投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
桂花は採取したばかりの薬草を家の裏の泉で洗っていた。
自家用でもあるが、商売用の方が多くなった。それというのも金使いの荒い王子様のおかげである。軍の給料は充分良いにも関わらず、それだけではやっていけないくらいには使ってくれるのだから恐れ入る。「本当にお前って働き者だよなー」と呑気たらしく言う顔面を思いっきり張り倒したこともあるのだが、そんなもので反省してくれるような可愛い性格ではない。
というわけで桂花は今日もせっせと生活費のために薬作りに精を出している。
洗った薬草を籠に入れると裏口から家へ入った。濡れた手を拭こうとした時、ふと指輪をしていないことに気が付いた。籠を机に置くと、急いで泉へと引き返し、さっき自分がいた辺りの草を丹念に掻き分けたが見当たらない。泉の周辺は桂花によってきれいに手入れされているのですっきりしている。あればすぐに見つけることができる。しかし、まろやかな金色の光を放つ、上品で華奢なデザインの指輪はどこにもなかった。薬草を干したら夕飯の支度に取り掛かろうと思っていたのに、それどころではない。
桂花は着替えると慌しく戸締りをして外へ出た。
四国随一の繁華街である花街。
メインストリートを最近、花街でちょっと有名な青年が急ぎ足で歩いていた。
白い肌、流れるような黒髪。そこらの役者よりもはるかに美形だが、意外にも薬師である。しかも薬師としての腕もさることながら腕っぷしも強い。
道行く女性達は色めきたち、顔見知りからは次々と挨拶の声がかかる。夢竜という青年はそれに軽く挨拶を返しながら道を進んでいく。こんなにも有名なのだが、街を出た後の彼について知る人は誰もいない。しかし「花街・花の男衆」の筆頭で、警備総司令官であり、さらに領主の三男である柢王元帥が古い友人だと言うので取り立てて不審を抱く者はいなかった。
さて、夢竜は彼の薬を扱っている店のうちの一軒である茶屋へ入っていった。ここでは酔止めや胃薬を置いてもらっている。暖簾をくぐると算盤を弾いていた女将が顔を上げた。
「おや、夢竜さん」
夢竜は挨拶もそこそこに切り出した。
「女将、吾が昼間、薬を卸した時に指輪を落としていかなかっただろうか?金色の」
「指輪?見ていないけどねぇ」
女将は従業員達を振り返るが皆、首を横に振った。
女将は眉を上げた。
「良い人からのプレゼントかい?」
「いや、形見なんだ、母の」
「そりゃあ、大変だ」
女将は気遣わしそうな表情で見つかったら声を掛けると約束をしてくれた。夢竜は礼を言って外へ出た。
「ここではないか・・・」
暖簾を背に桂花は呟いた。
『これ、やるよ』
そう言いながら指に嵌めてくれた。口調は軽く、でもとても大事そうに手を取って。そして柢王は中指に収まった指輪の上から愛しそうに紫微色の指を撫でた。
桂花は「夢竜」の淡い褐色の指を、大切な記憶をなぞるようにそっと撫でた。
柢王からもらった物達で、桂花にとってどうでも良い物など一つもなかった。愛しい記憶が詰まっているものばかりだから、一つも失くしたくはなかった。
必ず見つけなければ。今日寄った店には全て行ってみよう。
桂花は、今は漆黒の髪を背に払うと通りへ出た。
すると
「あら、ごめんなさい」
話しに花を咲かせながらそぞろ歩いていた若い芸妓達の1人と肩がぶつかってしまった。
「いや、こちらこそ」
桂花は軽く会釈を返すと、再び歩き出した。背後では
「きゃー、夢竜さんよ、夢竜さん!」
「すっごい近くで見ちゃった」
「素敵よねー」
彼女達のはしゃぐ声が響いていた。
指輪のことで頭が一杯であった桂花の耳に、彼女達の他愛ない話し声が飛び込んできてしまったのは、話題が自分の恋人のことであったからかもしれない。とにかくそれが意識の間を縫うように届いてしまった。
「そう、それでさっきの続きなんだけど。この街に柢王様の子がいるらしいわよー」
「えぇ、本当に!?」
「芸妓が生んだ子なんだって」
思わず桂花の足が止まった。振り向く衝動を何とか堪えたが、足は前へは動かなかった。指輪から、意識は完全に彼女達の話しの方へと移ってしまっていた。気が付くと桂花は木の陰へ寄っていた。
芸子達は桂花のいる木の側で立ち止まって話しを始めた。
「じゃあ、その子供は王族の血を引いているってわけね」
興奮気味な1人に向かって、もう1人が呆れたように言った。
「でも芸妓の子じゃ仕方ないわよ。所詮、身分違いじゃない」
「そうよー。そんなもの一夜の夢に過ぎないわよね。こんな所じゃよくある話しだもの。期待する方が馬鹿なのよ。それくらい分からなきゃ」
「まぁね。じゃないと惨めなだけよね」
身分違い・・・。一夜の夢・・・。惨め・・・。
彼女達の無邪気な声の一つ一つが桂花の胸に突き刺さる。
まるで自分のことを言われているように思えた。
桂花はゆっくりと息を吐き出した。
あの人の足だけは引っ張りたくない。そうするにはどうすれば良いかをいつも考えていたが、とんだ欺瞞だ。最良の方法を知っているのに、それを無視して必死に頑張ってきた自分はなんて滑稽なんだろう。
噂の的になっている、顔も知らない芸妓を思った。彼女はどうしているだろう。王族で、元帥で、花街の花形である男の子供を産んだことに有頂天になっているのだろうか。それとも現実を思い、一人で惨めさを噛み締めているのだろうか。
身分違いの恋なんて、幸せだと思えてもそんなものは一夜の夢。
眠りにしがみ付いたところで夢は必ず終る。
ちゃんと分かっていたはずなのに、柢王との時間があまりにも幸せだったから。
けれど朝は必ずやって来る。
朝日は隈なく、残酷なほどに全てを明らかにする。
柢王を幸せにする方法はとんでもなく、簡単なことなのに。
それをしなかったのは、彼のことを1番に考えているフリをしながら、実は自分の幸せのことしか考えていなかったからなのだ。
― 吾は柢王の人生を台無しにするところだった・・・。
桂花は唇に苦い笑みを刻んだ。
「愛」を言い訳に1番大切なものを壊してしまうところだったのだから、そのきっかけを与えてくれた芸妓の親子には感謝すべきなのかもしれない。
『あなた、芸妓に子供を産ませたそうですね。吾はそんな男と一緒に生きることはできません』。
あの人だって何も言えまい。まぁ、王族の子供ならその霊力で真偽はすぐに分かるが。しかし今の桂花にとってその子供のことはどうでも良かった。願わくは柢王がその子供を認知して親子で幸せに暮らすという展開はやめてほしいけれど。しかし、そんなことを願う資格は自分にはないのかもしれない。
いつの間にか若い芸妓達の姿は消えていて、夢竜の姿をした桂花は1人木に凭れていた。
「吾は大丈夫だ。もともと1人で生きてきたんだ」
以前、柢王に言った言葉を呟いた。
嘘じゃない。本当だ。1人には慣れている。
あの指輪だって、簡単に失くしてしまうのだからもしかしたら自分が思うほど、思い入れはなかったのかもしれないし。
無理矢理そんな言葉を引っ張り出してみて、無理矢理頷いた。
本当に納得しているのか?という心の声は、納得する、しないの次元ではないという言葉で塞いだ。
平気だ―、平気だ―。
溢れ出しそうな感情を塗り潰すように心の中で繰り返しながら桂花は木から離れ、花街の門へと歩き出した。
もう、指輪を探す必要はなかった。
家に戻ると桂花は夕飯の支度を始めた。話しは夕飯の後にしようと思った。腹が減っているとあの人は冷静に聞いてくれないだろう、という自分でも馬鹿馬鹿しいような理由で夕飯の支度をしている。いや、食事を作っておいてから仕度をしよう、そしてあの人が帰ってくる前に出て行けばよい、何を未練がましく先延ばしにしようとしているのだ、今すぐ手を止めて、荷物を纏めるべきだ ―。心の中で錯綜する声とは裏腹に、紫微色の手は手際よく料理していた。
その時、桂花の横を爽やかな風が通り抜けた。
同時に長くて剛い腕が桂花の細い身体をギュッと抱きしめた。
「いい匂いだな。今日の晩飯は何だ?」
呑気な声が顔のすぐ横から聞こえて、頬を黒髪がくすぐった。
柢王が桂花の肩に顎を乗せて、鍋の中を覗きこんでいた。
「ただいま、桂花」
振り向いた桂花の唇を柢王は軽く啄ばんだ。
「・・・おかえりなさい」
桂花が返事をすると、恋人は嬉しそうに笑った。そんな顔を見ると決意が揺らぐ。やっぱりやめよう、と思いかけた時、「惨めなだけよ」という芸妓の華やかな声が甦ってきた。
「柢王」
「ん?」
首を傾げた柢王と視線が真っ直ぐぶつかった時、桂花の唇から零れたのは、家路の途中で散々考えてきた、どの言葉でもなかった。
「あの指輪、失くしてしまったんです、あなたがくれた」
なぜ、と思った時はもう遅かった。柢王は目を丸くしている。
「だから・・・」
桂花は自分の服をギュッと掴んだ。予定外のことを先に言ってしまったがまだ間に合う。
桂花は今度こそ言おうとしたけれど、言葉は何も出てこなかった。用意していた、柢王を切り捨てる言葉は一片も思い出せない。その代わり、涙だけが後から後から溢れてきた。
柢王は桂花を抱き寄せた。
「何、泣いてんだよ、全く」
「泣いて・・・なんか・・・っ」
「馬鹿だな、桂花は」
本当に馬鹿だと思う。あれだけ考えたのに柢王の顔を見た瞬間に全部消し飛んでしまうなんて。
「何を失くしても、また手に入れればいいじゃねーか。俺は何度だってお前に渡す」
そして柢王は桂花の肩を掴んだまま腕を伸ばして顔を覗き込んだ。
「それにそんなに大事にしてくれてたなんて、スゲー嬉しいよ」
「柢王・・・」
さっきとはまた違う感情に桂花の胸が詰まった。
柢王は桂花の髪を優しく撫でた。
泣いている桂花を見て嬉しかった。
自分が与えた物をそこまで大切にしてくれていたこと。そして失うことに慣れたふりをすることが上手くなってしまっていたのに、失くしたことに対して、悲しいと思い、その感情を自分に見せてくれるようになったことが。
宝石のような容姿で甘えるふりをして、相手の心を思いのままに蕩けさせることはあっても、桂花の心はいつも固く凍えていた。
今はまだ、完全とは言えなくても心を預けてくれる程度には信頼してくれるようになったと思ってもいいだろうと柢王は思った。
柢王の手が桂花の頬を包んだ。紫水晶の瞳が真っ直ぐ柢王を見ている。
自分も桂花の全てを見失わないようにずっと傍にいようと思った。
2人の顔がゆっくり近づいた。
―と、その時。
バサバサっという忙しない羽音が優しい静寂を破った。と、同時に冰玉が窓から飛び込んできた。そして桂花の方へ一直線に向かってくる。嘴には光る物がある。よく見るとあの指輪だった。桂花は思わず叫んだ。
「冰玉、どこにあったんだ!?」
冰玉は桂花の肩に止まると、得意げに羽を広げてピィと鳴いた。愛鳥の言うことは何となく分かる飼い主達であったが、残念ながら例外はある。
桂花はさっさと柢王の腕から抜け出ると冰玉を抱きしめた。冰玉も嬉しそうにピッピチュと囀って桂花に小さな頭を摺り寄せた。
良いところで放り出されてしまった柢王は空になった腕と恋人とを見ながら、何だか素直に喜べない気分であった。
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