投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
と、
「俺たちの好きは、なんだって──?」
背後から、ものすごく聞きなれた声が、妙に機嫌よさそうに尋ねた。
が、その響きはなんでだか乾いた空気で火災注意の真冬の晴れ日を思わせた。なぜかすぐに振り向く気になれず、アシュレイは思わずまなざしで桂花を伺ってしまう。と、クールな機長は顔色も変えず、側に来た男の顔を見上げて、
「早かったですね、柢王」
やっぱりこれは柢王? アシュレイはおそるおそる振り向いて、息をつく。たしかにそこにいるのは制服姿の柢王だ。
が、日差しのようなあたたかな男のその、笑顔の後ろにある『晴れの日の後には寒波が来ますよ』というような底知れない気配はなじみのないものだ。
目をぱちくりさせた機長の頭上で、大親友はその恋人のきれいな顔を見つめて、
「偏西風に乗ったからな。つか、なんか取り込み中みたいだけど、深刻な話?」
笑みを浮かべながら、ちらりと下げた視線が、まだ桂花の腕を掴んでいるアシュレイの手の上でバウンド。瞬間、こすった下敷きで毛を撫でられた猫のように赤毛機長の肌に粟が立つ。なんかここものすごい静電気だけどなんでっ??
が、クールな機長は軽く肩をすくめるようにして、
「こんな場所で取り込める話題なんて知れたものです。アシュレイ機長、柢王が戻ったならオーナーのところへ伺いましょう。そろそろいい時刻だと思いますよ」
さらりと言って立ち上がる。
自然、アシュレイの手は桂花の腕から離れたが、アシュレイも柢王が戻ったのにそれ以上話は続けられない。なんでもわかってくれる大親友だからよけいに言えないこともあるのだ。頷いて、
「だよな。俺、ちょっとティアのとこに電話してみるから」
話はまた聞いてもらおうと、気持ちを切替え、電話をかけに廊下に出て行った。
その、背後で──
「ねぇ、いまの見た? 桂花機長とアシュレイ機長のツー・ショット! あれってなにー?」
「アシュレイ機長が真っ赤になって桂花キャプテンの腕掴んでたわよねぇ!」
「やっぱりあのふたりラブラブなのかしらっ」
「えっ、でも柢王キャプテン見てよ、なんかちょっとあのふたりのツーショットも……」
こわいんですけど……。呟いた、CAの言葉を証明するかのごとく、窓の側では目端の利く人なら気づく、なにかふしぎな空気が立ち込めている。
「──で、いまのはなに?」
荷物足元、腕組みした黒髪機長が桂花に尋ねる。笑顔の割りに瞳の色はグレイで、例えていうなら豪雨の前の空のよう。桂花がそれに落ち着いた顔で、
「なに…って、ただの世間話ですが?」
「って、こーんな世間話って、あんの?」
と、腕組み解いた柢王が桂花の腕をガシッと掴んだ。瞬間、後方から黄色い悲鳴が上がる。
が、クールな機長は、低気圧の気圧配置を瞳の中に隠し持つ恋人の顔をまっすぐ見つめ、
「あるかどうかというより、あったのだからあるのでしょう。そんなことより、吾たちも出た方がいいのではありませんか。アシュレイ機長が電話したなら、オーナーはたとえ無理をしてでもすぐにいらっしゃると思いますよ」
落ち着き払った答えをよこす。
その冴えたまなざしをじっと見つめた柢王も、ああと答えると腕を放して、
「ま、ここじゃあれこれ気が散るから置いとくにして、うちに帰ってからでも話はできるよな。どうせ俺たちは明日は休みなんだからさ」
にっこりと、微笑んだ機長に、クールな機長は見惚れるような笑みをよこして、
「きっと、うちに帰るまでには、忘れてしまっているでしょうね」
スーツケースを掴むと歩き出す。
確固としたその背中を、舌打ちした機長が同じくスーツケース掴んで追いかけて、出て行くふたりの背中は白と黒とにチェスボードの上のような微弱な緊迫感。残された人たちは、静電気に吸い寄せられる埃のごとく、なぜとわからないまま視線を奪われている。
*
「ほら、アシュレイ、君の好きな北京ダック!」
「わっ、わかってるって、そんないちいち言わなくても!」
「あ、ほら、君たちは体が資本なんだから、ちゃんと野菜も食べなくちゃ」
「だから自分で食うって言ってっ…んぐぐっっ!」
「わっ、そんな感激するほどおいしいの、アシュレイっ!」
と、目をハートマークにしたオーナーが感激する隣の席で真っ赤な顔で手足ばたつかせている機長は、ただいま口に突っ込まれた青梗菜が丸ごと食道通過中。息ができないので慌てているだけだ。
円卓の向かいの席からそれを眺めた柢王が、
「……な、さっきの世間話の内容って、あの新手のいやがらせと関係あること?」
複雑な目をしながら隣の桂花にささやいたのは、某高級ホテルの最上階にある評判の中華料理店。お仕事帰りの経費でご飯の真っ最中だ。
美しい照明とテーブルセッティング。洗練された空気漂うその店の上席にも関わらず、次々に繰り出されるあーん、攻撃に、
「ティアっ、おまえさっきからなぁっ!」
ようやく青梗菜飲み込んだ機長が赤い顔をして叫ぶ光景がさっきから何度繰り返されているのか。だが、仕事帰りのスーツも艶やかなオーナーは、きれいな顔を嬉しそうに上気させて、
「嬉しいよねぇ、君と一緒にご飯食べるの、すごく久しぶりなんだもん。たくさん食べてね、アシュレイ。あ、柢王も桂花も遠慮しないでどんどん食べてね、ここ、なに食べてもおいしいんだよ」
と、一応、ほかのふたりの存在も忘れていないらしく微笑んだ。が、その瞳は完全ハートマーク。それを見た黒髪機長は心の中で、
(つか、おまえ、絶対食いたいもん、違うよな、ティア……)
確信を持ってそうつぶやいた。
もとがオーナーとパイロット、バラバラのシフトで働いている四人だ。柢王が、同居中の恋人である桂花と揃って食事するのだって月に半分あればいいところ、だからこの四人が揃って会うのも実に、クリスタル・アイランド以来、ということになるのだが──。
(島でなんかあったんだろうなぁ──)
そもそもティアはデュラム・セモリア教徒がアルデンテ命を信条にするのと同様に、生まれながらに血管にアシュレイ命が流れているようなアシュレイ信者だ。
だが、幼馴染で大の親友であるふたりの関係は、少なくともこれまではそんなセクハラ──もとい、強烈な押しの嵐を生み出すことはなかったはずで──まあ、近似事項はあるにしろ──だからこそ、ティアがまるでネジが外れたようにいきなりセク…いや、アシュレイに対して押しまくるには、なにかそうなるきっかけがあったと考えるのは妥当なのだが……。
(っても、アシュレイがあれじゃあなぁ……)
「はい、アシュレイ、あーんしてっ」
蓮華にかに玉掬って差し出すティアに、
「だから、俺はひとりで食うって言ってるだろっ」
文句言うアシュレイは照れているのではなく、怒っているのだ。いや、半分は困惑? 周囲から好奇の視線が向けられるなか、顔から火が出そうな様子でティアのセク…ええと、強烈なプッシュに耐えている。
勝気で強気で一途な親友は子供のときから恋愛関係においてはおくてで、うぶ。遊び散らしていた柢王やそこそこあれこれいろいろオトナのジジョーとかあったティアとは違う。ただの人間関係だって時に不器用なほどこなれていないのに、
(あんなセクハラ、困惑するに決まってんだろうに──)
なにがあったか知らないが──というか、ティアの態度は暴走しすぎて、なんかそれ、いやがらせ? と言いたくなるほど浮かれている。
「つか、なんとかは紙一重っていうか……」
もしかして、仕事が大変すぎて大事なネジの二、三個、どこかに落としたのではないだろうかと、リゾート帰りでネジとか箍とか外れた人たちをたくさん見てきた黒髪機長はひそかにつぶやく。
「だから、ティア、俺は自分で食うって言ってるだろっ」
冷や汗かきながら、ティアの差し出す蓮華を押し返そうとするアシュレイの瞳が、救いを求めるようにちらっ、と柢王──を通り過ぎて桂花に向く。
瞬間、黒髪機長のなかに、なにかめらっとした青い火花が散ったのは、先刻のカフェテリアでの様子を思い出したからか。
もとが人間関係に不器用なアシュレイは、誇りも高い、子供のときから誰かに相談することができないたちで、ふたりのことを知り尽くしている自分にティアのことを話すのはかえって難しいかしも知れないことは柢王にもわかる。
だから、アシュレイが桂花に相談したのかも知れない、ということは柢王にも察しはつくのだが──
(だからってさ──)
柢王は視線をちらと隣にいる桂花に向ける。目の前のセクハラにも動じた様子もなく、淡々と食事を口に運んでいる恋人の顔はいつも通り冷静そのもの。
だからこそ、その、
「オーナー、近頃、お仕事はいかがですが」
さりげなく円卓の肉の皿を柢王の前に押しやりながら尋ねた桂花の声に、我に返った─のかはわからないが─のか、
「ああ、そういえば、これはまだ本決まりじゃないんだけどね」
もしかしたら今度、VIPフライトの話があるかも知れないんだよね、と話し出したティアに、開放されたアシュレイがホッとしたように、息をつき、感謝のまなざしを桂花に投げたのが、また柢王の気圧を低くする。
いや、別に、なんということはないといえばない、はずなのだが──なんとなく面白くない気持ちがあるのはなぜなのか、黒髪機長本人にもわからないのだが。
が、フライト命の親友はすぐにその話題に飛びついて、
「VIPって、うちが機体貸すのか?」
民間の貸切ならともかく、いまどき、VIPフライトといえばその国の軍が操縦して行うのが普通だ。昔みたいに何々航空が旗立てて国賓を送迎ということはめったにない。
と、オーナーは仕事のときの顔でちょっと苦笑いして、
「機体もだけど、たぶんパイロットも──でもいまはまだそういう話があるかもしれない、という程度だから詳しいことは話せないけど」
「って、うちのパイロットが乗るってことか?」
と、アシュレイがさっきまでのセクハラを忘れた顔で目を丸くする。
その父たちからかつての話は山ほど聞かされて育ったアシュレイと柢王だが、コクピットにいるパイロットも気は使うし、時間はあれこれ変更されるし大変だが、とにかくグランドスタッフやCAたちが本当に大変なのがVIPフライトだという話だ。
「もしあったら、受けるつもりか、それ?」
尋ねたアシュレイに、ティアが苦笑いを深めて、
「名誉なお話だとは思うけど──私の一存ではなんとも言えないよね」
そう答えたのはその、名誉とリスクと労力を会社単位で勘定したときの採算がどの程度か測りきれない、ということだろう。
その言葉にパイロット三人はうなずいたが、どのみち、実現されたとしても、そういうフライトはたいてい、スーパー・キャプテンと呼ばれるような超ベテランが数人チームを組んで担当するのが普通で、腕はともかくキャリアはまだ若いかれらに直接関わる話とは思えない。
だからか、ティアもすぐにその話は終わって、
「それでおまえたちは最近どうなの? あ、アシュレイ、このエビチリもおいしいよ、食べながら話そうよ」
と、再び、エビを箸につまんで、あーん攻撃。
赤毛機長が真っ赤になって、
「だから、おまえなっ」
叫んだ口に、エビが押し込まれて赤毛機長が手足ばたつかせる光景が再会される。
「つか、やっぱいやがらせ?」
黒髪機長は心底気の毒そうに、隣の恋人に首を振った。
コポ・・コポ・・・・。
口からこぼれていく小さな球体が、踊りながら水面に向かってのぼっていく。
学校の屋内プールには空がない。
歪みの向こうを水底から見ていた氷暉は、ゆっくり視界を閉じた。
こうしていればまた、どこかのそそっかしい奴が、溺れていると勘違いして自分に向かって飛び込んでくる・・そんな気がして。
騒がしいのはきらいだ。めんどうな人付き合いもごめんだ。
すべてのノイズをシャットアウトして一人きり―――・・・・そんな孤立した世界に突如現れた赤い髪。
初夏の屋外プールで、ろくに話もしない間に彼に惹かれ、珍しく自ら行動をおこしていた。
あれから、なかなか合わない時間を調整しながら、プールで待ち合わせをして特訓した。
練習回数が少ないわりに、アシュレイは上達が早く、秋には完全に犬かきは姿を消し、誰もが認めるみごとなクロールをマスターしていた。
しかしこのまま手放すつもりなどなかった氷暉は、背泳ぎや平泳ぎも教えてやると言いだし、今につづいている。
そんな風に、充実した日々を送っていた彼の耳に先日、非常に不快なニュースがとびこんできた。
以来、氷暉の胸に黒い染みがにじんで消えない。
水面をパシャパシャたたかれ水中から顔を出すと、氷暉の胸に『黒い染み』をつくった張本人が立っていた。
「氷暉・・・って、あなたですか」
「そうだ」
「アシュレイがいつもお世話になってます―――けど、もう結構ですよ。じゅうぶん泳げるようになったし、これからは私が教えますので」
「・・・・」
「今日はもう、先に帰しましたから。彼を待っていても時間のムダになってしまうと思い、私が代わりに」
挑発的な瞳。
整った顔というのは、表情を固めると、こうも冷たい印象を与えるものなのか。
「アイツがそれでいいなら異論はない」
あのアシュレイが、一度はじめたことを中途半端にできるタイプではないということぐらい察しがつく。だからこそ、氷暉は顔色もかえずに頷いた。
「そうですか。話の分かる人で良かった。既にご存知かと思いますが『彼は私の恋人』なので」
強調された、譲れない言葉につい反応して、氷暉の瞳が細くなる。
「――――あんたの、教室でのパフォーマンスには、アイツもかなり怒っていた。恋人?・・・笑わせる」
「笑われても。本当のことですから」
勝利の旗を背後に掲げ見下ろすティアランディアに、怯みもせず余裕の態度で応える氷暉。
「笑うさ。俺の時みたいに、“ あいつの方から ”してきたっていうなら分かるけどな」
「!?」
「ウソだと思うならコイビトに訊いたらどうだ?」
口角をあげた氷暉を、殺すいきおいで睨み、踵をかえすとティアは姿を消した。
ほんの少しだけ溜飲が下がった氷暉はそのまま水をかきわけて泳ぎだす。
俺もいい加減、おとな気ない――――。でも、これでいい、宣戦布告だ。
「氷暉」
呼ばれた気がして止まると、赤い髪がこちらを見ていた。
胸がざわつくのを感じながら、彼のいるプールサイドへと向かう。
「どうした、帰ったんじゃなかったのか」
「氷暉ごめん。オレ泳ぐのやめる」
「・・・・」
「でも、ちょっとの間だけだ。まだ平泳ぎ完璧にマスターしてないし」
「・・・そうか」
ザバッと水から上がり、渡されたタオルを手にとると、頭を拭きながら赤い髪に手を伸ばす。
「――――伸びたな」
「だろ?めんどくせーけど約束だからな」
ニッと笑うその白い歯に引き寄せられて顔を近づけたが、我にかえりとどまる。
ここでティアランディアと同じことをしても警戒されるだけだ。自分はあの男ほど信頼があついわけじゃない。
「なんだよ」
赤い髪に手を差しこんだまま動かない氷暉に、怪訝な顔をするアシュレイ。
「いや。それじゃあ俺も帰るとするか」
「わりぃな」
「気にするな」
クシャと柔らかな髪を軽くつかんで離した氷暉は、シャワー室に歩いていきながら、優しい声色でささやく。
「ひとりで悩んで結論を急ぐな。お前にはオレがついてる」
「氷暉・・・」
「泳ぎたくなったら言え、待ってる・・・・あぁ、そういえば、さっきお前の恋人だと言いはる男がきたぞ」
「ティアが?!なんでっ、あいつお前になんか言ったのかっ」
何となく察しがついているのだろう、顔が赤い。
「フン。お前に近づくな、ってことだろ」
「あのヤロ〜・・・変なカン違いしやがって。悪かったな氷暉、気にしないでくれ」
「・・・・・あのこと奴に言ったからな」
「あのこと?」
「お前が俺に施した人工呼吸モドキ」
「え゛」
「そういう訳だから、しばらくは奴に近づくなよ。ムリヤリ喰われるぞ」
自分でライバルを扇動しておきながら、アシュレイには「気をつけろ」と言う。
その矛盾した行為に苦笑しながら、トンと細い背中を押して、シャワー室から彼を追いだしドアを閉める。
「べ、別にティアに知られても、どうってことないからな!おれは人命救助しただけだっ」
「あれがか。ただ唇をぶつけてきただけだろう、人工呼吸というよりは、むしろ不慣れなキ・・――」
ドンッ!!
ドアを蹴り上げる音と同時に怒号が響き、思ったとおりの展開に氷暉はわらう。
鏡に映った顔。
アシュレイといるだけで機嫌がいい自分、というのも滑稽だったが、かまわない。やっと自分を変えてくれる相手に出会えたのだ。なりふりかまってなどいられない。
「覚悟しろよ・・・・アシュレイ」
静かになったドアの向こうを振りかえり、氷暉は一人つぶやいた。
「…なあ、おまえ、柢王のどこが好きなんだ?」
一面の窓の向こうに離着陸の機体が望める社内のカフェテリア。
窓の外を見たままの赤毛の機長が、口にストローをくわえたままで、隣りの白い髪の機長にふいに尋ねたのは、春間近のおぼろな光が窓の外に薄れていこうとする時刻。
クリスタル・アイランドから戻って以来、なにやら考え事しているらしい赤毛の機長のいきなりの問いに、クールな機長は軽く考えるような顔をして、
「どこが…ですか?」
落ちついたまなざし向けるのに、赤毛機長は慌てて言い直した。
「いや、俺はあいつのいいとこはわかってるぞっ、あいつ昔から女にはだらしないけど芯はすごくきちっとしてるし、優しいし、言わなきゃいけないことはちゃんと言ってくれる奴だしッ…あっ」
慌てすぎたせいで前提によけいすぎることつけ加えた機長は狼狽するが、クールな機長はいつものごとく冷静な顔で頷いて、
「そうかもしれませんね」
まるで「女にはだらしない」の項目までも肯定したような落ちつきぶりだ。その態度に、赤毛の機長は、驚いたように瞳を瞬かせる。
国際空港間近にある老舗航空会社・天界航空。
幼馴染であるティアランディアが若くしてオーナーを努めるその会社に、アシュレイと、同じく幼馴染の柢王とがパイロットとして入社したのはもうだいぶ前のことだった。
『大きくなったら、俺が絶対おまえを乗せて飛んでやるからな!』
子供のときに大好きな親友に誓った言葉どおり、勝気で一途な赤毛小僧が機長になってからでも気がつけば一年はとっくにすぎて、米なら新米が新古米になったくらい。食えないところまではまだいかないが、そこそこに、こなれはじめてはきた感じ。
もちろんまだまだ発展途上の身ではあるし、経験値も低い。
夢中で飛んで楽しくて楽しくて──責任感はもちろんあったけれど、機長を頼りに飛んでいたコー・パイ時代のそんな気持ちとはまた違う、シビアな重みと、だからこその充実感を実感する日々だ。
運送業とサービス業、そして命を預かる現場責任者。空の上ではパイロットだけが、その場を救う唯一の存在となりうると、腹の底から実感するのがコクピットの右に座った者の運命だ。
だからこそ、もっとうまく、もっと完全に、どんなことに揺るがないようにと──この赤毛機長も、心から望んでいるのだが……。
「でも、なぜそんなことを聞くんですか」
「えっ」
我知らず、ため息をついていたアシュレイは、桂花の問いに、一瞬目を見張り、そして、我に返ってあああっと叫んだ。そうだった、質問したのは自分の方で、しかも最大関心事項は人の恋愛のことではなかった!
*
「オーナー、今日はずいぶんと嬉しそうですね」
資料を持って部屋に入ってきた広報部長の言葉に、天界航空オーナー、ティアランディアはきれいな顔をうなずかせて、微笑んだ。
「今日はひさしぶりにみんなで食事をするんですよ」
「ああ、それは楽しみですね。みんな、今日は休みですか」
「いえ、みんなフライトで明日が休みなんですけれど──柢王はまだ飛んでいるはずだけど、アシュレイと桂花はもう着いている時刻だと思うんだけど……ふたりとも、遠慮しないでここで待っていたらいいのに」
それとも、遅延か何かでまだ本社に戻らないのかな。
呟いた、オーナーの机の上の書類の山は普段のこの時刻の三分の一以下。なかなか一緒に会えない親友たちとの会食のため、一生懸命仕事を片付けようとするオーナーの姿に、このオーナーたちのことは子供のときから知っている広報部長は微笑んで、
「もしふたりに下で会ったら、こちらへ来るようにいいましょう。それと、こちらに、昨年に引き続いてクリスタル・アイランドへの旅行部門の特別ツアーの企画書も一緒に持って参りました。まだ原案ではありますが、お客様からの問い合わせも多く、今年も集客が見込まれると思いますので」
とティアの前に封筒を置く。
と、
「ああ、クリスタル・アイランド……」
オーナーの瞳はなぜだか、とたんにうっとりとした色を浮かべた。
クリスタル・アイランドは西の方にあるリゾート地で、天界航空としてもかなりの熱意をもって新規乗り入れしたところだ。むろん、ティアも山凍部長も何度も行ったことがあるし、先般のニア・ミス事件のときなど、ティアは文字通りすっ飛んでいった。
だけに色々な感慨があるのか──とも思われるが、ティアのそのなにか幸せなことを思い出すような微笑は、そうと解釈するにはなにかが違うような気配がある。
とはいえ、そこにいるのは、オーナーの幸せがなによりで、基本、鈍い広報部長だ。
「また時間のあるときに目を通していただいたら結構です。今日は楽しんでください」
何も気にせぬ笑顔でそう言うと、一礼して部屋を出て行った。
残されたティアは、そのきれいな瞳を宙に向ける。
ふだんなら、温厚だけれど明敏で仕事のできる業界最若手のそのオーナーは、しかし、書類の向こうにイリュージョンでも見るかのような顔で深いため息をついた。
「クリスタル・アイランド──アシュレイが私のために世界一のパイロットになってくれるって、抱きしめてくれた島だよねぇ……」
幸せそうに、微笑みながらのその呟きの文節的なアクセントは『私のために』と『抱きしめて』がフォルティシモ無限大、だ。
*
「あ…あのな、おまえ、口堅いよな……?」
言葉を選んで選んで、ためらった挙句の赤毛機長が相談する方なのに失礼なことを口走ったのはカフェテリア。が、何事にも動じないと定評のあるクールな機長は、かすかに面白そうな顔をして、
「場合によりますが……誰かに告白でもされましたか」
ズバリ、核心を突かれて、赤毛機長は一瞬、椅子の上でほんとに15センチばかり飛び上がった。
「なななななななんでっっっ」
叫んだアシュレイに、
「なんとなくそんな気がしたのですが──」
微笑むクールな機長は、相手が誰かと聞きもしないが、
「テ…ティアがな……アッ! 言っとくけど告白とかじゃないからなっ! たっただ最近接近度が激しいだけだからなッ!!」
先越されたようでうろたえ叫んでしまった機長に、周りの好奇の目が突き刺さる。
ひぃぃと、墓穴続きのアシュレイは真っ赤になったが、クールな機長は静かな顔で、
「それで、どこが好きか、ですか?」
尋ねた。
なんとなく、周囲に薄いフィルターを貼るようなその静けさのおかげなのか、こちらを食い入るように見ているCAたちの興味津々なまなざしは感じても、誰も近づいて来ない。アシュレイはホッとしたと同時に、感謝する。
以前の桂花はいつもそんなフィルターを身にまとっていて、それを突き破って接近したのはたぶん柢王が最初だろう。
誰かを好きになると、傷つくことなど考えずに接近したくなる、そういうものかも知れないと、この機長を恋人にしてしまった親友のことを思うと思えてきてしまうのだが、それが自分のこととなると話は別だ。
子供のときからの親友であるティアのことを、好きか嫌いかといえばもちろん好きで──それも相当かなり大好きなのは間違いないが、ベタベタされるのはちょっと……というかなんだか接近のし方がちょっと……・。好きは好きでもちょっと、違う感じの好きではないかと、赤毛機長が思い始めたのは今日この頃。
(そ、それはクリスタル・アイランドでは人目はばからずに抱き合ったりしたけど──)
でもあれは、なんていうか感激のハグ? というより憚る以前に誰もいなかったし? とにかく、よこしまな気持ちじゃなくて純粋なものだったのに……。
あれ以来、ティアの様子がなにかおかしい。
(いや、べたべたするのは前からだよな。それにいっつもメールも来るし、ステイ先にも電話してくるし……)
それは当たり前のようなことだからいまさらとしても、どうも、
『ねぇ、クリスタル・アイランドって縁結び効果もあるところなのかな? 柢王たちもあそこから同居に踏み切ったわけだし』
そんな効果あったらCAたちが黙っているとは思えないが?
『私たちも柢王たちにあやかってあの島からスタートするって言うのもいいよねぇ?』
うっとりと、微笑んでいたあれはなにを意味していたかを、なにか聞いてはいけない気がして聞かなかったのは、この前の近距離フライトの時。サテライトで、日帰り便に乗ってきたティアとお茶を飲んでいたときのことだ。
(いや、あいつが変なのは前からだけど……季節柄かな? 季節の変わり目って変なやつ増えるんだよな?)
あの目が──なにかティアのあの瞳が──……。
(俺の勘違いかな? それともひょっとして、浜辺で抱き合ったからかな? いや、だけどあれはなんていうか感激のハグ? というより……)
以下同文。赤毛機長の頭の中を同じことが繰り返されるようになったのは、その、オーナーの自分を見る目がなにか以前と違う気がするから。
それがなぜかなど、人に聞いても仕方ないのだが、自分を見るティアのハートマークのまなざしに、どんな態度を返していいかわからないアシュレイとしては、なんでもいいから話を聞いてくれる人が欲しかったわけで……
「……おまえと柢王のこととはわけが違うのはわかってるんだ。俺とティアとはずっと幼馴染だし、俺だってティアのことは好きだし、でも、なんか、その……」
「恋人としては好きではない、のですか」
「こっ、恋ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーっ!!!」
叫んだアシュレイは、ざっと周囲からすごい勢いで突き刺さった視線にウッッと身震いをした。慌てて声を押し殺して、
「おまえなっ、恋人とかって、俺とティアとは違うからなっ! 俺たちはただ親友でっ…」
と、思わず桂花の腕を掴むと、桂花は冷静に、
「人を好きになる規準は人それぞれですし、境界線も一定のものではないとは思いますが──この話は後日の方がいいかも知れませんよ」
ちらと横目を使ったのに、
「だけど俺たちは違うからっ、俺たちの好きはっ……」
言いかけたアシュレイは目を見張る。
なんだか背後から迫ってくるこの気配はなんですか? 例えて言うなら西高東低冬型の気圧配置、頭の後ろの毛がちりちり逆立つような、雲で言うならまっグレイの雷雲なんですけど?
ぽかぽかと暖かい――少し動けば汗ばむほどの陽気である。
柢王が杯を口元に当てつつ見上げた先、ちょうど満開となった桜があった。
二人の家の程近く。最近の陽気で盛りになったと、折良い休暇に花見としゃれこんだのである。
柔らかい草が天然の絨毯となって二人分の体重を受け止めてくれる。常春の東領でもこの時期の緑は一際目に鮮やかだ。
「ごっそーさん」
桂花お手製の弁当も空になり、柢王はぐいと杯を干す。こんなに風が気持ちよい日は、冰玉も見知らぬ場所まで足を――羽根を、というべきか――伸ばしていることだろう。
肩に置かれた白い頭が震えている。ほろ酔い加減の桂花はなぜだかひどくご機嫌で、さっきからくすくすと笑い続けているのだ。
「んー、どうした? 桂花」
ふふ、と桂花は笑って緩慢に腕を上げた。
「すごい贅沢・・・ふたりだけで、こんな桜」
指し示す人差し指が、いつもならぴんとまっすぐなものを、今日はふわりと緩んでいる。
「綿みたい・・・」
つぼみは咲ききり葉はまだ出ていない、花びらの色だけの光景は壮観だ。ひとかたまりになった花は牡丹雪のように枝をふわりと包んでいる。
「綿、ね。確かにな」
柢王は昔お忍びで行った祭りを思い出す。引率してくれた山凍に、三人分の綿菓子を買ってもらった。アシュレイはあっという間に食べて口の周りをべたべたにしていたし、直接かぶりつくということを知らなかったティアランディアは手でちぎって食べようとして、手をやはりべたべたにしていた。口も手も汚さずに上手に食べた柢王が水場に連れて行ってやったものだ。
「甘いかな、あれ」
「あまい・・・?」
ひとり言をすくいあげた桂花の頭が傾き、柢王の胸の位置までずれてくる。
「おいおい、ちょっと待てって」
柢王は後ろに下がって木の幹に背を預けた。桂花の頭がちょうど胡坐をかいた脚の上に収まる。
「んー・・・」
満足そうなため息で桂花がわずかに頭をずらし、居心地の良い位置にたどり着いた。
「どうした? 今日はずいぶん甘えてくれるな」
紫水晶の瞳に浮かぶ光は柔らかい。桂花は無言で手を伸ばしてくる。
柢王はその手を捉えて指に唇を寄せる。銜えた指先は甘かった。
まるで砂糖菓子のように。
あの日、あの時、あの瞬間に吾の世界は色を失ってしまったのだろうか。
輝く星も、澄み切った空も、咲き誇る花も、吹き渡る風も、何も見えない。
見えるのは過去の記憶だけ…。
愛する人が教えてくれた星の名前、愛する人と駆け回ったあの空、愛する人が摘んでくれた美しい花、愛する人が生み出していた風。
見えるのは愛する人の記憶だけ。
なぜ吾が愛する人は皆、吾を置いて行ってしまうのだろう。
色を失った世界で生きていくことはこんなにも辛いというのに。
後を追うことも許されずに。
なぜ吾はまだ生きているのだろう。
あなたが命を失う時には吾もその手で殺して欲しい、そう願ったらあなたは吾を怒っただろうか。
「生きていることと死んでいることは違う」
そう言ったあなただから、きっと吾を怒っただろう。
だけど。
吾の願いは決して生きていても死んでいても変わらないから死んでもいい、というものではない。
あなたが…吾の全てだから。
あなたがいない世界で生きていくのは、あなたを失った瞬間の何倍も苦しいから。
だから、例えこの命を失ってしまうとしても永遠(とわ)にあなたと共に在りたかった。
記憶だけを残して旅立っていった人。
記憶すらも失って全てを、あなたを忘れてしまえれば、きっと楽になるのだろう。
あなたの記憶がなければ、あなたを思い出すことはない。
あなたを忘れてしまえたら、あなたを想うことはない。
そして吾は楽になって…胸の痛みを感じることもなく…そして幸せになるのだろうか。
何を感じることもなく何を想うこともなく、ただここにいて。
吾は…あなたといることが幸せだった。
あなたがいれば何もいらなかった。
でも。
愛する人はもういない。
それならば。
あなたの記憶を抱えて、胸の痛みすらも共に生きていくしかないのかもしれない。
どんなに辛くても、悲しくても、あなたを失った吾はあなたの記憶までも失うことは出来ないのだから。
愛する人は手の届かない場所に行ってしまった。温かい記憶だけを残して…。
Powered by T-Note Ver.3.21 |