その男はその姿勢のままくぐもったような声で低く、
「大丈夫じゃない──つか、まじで気持ち悪い」
「あんなにハイペースで飲むからですよ。どこかで吐いてきますか?」
桂花は尋ねたが、柢王は首を振り、
「いや、平気──つか、ぐらぐらする。なんか船酔いみたいな感じ」
「単に酩酊状態なだけです。冷たい飲み物でも買ってきてあげますから、ここにいてください」
桂花は冷静に言うと、立ち去ろうとした。と、柢王がその手首をぐっと掴んで、
「だめ。どこにも行くな」
駄々っ子みたいに唇を尖らせる。桂花があきれた顔でその顔を見返して、
「子供みたいなことを言っても、この場合はかわいくありませんね。朝までこのままでいるつもりなの?」
柢王はそれにいーやーと首を振って、
「うわ、ぐらっとくるぐらっと」
回る酔いにふらふらしながらも、桂花の手は掴んだままで、
「うちに帰る。そんで、話の続きをする」
「──まだ忘れてないですか」
言った桂花の手首を掴んだ手にぎゅっと力を入れて、
「って、忘れられない光景だろ? 長旅から帰ってきたらさ、目の前で恋人が親友と手つないでさぁ──それ追求しなくて
なにするんだ?」
再びグレイの瞳して鋭く──据わった目では最大限に鋭く、だが──見上げた柢王に、桂花は、
「手をつなぐのと腕を掴まれるのはまったく違いますよ」
「えーっ──んじゃさ、俺のことだけ愛してるって言って、ここで」
とまだ瞳据わった男はわがままを垂れる。どこまでがわがままで、どこまでが本気か──測れない鋭さが宿るその顔に、
「愛してる、ですか──?」
「そ。俺のこと、愛してんだろ?」
「……さあ、どうですか──」
答えた機長に、柢王が、はあっ?と目を見張る。勢い込んで立ち上がりかけるその顔の前に、ふいに、クールな機長が身をかがめると、ささやくように、
「吾からも聞きますけど、あなたが家に帰ってしたいことは、本当に、そんなつまらないことですか──?」
耳朶に吹きかけるようなその声に、柢王が目を見開く。ごく間近にある恋人のものすごくものすごく美人な顔を見つめること三秒、
「いやっ、もっと大事なことあるよなっ、つか、かなり大事なこととか大事なこととかさっ!」
いきなり瞳きらきらさせてしゃきっと正気に戻った男に、クールな機長は、
「それなら、帰りますよ」
差し出された手に、
「うん帰ろう! つか、いますぐ帰ろうっ!」
さっとつかまって立ち上がる柢王の姿はほとんどちぎれんばかりに尾を振りはしゃぐ犬のよう。さっきまでの酔いも
青い炎もすっかり忘れ、恋人と手をつないだまま意気揚々とタクシーを止めると自宅に直行便。
ある意味、ものすごく幸せな人たちだ。
と、そんなカップルのそんなカップル振りを知らないタクシーのなかでは、
「桂花、大丈夫かなぁ。やっぱりうちから誰か迎えに寄越そうかなぁ」
後部座席でティアが心配そうにきれいな顔をしかめていた。柢王が飲みすぎた理由はわかっているし、本人はパイロットで
限度がわかっているにしても、別れた場所は繁華街だし、
「桂花を残しておくのも心配だしなぁ……」
悪い男が来ても桂花は相手にしないだろうが、でも気がかりだ。思わず、後ろを振り返ったティアに、
「あいつなら心配いらない」
アシュレイのきっぱりした声が言った。えっ、と尋ねたティアに、真っ直ぐな瞳を向けて、
「あいつなら何とかする。それにどうでもダメなら電話してくるだろ、俺たちがいるんだから」
はっきりと言い切ったアシュレイに、ティアは瞳を瞬かせる。
心のなかの半分は感動している。
(君だって心配してるくせに、そんなに信用してるんだね!)
が、残りの半分はその感動があるだけに、めらっとした焔がちらついて、
「君って、桂花のことよくわかるようになったよねぇ」
なんだか意地の悪い声で聞いてしまうと、アシュレイはとたんに真っ赤になって、
「あいつは柢王が好きな奴だから──だからしっかりしてるに決まってるだろっ」
そして、パイロットとしてはとっても信用している。ティアは心でつけ加え、そしてひそかにため息をつく。
(君って、本当に君、なんだよね──)
『大きくなったら俺がおまえを乗せて飛んでやるからな!』──子供のときにアシュレイが言ってくれた言葉はいまもティアの
耳の奥に残っている。老舗会社を若造が背負うのは決して平坦な道ではなく、泣き言を言いたいこともあった。そんなときに
その言葉がどれだけ勇気と目標意識を与えてくれたか知れない。
同じ場所にいられなくても、心はきっと側にいる。
『今度は俺が、世界一のパイロットになって、おまえを乗せて飛んでやるからな!』
クリスタル・アイランドの砂浜で、瞳を輝かせて誇らしげにそう言ってくれたアシュレイの顔を思い出すと、アシュレイに
とっても自分は特別で大事な存在なんだと、嬉しくて、胸が熱くなる──熱くなり過ぎ、理性が焼き切れたのがいまのティアだが。
いまも、アシュレイが桂花のことを信頼しているのを、嬉しいと思う気持ちと、自分のことだけ考えていて、と、ちょっと面白くないような気持ちと。
どちらもあるけれど、でも、本心は、たぶん、嬉しい。そんな自分の気持ちがちょっと悔しくて、
「ね、泊まってって」
ねだるようにそう尋ねると、アシュレイは、
「明日仕事だって言っただろうっ」
「うん、だから、間に合う時間に君の家まで送らせるから。だって君とゆっくり話す機会はあんまりないし、最近は私も君の便に思うように乗れてないし」
月に一度が「しか」なのか「も」なのかは本人規準だ。
「私たちは柢王たちと違って、同じ家に帰るわけじゃないんだもん。もっと君と過ごしたいよ」
文の前半はカップルじゃないから当然に違いないが、恋は盲目のオーナーは自分の発言でも前半は無視して後半に力を込めて訴えた。
と、赤毛機長はちょっと驚いたような顔をしたが、
「お、俺だって、おまえと会いたいと思ってるぞ」
今度こそ、照れたように窓の外に目を向ける。瞳がちょっとうろうろして、基本、ふだんのティアは大好きなアシュレイにとっては照れはするが本心だろう。
が、その言葉にさくっ、と理性跳ね飛ばしたオーナーは瞳輝かせて、
「ほんとっ? じゃ泊まってくれる?」
「えっ、でも、あの──」
「私のこと考えてくれてるなら泊まってってくれるよねっ?」
「そ、それはっ…だけど、もしフライトになったら……」
「そんなに夜更かしなんてしないよ。それにまだ時間は遅くないし」
宵の口と言ってもいいはずだ。
アシュレイがその言葉にうーんと考えこむ。ちらと腕時計を見たところを見ると、万が一フライトだった時の体調管理が
万全かどうか測っているらしい。
(あとひと押し!)
ティアはにわかに活気づく。アシュレイが泊まってくれるなんて久しぶりだ。かわいい寝顔を堪能しながらちょっといたずら
なんてしちゃおうかなぁぁぁ、など妄想が勝手に膨らんで、つい力んでもう一歩、
「ね、私のこと、愛してるなら泊まって」
うっとりするような笑顔で誘ったところ、赤毛機長は首筋まで赤くなり──そしてわなわな震え出した。照れてるのかなぁと、
オーナーはときめいたが、ついに堪忍袋切れたアシュレイは握り拳固めると大声で、
「愛してるわけあるかーーーーっ!! 運ちゃん、このまま俺の家に直行だーーーーーっ!!」
「ええええええーーーーーーーっっっ!!!」
後日──
一面の窓から離発着の機体を望める天界航空本社ビルの最上階では、
「そうか。そうだよねぇ、やっぱり、アシュレイにだって心の準備が必要だもんねぇ──」
『そーそー、やっぱおまえ、押して押してちょっとは引くぐらいじゃないとだめだって』
キレた赤毛機長に自宅に逃げられ、ひとり寂しく夜を過ごしたオーナーは、電話でステイ先の親友に恋愛相談。
こちらは違って恋人とステキな夜を過ごした親友は嫉妬のこととか自分は過去押せ押せ押せしかなかったこととか、そんな
ことはすべて忘れた上機嫌な無責任さでうんうんうなずき、
『ってことで、ま、回こなせばなんとかなるって。俺、そろそろ出るから切るわ。ま、がんばれよ』
「うん、ありがとう、柢王。また相談するねっ」
と、こういうときには当てにしてはならない親友の助言に礼を言ったオーナーは、よしと机を向き直る。
そこにあるのは青い海と空が白い砂浜の向こうに無限に広がるクリスタル・アイランドのリゾート写真。じっとそれを見つめ、
「そっか。タイミングと押しだよね。うん、負けないでがんばろうっ!!」
きらびやかな笑顔でうなずくオーナーが、そのパンフの下にあるクリスタル王室からの手紙を見るにはまだ時間がかかりそう。
「そうだ、明日のフライトに間に合うように、アシュレイに差し入れ買ってこよう!」
と、足取りも軽く売店に急ぐオーナーの気持ちを赤毛機長が本当に知るのはいつのことになるのか──。
ともあれ、ある意味では、ものすごく平和な人たちの物語だ──。
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