投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
―――『それ』は、長い間 ただ 漂っていた。
・・・・・眠りを享受し、 ただ 押し流されるままに 出口のない あたたかな場所を
ただ 循環していた。
・・・ただ、廻りつづけていた。 死のようにどろりとした まどろみは 『それ』を
包み込み、心地よい一定の振動を 繰り返しながら 循環する。
・・・ただ、ときおり訪れる 数瞬の意識の目覚めの中で『それ』は 少しだけ 世界を
認識 する。
はるか先に 水面が見える。 波打つ光の中に 何かがあるのだが 『それ』には
わからない。
何かが聞こえるような 気がするのだが、 水に阻まれて、ぼんやりとしか 聞こえない。
ひどく 深いところに いるのだと 認識する。
そして それもまた、 眠りの流れに 押し流される。
循環を繰り返す うちに この閉じられた 海の 中(なめると塩辛い味がしたから)に
は規則正しく律動する いくつもの道筋が あることを知る。
幾度も通り抜ける 脈打つ道を 束ねる 太陽の中が 結構気に入っていた。
道は多岐にわたっていた そしてどんな 細い道筋 でも 『それ』は 難なく
通り抜けた。
何千回、何万回、何億回 繰り返し 循環する うちに 『それ』は、すべての道筋 を
覚えてしまった。
―――ときおり、海は ひどく 熱を 孕むことがあった。
そんな時、『それ』の眠りの ヴェールは薄くなる。 そんな時 何かが見える気がし、
ほとんど感じることの できない 体の感覚が、 ・・・どこかに、手や足が ある気がした。
手を伸ばせば、そこにある脈打つ太陽や、海の水に 触れることが できる と思うの
だが、『それ』 には手も足も ない。 その感覚すら『それ』は忘れている。
そのことに いら立つこともあったが、 それすらもまた、 眠りの流れに 押し流さ
れる。
―――ときおり、閉じられた 海を こじ開けて 外から注ぎ込まれる 甘い 香りの
する 苦い 水や、 白い 水は 『それ』の眠りを深くし、動きを鈍く させた。
・・・巡り 巡るうちに、少しずつ 何かを思い出す。 そしてまた眠り 忘れ去る―――
己の名を 忘れ なぜこんなところに 自分がいるのかということさえ 忘れ果て――
・・・眠りの流れが 砕かれることは ない。永遠に。
ただ巡り、巡るだけ。・・・この海が 死に 絶える その時まで―――
・・・そのはずだった。
―――このときまでは。
『それ』は 唐突に 目覚めた。
―――黒い 水。
わずかな ほんのわずかな ひと しずく。
・・・冥き、生命の 水―――
それが、この海に 落ちてきた 瞬間 ―――『それ』は 目覚めた。
―――境界。
――― 額から頬を伝って流れおちるものが、汗なのか、血なのか、柢王にはわからない。
全身から叩き込まれる痛みに、視界がかすむ。
両側の巨虫が暴れるたび、稲妻が食い込んだ外甲殻が ギギギと音を立ててきしむ。 一
瞬たりとも気を抜く事の出来ない力の拮抗を繰り返しながら、柢王はさらに霊力を送り込む。
途端、視界が揺れた。いや、揺れたのは意識のほうだった。
(・・・・・まずい。限界が近い・・・)
肉体の損傷度合いが、自分自身で手当てができるか、あるいは手当をしてくれる者の所ま
で意識を保ってたどり着けるギリギリのところまでが、柢王の認識する限界だ。(ただし、
万能の癒し手を友にもつ彼の限界は、常人よりもはるか高みに設定されている)
柢王は武人だ。
武人と称される者として、戦いが好きなことを隠すつもりはない。
だが、戦いを続けるためには、生きていなくては意味がない。
どんなに戦果をあげたところで、生きて帰らなければ意味がないのだ。
文殊塾時代より、魔風窟にて自分の力を試し続け、何度も死地に身を投じ、何度も限界を
超え、生命を危険にさらし続けた結果として。 ―――そういう意味で、柢王は己の限界を
わきまえている。
・・・肉体の損傷は限界を超えている。しかしそれは、いつものことだ。限界を認識してい
たところで、戦闘のさなかに限界を超えたからと、戦いをやめるわけにはいかない。
自分の思い通りの戦いができたことなど、片手の指に満たない。
戦闘は生き物であり、それゆえに生半可な力では自分の意志など通用しない。・・・だから
こそ、面白いのだ。
戦闘が思い通りにならず 肉体的に限界に追い込まれた時―――そこで重要になってく
るのが、自分の意志であり、意識だ。 たとえ四肢が折れていても、意識さえ保っていれば、
霊力を使って飛んで帰ることができるのだ。
―――つまり、意識さえ保つことができれば、霊力の使いようで限界を引き延ばすことは
可能だ。
だが、その意識が途切れようとしている。
「・・・・・!!!」
今、このギリギリの拮抗状態で意識を手放したらどうなるのか。
縛雷で地につなぎとめた巨虫達はゆるんだ拘束を即座に引きちぎって柢王に襲い掛かる
だろう。
アシュレイの性質からして、彼は自身の危険も顧みず、柢王を守って戦おうとするだろう。
―――巨虫 五頭を相手にして。
( だめだ )
いくらアシュレイでも無理だ。
アシュレイ一人ならば、大技を放って一掃することはできるかもしれない。しかし大技を
放つには、極度の精神の集中が必要になってくる。意識を失った自分をかばいつつ闘いぬけ
るほど、戦局は甘くない。
アシュレイの重荷になれない。
アシュレイの為だけでなく、自分のプライドにかけて断じて出来ない。
だから何としてでも、この二頭だけは潰してしまいたかった。
なのに。
両腕に絡む縛雷にさらに霊力を送り込む。その途端。
「・・・・・っ!!!!」
頭が割れるように痛む。
額が熱を持っている。
意識をよこせと。
言っている。
「・・・っ!」
額の内側を ざらりと熱い狂喜の舌がなめあげる。
霊力を上げれば上げようとするほど、内部のモノの力が増す。
―――柢王になす術はなかった。
・・・・・ ピシャン・・ ――――――
冥界のしじまに響き渡る水音。
地上の騒動など届かないこの場所を覆い尽くすのは 薄暮の闇と、幾多の命をその奥底に
納めて さざめく黒き水。
湖の中央に結跏趺坐の形で浮かぶ教主は長い腕を伸ばして その黒き水に両手をひたし
ていた。ひたされた所から、黒水は金へと色を転じ、波紋ではなく小さな渦となり、教主を
中心にゆるりと弧を描き出す。
伏せられていた教主のまぶたがぴくりと動いた。
「・・・・・誰ぞ 介入したか?」
黒い水の存在するところ総てに繋がっている教主の感覚に、何かが触れた。
両手を水から抜き出さないまま、教主はちらりと視線を流す。
黒い水面に映し出される境界の光景に、変化はない。
氷暉たちの動向にも、変わったところはない。
教主は冥い色の瞳をゆっくりと閉じた。
「・・・どうなろうと 興味はない」
彼らは捨て駒にすぎない。
教主にとって重要なのは、境界で繰り広げられる力の拮抗の行方ではなく、天界の中央で
この騒動に心を痛めているであろう貴人のことだった。
―――ぷつり と 何かが途切れたような感覚があった。
「?!」
境界で、三頭の巨虫を相手に、スピードを上げて旋回しながら一頭の巨虫の外甲殻のつぎ
目に斬妖槍を突き入れざま、身をひるがえす。今までアシュレイが居た場所を、一頭の巨虫
の大顎がかすめた。槍を抜き取り、上昇する。
頭部を炎に包まれた巨虫がそれを追ってくるのを目の端に確認しながら、アシュレイは先
ほどの違和感の根源をつきとめるべく、周囲を見回した。
地上の柢王は、2頭の巨虫を抑え込んでいる。アシュレイはそれにほっとする。だが、急
がねば。柢王の傷は深い。手遅れになれば、さしもの彼も危ない。早くこの三頭の巨虫を倒
して、彼の加勢をし、一刻も早く天主塔に連れ帰らねば。
そう思い、さらに上昇する。追ってくる三頭の巨虫に正面から激突しようと身をひるがえ
した その瞬間。
視界に広がっていた、炎の結界を支える旋風が突然消滅した。炎の壁が がくんと下がる。
それが 意味するものは―――
「・・・柢王!?」
地上では縛雷が消滅し、解き放たれた瞬間、巨虫達はその長大な身を起し、土埃を巻き上
げながら空高く伸びあがった。
「柢王!」
地上を見下ろしたアシュレイが、柢王の姿を認める。そして、背筋を凍らせた。
―――土埃にさえぎられ、遠く離れているため、見えないはずだった。
なのに、ありありと分かった。
彼は、こちらを見上げていた。―――口角をつりあげて、白い犬歯をさらして。
―――鉛色の瞳で。
息をのむアシュレイの背後から 黒々と立ち上がった幾本もの巨大な竜巻が 怒涛の勢
いでなだれ込んできたのは、次の瞬間だった。
茶の支度を終えた乳母や使い女達を下がらせ、芝生の上に広げられた敷布の上で、三人
は気軽なお茶を楽しむ。
茶の支度が出来上がるまでレースに長棒の相手をしてもらったアシュレイは、相変わら
ず簡単にあしらわれていたが 結構楽しそうに見えた。
アシュレイは菓子をぱくぱく食べながら、グラインダーズに会えなかった一週間の出来
事を楽しそうに話す。
「姉上、今日はね・・・」
今日見た人形劇が楽しかったのか、弟は嬉しそうだった。
年長組も上級生クラスになるとそういった娯楽教育は子供向けの劇ではなく演奏会や
難解な台詞の多い古典劇に取って代わられたが、それでもそういう日は、彼女も楽しみだ
った。
「あのね、姫君がね、姉上みたいにかっこよかったんだ!」
弟が実に嬉しそうに笑うので内容を聞いてみると、昔自分も見たことのあるものだった。
「・・・懐かしいわね」
グラインダーズは微笑んだ。
どうして忘れていたんだろう。 昔々に作られた話を題材にした、天界でないどこか
不思議な場所で暮らす元気な王子と王女が出てくる話。
「私も大好きだった・・・」
お茶とお菓子で食欲がとりあえず満たされて、眠くなったアシュレイがグラインダーズ
の膝枕で軽い寝息を立てている。
かわいい、と思う。 アシュレイは、この年代の子供にしては細身だが、こうして寝顔
を見ていると、ほっぺがふくふくと柔らかくて、赤子の時とそんなに変わらない。
弟はとても強いけれど、本当にまだまだ小さな子供なのだ。
こんな風に膝枕で無防備に寝ているところを見ると、それを実感する。
ストロベリーブロンドの髪を指で梳いてやりながら、グラインダーズは顔を上げずに隣
のレースに小さな声で囁いた。
「・・・レース。・・・・・・父上に叱られた?」
武術の指南役をつけて貰う事を希望したのは、グラインダーズ本人だ。けれど、そうや
ってグラインダーズが武術に関して不祥事を起こせば、その責の全ては、グラインダーズ
ではなく、指南役である彼に負わされる事になる。
「いえ、何もおっしゃいませんでした。・・・少し、何か思い悩んでいらっしゃるようにお
見受けしましたが・・・」
レースもこちらを見ることなく小さな声で応える。
「・・・・そう・・」
ほっと息をついた。レースに咎が及ばなくて本当によかった。父の怒りは凄まじいから
だ。その恐ろしさを、幼いころからグラインダーズは見続けている。
(・・・・・でも・・・)
・・・・・父王は見舞いに来なかった。
そのことにほっとしている反面、ひどく腹を立て、そしてまた恐れている自分にグライ
ンダーズは気づいていた。 例え父が見舞いに来たところで、会うことを拒絶することは
自分でもわかっていても、だ。
(・・・甘ったれているわ)
なんて自分勝手なのだろう。
「・・・・・・こんな事で、強くなれるのかしら」
くしゃくしゃとアシュレイの髪を掻き回すグラインダーズに、レースは眉間にしわを寄
せて見せた。
「・・・お嬢。さっきから、強い強いって言われていますけど、お嬢の言うところの『強い』
って、どんな強さの事ですか?どんな意味で強くなりたいのですか?」
「どんなって・・・」
「たとえば、基準みたいなものとかないんですか? あと、理想とか。誰かのようにとか、
何かのようにとか」
「・・・・・誰かのように・・・? ・・・ 」
グラインダーズは首をかしげた。
・・・そういうのはピンと来ない。
「・・・ちがう、と思う・・・・・・」
「・・・お嬢?」
うつむいたまま、グラインダーズは必死で言葉を探し続ける。
言葉にできない場所に、自分の叶わなかった願いや望みが埋もれている。そんな気がす
る。―――私の願いは。 私が望むのは。
気難しい顔で黙り込んでしまったグラインダーズの、手元だけは忙しく動いて、すかす
かと眠り続けるアシュレイの髪を、指に巻きつけたりほどいたり引っ張ったりを繰り返し
ている。が、その事も、彼女は気づいていない。
隣のレースは、アシュレイが目を覚まさないかとひやひやしている。
「お、お嬢?」
「・・・ちがうわ・・、レース。 ・・・何かじゃなくて・・・誰かじゃなくて・・・」
―――そういうのではないのだ。何かの真似ごとではなく。私がなりたいのは。
私は―――――
グラインダーズの手元がようやく止まった。
「・・・・・自分で あり続けるって事よ」
「お嬢?」
何になりたいのか。ではなく。―――私が望むのは。
「・・・私は、私でいたい」
王の娘でもなく
女でもなく
―――ちがう、否定したいわけではない。
私は女で
私は王の娘だ。
それは、ただの事実だ。
グラインダーズは、顔をまっすぐあげた。
「私は私でいたい。―――私以外には、なりたくない。」
言い切ってから、ふと口をつぐみ、そして静かに首を振った。
「・・・いいえ、そうじゃない。どれだけ変わっても私でありたい。・・・それだけなのよ」
いつだって。どんなときだって、これが私だと。
誰でもない、何でもない、私は私だと。
いつだって、そうありたい。
ただそれだけなのだ。
「・・・そのために、強くなりたいの。」
レースが、複雑な顔をしている。それを真正面から見据える。
「・・・答えになっていないかもしれないけれど。これが、今の私の正直な理想よ」
「・・・・・」
膝の上のアシュレイが身じろぎした。小さなあくびをして、まばたきを繰り返す。
小さな手のひらで目をこする。伸びをして、ぱっちりと目をあける。レースとグライン
ダーズが自分を覗き込んでいるのとそれぞれ目が合って、恥ずかしそうに頬を赤らめて照
れ笑いをする。つられるように笑ったグラインダーズがその頬を突っつくと、今まで眠っ
ていたのが嘘のような動きでそれを避けるように、ぴょんと跳ね起きた。
「 レース! さっきの、棒で飛ぶやつを教えてくれ!」
足元に転がる長棒を拾って振ってみせる。 日々、斬妖槍を振り回しているだけあって、
堂にいっている。 すぐに行きます、とレースが応えると、二カッと笑って開けた場所を
目指して駆けだす。
その後ろ姿を見ながら、レースが低い声でつぶやいた。
「・・・完全に理解したわけではないですが・・・。お嬢の言うところの「強くありたい理想」
ってのは、複雑すぎて、私には一部しか手伝えないだろう―――ということは、何となく
わかった気がします」
「それでいいの。・・・私だって、あんまりにも漠然としすぎて、よく分かっていないとこ
ろがあるから」
グラインダーズも声をひそめる。・・・何だか、いま、自分は、とてつもなく遠大な理想
を掲げてしまったのではないのだろうか。
「・・・・・」
先をゆくアシュレイの頭の片側の髪がぐりんぐりんに跳ね返っている。グラインダーズ
が指でいじった跡だ。アシュレイは気づいていない。歩くたびにぴょこぴょこ跳ねている。
かわいい。
・・・強い強い弟。
―――でも、とてもかわいい弟。
「・・・レース。今になってだけど、理想とする強さの基準を思いついたわ」
掲げついでに、もう一つ。―――追加してしまっても、いいかもしれない。
「・・・笑われるかもしれないけれど。そうね・・・アシュレイを守れるくらい強くなりたい・・
―――というのが、一番の理想かしら?」
「・・・―――は・・?」
レースが、ぽかんとした顔でこちらを見る。それが、なんだか楽しい。
「だって、アシュレイを守れるくらい強いのならば、どんな事にだって負けやしない自信
になるわ。 そう思わない?」
奇妙なお食事会がお開きになったのは一時間後。終始一貫でたらめ盾に新婚ごっこを続けたオーナーはだいぶ機嫌が直ったが、
赤毛機長はげっそりしていた。
「いいか、ティア、俺は明日待機だからなっ、家までは送るけどそれ以上は知らないからなっ!!」
本当はもう家にかけ戻って布団にもぐりこみ、今日のことは蜃気楼かオーロラだったと自己暗示かけたいアシュレイが叫ぶのに、
ティアも渋々頷いて、
「わかってるったら。でも、柢王、ほんとに大丈夫? なんだったら酔いが醒めた頃にうちから迎えを寄越そうか?」
ティアが浮かれている間、低気圧に老酒あおっていた柢王は、すぐにタクシーに乗ったら吐きそう、というレベル。いつもなら
酔っ払うことはあっても賑やかな柢王の酩酊ぶりに、さすがにティアも心配になって尋ねたが、本人は苦笑して、
「へーきへーき。この辺なら休むとこあるしさ。だから心配しなくていいからな」
その傍らに立つ桂花もうなずいて、
「おふたりとも明日は仕事でしょう。心配はいりませんから気をつけて帰ってください」
揃ってのその言葉に、ティアも頷くしかなかったが、
「じゃ、桂花、なにかあったら遠慮しないでいつでも電話してね」
念を押すと、アシュレイとふたり、タクシーに乗りこんだ。
「──大丈夫ですか、柢王?」
親友たちが消えた瞬間、げっそりした顔で膝の間で頭を抱えた男に、桂花が尋ねる。その男はその姿勢のままくぐもったような声で低く、
「大丈夫じゃない──つか、まじで気持ち悪い」
「あんなにハイペースで飲むからですよ。どこかで吐いてきますか?」
桂花は尋ねたが、柢王は首を振り、
「いや、平気──つか、ぐらぐらする。なんか船酔いみたいな感じ」
「単に酩酊状態なだけです。冷たい飲み物でも買ってきてあげますから、ここにいてください」
桂花は冷静に言うと、立ち去ろうとした。と、柢王がその手首をぐっと掴んで、
「だめ。どこにも行くな」
駄々っ子みたいに唇を尖らせる。桂花があきれた顔でその顔を見返して、
「子供みたいなことを言っても、この場合はかわいくありませんね。朝までこのままでいるつもりなの?」
柢王はそれにいーやーと首を振って、
「うわ、ぐらっとくるぐらっと」
回る酔いにふらふらしながらも、桂花の手は掴んだままで、
「うちに帰る。そんで、話の続きをする」
「──まだ忘れてないですか」
言った桂花の手首を掴んだ手にぎゅっと力を入れて、
「って、忘れられない光景だろ? 長旅から帰ってきたらさ、目の前で恋人が親友と手つないでさぁ──それ追求しなくて
なにするんだ?」
再びグレイの瞳して鋭く──据わった目では最大限に鋭く、だが──見上げた柢王に、桂花は、
「手をつなぐのと腕を掴まれるのはまったく違いますよ」
「えーっ──んじゃさ、俺のことだけ愛してるって言って、ここで」
とまだ瞳据わった男はわがままを垂れる。どこまでがわがままで、どこまでが本気か──測れない鋭さが宿るその顔に、
「愛してる、ですか──?」
「そ。俺のこと、愛してんだろ?」
「……さあ、どうですか──」
答えた機長に、柢王が、はあっ?と目を見張る。勢い込んで立ち上がりかけるその顔の前に、ふいに、クールな機長が身をかがめると、ささやくように、
「吾からも聞きますけど、あなたが家に帰ってしたいことは、本当に、そんなつまらないことですか──?」
耳朶に吹きかけるようなその声に、柢王が目を見開く。ごく間近にある恋人のものすごくものすごく美人な顔を見つめること三秒、
「いやっ、もっと大事なことあるよなっ、つか、かなり大事なこととか大事なこととかさっ!」
いきなり瞳きらきらさせてしゃきっと正気に戻った男に、クールな機長は、
「それなら、帰りますよ」
差し出された手に、
「うん帰ろう! つか、いますぐ帰ろうっ!」
さっとつかまって立ち上がる柢王の姿はほとんどちぎれんばかりに尾を振りはしゃぐ犬のよう。さっきまでの酔いも
青い炎もすっかり忘れ、恋人と手をつないだまま意気揚々とタクシーを止めると自宅に直行便。
ある意味、ものすごく幸せな人たちだ。
と、そんなカップルのそんなカップル振りを知らないタクシーのなかでは、
「桂花、大丈夫かなぁ。やっぱりうちから誰か迎えに寄越そうかなぁ」
後部座席でティアが心配そうにきれいな顔をしかめていた。柢王が飲みすぎた理由はわかっているし、本人はパイロットで
限度がわかっているにしても、別れた場所は繁華街だし、
「桂花を残しておくのも心配だしなぁ……」
悪い男が来ても桂花は相手にしないだろうが、でも気がかりだ。思わず、後ろを振り返ったティアに、
「あいつなら心配いらない」
アシュレイのきっぱりした声が言った。えっ、と尋ねたティアに、真っ直ぐな瞳を向けて、
「あいつなら何とかする。それにどうでもダメなら電話してくるだろ、俺たちがいるんだから」
はっきりと言い切ったアシュレイに、ティアは瞳を瞬かせる。
心のなかの半分は感動している。
(君だって心配してるくせに、そんなに信用してるんだね!)
が、残りの半分はその感動があるだけに、めらっとした焔がちらついて、
「君って、桂花のことよくわかるようになったよねぇ」
なんだか意地の悪い声で聞いてしまうと、アシュレイはとたんに真っ赤になって、
「あいつは柢王が好きな奴だから──だからしっかりしてるに決まってるだろっ」
そして、パイロットとしてはとっても信用している。ティアは心でつけ加え、そしてひそかにため息をつく。
(君って、本当に君、なんだよね──)
『大きくなったら俺がおまえを乗せて飛んでやるからな!』──子供のときにアシュレイが言ってくれた言葉はいまもティアの
耳の奥に残っている。老舗会社を若造が背負うのは決して平坦な道ではなく、泣き言を言いたいこともあった。そんなときに
その言葉がどれだけ勇気と目標意識を与えてくれたか知れない。
同じ場所にいられなくても、心はきっと側にいる。
『今度は俺が、世界一のパイロットになって、おまえを乗せて飛んでやるからな!』
クリスタル・アイランドの砂浜で、瞳を輝かせて誇らしげにそう言ってくれたアシュレイの顔を思い出すと、アシュレイに
とっても自分は特別で大事な存在なんだと、嬉しくて、胸が熱くなる──熱くなり過ぎ、理性が焼き切れたのがいまのティアだが。
いまも、アシュレイが桂花のことを信頼しているのを、嬉しいと思う気持ちと、自分のことだけ考えていて、と、ちょっと面白くないような気持ちと。
どちらもあるけれど、でも、本心は、たぶん、嬉しい。そんな自分の気持ちがちょっと悔しくて、
「ね、泊まってって」
ねだるようにそう尋ねると、アシュレイは、
「明日仕事だって言っただろうっ」
「うん、だから、間に合う時間に君の家まで送らせるから。だって君とゆっくり話す機会はあんまりないし、最近は私も君の便に思うように乗れてないし」
月に一度が「しか」なのか「も」なのかは本人規準だ。
「私たちは柢王たちと違って、同じ家に帰るわけじゃないんだもん。もっと君と過ごしたいよ」
文の前半はカップルじゃないから当然に違いないが、恋は盲目のオーナーは自分の発言でも前半は無視して後半に力を込めて訴えた。
と、赤毛機長はちょっと驚いたような顔をしたが、
「お、俺だって、おまえと会いたいと思ってるぞ」
今度こそ、照れたように窓の外に目を向ける。瞳がちょっとうろうろして、基本、ふだんのティアは大好きなアシュレイにとっては照れはするが本心だろう。
が、その言葉にさくっ、と理性跳ね飛ばしたオーナーは瞳輝かせて、
「ほんとっ? じゃ泊まってくれる?」
「えっ、でも、あの──」
「私のこと考えてくれてるなら泊まってってくれるよねっ?」
「そ、それはっ…だけど、もしフライトになったら……」
「そんなに夜更かしなんてしないよ。それにまだ時間は遅くないし」
宵の口と言ってもいいはずだ。
アシュレイがその言葉にうーんと考えこむ。ちらと腕時計を見たところを見ると、万が一フライトだった時の体調管理が
万全かどうか測っているらしい。
(あとひと押し!)
ティアはにわかに活気づく。アシュレイが泊まってくれるなんて久しぶりだ。かわいい寝顔を堪能しながらちょっといたずら
なんてしちゃおうかなぁぁぁ、など妄想が勝手に膨らんで、つい力んでもう一歩、
「ね、私のこと、愛してるなら泊まって」
うっとりするような笑顔で誘ったところ、赤毛機長は首筋まで赤くなり──そしてわなわな震え出した。照れてるのかなぁと、
オーナーはときめいたが、ついに堪忍袋切れたアシュレイは握り拳固めると大声で、
「愛してるわけあるかーーーーっ!! 運ちゃん、このまま俺の家に直行だーーーーーっ!!」
「ええええええーーーーーーーっっっ!!!」
後日──
一面の窓から離発着の機体を望める天界航空本社ビルの最上階では、
「そうか。そうだよねぇ、やっぱり、アシュレイにだって心の準備が必要だもんねぇ──」
『そーそー、やっぱおまえ、押して押してちょっとは引くぐらいじゃないとだめだって』
キレた赤毛機長に自宅に逃げられ、ひとり寂しく夜を過ごしたオーナーは、電話でステイ先の親友に恋愛相談。
こちらは違って恋人とステキな夜を過ごした親友は嫉妬のこととか自分は過去押せ押せ押せしかなかったこととか、そんな
ことはすべて忘れた上機嫌な無責任さでうんうんうなずき、
『ってことで、ま、回こなせばなんとかなるって。俺、そろそろ出るから切るわ。ま、がんばれよ』
「うん、ありがとう、柢王。また相談するねっ」
と、こういうときには当てにしてはならない親友の助言に礼を言ったオーナーは、よしと机を向き直る。
そこにあるのは青い海と空が白い砂浜の向こうに無限に広がるクリスタル・アイランドのリゾート写真。じっとそれを見つめ、
「そっか。タイミングと押しだよね。うん、負けないでがんばろうっ!!」
きらびやかな笑顔でうなずくオーナーが、そのパンフの下にあるクリスタル王室からの手紙を見るにはまだ時間がかかりそう。
「そうだ、明日のフライトに間に合うように、アシュレイに差し入れ買ってこよう!」
と、足取りも軽く売店に急ぐオーナーの気持ちを赤毛機長が本当に知るのはいつのことになるのか──。
ともあれ、ある意味では、ものすごく平和な人たちの物語だ──。
「ああ、そうか、桂花の新機種の研修、来月だったんだよね」
と、ティアがうなずく。
テーブルの上にはひとしきりの料理が並び、皿が来るたび、無理やり食わされた赤毛機長はぐったりうな垂れている。
「──ティア…おまえなぁ……」
丸呑みしすぎてかすれた声で、ようやくそう訴えると、
「あ、アシュレイったら、口の周りにソースついてる、私が取ってあげようか!!」
と、瞳輝かせたオーナーはナプキンに手を伸ばす──のではなく、なぜかきれいな口元、舌を覗かせる。ぞっと、前髪逆立てた赤毛機長が、
「自分で拭くからいいっ!!」
叫んで、さっと服の袖で顔を拭きながら座ったままで半歩退いたのは、実にすばらしい防衛本能だ。と、ティアは驚いた顔で、
「ああ、もう服が汚れちゃうのに!」
あたかも赤毛君が悪いかのような言い草。
「柢王たちがいるからって、そんなに照れなくてもいいのに──」
と、うっとりした笑顔で頬染めるその瞳は盲目を通り越して妄目──ありもしないものまで見えているような感じだ。
言葉にならない訴えを宿したアシュレイの瞳が再び柢王をスルーして、桂花の方にちらり。と、そのSOSを受けたように
クールな機長が口を開いて、
「はい、来月の頭から十日の予定です」
答えた瞬間、テーブルの気圧が一気圧くらい下がったような気がしたのは、その隣で、老酒の杯一気に飲み干した男のせいか──
パイロット一人につき、飛べる機種は原則一種類──。
あまり知られていないことだが、研修と試験を重ねれば増えていく路線と違い、携わる機体の種類はそうそう変わることはない。
飛行機は3Dを飛ぶものだ。前の機種の癖でちょっとやったら車輪つけませんでした、などということは絶対にあってはならないから、機種が変わるときはそうとう時間の訓練と適性検査をこなすことになる。
ただ、桂花が今回行くのは、そうした実際の変更訓練ではなく、最新型機種のおひろめ研修のようなものだ。旅客機の進化は
日進月歩。最も新しい機種は戦闘機と同じスティック・ラダー、コンピューターも数段高度で乗客数も増える。かなり大きな様変わりだ。
だからこそ、その機体に先に乗るのはおそらく、叩き上げのベテランではなく、ハイテクで育った若手たち。何が起きても
なんとかできそうな腕と性格の持ち主でフライト経験もそこそこの、有能な若手。製造元メーカーが各国のパイロット相手に
行うその研修の天界航空のメンバーのなかに桂花が選ばれたのは、まあそういう理由だ。新古米はまだまだ、柢王でももう少し
フライト時間がいるだろう。
その研修はメーカーの本社で行われるから、桂花はもちろん泊りで外国。とはいえ、それは必要なものだし、いずれ新機種が
導入されればすべてのパイロットがもっと厳しい訓練を受けることになる。その手始めの一歩のようなものだ。
そのあたりのことは、むろん、柢王にもわかっているはずだし、お互いに乗客の命を預かる仕事をしているのだ、ふだんなら
そういうことに文句は言わないはずなのだが──
微笑んだ柢王はまっグレイの瞳をティアに向け、
「仕事だから仕方ないけど──でも、ほんっと、あれこれ押しつけてくれるよな、ティア?」
がくっとくるような急激な気圧変化とそれに伴う大親友の凍りそうな目つきに、今度はオーナーが、瞬間身震いして、
「なっ、なにかあったの、おまえたちっ?」
「別に──なんにもねぇよなぁ、桂花?」
「ええ、なにもありません、オーナー」
と、黒白機長はさらーっと答えるが、そのさらーっとした答えに乗ってなにかちりちりする気配が到来。ティアは思わず、
いやが…あれこれを忘れて瞳を瞬かせた。
(て、柢王、ものすごく機嫌が悪い、よな……?)
基本的に愛情深いし、与え上手の優しい男だが、柢王は根底の気質はかなりはっきりしている。大事なことは胸に秘めて、
笑顔で悟らせないところもあるこの男は、だからこそ自分の欲しいもの・大切なものは明確にわかっている男で、
(け、けどなんで? 柢王が桂花に対して機嫌が悪いなんて、初めて見るよな?)
クールな機長の顔はいつも通りだが、その桂花の顔を見る柢王の目の色を見たら原因は桂花意外にないはずだということぐらい、ティアにもわかる。
だが、一目惚れした挙句押しに押しまくってようやく手に入れた恋人を、柢王がそんな物騒な目で見る可能性があると言ったら……
(うーん、私ならヤキモチ、とかかなぁ?)
と、こんなときには自分を客観的に見られるオーナーは心でつぶやき、え?と首をかしげる。
いや、柢王が実はかなりのやきもち焼きであることは知っている。というより、かれが桂花とつきあいだしてからわかったことだ。
誰も、自分の心をかき乱さない相手のことで愚痴を言ったり、地団太踏むようなことはしない。それは、空の上にいるアシュレイのことを思う自分の気持ちを思えば──こんなときはすっきり理解するオーナーだが──十分に理解できる。
(私だって、アシュレイがCAたちと合コンしたらものすごく嫌だし──)
と心で続けるオーナーの理解の正否はさておいても、そう考えると説明がつく。とうより、他に理由が思いつかない。
(で、でも、なんでいまヤキモチ──?)
以前は誰にでも等しく無関心だった桂花は、柢王とつきあいだす頃から少しスタンスを変え、誰にでも同程度の関心は持つようになった。
その結果、遠巻きに憧れていたCAとかパイロットのなかにも露骨に桂花に対する好意を表す者もいるとは聞いているが──
(でも、桂花が一番関心あるのはやっぱり柢王だろう? だって、同居までしてるんだし。他に桂花が関心持つって言ったら……)
ありがたいことに、自分たち──と、心で続けたティアは、再び心でえっ?と叫び、
(──ということは、柢王がいま妬いてるのって、私かアシュレイ? でも、私が桂花に会うのは十日ぶりだし、ということは──…?)
「ええーっ! アシュレイーーーーーーーっ?!」
「なななっなんだ、ティア、どうしたっ!!」
いきなり叫ばれ、ティアが何か考え事しているらしいこの隙にちょっとちゃんとエビ食べようと箸をそろーっと伸ばしかけて
いたアシュレイが飛び上がる。
それに対して、
『ちょっといま柢王の嫉妬ルートを考えたら君にいきついたんだけど君桂花となにかありましたっっっっ???』
勢い込んで尋ねたかったティアは、しかし、
「いっ、いやっごっ、ごめんねっ、ちょっと君のフライトのこととか思い出してたらねっ!!」
わけのわからない説明しながら夢中で首を振る。
いや、本心は別のことを叫んでいるのだ。アシュレイと桂花の仲がひんやりしていたのはもう昔のことで、
(大体、君って、反感持ってた相手に限って、気を許すとすごく懐いちゃうんだしっ)
桂花に対するアシュレイの態度の変りようにはティアも少なからず気にかかることがあるのだが、
(ここでそんなこと言ったらよけいに柢王の機嫌が悪くなるっ!!)
当の桂花が冷静な顔でいるのに、自分が指摘なんかしたらどんなことになるのか──試してみる勇気は、ティアにはない。
だからつい話を逸らしてしまうと、アシュレイはホッとしたように息をついて、
「いきなりびっくりさせるなよ。仕事のことなんかいま考えても仕方ないだろ。ほら、食え、うまいぞ、エビチリ」
と、来たばかりの熱々エビチリを皿に入れて渡してくれる。
目の前の気圧異常に気づかないどころか、自分がさっきまでしかけていた恋人ごっこのことすら忘れたようなその態度に、
ホッとする反面、ちょっとむっとしたティアはわざと上目遣いで尋ねた。
「食べさせてくれないの?」
瞬間、ボッ、と音がしてアシュレイの顔が真っ赤になり、
「自分で食えるだろーーーっ!!」
叫んだアシュレイの顔を、桂花がかすかにおもしろそうに見る。
瞬間、気圧がぐんと下がった。周囲の客が酸素マスクを求めるような顔でこちらを見る。が、桂花の笑みを垣間見てしまった
ティアのなかにも、なにかメラッッとした青い炎が燃え上がる。嫉妬とは実に感染力の強い病だ。
「まあまあ、アシュレイ、たまにはティアもいたわってやんねぇと。だよな、ティア?」
と、笑顔で老酒あおる柢王の底響きする声に、それが好意なのか牽制なのかはさておき、ティアも毅然とうなずいて、
「そうだよ、アシュレイ! 君は中華のお箸がなんで長いのか知ってる? それはね、儒教の精神を食卓にももたらせようという
試みなんだよ。天国と地獄には同じとても長いお箸がある。そのお箸で自分の口に食べ物を入れようとすると長さが邪魔になって
食べられない。だから自分のことだけ考える地獄の亡者はいつも空腹を抱えている。でも、天国ではみんながその長さを活かして
向かいの人の口に食べ物を入れてあげる。だからみんないつもおなかいっぱい食べることができるんだ。だから中華では人に
食べさせてあげるのが正しいんだよ」
と即席のでたらめをさも真理のように言い放った。
アシュレイが目を見張る。
「そっ、そんなの初耳だぞ、本当か、ティア?」
私の願望で脚色はしてあるけど。オーナーは心でだけつけ加えてうなずいた。博識にかけてはティアを信頼しているアシュレイは
とまどったような顔をしたが、つっこむ時につっこむ男が老酒あおって、つっこまないので仕方なし、
「エ、エビチリだけだからな……」
そっと、箸にオレンジ色のエビを掴んで半信半疑、差し出すと、ティアは恥ずかしげもなくパクっと食いつき、
「うん、おいしいっ、アシュレイ!」
さっと、蓮華に八宝菜掬って、
「じゃ、今度は君ね。あーんしてっ!」
「もっ、もういいだろ、ティアっ!」
「だめだよ、君はしてくれなくても、私は功徳を積むんだから。はいっ!」
瞬時に柢王の嫉妬のことなどけろりと忘れ、ハートマーク飛ばして赤毛機長に迫るオーナーの姿に、周囲の客たちは津波の
前の海のような引き潮になる。
「──あれが功徳なら俺なんか毎日積みたいくらいだな」
と、親友たちの姿を眺めながら、柢王が皮肉っぽい笑みで桂花にささやく。と、クールな機長は肩をすくめて、
「箸が長くて向かいにしか届かないなら、円卓である必要はないですね」
柢王が注ぎ足した老酒の杯を少し離れた場所におく。柢王はそれに軽く顎を反らして杯を空け、
「それ以前にあれは儒教じゃなくて仏教の話だろ。そもそもアシュレイ仏教徒じゃねえしさ。つか、ふつうは信じねぇだろ、
あんな話」
と、クールな美人は柢王の顔をまっすぐに見つめ、
「吾は、かわいいと思いますけれどね──」
紫の瞳が照明にきらめいて、その瞬間、原子炉のような熱量の湧き起こった円卓に、周囲の客は今度は押し寄せる津波のごとく注目だ。
『―――桂花、そこにいたのね。怪我はない?』
膝を抱え俯いた桂花に傷がないのを確認し、李々は『よかった』と呟く。
そして悪戯っぽく『怖かった?』と目をすがめた。
数十もの魔族の奇襲に、ただ、ただ怖くて、足でまといの自分がなさけなくて・・・
『隠れて泣くなんて男らしくなったものね♪』
『な、泣いてなんて・・・ない』
楽しげな李々に、桂花は顔を上げ反論した。
『はいはい、泣いてなんていないわ』
きめ細かい頬を伝う涙を伸ばした指で払い、
『怖いのを怖いって認めるのも強さの一つ。なにより難しいことだけど』
と、李々は震えの止まらない桂花をギュッと抱きしめた。
そして、
『そうだ、どうせなら思いっきり泣いてみない? スッキリするんじゃない?』
『そんなのヤダ』
笑って提案する李々に桂花は首をふる。
『ふふ。そう言うと思った。じゃあ・・・一生に一度。一度だけ大声で泣いてやるってのはどう?』
『一度だけ?』
『そう、一度だけ』
今度の提案には桂花もちょっと考え、そして頷いた。
『李々は嬉しいときにも涙が出るって言ったよね。なら俺は一番に嬉しいときに泣くことにする』
『―――桂花は頭がいいわ。ふふふ・・・』
見開いた目を細くし李々は嬉しそうに笑った。
その鮮やかな横顔に、桂花は李々と迎えるその時を疑うことなく信じ続けた。
過去の残夢を払い桂花は伏せた目を開いた。
今なら分かる。
泣きたかったのは李々ほうだ。
常に笑顔な彼女が時折見せる寂しげな顔。
あの頃の吾に力があれば・・・・
胸いっぱいに広がる苦味に顔を歪め、桂花は再び目を閉じた。
テーブル一杯に広げた和菓子の山。
包装紙から老舗和菓子屋のものとわかる。
『食ってみろよ。この味知らなきゃモグリだぜ』
浴びせた冷たい視線も目の前の邪気なき笑顔には効果なく、嘆息まじりに桂花は口に運んだ。
『どうだ!!』
『―――美味しいです』
素材のを生かした繊細な味に桂花は目を見張る。
『だろっ!!作ってる親父が頑固でさ「柢王さまもお並びくださ・・・」ってンなのいいから食え、食え』
満足気に笑い、柢王は次々と桂花に菓子を押し付ける。
並んでいたのか・・・どおりで朝から姿が見えないと思った。と呆れながらも桂花の頬もゆるんでいく。
『最高!!それ一番』
『こないだも言いましたよ』
白い衣装をひきずり桂花は反論する。
『こないだは、こないだ。今は今。コレがホント』
『って次も言うくせに』
あきれた口調を装いつつも口元の笑みを隠すことはできなかった。
黒い水の中、押し寄せる過去を断ち切るよう桂花は瞳を開いた。
思い出は風化する。だが魔族の記憶に劣はない。遙か昔の出来事すら鮮明に再生してしまう。
李々なら消し去ることができるだろうか。
思ってはみても、唯一残された柢王の軌跡を失くすなど桂花にできるわけもなく。
―――――『絆なんてものはけして信じてはいけない』―――――
繰り返し唱えた李々の言葉が甦る。
李々は正しかった。吾が従順であればこんな辛い思い、いや、此処に居ることすらなかったろうに。
・・・だが、やり直すことができたとしても吾は間違いなくあの手を取るだろう。差し出され、そして最後に残されたあの腕を。
黒い水の中、桂花は柢王に身を寄せる。
腕から再生された器だけの身体に。
そして優しく微笑みかける。彼が好きだといった表情(かお)で。
音も光りも愛をも伝わることのない恋人を胸に抱き、
泣きたい時に泣けなかった、里親と同じ路をたどりながら・・・。
Powered by T-Note Ver.3.21 |