投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
ガラガラガラ…
「ただい…ま?」
ティアが玄関を開けると、アシュレイが怖い顔で待っていた。あきらかに怒っている。今日は会社帰りに飲んでないし、思い当たる事はないけれど、おそるおそる尋ねた。
「…ど、どうしたの?」
「どうしてこれがあるんだ?!」
仁王立ちのアシュレイの手に握られているのは、フリルの愛らしいエプロンだ。あれは、ティアが絶対に見つからない場所に隠したはずなのに。
「な、なんでっ!?」
ティアの動揺に義弟の氷暉が自慢そうに笑う。
「ティア兄さんの隠し事見つけてやったぜ。感謝の気持ちは形でな」
「なんだ、小遣い目当てなのか、ちゃっかりしてるな」
ティアはアシュレイが小遣いを渡すのを神妙な顔で見ながら、僕だったら口止め料に倍出すのにと悔し涙を流していた。
「兄さん、いいな!」
羨ましそうな水城に優しい目をした氷暉が言う。
「明日のおやつはアイスだ」
やった!と水城が歓声をあげて駆けていく兄妹を尻目に、アシュレイの尋問が始まる。
「あの時、捨てろと言ったエプロンがここにあるのはなぜか説明しろっ!!」
…あれは確か、まだ寒い季節だった…
「ティア!どこ行くんだ?」
茶色の紙袋を抱えて上機嫌なアシュレイが走ってくる。
「それは、こっちのセリフだよ。行ってきますの挨拶もしないで」
日曜日の午後をのんびり過ごしていたら、突然アシュレイが家から飛び出して行ったのだ。
「あっ、あんな恥ずかしい事いちいちしてられるかっ!」
「新婚さんは、みんな必ずするものなんだよ?どうして、恥ずかしいの?」
嘘だけれど…外国式挨拶を習慣にしたいティアはアシュレイの弱みである哀しげな顔で訴える。
「ぐっ…た、ただいまはするから!」
「本当に!!」
「あ、あぁ…」
覚えてたらと、呟くアシュレイだ。
「じゃあ、行ってきますは、今してもらおうかな?」
「なっ!…こ、こんな公園で、何考えてるんだっ!」
逃げようとするアシュレイに、誰も見てないからとティアは囁いて。
「んーんん??」
甘い匂いにティアが目を開けると、ホクホクとした焼き芋が目の前に。
「ほ、ほら、あーん…」
アシュレイのごまかしにティアはうらみがましく口を開ける。
その顔を可愛いとアシュレイが思ったのはティアには絶対内緒だ。
「う、美味いだろっ!」
とりあえず、耳まで赤い恥ずかしがりやのアシュレイの手から食べさせてもらえた事でティアは満足して。
「うん、美味しいよ。これを買いに行ってたの?」
「そう!音が聞こえたから、急いで買いに…ああっ!!」
「ど、どうしたの?」
「…お金払ってない…かも…」
「ええっ!?食べちゃったよ」
アシュレイは焼き芋を買った時の事を思い出しながら、ふと大事な事に気が付いてポケットを探る。
「ない…!!急いで出てきたから、財布を持って来るの忘れた…ティアは?」
アシュレイの期待するような上目遣いは可愛いけれど。
「僕も持ってないよ…」
ティアの困ったような視線に、新婚をからかわれたから恥ずかしくて逃げてしまったのだとは言えないアシュレイだった。
「…なんだかなあ。母さんも水臭いよな。」ぼやくアシュレイに、いいじゃない、とティアが答える。(結局君たち親子は似た者同士なんだよね)
「あーこんな時間にゴロゴロするのって久し振りだなー。」そう言って、ティアは本当に畳の上をゴロゴロ転がる。
「あ、ティア、コーヒーでも飲むか?」返事を待たずにアシュレイは台所の方へ立ち上がった。
アシュレイにとっても昼間に二人っきりというのは久し振りな気がして、なんだか気恥ずかしくなってしまう。
それでも二人だけで過ごせるのはやっぱり嬉しくて、浮き浮きしてしまうアシュレイだった。
まだ結婚したばかりの頃に戻ったように、ティアとアシュレイはまったりのんびりくつろいでその日を過ごしていった。
ふと気がつくと毛布が掛けられているのに気がつく。どうやらティアはうたた寝してしまったらしい。
「アシュレイ?」部屋の中は薄暗く、思わず妻の名を呼んでしまう。
「起きてたか?」ひょいっとアシュレイの赤い髪が襖の陰から覗いた。「ごめんな、俺向こうで洗濯物畳んでたから気がつかなかった。」
「いや、今起きたんだ。私は眠ってしまったの?」
「うん。気持ち良さそうに眠ってた。」毛布を片付けながらアシュレイはクスッと笑った。
「そうか…。せっかくの休みだったのに。」残念そうにティアがつぶやく。
「いーじゃん、別に。それよりもうご飯にすっか?風呂ももうすぐ沸くぞ。」
「あ、ねえ、たまには外に食べに行こうか。今からでも間に合うよ。」二人だけのシチュエーションに浮かれ気分のまま、ティアはアシュレイに提案してみる。
しかしすぐ誘いに乗ってくれると思っていた奥さんは、浮かない顔で断ってきた。
「ごめん、ティア。実はカルミアたちがいると思っておかず用意してたんだ。だからそれ喰っちゃわないと…」ショボンとしてアシュレイが答える。
「そうか、そうだったね。じゃあ今夜は君の手料理が食べられるというわけだ。」少しからかうようにティアは言った。
「ああそうだよ。待ってろよ、俺の愛情たっぷりの手料理用意すっからな!」怒ったような口調で誤魔化しながら、アシュレイは部屋を出て行った。
風呂から上がったティアは、茶の間に用意された夕御飯にポカンとしていた。
「こ、これが今日の晩御飯だ!さあ喰え!」なぜか顔を赤らめて怒鳴る新妻である。
そこには大きな皿の上に(少し焦げた)ハンバーグと(あちこちほころびてる)オムライスと(キツネ色を通り越した)エビフライがバランス良く乗っかっていた。
「あいつらにはかわいそうだったかなーと思って、晩御飯はあいつらの好きな物にしようと決めてたんだ。けど…」だんだん尻すぼみに声が小さくなるアシュレイ。
ティアはサッと座ると、早速ハンバーグを一口頬張る。
「うん、上手い!」
「ほんとか!?」連られてアシュレイもハンバーグを口にする。「あ、ほんとだ。」
「ね?味は大丈夫だよ。」そう言うとティアは今度はオムライスを食べ始めた。
「うん、こっちも中の卵は柔らかい。」
ホッとしたアシュレイは、用意していたワインをティアのグラスに注いだ。
「今日は洋食だからこっちのほうがいいだろ。」それはティアの好きなワインだった。
「やっぱり外食しなくて良かった…」
「ふぇっ、なんか言っはか?」大きなエビフライを丸ごと頬張りながら、アシュレイが聞く。
「ううん、何でもないよ。」ワイングラスに口をつけながらティアは答えた。
後片付けも終わりアシュレイが風呂から上がると、ティアは縁側に佇んでいた。
後ろから近づいたアシュレイに、ティアが上の方を見るように促す。
「綺麗だよね。」そこには見事に円を描いた金色の月が輝いていた。
「ほんと、まん丸だな。」アシュレイのストレートな感想に、ティアは吹き出す。
「父さんたちも見てるかな」続けて言った言葉に、ティアはアシュレイの横顔を見つめながら言った。
「きっと見てるよ。」そしてアシュレイの肩を抱き寄せると、一緒に空を見上げる。
「俺、お前と付き合うまで、満月を見て寂しいと思ったこと無かった。」
ティアは黙ってアシュレイの言葉に耳を傾けていた。
「昔は友達と別れた後も満月見てたら、また明日会えるんだって思ったし、元気になれた。でもお前と会った後満月見てたら、なんだか急に寂しくなったんだよなー。」
「私は逆だったな。君に出会うまでは、夜空を見ていてもなんとも思わなかった。でもさ、君と付き合いだしてからはデートした帰り道で月を見ていたら、君も家に帰って見てるかな、と思ったりしたよ。そうしたらなんだか部屋に帰っても一人じゃないんだ、って思えた。」
喋りながらティアは思い出していた。
物心ついた時から、ティアにとって月は一人で見ても誰かと一緒に見ても、ただ綺麗な存在でしかなかった。
それがアシュレイと出会ってからは、月にも色んな顔があるのだと知った。
そして、愛する人と同じ時を共有していると思えたことが最初は嬉しかったのに、いつの頃からかだんだん寂しく思えてしかたなかった。
なぜここにアシュレイがいないのだろう、そればかりを思うようになっていった。
時間を共有するなら空間も共有したい、そう思ったら居ても立ってもいられなくなって、すぐにアシュレイに結婚を申し込んだのだった。
そんな物思いに耽る夫の横顔を見つめていたら、「…綺麗だな」と思わずつぶやいてしまい、慌ててアシュレイはティアの腕にしがみつく。
急に腕にしがみつかれたティアは何を思ったのかふいに、「大丈夫だよ」とアシュレイに答えた。
「月にはウサギが住んでるんだから。」アシュレイの目を見ながら続ける。「君みたいにかわいいウサギがね。」
顔を真っ赤にしたアシュレイは、「オ、俺はウサギじゃない!」とつい叫んでしまった。
「そう?私にはウサギにしか見えないけどな。」と、とぼけるティア。
「俺がウサギならお前はなんだよ、子リスか?それとも孔雀だとでも言うのかよ。」小バカにしたようにアシュレイが言う。
「ばかだな〜決まってるじゃない。」ティアは赤い髪に優しくくちづける。
「アシュレイ、場所を変えて月見しようか。」そう言うと、ティアはアシュレイの肩をぐいぐい引っ張って行った。
その時になってやっと気づいたアシュレイは心の中で叫ぶ。(そうだ、こいつは狼だった!それも夜になると豹変する狼男だ〜〜〜!!)
しかしそう思った時にはもう遅く、ウサギはとっくに狼の餌食にされていたのだった。
翌日には、冷やかし半分心配半分で遊びに来た柢王・桂花夫妻に、言葉通りお土産をいっぱい抱えて旅行から帰って来た父母弟妹と、磯○家はまたいつもの賑やかさを取り戻していた。
@@@おまけ@@@
その約10ヵ月後、ティアにはまた1つ宝物が増えた。
が、碧い髪の色をしたその宝物が永遠の好敵手(ライバル)になろうとは、まだ想像すらつかないティアだった―――。
ガランガランガラン!!
商店街に鐘が鳴り響く。
「おめでとうございまーす!1等賞が出ましたーーー!」
(えぇぇぇぇーーー!)
「1等賞は伊豆温泉1泊2日の旅でーす!奥さん、おめでとうございます!」
「あ、ありがと・・・」アシュレイはとまどいつつも商店街会長から目録を受取った。
それはとある平日。
新婚ホヤホヤの若旦那と父親を会社へ、幼い弟妹を学校へ送り出した後、新米奥さんは母親と一緒に後片付け・掃除・洗濯に勤しんでいた。
一段落着きふと時計を見ると針はもう10時を回っている。
「あ、やべ!」慌てたアシュレイは急いで買い物カゴを抱えると「母さん、俺買物行ってくる!」と断って出て行こうとした。
「あ、ちょっと待ってアシュレイ。」母親の李々が呼び止める。
「?」振り向いたアシュレイに李々が引出しから紙を渡した。
「この前ナセルがくれたのよ。磯○さん家はいつも注文してくれるからって。はい、いってらっしゃい。」それが商店街の福引券だった。
「よかったですね、アシュレイさん。」三河屋のナセルがアシュレイの肩に手を置いて、にっこり微笑んだ。
「おまえ、次は2等賞が来るって言ってたじゃないか!」アシュレイは恨めしそうにナセルを見る。
「すいません、どうも読み違えてしまったみたいです。でも1等ですよ、スゴイじゃないですか。」
どうも言葉ほどには恐縮しているようには思えなかったが、単純なアシュレイはおだてられて少しその気になった。
「そうだな、俺クジ運いいのかも。あーでも2等賞欲しかったなー。」
「まあまあ、次の商店街福引セールの時にまた当てたらいいじゃないですか。ね。」ナセルはそう言うと、アシュレイの肩をポンポンとたたいた。
「わかった、じゃあまたな、ナセル。」カゴいっぱいの荷物を軽々と抱えながら、アシュレイは元気にナセルに手を振って別れた。
「――それでな、そこで俺が思いっきりハンドル回したら金色の玉がコロンって飛び出したんだ!」
心持ち頬を紅潮させながら、目をキラキラ輝かせて話すアシュレイに、ニコニコしながらティアは相槌を打つ。
「スゴイね!やっぱり君には強運がついてるんだよ。」
仕事から帰ってくるといつも玄関まで出迎えてくれる新妻だが、今日はやけに元気が良かったのでティアが何かあったのかと尋ねようとしたら、さっそくその理由をアシュレイは話してくれたのだ。
(ふふ、ナセルのやつ。案外健気な男だな。)
1等賞は温泉旅行の宿泊券だが、2等賞はお米1年分だった。娘夫婦が同居するようになった磯○家では、お米の消費量はバカにならない。
だからアシュレイは2等賞を狙おうとナセルに助言してもらったのだが、それがなぜか1等賞を引いてしまったというわけだった。
だがティアにはナセルの意図がすぐわかった。
もし1年間分ものお米を当てられたら、それだけ三河屋への配達依頼が減るということだ。
そしてそれだけナセルがアシュレイに会う機会が減るということでもある。
ティアもナセルは知っている。少し話しただけでお互い博識で、頭の良さを認め合うことができた。
それに磯○家のご近所の主婦の方たちは、ティアに必要以上に愛想良く親切にしてくれる。
その主婦の方たちが頬を染めながらティアに話した噂話によると、ナセルは某有名大学で博士号を取った秀才だが、たまたま立ち寄ったこの町が気に入った為、店員募集をしていた三河屋に就職したのだという。
しかし実は、どうもここに住んでいる女性に一目惚れしたからじゃないか、というのが奥様たちの結論だった。
ナセルもティアほどではないがなかなかの男前なので、三河屋への配達依頼は多いらしい。
その上ナセルは頭の良さをひけらかすようなことはせず愛想がいいので、旦那さま方にも評判は上々だった。
ティアはたまたま定時に仕事が終わって帰った日、家の近くでアシュレイとナセルが立ち話をしているのを見たことがあった。
同じ気持ちを持つ者同士、ピンとくるものがある。それ以来ティアはナセルに対して不安と親近感の入り混じった複雑な感情を抱くようになった。
そんな亭主の気持ちなど全然気がつかないアシュレイは、当てた宿泊券について説明し始める。
「でな、ティア。これなんだけど、行けるのが2人だけなんだ。だから…」
その時ガラッとアシュレイたちの部屋の戸が開いた。
「ずるい、姉さん!二人だけで行こうとしているんですね!?」いきなり襖戸を開けたのはアシュレイの弟カルミアだった。
「僕だってティア兄様と温泉に行きたいです!!」
(だからどうしてそこで<ティア兄様>が出てくるんだ、こいつはーーー!)ムカアッとくるアシュレイだった。
「馬鹿かお前は!なんでお前とティアが二人だけで行かなきゃなんないんだよ?行くなら俺だろ!」
「姉さんはいつも一緒の部屋なんだからいいじゃないですか。そうだ、たまには僕と一緒に寝ませんか?ティア兄様。」カルミアはティアの腕を引っ張って、今すぐ自分の部屋に連れて行こうとした。
弟の言葉に思わず顔を赤らめながらも、アシュレイは弟の手をティアから引き離す。「まったくしょうがないやつだな。ティアが困ってるだろ。」
苦笑しているティアを見てカルミアは「ごめんなさい、兄様」と謝った。
「いいよ。それよりカルミア、アシュレイは別に私と一緒に行きたいわけじゃないんだよ。」
「え?」きょとんとするカルミア。
「人の話は最後まで聞け。」アシュレイはコツンとカルミアの頭を叩いた。「これは父さんと母さんにあげるんだ。」
「…そうなんだ。」思わず姉の顔を見る弟だった。
「そうなんだ。でもよく俺の言いたいことわかったな、ティア。」ティアに振り向くアシュレイ。
「そりゃあ、君の夫だからね。」アシュレイに微笑むティア。目と目を見交わす二人をみてカルミアはギュッと胸が絞られる気がした。
「わかりました。それなら僕は文句ありません。」すごすごと部屋に戻ろうとするカルミアを、ティアが呼び止める。
「待って、カルミア。今度みんなでドライブに行こう。」
「本当ですか?ティア兄様!約束ですよ!」
「ああ、今月はちょっと難しいけど、来月になったら仕事も落ち着くから大丈夫。どこに行きたいか考えておいで。」
義兄の言葉に今まで落ち込んでいたのはどこへやら、急に元気になって部屋を飛び出した弟を見て、アシュレイはあっけにとられる。
「…わかり易いやつ。」
「かわいいじゃない。」
「ごめん、ティア。気ぃ遣わせちまった。」毎日仕事で忙しいんだから、本当は休みの日くらいゆっくりさせてあげたい。
なのに自分と結婚したばっかりに同居している家族にまで気を遣っている夫に、申し訳ない気持ちでいっぱいになるアシュレイだった。
そんな妻の気持ちなどお見通しのティアは、アシュレイの頭を抱きしめながら言う。
「ばかだな君は。私はそうしたいからしているだけだよ。君の家族は私の家族でもあるんだからね。」
「ん。」アシュレイは大人しくティアの肩にもたれながら、優しい夫の言葉に心が満たされていくのだった。
その日の夜、子供たちからのプレゼントとして李々母さんと炎王父さんに宿泊券を渡した。
初めはティアと二人で行かせようとしていた李々だったが、アシュレイたちの気持ちを素直に受け取ることに決めた。
そうして10月も中旬を過ぎた頃、久し振りにティアも休みが取れ、子供たちも学校が休みだという週末に、炎王と李々は旅行に行くことにした。
土曜日の朝早く、この日の為に買ったワンピースにいそいそと着替えている李々は、間違いなく5歳は若返って見える。
その妻の様子を見ている炎王も、平然としつつどこか照れくさそう。
そんな両親を見たアシュレイは、やっぱりチケットをあげて良かったと心から思っていた。
「家のことは心配しないで、のんびり風呂に入ってこいよ。」
「そう言われてもなあ。本当にお前、大丈夫なのか。」元気で頑張り屋なところは認めるが、同時に慌てん坊の娘が心配な父・炎王である。
「そう?そうね、あなたも最近やっと家事に慣れたみたいだし…。まあ分かんないことがあったら桂花に聞くといいわ。」その点李々のほうが落ち着いていた。
アシュレイには近所に住む柢王という従兄がいる。
桂花はその柢王の奥さんだが、我が娘とは正反対で家事全般見事にこなす、怜悧な美貌の持ち主である。
一時期柢王が磯○家に下宿していたので、結婚する前からちょくちょく恋人を連れて遊びに来ていた。
そのおかげでアシュレイも李々も桂花と仲良くなったのだが、むしろ柢王とアシュレイには桂花のほうが李々に懐いて見えるくらいだった。
そんな桂花を、李々も我が娘のようにかわいがっていた。
「うん、そうする。それよりほら、早く行かないと電車乗り遅れるぜ。」のんびり玄関に佇んでいる父母をアシュレイが急かす。
「ちょっと待って。遅いわねえ。」廊下の奥を見ながら呟いた母親の言葉に「誰が?」と聞き返そうとした時、
「ごめんなさい母様、やっと準備出来ました。」カルミアたちが小さな旅行鞄を持ちながら現れた。
「え?何してんの、お前?」わけがわからずアシュレイが弟に尋ねる。
「この姿を見てわかりませんか?僕らも父様たちと一緒に旅行に行くんですよ。」しれっとした顔でカルミアはアシュレイに答える。
「へ?」まだ状況が把握しきれていない妻に代わって、夫の方が返事をした。
「わかりました、お義父さんお義母さん。留守は僕らがしっかり預かりますから、楽しんできて下さい。」
「ありがとう、ティア。後は宜しくね。お土産いっぱい買ってくるから。」頭の回転の速い義理の息子に、義母は満足げである。
そしてあっという間に二人きりになった磯○家だった。
水曜日の昼下がり、買い物かごを片手に桂花は商店街を歩いていた。
その横にはよちよち歩きの冰玉。
好奇心旺盛なところは誰に似たんだか、やんちゃで行動的な冰玉からは目が離せない。それでいて何かびっくりすることがあると一目散に桂花の元に戻ってきてだっこをせがむ。
(くっつきたがりのところも誰かさんにそっくりだ)
親子三人川の字で眠る時、冰玉は桂花の手を握って放さないし、柢王は冰玉ごと桂花を包み込むようにしたがる。頬をくすぐったり、指を絡めて髪に口づけたり。
冰玉の前でそういういたずらは駄目って言っているでしょう、と諫めても柢王は「もう眠ってるから大丈夫」と一向にに意に介さないが。
ふと、桂花の口の端が持ち上がる。
本人も意識せぬほど、ほんの少しだけ。
最近は柢王の仕事が立て込んでいたらしくなかなかゆっくりと家族の時間が持てなかったが、先ほどこのところの激務が落ち着いたらしい柢王から「今日は早めに帰宅できるめどが付いた、お前の作った茶碗蒸しが食いたい」というメールが送られてきていた。
「空也、こんにちは。ゆり根はありますか? あとミツバと」
八百屋で足を止めた桂花は、親しくしている店員の空也に声を掛ける。
「……っと、いらっしゃいませ、桂花殿。今日は茶碗蒸しですか?」
いいですね〜俺も好物です、と手早く商品を包みながら笑う空也にほほえみ返し、代金を払って受け取る。
「ありがとう。ほら、行くよ冰玉」
店頭に並んだ野菜を面白そうに眺める冰玉を促し立ち去る桂花の後ろ姿を空也はぼんやりと眺める。
「なーんかいつもよりご機嫌だったなぁ……いいことでもあったのかな」
他にも柢王の好物をあれこれ買いそろえ、さて帰ろうと歩き出した桂花の前からやってきたのは見慣れたストロベリーブロンド。
「あっ、桂花!」
桂花が気付くと同時に、アシュレイも桂花に気付いた。
「どうも。こんにちは」
アシュレイも買い物帰りらしく、両手にいっぱい荷物を抱えている。
「なぁ、お前今時間ある? うちで茶ぁ飲んでいかねえ? うまい饅頭があるんだ」
「……何か御用ですか」
何か裏があるのでは、とちょっと眉根を寄せ用心深く問い返すとアシュレイは照れたようにうつむく。
「あのさ。俺に魚のおろし方、教えろ!」
ティアがこないだアジフライを食べたいって言ってたんだけど、母さんが今日はお隣の李々さんと女学校の同窓会に出かけてて遅くなるから聞けなくて、と早口で一気に説明をする。
「アシュレイ殿、あなたねぇ……」
人に頼み事をする時に命令口調って。
思わず呆れかえる桂花。
けれど。
「…………わかりました。大丈夫、アジならそれほど難しくはありませんよ」
「ほんとかっ!?」
桂花の了承にアシュレイは嬉しそうに笑う。
料理がまだそれほど得意ではないらしい新妻のアシュレイだが、出来合いのものや冷凍食品を使うという手もあるのに、わざわざ魚をさばくところからやろうとするところがいじらしい。いや、むしろ無謀と言うべきか。だが、何事もチャレンジしてみることが大切だ。
それに、大切な人に美味しいものを食べさせたい気持ちは痛いほどよくわかるから。
かくして魚屋で新鮮なアジを手に入れた二人は、アシュレイ宅でひとまず饅頭とお茶のおやつで一服し、戦闘状態に入った。
桂花の説明とお手本で一通りのプロセスを確認し、いざアシュレイも出刃包丁を握る。
「アシュレイ殿、まずゼイゴをとらなくては」
「今やってるっ!」
「アシュレイ殿、ワタの前にウロコをとった方が」
「わかってるっ!」
「アシュレイ殿、アジフライを作るなら中骨もとった方が」
「ああっ、まだあんのか!? めんどくせえ……、あっ、桂花、俺がやるんだから手は出すな!」
こんなやりとりが続くこと約2時間(!)、どうにか下ごしらえを終えた時にはアシュレイはもちろん、桂花もぐったりと疲れてしまっていた。魚をさばくのには体力が必要だ。
その間、冰玉の面倒はアシュレイの幼い弟妹が見てくれていた。
まさかこんなに長い時間面倒を見させることになるとは……。
「冰玉、そろそろ帰ろうか」
長い間悪かったね、と言いながら桂花が子供部屋に顔を出すと、ちょうど冰玉がアシュレイの弟・ナセルのランドセルの中身を引っ張り出しているところだった。
「こらっ、冰玉、やめなさい!」
慌てていたずらっ子の手を止めようと駆け寄り、手に持っていた教科書やプリント類を奪い返す。
「ああ、桂花さん、大丈夫だから!」
幼いながらも利発なナセルはかまわないよ、というように冰玉ににっこり笑いかける。と、桂花の持っているプリント類の間から一枚の紙が滑り落ちてきた。
ちょうど手帳を切り取ったようなサイズ。
それが何かと考えるよりも前に桂花の目に飛び込んできたのは見慣れた書き文字。
(……あの人の)
一瞬動きが止まった桂花の視線の先をとらえ、「あ!」とナセルが声を発する。
やりとりを黙って見ていた妹のグラインダーズも「あーっ!」と声をあげる。
そこに書かれていた文字は……「借用書」。
「……これは?」
紙を拾い上げ、にっこりと微笑んだ美貌のおばの凄みに圧倒され、しどろもどろになってしまうナセル。
おじさんが経済の勉強で利息がトイチで会社にお財布忘れたらしくて、と冷や汗をかきながら説明するナセルだが、どちらかというと怒るよりも呆れてしまい情けなくて仕方がない桂花であった。
多分本当にお金がないというより面白がってのことなんだろうけど……それにしたって!
「すごい! これ、全部君が作ったの?」
「……桂花に教えてもらったから」
大皿に山盛りのアジフライを前に、ティアが目を輝かせる。
「でも、君のことだから教えてはもらっても自分でやり遂げたんだろう? 本当に美味しそうだな、嬉しいよ」
私のために作ってくれたんだろう? と声には出さない気持ちを込めて、照れたように黙り込む妻をティアは優しく見つめる。
早めに帰ってきて本当によかった。
柢王と別れて帰宅すると、ちょうどアジフライが出来上がったところだったのだ。
よく見れば指先にはバンドエイドがまかれ、他にも小さな傷がいくつか。今朝まではそんなところに傷はなかったのに……まさかアジフライのせいで?
「冷めるだろーが、早く食べろ! ほら、お前たちも」
頬をうっすらピンク色に染めたアシュレイは、ティアや弟妹のご飯をよそって自分もいただきます、と手を合わせて食べはじめた。
「いただきます。…………うん、美味しい。君は本当に料理の腕を上げたよね」
アジフライを一口食べ、率直な感想を口にするティア。
そっか? と素っ気なく答えながらもアシュレイの表情は嬉しげにほころんでいる。
「だって姉さん、相当気合い入ってたもんね」
「義兄さんのためだもんね」
ね、と顔を見合わせこっそり話す弟妹。
「それより、柢王おじさん大丈夫かなぁ……」
何の落ち度もないのに、思わず責任を感じてしまうナセルであった。
「なあ、もしかしてまだ怒ってる?」
「……」
食器を洗っている最中だというのに後ろから抱きしめたり、髪に指を絡めて引っ張ったりあれこれいたずらを仕掛けてくる柢王を完全無視状態の桂花。
どちらかというと借用書の件よりも、今、邪魔をされていることに怒ってますけど。
「なんか言えよ〜。あ、食後のコーヒーは俺がいれてやっから♪」
それともケーキにはやっぱり紅茶がいいか? と悪びれずニコニコ笑う柢王を桂花は横目で見やる。
洗い物を終え、濡れた手を拭いているとくるりと回転させられ、正面から腰を抱き込まれた。額と額をすりあわせるようにしながら頬を柢王の両手で包まれる。
「悪かったって。もうしない。……な?」
何が「……な?」だ。
とはいえ、桂花も実は最初からそれほど怒っているわけでもなかった。ナセルにお金を借りたりしたことよりも、せっかく久しぶりにゆっくりとした時間が持てるはずだったのに、素直に甘えるよりも問いただしておかなければならない出来事がおきてしまったことが悔しいだけで。
「……今度はお財布を忘れたとしても、ナセルじゃなくせめてアシュレイ殿に借りてくださいね」
わかってるって、と笑うと柢王は身を離し、よちよちとパパに向かって歩いてきた冰玉を抱き上げながら桂花に向かってウィンクしてみせる。
「冰玉、今日はみんなで川の字になってくっついて寝ような♪」
でもお利口さんだから早く寝るんだぞ、と真剣な顔で諭す柢王に馬鹿じゃないですかと憎まれ口を叩く桂花の声音は、笑いを含んで優しいものだった。
ガッシャーン!!
と、大きな音がしたのに続けて、アシュレイの、この世のものとは思われない声が響き渡った。
「アシュレイッ!」
玄関にいたティアは顔色変えて、廊下を走った。息を切らせて台所へと飛び込む。
「アシュレイ、どうしたのっ?」
暖簾払いのけて叫んだティアの前には、床に砕けた大皿に飛び散った野菜、それに金色に輝くから揚げをぼうぜんと見つめ、へたり込んでいるアシュレイの姿だ。
「アシュレイッ! 大丈夫、けがしてないっ?」
アシュレイの側に膝をつき、その肩をゆさぶるティアの視界の向こうで、オブザーバーたちも声も出ないで瞳を見開いている。
一瞬のことだった。ティアの帰宅に勢いよく振り向いたアシュレイの手に持っていた菜箸がから揚げ載せた皿のふちにぶつかって、あっという間に皿は床に落ちて砕け、せっかくできたから揚げは飛び散ったのだ。
「ねぇ、アシュレイ、しっかりして! けがしてない?」
尋ねるティアに、アシュレイはぼうぜんとしながら、
「……っかく──」
ふいに、焦点の戻った赤い瞳が揺れて、
「……せっかく、俺…おまえに、から揚げ、うまくできたから……」
呟いたアシュレイの声が、悲鳴のように高くなる。
「俺っ、今日は、ちゃんとできたから──今日は、ほんとにちゃんとできたから……おまえが、恥ずかしくないように、今日はちゃんとできたのに……──なのにっ、なのに最後にこんななんて……俺なんかやっぱりだめなんだーーーっ!」
うわあぁっと床に突っ伏したアシュレイにティアはあぜんと目を見張る。
「アシュレイ、アシュレイ、ねえ、顔上げて。危ないから、ね、落ち着いて!」
「お、落ち着いてなんかいられるかっ……せっかく、せっかく作ったのに──やっと、ちゃんとできたのに……俺なんか最低だっ! 飯もまともに作れないっ、役立たずな嫁なんだっ!」
丸くなった背中が震えて、くやしい悲しいくやしい──叩きつけて叫ぶよりはるかによくわかる。ドアの向こうで桂花も涙目だ。団地の部屋の壁紙すすけるくらいにあんなにがんばったのに……!
「アシュレイ──」
ティアはつぶやき、そして、息をついた。震えている赤い髪に手を当てると、優しい声で、
「そんなことない。私は世界一の奥さんをもらったって、いま改めて思ったよ」
アシュレイが涙声で、嘘つけっ、と叫ぶ。うずくまったまま、
「そんな、気休め聞きたいんじゃないっ、俺は、俺はおまえにほんとに……ほんとに──」
こんな嫁を選んだとティアが笑われることがないように、ティアが恥ずかしくないように──と。
声に出さない気持ちを感じ取ったように、ティアは微笑んだ。きれいな顔に、まぶしいものでも見るような笑みが浮かんで、
「気休めなんか、君には言わないよ。君はいつでもストレートに来るんだから、私が遠慮してたらいつも負けっぱなしだろ? 私はいつも君と出会えたことを幸せだと思ってる。君が本気で笑ったり怒ったりする姿を見ていると、私も心から曇りがなくなるような気がする。そこそこに幸せ、なんてないんだって、君と出会ってからわかったよ。君といると私は幸せだ。だから、君のことを恥ずかしいなんて絶対に思わないよ」
静かだが、優しい言葉に、アシュレイの震える背中がかすかに動く。それでも、まだ涙声で、
「……嘘、つけ──」
「嘘じゃないよ」
「……飯もまともに作れなくてもか?」
「君の作るご飯はいつもおいしいよ」
「そんなの嘘だ。それに他の家事だって俺、母さんや桂花みたいにちゃんとできないし、おまえの嫁らしいことなんかなんにもできないじゃないか」
「そんなこと言うなら私だって、どこが君の亭主らしいの? それに──」
ティアは微笑むと、言った。
「君は私の大切な人なんだから、自分のこと役に立たないなんて言わないで。それは君自身にも、私にも失礼だよ」
「──ティア……!」
アシュレイが、驚いたように顔を上げる。濡れた瞳が、目の前に、優しく微笑んでいる瞳を見つめる。ティアはそれにとろけそうな笑顔を見せて、
「君が好きなんだよ。君は私の宝物なんだからね」
「……ティア──」
「──おまえたち、せっかく盛り上がっているところを何だが」
と、ふいに背後から聞こえた声に、ふたりは飛び上がった。あわてて振り向くと、そこには暖簾かきわけ、こちらを見ている部長の、面白そうな、やれやれと言いたげな、ふしぎな笑顔。あっ、と叫んで立ち上がったふたりに、
「あわて者のツガイはあわて者、客を置き去りにして消えるとは、ティアランディア、おまえも子ザルといい勝負だな」
「す、すみません、部長。あわてていて、つい──」
「それに子ザルも子ザルだ。聞いていれば飯も作れないだめな嫁だとかなんだとか、それは一体誰に対する礼儀だのつもりだ? 私は子ザルの元気な顔を見に来ただけだぞ。歓迎する気があるなら、客は笑顔で迎えるものだ」
言われて、アシュレイが真っ赤になる。あわてて、すみませんっと頭を下げかけ、
「ティ、ティアっ、靴っ!」
「あっ!」
ティアも自分の足元を見て、目を見張る。部長が笑いながら首を振り、
「見るといい、子ザル。ティアランディアは会社では実に有能だが、子ザルのことでは考えられないことだってする。おまえたちは似合いの夫婦ではないか」
「……部長──」
アシュレイの瞳が、悔し涙でなく、潤む。
「アシュレイ、ここは私が片付けるから、君は部長を案内して」
「でも──」
「夫婦なのだからするということは任せればいい。それに、ティアランディアは靴を脱がなくてはならないからな」
と、からかうように笑った部長に、アシュレイは目を見張る。その笑みと、そして、この上なく優しく微笑んでいるティアの顔を見比べると、
「──はいっ!」
元気いっぱい、笑って頷いた。
廊下を行くアシュレイと部長の、
「でも、部長、その子ザルはやめてください」
「では赤ザルか? それとも赤毛ザル?」
「って、なんでそんなにサルっ?」
うっきーっと怒る声と笑い声を聞きながら、ティアはホッと息をついて、靴を脱いだ。勝手口にそれを出そうとして──見守っていたオブザーバーたちに気づく。
「カッコイイ亭主じゃん。あんなの素面じゃなかなか言えねぇよな。尊敬したぜ」
目が合った柢王が笑って言う。ティアはそれに心からの笑みを見せて、
「ありがとう」
言った言葉に、桂花は潤んだ瞳で頷き、三河屋さんはちょっと複雑な、だが優しい顔で微笑んだ。かれらが去って行くのを見送って、台所を片付けながら、
「君に秘密がまたできちゃったね──」
特訓に気づかないふりをしたこと+本当は見守ってくれる人たちがいたこと。
「でもそれは、いい秘密、だよね」
ティアはにっこり微笑んで、廊下を急ぎ足でアシュレイたちのいる部屋へと向かったのだった。
店に電話したら、アランからこてんぱんに怒られたナセルがあわてて配達に戻るのと別れて、桂花たちは家に向かってぽかぽか陽気の道を歩いていた。
ため息をついた桂花に、柢王が笑って、
「おまえも安心したよな。お疲れさん」
眠ってしまった冰玉をよいしょ、と肩先に担ぎ上げ、もう一方の手を桂花に差し出す。桂花はちょっと頬を赤くしながらもその手に手を載せた。
「料理はなんでしたけれど、部長さんには可愛がってもらっているようですし、うまくいったと思っていいですよね」
言うのに、柢王がバーカ、と笑う。
「うまくいくいかねぇが問題じゃねぇよ。自分の嫁さんが、自分や自分の客のために一生懸命になってくれてんのが嬉しいの。出来不出来じゃなくて、そういう、人のために尽くせる姿に、部長だってティアのこと、いい嫁もらったなって思ったんだよ」
それに、俺もな、といたずらっぽくウインク寄越す亭主の顔を、桂花は瞳を見開いて見上げる。
ハメを外させれば向かうところ敵なしの能天気な亭主、なのだが──桂花が育児に疲れてうとうとしていたりする時には、そっとブランケットをかけて、皿洗いしてくれていたり。休みの日には子守りを引き受けて『おまえもたまには気晴らししてこいよ』と笑顔で送り出してくれる。
忙しく見えても、本当に大切なことは、ちゃんとみていてくれている。ティアも、きっとそうなのだろう。
桂花は微笑んだ。片手に冰玉、片手に桂花。仕事でふさがっていない時には、その手はちゃんと自分たちのものなのだ。
そっと、よりそってみた桂花に、
「ん? なに、うちの旦那は世界一だなぁって思ってる?」
亭主はふざけたようにいいながら、その手を肩にまわしてしっかり引き寄せる。桂花は笑い、
「うちの旦那様はうぬぼれが強い楽天家だなぁ、なんて思っていました」
優しい瞳で見上げると、世界一男前な亭主は笑いながら肩をすくめ、
「んっと、そういうとこすなおじゃねぇもんな。ま、冰玉も朝まで起きないだろうし、今夜は久々ゆっくり話でもしようぜ」
ベッドのなかで、さ。ささやいた亭主の手の甲を軽くつねりながら、桂花は幸せそうな笑顔で小さく頷いた。
*
「なぁんだ、お姉ちゃんって、ほんとに大雑把なんだから」
呆れたようなネフロニカの言葉に、隣にいたパウセルグリンが首を振って、
「そんなこと言ってはいけないよ、ネフィ。人にはそれぞれ得手不得手があるんだからね」
無人島に行った家族が戻ってきた夕食の席───居間のちゃぶ台囲んで、アシュレイはようやくみんなに事情を打ち明けた。
仲人が来るのに黙っていて、叱られるかと思ったが、父さんも母さんも、熱烈バトルで消耗したのか静かに微笑むだけでなにも言わなかった。失敗話にはあきれたものの、小学生にしてその流し目とミニスカひらりで男子学童のアイドルである妹は人のいるところに戻れたのが嬉しいのか、機嫌は悪くない。
「それでお姉ちゃん、出前取ったの?」
尋ねるのに、ティアが代わって、
「材料に余分があったからね。もう一度作ったんだよ。その間、部長も台所で様子を見ていらしたんだ」
「まあ、部長さんが台所に?」
と、グラインダーズが目を見張る。ティアは笑って、
「たっての希望でしたから。それに、私もここの台所は好きです。アシュレイやお義母さんのあたたかさが伝わるような気がして」
その台所でリトライされたから揚げを口に入れた部長は、とことんこなれた大人だ、なるほど、と頷いて結婚式の話を始め、自然にから揚げのことは話題から完全削除した。
「まあ、おまえもこれからはもっとまじめに家事に励むことだ。母さんを見習いなさい」
と、まじめすぎてたまに自分が何言ってるのかわかってない山凍父さんが重々しく頷くのに、
「父さん、姉さんには姉さんのやり方がありますよ」
頭切れて冷静沈着、時に父さんよりしっかりした弟が静かに釘を刺す。アシュレイを除く女性たちがうんうん頷くのに、父さんはなぜとわからず狼狽。
その姿に、ティアは微笑んだ。みんなわかっていて、でも、アシュレイのやりたいように気づかないふりをした。
(ほんとに君と出会ってよかった──)
アシュレイはもちろん、あたたかな家族やいとこ夫婦、見守ってくれる近所の人たちのなかに入ることができて、本当に自分は幸せだ。微笑みながら、
「お義母さんは才色兼備ですから、アシュレイもいずれ似てくるかも知れません。でも、私はなにより、アシュレイがアシュレイらしくいてくれるのが一番嬉しいんです」
「ティア──」
「ただ、けがには気をつけてね。そのことだけが心配だから」
言ったティアに、アシュレイは頷いて、
「明日、部長に会ったら、今度来るときには最初からちゃんともてなすから──笑顔で、って言っといてくれるか」
「うん、わかった」
と、ティアも微笑み、和やかな空気に包まれ、意味なく笑い始めた一家の台所。散歩から帰ってきた猫のタマが明日の父さんの弁当のために残しておいたから揚げを一口かじり、どっ、と調理台から転げ落ちたのを見たものはいない。
ともあれ──アルペジオの終わりはいつも、完全な和音だ。
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