投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
「お疲れ様でーす」「お疲れーっす」
放送が終了したスタジオはホッと緩んだ空気が流れる。
スタッフ達はそれぞれの持ち場から三々五々片付けのために散っていった。
本番中とは打って変わって緩慢な動作でスタジオ内を交差するスタッフ達の間を、ほっそりとした肢体が流れる風のようにすり抜け、スタジオを出て行った。
「お疲れー!」
後ろから軽やかな足音と共にポンと肩を叩かれた。誰か、は振り向かなくても分かるが、桂花はため息と共に仕方なく振り向いた。
「お疲れ様です」
予想通りディレクターの柢王がニコニコと立っていた。
「いやー、今日もばっちり、完璧だったぜ、桂花。さっすがだな。ティアがいなくてもお前一人で番組成り立つじゃん」
「あの人のあの行動は今に始まったことじゃありませんから。誰だって慣れます」
桂花は素っ気なく言い、ついでにいつの間にか肩に回されていた腕をぺっと払い落した。
氷の方がまだ温かみがありそうな対応にもお構いなしに柢王は上機嫌で再び喋り出した。
「そっか?ま、お前が慌てたところって見たことないけどな。いつだったかカメラ担いだまま川ン中入ったアシュレイ追ってティアも水ン中入ったはいいけど溺れかけて。それがばっちり生で流れちまった時だってお前慌てず進行したじゃんか。あいつ、泳げないくせにさー、アシュレイのためなら文字通り火の中水の中なんだからな」
「彼ならカメラ捨ててでも助けるのは分かっていましたから」
「そーそー。本来なら上から怒られるところだったのが、溺れた拍子にいつの間にか手に犯行の証拠品握っていたんだよな。それがまたスクープになっちまったのと、お前のフォローのコメントが効いてお咎めなしになって。あいつら、わざわざネタ拾いに行かなくても存在自体がネタなんだよな」
桂花はヘラヘラ笑っている柢王を冷ややかに一瞥するとさっさと歩きだした。
「あ、待てよ、桂花!」
柢王が慌てて後を追った。
廊下を行き来するスタッフ達の会釈や挨拶に軽く手を上げて返しながらも、柢王はなおも喋り続ける。
「お前、最近忙しいじゃん?ちゃんと息抜きしろよな」
「体調管理はちゃんとしていますよ。誰かみたいに底なしの体力があるわけじゃないことくらい自覚していますから」
「俺だって消耗するぜ、たまには。だからお前で充電しようとしているわけで」
「吾は充電器じゃありません」
報道センターに入り、自分のデスクに着くなり桂花は帰り支度を始めた。
「あっ、もう帰る気かよ。なぁたまには飲みに行こうぜ。最近全然行ってねーじゃん」
柢王は桂花の鞄を取り上げた。
「またやってますねー」
「いっつも振られるのに懲りない奴だよな」
見慣れた光景にスタッフ達が笑い合う。他の番組の人間も笑いながら眺めていた。
桂花は無表情を通し、柢王は半ば呆れているギャラリーに軽口を返している。
その隙に桂花は鞄を取り返して報道センターを出たが、エレベーターで再び柢王が追い付いてきた。
「本当に冷てーな。置いて行くことないだろ」
「一緒に帰る約束なんかしていないでしょ」
「俺はお前と一緒に帰りたいの」
柢王はエレベーターの回数表示を見つめたままの怜悧な美貌をじっと見つめた。桂花はちらりと視線を寄こして、また視線を戻した。
「最近、飲み会にお忙しいんじゃないんですか?女子大生やOL相手ばっかりの」
「あれは単なる情報収集だぜ。情報だってタダじゃもらえないんだ。俺はお前がいるから気が乗らないけど、メンツが足りないって言われるし…」
「まったくどんな情報なんだか」
「すぐにはニュースにはならないけど、情報は色々ストックしておかないと。どこでどう繋がるか分からないわけだし。ほら前だって、俺が六本木のクラブで掴んだネタ、議員の収賄と繋がって話題になったじゃん」
「次はどんなスクープを持ってきてくるんでしょうね。そのうち社長賞でも、もらえるんじゃないですか?」
「社長賞なんかいらねーよ。俺はお前に認めてもらえる仕事ができればそれでいいんだ」
「別に認めてないわけじゃ…」
桂花は小さな声で言った。
これでも日本一の高視聴率を誇る報道番組のディレクターである。話題に対して目も鼻も利く。取材の目筋も良い。編集会議でも番組中でもさり気なくチームを引っ張る頼れる男なのだ。
普段はただのチャラ男に過ぎないが。
いつも若いスタッフと一緒に小学生のように騒いでいるくせに、何かの拍子に桂花に見せる温かくて力強い視線が、無言で励ましてくれる。色々なマイナス感情が誘蛾灯に群がる蛾のように纏わりつき、心身を食い尽くされそうになるこの世界で、彼はよすがとも言える存在になっていた。
…なんてこと、口が裂けても言えないが。
とは言え、この男は桂花のそんな心中をとうに見透かしている節がある。腹の立つことに。
そんな時、彼のことが少し苦手になる。
どんな顔をして良いか分からないから、桂花は俯かざるをえなくなるのだ。
そんなところ、誰にも見せたことがなければ自身でも見たことがない。
彼と出会って知らない自分がどんどん出てきてしまうので、時々自分が怖くなる。
知らない自分を、自分は制御することができるのだろうか?
制御できなくなったら、この人は手に負えなくて去ってしまうのではないだろうか?
ほら、また思考が意図しない方向へと流れてしまった。
無意識にそんな風になってしまう自分が不安になるし、腹立たしくもなって嫌になる。こんな時は一刻も早く離れたいのに、この男は素知らぬ顔をして桂花の傍にいる。
振り回しているようで、自分が振り回されているのだ。
愛おしくて堪らないのだ、と雄弁に語る目で桂花を見ているのが分かる。
早くエレベーターが来てほしい。胸が苦しくて堪らないから。
それなのに行先回数は相変わらずノロノロと動いている。こんな時に限って利用者が多い。
無言でエレベーターを睨んでいると、背後から声が掛った。
「あっ、柢王、何してんだよ。もう行くぜ!」
柢王がギクリと体を強張らせた。
振り向くと柢王の同期の男性2人が廊下の向こうから手を振っている。確かバラエティ番組を担当していた。
柢王が妙にギクシャクとした動きで振り向いた。
行先表示は一つ下の階を示している。
「主催が遅れてどーすんのよ」
「今日は美人CA勢ぞろいなんだろ?一段と期待できるよなー」
「夜間フライト、行きませんか?とか言われちゃったりしてー!」
絶妙なタイミングで現れ、勝手に盛り上がっちゃっている友人達を、柢王は引きつった笑顔で見つめた。
チーンと軽やかな音がして、エレベーターが到来を告げた。
柢王が慌てて振り向くと桂花はすでにエレベーターに乗っていた。
「け、桂花っ、これは…」
「世界の果てまで飛ばしてもらってきて下さい」
桂花は1階のボタンを押した。
「今夜は帰って来ないで下さいね」
にっこり笑顔の桂花を乗せたエレベーターは柢王の鼻先で重い扉を閉めてしまった。
柢王は呆然とエレベーターを見つめた。
今夜は約2週間ぶりに侘しく自分のマンションに帰宅しなきゃならないらしい。
…自業自得だけど。
2人が秘密の交際を始めて、まだ間もない頃のお話…。
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