投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
「なぁ、アシュレイ。うちの署のために一肌脱いでくれよ」
柢王は猫撫で声で言いながら、抱えていた箱を無理矢理アシュレイに押し付ける。
「どうして俺(たち)がっっ!」
赤い髪を逆立てて怒るアシュレイに、ティアはにっこりと微笑むだけで何も言わない。
「ほらほら、桂花はとっくに着替えに行ったぞ。お前はここで着替えてくれるのか? ん? それなら俺はこっから出ていこーかぁ?」
「ばっっバカなこと言ってんなっ!!」
シャーッと猫のように全身逆立てて怒ったアシュレイは、バタンと大きな音をたてて部屋から出て行ってしまった。
「かわいいなぁ、食べちゃいたいくらい」
「────」
一度眼科に行って精密検査受けた方がいいんじゃねぇのか と口の入り口まで出かかったが何とか堪えた。ここで何を言ってもきっと聞こえていない…いや耳に届いていないことは毎度のことである。
「あんなに怒るとは…、後で宥めとけよ ティア」
フォローは任せたぞと、正面に座った署内最高責任者に振る。
「うん、任せておいて! あっ、君の前でアシュレイに生着替えなんてさせないからね! 柢王」
そういえばどんなデザインの服を用意したの? と問われても柢王はニヤッと意地の悪い笑みを浮かべて答えない。ティアはこの先どうなるかわかっていなかった、柢王の用意した制服がどういう結末を導くかを。
「べっつにー、今更あいつの全身見たってどーってことねぇけどな。それに更衣室で着替えてんの見てる…」
すーっとティアの視線が鋭くなったのに気が付き、口を閉じる。ガキん頃はしょっちゅう一緒になって水浴びしたりしてたんだからと、続けたかったがぐっと腹の中で抑え込んだ。そういえばガキの頃は気付かなかったが、いつの頃からかアシュレイに近づく全ての連中に冷たい視線を向けてきたティアだ。そんな事を言ったって更に自分に嫉妬することは必至だ。
「絶対にダメだからね! アシュレイを見ていいのは私だけなんだから」
「はいはいっと」
人一倍ヤキモチ焼きのくせにあんな格好させるつもりかと言いたげな視線を向けるが、ティアには見えていない。
ま、なんとかなるかぁと楽観視した柢王は、自分で発注した衣装を着た桂花の姿を想像し悦に入っていた。
「ホントにこれ着んのか?」
「そうらしいですね」
女性警察官の制服によく似せてはいるが、標準制服なみにウエストあたりまでしか丈がない上着と、随分と布をケチって製作したようなスカートが箱の中に入っていた。
清楚なデザインを得意とする署長の手ではない。こういう下世話なデザインを仕上げるのはあの人だ。
「あいつらが用意したんだぞ、ぜってーふつーのやつであるはずがねぇ!」と、箱を開ける前から、全身から熱波を出す勢いで怒りまくっているアシュレイと、絶対零度の怒りを部屋中に広げていく桂花のせいで、更衣室内は暴風圏内突入の気圧配置が出来上がってきていて、他の人が半径5メートル内に近寄れないほどだった。
「しかたありませんね、着替えますか」
ピタッと冷たい怒りを吐き出すのを止めた桂花が、諦めたような大きな溜め息をはっきりと吐き出し、箱の中の衣装をハンガーにかけていく。
「え? 着んのか、これを」
アシュレイの表情にはありありと『いやだ』と書かれている。桂花はそんなアシュレイの顔を一瞥し、さっさと自分とアシュレイの制服をハンガーへ広げていく。
「そうです、約束してしまったことですから、きっちりと守りませんと。今回はこの衣装を着ることにしましょう。あの人たちには後でたっぷりお礼をすればいいことですからね」
復讐は時間をかけてゆっくりたっぷりとすればいいと口は笑ってはいるが、アメジスト色の瞳の奥で白い炎が燃え上がり始め、止まったと思っていた怒気が実はグツグツと桂花の腹の中で煮えたぎっているのを見定めてしまい、キケンだと瞬時に察知したアシュレイは逃げろと、頭の中では判断を下しているのだが、メデューサに見つめられたかのように身体が石のよう固まってしまって動けない。
「さ、アシュレイ殿。着替えながら復讐の手順でも考えましょう。あらゆる手段を用いてもいいんですよ」
「おおおお、おいっ! けっ桂花!」
「吾一人にこのような格好をさせて、晒しモノにするつもりですか? 貴方はそんな冷たい人ではないですよね」
「でっ、でもな、よーく考えてみろ、女装だぞ。お前は元がいいし似合うからいーけど、俺はぜってぇ似合わねぇ、それにそんな格好したの他の連中に見られたら、腹抱えて笑われる…」
なんとかして、着替えるのをやめようと提案するが、そんなアシュレイを桂花はにっこりと氷の微笑みを浮かべて囁く。
「そんなに心配しないでください。絶対貴方だと判らないように仕上げますから」
誰が見ても判らなくしてしまえばいいとサラッと答える。
「…ホントに俺だってわかんなくしてくれるか?」
瞳に軽ーく涙を浮かべたアシュレイは子どもの様に上目使いで桂花を見上げる。対照的に桂花は大人の余裕と自信に溢れた表情で大きく頷いた。
「吾の腕にかけて!」
桂花の表情から絶対大丈夫だと読み取ったアシュレイは、コクンと頷き 着ている制服のボタンをはずしはじめた。
「しっっ失礼しましたっ!」
アランは、バタンと勢いよく入り口を締め額に浮かんだ汗をぬぐう。
中では女性職員が身支度をしているところで、驚いたようにこちらを見ていた。どうしよう……。たらたらと冷や汗が背中を伝っていく。
すぐさま謝らなければ! と大きく息を数回吐き、はたっと気づいたように入口の表示を再確認する。何回確認しても『男子更衣室』と表示されているし、そうとしか読めない。アランは丹田に力を入れ、中に入ることを決意した。
「申し訳ありませんっ、入ります!」
再度、ドアを開け中に踏み込む。中にいるのは女性の筈がないと思いこみながら。
「どうしたんですか? アラン」
「えっっ、桂花殿??」
「アランっ?」
聞き覚えのあるこの声は…
「ああああアシュレイ様ぁ?」
「なんて声出してんだよっ! さっさと閉めろ!」
「はっはいぃっ」
あわてて入口を閉めゴツンと頭を扉にぶつける。アシュレイたちだとは思わなかった。見事に化け切っている。いつもはねまくっていて肩ぐらいまでしかないアシュレイの苺色したくせ毛が魔法をかけられたように背中を隠すように腰まで伸びている。
「アラン、どうですか? すぐに分からなかったでしょう」
にっこり微笑む桂花も全然違う人になっている。白絹のようなあの長い髪が黒く、そして襟足位までしかない。
「はい、声を聞くまで女性だと思ってました、まさか貴方がたとは思いませんでした…」
椅子に座って化粧を施されているアシュレイの姿。普段の制服の色より鮮やかな瑠璃色の上下。制服の下から覗くように見える白いブラウスと、短いスカートからのびる細い足が周囲に見せつけように出ている。
「髪は…カツラですか?」
「いや、エクステとかゆってたよな」
桂花殿は? と尋ねると、「吾は鬘ですよ、染めている時間もなかったですしね」 と軽く返答をもらった。
「服のサイズ、ピッタリですね」
「どーせ、あいつらのことだ。俺達の身体測定時の記録、勝手に見たんだろ」
「スカート丈短いですね」
太腿半分は確実に見えてしまいそうですね と言いたかったが、瞬間 2人の眼光が鋭くなったのを感じてピタッと口を閉ざした。
「これスカートじゃねーぞ。でも、ホットパンツより丈が長いんだよな、何て云うもんだろ」
ほら、とスカート部を持ち上げ、分かれているところを見せる。でも、しゃがんだりすると丸見えになっちまう と、眉間に皺を寄せているアシュレイに、アランはスカートを持ち上げないでくださいぃぃと顔を真っ赤にしてアシュレイの手を下げようと躍起になっていた。
2人のやり取りを聞いて笑いをこらえている桂花から「キュロットのようですね、巻きスカート風になっていますし」と教えられた。
「あっあの、スッストッキング穿いてらっしゃるんですか? まさかそのままってことは…」
「穿くわきゃねぇだろ。締め付けられてるみたいだったし、すぐに伝線しやがったし。でも、靴下はいてるぞ」
ほれ、と椅子の上に足をあげて、制服の色に合わせたハイソックスを見せつけてくれる。
素足で動き回るんですか? 危険ですっ! 近くにストーカーを呼び寄せるつもりですか!! とアランは叫びたかったが、ぐっと我慢した。桂花に視線を移すと、吾も穿いてませんよとにっこり言われてしまい、くるくるっと貧血を起こしそうになってしまう。
署内で『白の牡丹、赤の芍薬』といわれるほど、黙って立っていれば誰もが見とれてしまうと称されている2人だ。
日増しに綺麗になっていってると、署内や近くの商店街でも噂がたつほど。きっと恋人ができたのだろうと、勝手な噂が流れているのを本人達は気付いているのかいないのか。
そんな話もあってついこの間も、怪しいカメラ小僧が署周辺にうろついていたばかりなのだ。それも1人や2人ではなく10人近くも。本人達が気づく前に、署内の職員が手分けして駆除したばかり。
「アラン、すいませんがここの窓の外に吾たちのミニを用意してもらえますか」
「ま、まさか…」
「ええ、そのまさかです。このまま今日の講習会へ行ってきます」
「そっそれはやめてください! だって貴方がたの講習先は男子校…」
「出かけたら、柢王に報告しておいてください。吾たちはこの格好のままオオカミの群れに出かけましたと」
「!!」
ところ変わって署長室。柢王がこちらにいると聞き、空也とアランはそろって署長室に入って行った。
「えええー、出かけちゃったのぉ?」
ぐずぐずと机に崩れていくティアに空也は2通の封書を提出した。
「桂花殿から預かってきました。お二人に渡すよう言われましたので」
「桂花から?」
机に置かれた封筒を柢王はすっと1つ取り中身を出す。出てきたのはアシュレイと桂花のコスプレ写真。
「やっぱ、似合ってんじゃねぇか」
ほら見てみろとティアを唆す。ティアも封書から取り出し、2人の細い脚が隠れていない姿にびっくり!
「こんな格好させたのー? いくら華やかでも、もう少し大人しい格好をさせたと思っていたよ」
ここで着替えさせればよかった… と悔やむティアに、柢王は写真の桂花にご満悦だ。
「実物は帰ってきてからでもいっか。これなら他のとこに負けねぇだろ」
これで俺達の署が美人コンテストでも確実にトップになれるとホクホクしながら、写真を片づけていく。
「こんな格好じゃちょっと屈んだだけでも、可愛いお尻が丸見えになっちゃうよ♪」
嬉しげに写真を見つめる2人に、アランは柢王の方を向いて桂花からの伝言を伝える。
「柢王様に桂花殿よりの伝言です。桂花殿とアシュレイ様はその格好のまま、予定通り、冥界高校の『秋の交通安全講習』へと出掛けられましたので、報告致します」
「あぁ、……っておい!」
「冥界高校って男子校…」
2人の顔色がみるみる蒼く変わっていく。そんな様子を横目で見ながら、空也とアランは気付かれないように部屋を出ていく。
「おい、本当に行ったのか? あの学校」
アランの心配そうな表情に、空也はにやりと笑みを浮かべて答える。
「桂花殿がそんなことに手を抜くはずないだろ、あの2人が行ったのは文殊幼稚園、例の学校には別の連中が行ってる筈だ」
俺もさっき他の連中に聞いたんだと、鼻の頭をかきかき苦笑いを浮かべる。
それにあのプリントアウトされた写真があと数時間後には粉々に砕け散り、跡形もなくなってしまうことを預かった際に桂花から聞いた。
自分たちと写したポラロイドだけがいつまでも残る唯一の品。自分たちにとって宝ではあるが、他の連中(特に例の2人)に見つかったら……。
それよりも全ての証拠を隠滅するためには手段を選ばない桂花に2人は、敵に回さなくってよかったと心底思っていた。
「へえええーーー」
午前三時の『イエロー・パープル』。バイトの子たちを帰し、閉店の看板をさげた一樹はお気に入りのウィスキーを手に大仰に相槌を打つ桔梗の隣に滑り込んだ。
店に残ったのは知己のみ。
その中には柢王、アシュレイの顔もあった。ここ数年『イエロー・パープル』に訪れる彼等は、今や客でなく友として迎え入れられている。
「なんの話し?」
「柢王のとこの(故郷)歌合戦」
「歌合戦? そりゃ、またレトロな」
「国ごとで競うんだ」
「国?」
「あ、地区な」
アシュレイの返答に、柢王がやんわり訂正を入れる。
「地区?・・・自治会ってこと?」
「ジジ?」
桔梗の疑問に、柢王とアシュレイも疑問で返す。
二つの疑問をしっかり掴んでいる忍は隣の二葉にグラスを預け、コースターの裏に『自治』の文字を書いて見せた。
「ああ。それそれ」
頷く柢王の横でアシュレイは
「ヒートするのはジジ(爺)どもだ!!」
と憎々しげに吐き捨てた。
「爺どもっ!! そりゃ言えてるっ!! ウワッハッハ!! 」
笑い崩れる柢王を尻目に、アシュレイは一気にグラスを開ける。中身は度数の高いウォッカ。外見とは裏腹にアシュレイは大男でもむせる強い酒が好みなのだ。
その見事な飲みっぷりに感心しつつ、忍が「ジジ(爺)」のニュアンスを問うと
「俺のオヤジもコイツのオヤジも昔から長でさ。 その自治会ってのに当てはめりゃ、さしずめ会長ってヤツだな」
今だ笑いを引きずった柢王がケラケラと答えた。
「わかる、わかる。 俺ンとこも、ずぅぅーーーーっと同じオジサンが会長やってるもん」
桔梗は大きく頷き、空になったアシュレイのグラスにキンキンに冷えたウォッカを注ぐぎニッコリ笑い「そう言えば、ここんとこカラオケ行ってないね」と続けた。
「カラオケっておまえ、いくつだよ」
「年なんていいだろっ!カラオケは国民的道楽なんだからっ」
呆れたような二葉に桔梗はフンと返し
「ねぇぇぇ、一樹ぃ〜」
打って変わった猫なで声で兄の方へと誘いをかける。
「ふふふ俺はいつでも付き合うよ。 時間がとれないのは桔梗、おまえの方じゃないの?」
一樹の言葉に即、携帯を開いた桔梗は
「―――うっ、うっええええええ〜〜〜んっ」
真黒に埋まったスケジュール画面をそのままに、ドカンとテーブルに泣き伏した。
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沈黙の数十秒。
桔梗十八番の嘘泣きパフォーマンスとわかっていても、動いてしまうのは忍。
「・・・わかった・・・なんとか調整してみるよ」
咄嗟に忍の両目をふさいだ二葉の防御の甲斐もなく、ため息まじりに呟いた。
予想通りの展開にすぐさま泣き顔を引っ込めた桔梗は身を乗り出して忍に抱きついた。
「公私混同はやめたんじゃねーのかよ!!」
と呟く二葉の言葉はもはや敗者でしかない。
「二葉も行きたいんでしょう♪ カ・ラ・オ・ケ。 仕方ないなぁ〜仲間に入れてあげよっかぁ!?」
「結構だっ!! 俺は毎晩、子守唄変わりにバラード歌ってっから。 愛する恋人の為にな」
「フン、寝ぼけた忍にしか歌えないくせにっ」
「ヘン、唄ってもらえないくせにっ」
「――うっ・・・・たっ、たっ、たくやぁぁぁぁー」
又しても泣き伏す桔梗。
だが今度の涙は本物。
本物だけれど不純物。
悔し涙だ。
「忍も調整してくれるっていうし、歌合戦もどきカラオケ大会でもしようか。久しぶりにおまえの歌も聞きたいし」
名指しされた卓也に桔梗を宥める気などあるはずもなく、やれやれと一樹が収拾にかかる。
「ならアイツも誘え」
援護のつもりだろう。ダンマリの卓也がボソリと告げる。
伏した顔を上げかけた桔梗に、間髪いれず「鷲尾さんだよ」と一樹がアイツの正体を明かす。
すると案の定、桔梗はピョンと飛び上がり
「鷲尾さんって、あの絹一さんの!!!」
期待百パーセントの視線で問いかける。常連客である絹一も鷲尾も桔梗は大好きなのだ。
「うわぁぁぁ、頑張らなくっちゃ」
泣いたカラスがナントヤラ。
過度な興奮に座ってなどいられず、とうとう桔梗は立ち上がってしまった。
そんな桔梗に皆の笑みがこぼれる。
酒宴はこれから。
秋の夜はまだまだ続く。
笑いが渦巻く中、卓也だけは『まずは耳栓』と今後の対策を仏頂面で練りながらピッチをあげグラスを傾けた。
「本気なら疲れない、疲れてもさわやかだそうですよ」
鷲尾の家のソファーに座った絹一が、有名な書家の言葉を引用するのに、エプロン姿で立つ鷲尾はちょっと眉をあげた。
「それで?」
「…」
説得に失敗したと絹一は顔に書いて、他の言い訳を考えているようだ。
「だからと言って、食事をしなくても大丈夫だなんて、言ってないよな?」
夏の間、何度か繰り返された攻防。残業続きで夏バテをして食欲のない絹一と、ちゃんとした食事をさせようとする鷲尾。
今日もギルバート命令で早く帰らされた絹一に、夕食は何が食べたいかと聞いたのだが。
「…サラダそうめん」
「却下」
「な、なんでですか?」
「昨日と同じだからだ。食欲がないんだな?何か、胃に優しい物を作ってやる」
キッチンへ向かう鷲尾の耳に「鷲尾さんが食べたい物を聞いたのにね」と、小さな声が聞こえた。
振り返ると、絹一が隣に寝ていたミルクのやわらかい体に、頬を寄せながら、愚痴を聞かせている。ミルクのふわふわした尻尾が絹一の頭を撫でて、まるで慰めているようで、鷲尾の表情が思わずやわらいだ。
苦笑して、食欲がなくても食べられるメニューを考える。
ふと、「娘が夏バテで食べないの」と、言っていた人を思い出した。「けれど、水炊きだけは食べるのよ。つわりがひどい時に、水炊きなら私も食べられたからかしら」と。親子の不思議だと思ったものである。
レベッカは何を食べていたのだろうか?と考えたところで、想像できないなと、鷲尾は苦笑の色を濃くして、頭を振った。
料理は盛り付けをするだけとなったが、絹一が静かだと鷲尾は思った。先程まで、猫達を寝室に連れて行ったり、食器を出したり、料理をする鷲尾に話しかけたりしていたのに。
もしやと思いながらリビングに行くと、絹一はソファーの上ですやすやと寝息を立てていた。
疲れているのだろう、鷲尾が近づいても目を覚まさなかった。横を向いて眠る絹一の顔にかかった髪をよけ、また細くなったなと顎を優しくなぞる。その鷲尾の手に、絹一は夢うつつに顔をすりよせてきた。
この大きな猫を起こして食事をさせようか、ベッドまで運ぼうか。
際限なく、甘やかしたくなる自分に鷲尾は声を立てずに笑った。
数日続いた長雨がやみ、久しぶりの日差しを浴びる週末。ティアは、近所の本屋さんから一冊の雑誌を購入してきた。車のカタログ本だ。
「どれがいいかなー、前は2シーターのスポーツタイプだったけど、今度はファミリーカーかなぁ、それともミニバン…ワンボックスタイプがいいかなぁ」
ペラペラとページをめくり、品定め。普段はこれと言って必要とは思わないが、出掛ける時ぐらい時間を気にせずゆっくりしていたいと思ったのだ。
以前乗っていた車は、アシュレイとここに住むことを決めた時点で手放した。なんてことはない、置くところがなかったからだ。
「ねぇねぇ、アシュレイ。君はどれがいいと思う?」
雑誌をバッと広げて、どう? と見せる。
珍しくTシャツにジーパンとラフな格好で寛いでいるティアに冷たい飲み物と菓子を持ってアシュレイが入ってきた。
アシュレイの格好もいつものいでたちとは異なり、ダブダブのTシャツに膝下まで丈がある紺色のスカート。体にフィットしたシャツに短パンで動くことが好きなので、普段から気にした事はなかったのだが、ティアが買い物一つ出かけるのにも「そんな格好で出かけたりしちゃダメっ!」とムキになって反対するので、最近は体のラインが判らない衣服を着ることが多くなっていた。
「なんのことだ? ──あぁ、車か、お前好きだもんなぁ。よく運転して、色んなトコ連れてってもらったのを覚えてる」
楽しかったよなぁ と、満面の笑みを浮かべたアシュレイにティアは買ってきた雑誌を渡した。
雑誌を斜め読みするアシュレイに、ティアはニコニコとしながら話し出す。
「私達二人だけって訳にはいかないだろう? 皆が乗れるボックスタイプのほうがいいかな」
これとか、これとか どう? と指をさして紹介する。広い室内を説明した内容にティアはうっとりとした。
義父母家族、柢王夫婦、自分達 全部合わせて8人。一緒に海ぐらい行けたら…… と、妄想まっしぐらだ。
ボーっと別世界へ飛んでいってしまっているティアを、アシュレイは呆れながらも面白がって見ていた。
「ねっ、アシュレイ。いいと思わない? すっごく便利になると思うんだ」
「そうだな、いいかもしれねぇな」
適当に相槌を打つ。免許のないアシュレイには別段欲しいものでもない。
「買っちゃおうか」
「バカな夢見てんな。どこに置くつもりだよ、ウチにはそんなスペースはねぇ」
これだから金持ちのボンボンは… と、更に呆れた表情でティアを見つめる。
「あのね、裏のハンタービノさんのところで置かせて貰えるかもしれないんだ」
「ビノん所に?」
うんっ と、嬉しそうに頷くティアを見て、アシュレイは ハァァ〜と大きな溜息を吐いてティアの肩をポンポンと叩いた。
「あきらめろ、ティア。一時しか置けねぇぞ。あそこんちの息子がもうすぐ出張から帰ってくるからすぐに置けなくなっちまうって」
「えっ??」
知らなかったのか? と、アシュレイは首を傾げティアの表情を見る。何も知らなかったティアは呆然とするばかりだ。
「あそこんち、ハーディンって息子が確かあと半年ぐらいで、九州からの出張を終えて帰ってくるはずだぜ。あいつもすっげー車好きで向こうへ行くときも自分で運転して行きやがったから」
置けなくなるぞ と言うと、ティアの端正な顔がグズグズと崩れてきた。
「ティアー、そんなに落ち込むなよ。車に金かける事ねぇだろ? すぐ近くに駅もあるし、便利なとこなんだからさー」
いざとなったら、レンタカーって手もあるだろ? と、ティアの頭に手を乗せ、ゆっくりと撫でてやる。
しばらく撫でているとティアの青白かった顔色に、すぅーと頬に赤みが戻ってきたのを見たアシュレイは、温かい飲み物を用意しようと席を立とうとした。
が、ティアがアシュレイの腰に腕を巻きつけ、胡座をかいた自分の膝に座らせる。アシュレイの背中とティアの胸板がべったりとくっついた状態。
「おいっ」
何をするんだと、アシュレイは身じろぐが、ティアはどうってことないという顔つきでアシュレイの肩に顎をのせる。
「結婚前みたいにドライブして遠くまで行きたかったんだ、君と」
「……」
「私も仕事が忙しいから、君といる時間は少ないけれど。それでもこうやってお休みの日ぐらいは、家族皆で出掛けるのもいいかなって」
ぐずったティアの声が耳元で聞こえる。溜め息のように吐くティアの息がアシュレイの耳に掛かる。アシュレイはくすぐったくて仕方なかったが、珍しく凹んでいるティアを慰めたかった。
「あ………、ありがとな、ティア。そんなに気ぃ使わなくてもいいよ、お前がバテちまう。休みの日くらいゆっくり休まねぇとなっ」
相手の顔を見なくてもいい状態に座っているので、アシュレイも照れずに言える。しかしアシュレイのウエストラインにがっちりとティアの腕が回されており、なかなか外せない。
仕方なくアシュレイは、ティアの手に自分の手を重ねる。ありがとうの気持ちと 気ぃ使わせて悪ぃなという気持ちを込めて。
その瞬間、アシュレイの腰を拘束していた腕が解かれ、くるっと反転させられる。逃げる余裕もなく、あっという間に組み伏せられていた。
「ティアッ! 何しやがんだ! 寝ぼけてんのか?」
「ちょーっとね、君からの愛情が不足してるから補充しておこうと思って」
「何が不足だっ! 毎朝毎晩、有無も言わさずしてっじゃねーかっ! 寝ぼけた事言ってんな!」
隙あらば、おはようのチューだとか、おやすみのチューだとか言って、ベッタリ貼りついて離れねぇ癖に! と怒鳴るが、ティアはどこ吹く風 気にもしない。
「本当は、君からして欲しいんだけどね。それに、朝晩だけじゃなく、行ってらっしゃいとお帰りなさいの時もしたいし、して欲しいな♪」
「できっかっ! んな恥ずかしい事! 家族皆に見られちまうじゃねぇかっ!」
出勤時間は父親と同じだし(電車だから)、帰宅時間はほぼ全員揃っていることが多い。そんな中、帰宅しても出迎えるのはアシュレイじゃなく弟妹たちが先に玄関に走っていく。
「そう? 新婚さんなんだからいいかと思ってたのに。ケチだなぁ」
「何がケチだっ! 離せってばっっ!」
身体を左右に動かし何とかティアの下から抜け出そうとしたが、ティアの要領がいいのか、上から押さえつけられているせいなのか逃げ出す事ができない。
両手を頭の上で押さえつけられ、顎を抑えられると顔を動かす事ができない。ゆっくりとティアの唇が近づいてくる。
「車がダメなら、マンション…別荘でも買おうか。そうすれば家の人たちに見られないところでイチャつけるね」
「無駄な買い物の夢ばっか見てんなっ! ここはよせって言ってるだろっ、誰かに見られたら…」
自分達の部屋なら、襖を閉めれば一応見られることはないはずだから… と言ってはみるが、ティアは頑として受け付けない。アシュレイは真っ赤になって抵抗してみるが、ティアの方が一枚も二枚も上手だった。
「お義父さんは接待ゴルフで、お義母さんは隣の奥さんと観劇で遅くなるって言ってただろう。小ティア君は学校行事で今日は泊まり、帰ってこないし誰もいないよ」
大丈夫 と、ティアは押さえつけた手に更に力をこめる。
「滅多に家でイチャつくこと出来ないんだから黙って」
「ばっ!!」
もうよけられないっ! と、アシュレイは目をギュッと瞑った。
「なにしてるの? おねぇちゃん。おにぃさんとちゅーでもするの?」
「!! ちぃっ!」
ティアも気づかなかったらしい。慌ててアシュレイを押さえつけていた手を離す。
「するの? おねぇちゃん」
「しないっ! どけっ、ティアッ!」
妹に見られたことがとてつもなく恥ずかしいアシュレイはティアからの拘束が緩んだと同時にティアを押し飛ばし、一目散に自室へ逃げてしまった。
「逃げられちゃったね、おにぃさん」
姉が走って行った方を見つつも、小さいアシュレイはテーブルに置いてあるクッキーに手を伸ばし、口いっぱいに頬張る。
アシュレイに押された時に壁にぶつかったが、力の加減をしてくれていたらしい。あまり痛くなかった。
「君に見られちゃったからね、君のお姉さんはとても恥ずかしがりやさんだから」
お義父さん、お義母さん達には内緒ね と、軽くウィンクをする。暫くは部屋に入れてくれないだろうなぁと思いつつも、彼女の事を思うと胸の中に大輪の花が咲くような幸せな気分になれる。
他の人に捕られたくなくて、半ば強引に自分のものとした。誰に見られてもいい、隙あらば抱きしめて自分の伴侶だと確認したいのだ。いつでもどんなときでも。
「おにぃちゃんには言ってもいい?」
ビ○ターの犬のように首を傾げ、確認する義妹にティアは大きく左右に首を振る。
「絶対ダメ。君のお兄さんに知られたら、私はここに居られなくなってしまうからね。君にお菓子を買ってあげる事もできなくなってしまう」
「そうなの? じゃあ、言わない」
口に両手を当てて、言わないと意思表示を見せた。
「いい子だね。一緒にアイス買いに行こうか。なにがいい?」
「イチゴー!」
おにぃちゃんの分も買ってね と、小さいアシュレイはティアにおねだりをした。
数日後──────
「車もダメ、マンションもダメ。ズルイよ、アシュレイ。全然イチャつけないよ」
Booと頬を膨らませて、反論するティアにアシュレイも少しだけ申し訳ないような気はしていた。
殆どプライバシーはなく、プライベートスペースも自分と一緒だ。そんな狭い自分の家へ来て貰っていて、ティアだって窮屈なはずだ。
「今度、お前の休みの日 どっか行こうか」
外へ出かければ気分転換になって、ティアもちょっとは落ち着くかもしれない。そんな淡い期待を持ちつつアシュレイは提案した。
家族で仲良くどこかへ行けば…、軽い解放感がティアを落ち着かせてくれるかもしれないと。
「本当? 必ずだよ、約束だからね! あっと……その時は二人っきりで出かけたいな♪」
目を輝かせて自分を見るティアに気持ち的に後退りをしたアシュレイだが、ふっと思いなおした。二人きりで出掛けた方がティアに余分な気遣いをさせなくても済むかもしれない。
自分の親、弟妹に気を使って疲れさせるより、自分だけなら多少我が儘言われても、対応できるかもしれないと。もちろんティアがセクハラまがいなことをするかもしれないということは、頭の中からすっかり落ち切って入っていない。
「2人で!? ──まぁいっか、わかった。他の連中には言わないし、連れてかない」
「プランは私に任せてくれる?」
「──無茶な計画はすんなよ、わかってんだろうけど」
「うん! 任せて♪」
浮かれきったティアに釘をさすが、きっと届いていないだろう。諦めたように大きく溜め息を吐いたアシュレイにティアは尋ねた。
「この間、君に聞きそびれたんだけど、君はどんな車が好き?」
「軽トラ」
「桂花、柢王さんは今日一日、あなたとデートしたいそうよ」
微笑んだお義母さんに続いて、柢王も、桂花に内緒でお義母さんに電話しておいたのだと白状した。
「今日一日、冰玉のこと預かってもらえないかって。結婚記念日の前祝に、どうしてもおまえとふたりでデートしたいからって」
「デート?」
「そ。ほんとの祝いは冰玉と三人でするけど、その前にさ」
「そんなの……どうして?」
「だって、おまえと結婚したのはおまえが好きだから、だろ。冰玉はもちろん大事だし、結婚してくれて、冰玉を生んでくれたおまえにもありがたいとも思ってる。けど、その根本にあるのはやっぱおまえが好きだって気持ちだから、たまには恋人としてデートしたいなぁと思ってさ」
家族の数だけあり方はあって、誰かの真似をすることもできないし、したって無意味で滑稽だ。自分たちの家庭という楽曲は当然、冰玉込み、義父母やおじ家族をも含めたものから成り立つのだと、柢王にもよくわかっている。
ただ、それとは別に、惚れた相手にやっぱり心底惚れているのだと、確信する特別な時間を、自分にも与えてやりたいだけだ。
出会いがしらにスプーンが落ちたような、頭の中でなにかがかちりとかみ合う音を聞くような、あのときのあの気持ち。そのきれいな顔が好きで、瞳の奥で微笑むようなまなざしも、しぐさも、怒った顔もたまらなく好きで──こいつを一生好きでいたい、桂花と産まれてくる子供を一生大事に護りたい、と、純白のベールの向こうに潤んだ瞳で自分を見上げたきれいな顔に心臓が熱くなるような思いで心に刻み付けた──
その気持ちを、ずっと大切にしたいから。好きな相手と、ふたりの特別な時間を共有することで、桂花にもこれからもずっと自分の側にいたいと思って欲しいから──
「──って、ま、ほんとはおまえといちゃいちゃしたいだけだけどな」
だから、今日一日、俺だけのものでいてくれよ、な?
と、いたずらめかして笑った柢王に、桂花はきれいな瞳を見開いて、それから、
「──バカ……」
泣き笑いのような顔で微笑むと、小さな声で、『はい』と答えた。
「あなた、そろそろ冰ちゃん渡して下さらない?」
「そうだね、しかし、あ、ほら、李々はそろそろ庭の花に水をやる時間ではないのかね?」
「あら、それはスプリンクラーを設定してあるもの。あなたこそ、そろそろ『にこすかプン!』の時間じゃないかしら?」
「いやいや今日は土曜日だから『にこすかプン!』はやらないよ。李々こそ、そろそろ枯れ木に花を咲かせる時間──」
と、ご機嫌な冰玉真ん中に挟んだ両親が、その所有権をめぐって火花散らしているのを置いて、柢王と桂花と連れ立って出かけた。
「初めてのデートコースの再現ってことでさ」
それにアレンジ加えて、最後は夜景の見えるレストラン、と、道すがら、ポケットから予定表取り出して笑った柢王に、桂花は呆れた顔で、
「あなたはそういうことには準備万端なんだから……」
いいながらも、ほっそりした指は柢王の腕をしっかりと掴んでいる。心なしか上気したような顔が帽子の下、ひときわまぶしくて、柢王は添えられた手を掴むと桂花の腕ごと、自分の肘と胴の間に挟み込むようにして、
「ほんと、頼りになる男だよな。自分でも感心する」
笑いながら、指と指を絡ませるように手をつなぐ。
以降は完全いちゃつきモード。もとから柢王はあまり人目気にしない性質だが、桂花も久しぶりの『恋人』とのデートに初心に戻ったように、瞳を輝かせて笑顔を見せる。
時を忘れて、他のこともいまだけはみんな忘れて、お互いの新たな面を発見したり確認したり、笑いながら過ごした半日はあっという間に過ぎていって──
「これからも、俺だけの恋人でいてくれな」
予約しておいたレストランで、柢王が贈ったのは小さな銀の鍵の形をした携帯ストラップ。本当はネックレスにしたかったのが、冰玉が小さいうちは邪魔になるし、鎖を引っ張られて怪我などしたら大変だから、ストラップにしたのだ。
「ありがとう。でも、どうして鍵なんですか?」
手のひらにきらきら輝く鍵を載せながら尋ねた桂花に、柢王は笑って、
「ん? ハートをロックしてもらおうと思ってさ」
と、胸ポケットに入れていた自分の携帯電話を取り出して見せる。そこにはすでに新しいストラップがつけられていて、それは銀の小さな錠の形。
いつまでもときめいていたい大事な恋人。だからこの想いに、その手で鍵をかけて、この胸に想いを永遠に封じ込めて欲しい。
微笑んだ柢王に、桂花は目を見張り、
「……き、気障すぎる──」
声を立てて笑い出した。
「ああっ? おまえ、ここは涙ぐんで感動するとこだろっ? これ探すのにほんとがんばったんだぜ?」
訴えても、桂花は笑い、笑いすぎて涙をためた瞳で柢王の顔を見て、
「だって、そんなこと、考えてる自分が恥ずかしいじゃないですか。あなたって、たまに、本当に子供みたいですよね」
「なんだよ、それは」
柢王はふてくされた。これを渡したくて、婦人雑誌の記者やインターネットなどあれこれ調べたというのに。
「なんか普通にダイヤモンドとかの方がよかったってことかよ」
人の手垢のついた二番煎じなんか面白くもなんともねぇだろうがよっ、とシャンパンをがぶ飲みする柢王に、桂花はようやく笑い止み、そして、優しい笑みを浮かべると、
「でも、あなたのそういうところも好きですよ、柢王」
「桂花──」
「だから──吾の心にも、あなたの手で鍵をかけていてくださいね」
テーブル越しに見惚れるようなきれいな笑顔で、そう囁かれた柢王は、いますぐ個室に鍵かけて引きこもりたいっ!! と思わずテーブルを叩いたのだった。
家に戻ると、リビングの床には長い髪ざんばらにしたお義父さんの残骸が横たわっていた。なんでも、今日一日の仕上げに、ギタリストよろしく冰玉を抱えてぐるぐる回って遊んでいるうちに三半規管がやられてばったり倒れ、以降、動かないらしい。
「すみません、俺たちが予定より遅くなったせいで──」
よんどころないオトナの事情がありまして──謝った柢王に、お義母さんは首を振り、
「いいのよ。冰ちゃんは無事だったから。お風呂に入れて私たちの部屋に寝かしつけてあるから、あなたたちは心配しないで。この人だって冰ちゃんと遊んでいて倒れたんだもの、このまま目が覚めなくても満足のはずよ」
と優雅に微笑む。
やわらかな外側に鋼を包んだお義母さんに、柢王は乾いた笑いを返しながら、さすがにかわいそうになってテーブルにあった新聞をお義父さんの体にかけると、手を合わせ、祈った。
「成仏してください」
桂花はそんな両親のやり取りには慣れているのか、母親に向かい、
「ちょっと冰玉の様子を見てきます」
部屋を後にした。
それでは、明日ね、と出て行きかけたお義母さんの背中を、柢王は、あ、と呼び止めた。振り向いたのに、
「お義母さん、ありがとうございます──桂花のこと、産んでくれて」
「え──?」
「今日、改めて思いました。桂花に出会えて、俺は本当に幸せな男だなって。だから桂花のことを産んでくれてありがとうございます。俺、絶対にあいつのことも、あいつが産んでくれた冰玉のことも大切にしますから」
瞳に決意をこめてそう言った柢王に、お義母さんは目を見張り、そして微笑んだ。
「あの子は私たちの宝物ですから、泣かせたりなんかしないでね」
それにはまず午前様はほどほどにしてくれないと、と笑われ、柢王の笑顔が引きつる。が、お義母さんは優しい瞳で、
「でも、桂花もあなたに出会って幸せだと信じるわ。あの子達のこと、これからもよろしくね、柢王さん。おやすみなさい」
言い残して、去って行く。その背中を見送る柢王は心の中で、マジで絶対お義母さんには逆らいませんっ! と堅く堅く誓いを立てていた──
「桂花、忘れ物はない? ちゃんとお土産持った?」
「ええ、おもちゃはさっき柢王が車に乗せたし、作ってくれた晩のおかずはここにあるから」
楽しかった週末もあっという間に終わりに近づき、帰り支度。可愛い愛娘にあれこれ持たせようとするお義母さんとお義父さんからの贈り物でトランクはもういっぱいだ。
今朝方ぶじに目覚めたお義父さんは、縞々ロンパースに包まれた冰玉の笑顔を前に、目にハンカチ押し当て、さめざめと泣いている。
「ひょ、冰ちゃんもう帰っちゃうんだね。 おっ、おじいちゃんのこと忘れないでねっ、絶対だよっ」
しかし、幼児とはいまこの場にしか関心のないイキモノ。うさぎみたいな目をしたおじいちゃんの髪の毛、ぎゅーっとふたつに掴んで、
「ばっぶぅっ!」
「はいはい、冰玉、うさぎちゃんな。かわい…くないけどかわいいことにしとくかな」
と、冰玉を抱えた柢王は答えた。
やがて桂花が支度を終えて現れ、一同は車寄せに。まだ晴れ渡る昼空、ようやくおじいちゃんの髪から手を離した冰玉をベビーシートに固定し、残りの荷物を積み込んだ。
「じゃ、桂花、帰ったら電話してね。柢王さん、気をつけてね」
「はい、お母さん」
「いろいろとお世話になりました」
挨拶する妻と娘夫婦の傍らでおじいちゃんは窓に顔押し付け、
「うっうっ、冰ちゃぁぁぁぁん……」
涙に頬濡らし押し潰されたその顔に冰玉が、うわぁぁんと泣き出す。お義母さんが無言で亭主の後頭部を殴打、襟元掴んで引き剥がす。世にも醜い怪獣画像に驚いた冰玉は、しかし、桂花が後部座席に乗り込むとけろっと涙を止めて、
「ばぶっ」
母の胸に擦り寄る。父に似て実に現金。
そんな息子に苦笑いした柢王は、運転席のドアを開けかけ、あ、と、手にしていた紙袋を差し出した。
「これ、お土産でした」
お義母さんに阻まれ、もう冰玉の視界に入れないお義父さんは不機嫌な顔で、
「土産は来たときに渡すものだよ、柢王くんっ。まったく君は網エビだなっ」
「って、どんな計りだっつーのっ! ま、とにかく開けてみてくださいよ、お義父さんのために持ってきたんだから」
と、柢王は無理やり押しつけた。お義父さんはまだぶつくさ近頃のエビはしつけがなっとらんとか言っていたが、それでも袋を開け、中身を取り出す。そこに現れたのは青い表紙の小型のアルバム。
表紙を開くと、そこには『おじいちゃんへ』と書かれた文字と生まれたばかりの冰玉の小さな手形と足型が青いインクで押してある。お義父さんが目を見張る。とり憑かれたようにざくざくページをめくると、真っ赤っかでしわしわでサルみたいな冰玉の眠り顔、あくびした一ヶ月、ちょっと人っぽくなってきた二ヶ月、首が少し据わり、青い髪の毛が逆立ってきた四ヶ月…と、この七ヶ月の成長記録が一面に貼られている。
「……──」
お義父さんが信じられないように柢王の顔を見つめる。柢王はそれに笑って、
「いい婿貰いましたね」
お義父さんの赤い瞳に涙が漏り上がる。尖ったあごの先震え、涙ぽとぽと落としながら、
「……き、君にしては上出来だ。あ、甘エビぐらいには、してやってもいいぞ──」
「どこまでもエビかっ!」
叫んだ柢王はしかし、奥さんの肩に顔を伏せ、うわぁぁっと泣き出したお義父さんの姿にため息ついて肩をすくめる。お義母さんが柢王に優しく微笑んで、
「柢王さん、ありがとう」
「礼はいりませんよ。家族のことなんですから」
柢王は答えると、運転席に乗り込んだ。桂花が後ろから、
「お父さん、ひときわ泣いていたみたいだけど?」
「あ? 冰玉と別れるのがさみしいんだろ。また来ればいいよな、冰玉?」
「ぶーっ」
ママの胸に甘えながら息子も答える。柢王は笑って、
「よっし、うちに帰ろうっ!」
エンジンをスタートさせた。
人生とは時に喜劇、時には悲劇、常に即興的要素を求められる長い道のりではあるが。
形式にとらわれず、その時々の一生懸命さと本気とで自分たちだけの曲を作り上げていけばいい。
とにもかくにも、この家族の生み出す楽曲は、今日も明日も、晴れやかなカプリッチオ──
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