投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
「それじゃ、アシュレイ、帰る前にちゃんと電話するからね」
と、いつものように微笑んだ夫の顔に、新米妻は深く頷く。スーツ着たその背中が、角を曲がるまで真剣な顔で見送った後、真剣に深呼吸。
「よっし、スタートだっ!!」
入れた気合と家に駆け込む猛ダッシュに、雀たちがバタバタと電線から飛び立つ日曜の早朝だ。
事の起こりは先週の金曜の夜──
会社から帰ってきた夫のティアが、来週の日曜、ふたりの仲人でもある部長が家に来ると告げたことだった。
ティアは大手商社のサラリーマンで、設立五十年の会社で『百年に一度の逸材』と噂される出来のいい社員だ。実家は資産家、美形で優しく、
誰からも狙…いや、好かれていたティアが、友達に無理やり連れてこられた見合いパーティーの席上、同じく友達に連れてこられていた家事手伝いの
アシュレイに一目惚れして猛烈アタック、あげく結婚したのは半年前のことだった。
日頃から、焼サンマパチって逃げたドラ猫追っかけホウキ片手に裸足で駆けてく評判の『お転婆さん(円満な近所づきあいのための用語例その一)』
だったアシュレイが婚約しただけでも近所の人は驚いたが、その上、ティアが結婚後は何不自由ないマンション暮らしからいまどき木造平屋一戸建て、
火災保険高いだろそれみたいな造りの、両親とまだ小さい弟妹の住む二重の意味で窮屈なアシュレイの実家に同居すると決めたことには大いにたまげた。
『物好きな人もあるもんだねぇ』『きっと変わり者だよ』ご近所さまはあれこれ囁いたが、高齢化の進むこの社会、近所に若い夫婦が存在するのは
いいことだし、ティアもすぐに近所になじんだから、若夫婦はつつがなく楽しく新婚生活を送っていたのだ。
「旅行から帰って挨拶してから顔見せてないもんなぁ」
「うん。君もそろそろ落ち着いただろうし、元気な顔が見たいからって」
「わかった。何時に来るんだ?」
「午前中は私と一緒に取引先のイベントだから昼かな」
「昼だな、よし、わかった……えっ、来週?」
アシュレイは目を見張る。六畳の小ぢんまりした夫婦の部屋の壁、貼ってあるカレンダーには赤マジックで『父さんたち無人島ツアー』の文字。
「ティ、ティア、来週って父さんたち無人島に行ってるぞっ!」
「ああ、先月の福引で当たったのだよね。だからあの週は君とふたりきりなんだよねぇ。たまにはいいね、ふたりも」
にっこりと笑ったティアに、アシュレイも赤面しかけたが、違―うっと、首を振った。
「てことは俺一人で部長の昼ごはん作るってことだなっ」
「ああ、そんなの気にしなくていいよ。お寿司でも取ったらいいもの」
「そんなわけに行くか! 店屋物なんか出したらおまえは飯も作れない嫁もらったって笑われるだろっ」
「そんなことないよ。君がふだん私のためにがんばってくれているのはわかってるもの」
と、優しい旦那は微笑んだが、新米妻はいやいやいやいやっ、と首を振る。
「そんなのだめだ! おまえの会社の人なんだからちゃんしないと。昼飯は俺が作る!」
「それなら楽しみにしているね、奥さん」
と、ティアはにっこり微笑んだ。
は、いいが──
美人で格闘系の母は家事万能だというのに、その娘であるアシュレイは洗濯機を回せば泡が吹き出、買い物行けば財布を忘れ、料理本片手に
ローストビーフを作れば炭の丸焼きが出来上がるという、まじりっけなしの家事オンチだ。まともにできる料理はサンマの塩焼きと
大根おろし、
目玉焼きと千キャベツ…って朝ごはん? 第一もてなしとはどんなことをすることかもわからない箱入りだ。
強さを誇る両親は無人島での人目を憚らない対決を心から楽しみにしている。弟たちが一緒に行くのはふたりを水入らずにしてあげようという配慮だ。
(なのに部長が来るなんて言ったら、母さんたち心配して行かないって言い出すに決まってる。俺だって、ティアの嫁になったんだから、
自分の亭主のことくらいちゃんとしないと──)
パーティー会場で大きな肉の塊にかぶりつくアシュレイの無邪気な顔に一目惚れしたと、それから日に百回近いメールや電話を寄越したティアが
どうやって仕事をしていたかはわからないが、初めてうちに遊びに来ることになった時、暑いなかをわざわざ自宅近くで買ったスイカふたつも抱えて
『ここのが一番おいしいんだ。君の家族の方にも食べてもらいたくて』と屈託なく笑ったティアに、アシュレイはこの人なら大丈夫だと確信したのだ。
その確信通り、アシュレイの家に同居したティアは、家族のことも大事にしてくれて、
(俺のことだって可愛いとか大好きとかいっつも歯が浮くようなこといってくれるし、失敗しても許してくれるし……)
そのティアに、飯も作れない嫁をもらったと恥をかかせるようなことはできない。いや、実際に作れないのだが、そこはそれ、
「なせばなる、なさねばならぬ何事も、だよなっ。きっと出来るっ!」
と、自分に言い聞かせてみたのが金曜の歯磨きタイムのことだった。
*
「桂花、おまえちょっと落ち着けば?」
いつになくそわそわしている妻に、柢王が苦笑いする。出版社に勤める柢王は、休みの時には結婚九ヶ月目の美人な奥さんとなぜか生後四ヶ月の
一人息子冰玉にまとわりつくのが楽しみな能天気な旦那だ。疑惑の赤ん坊はベッドで睡眠中。
「つか、そんなに気になるんだったら覗きにいけばいいじゃんか。どうせ勝手知ったる他人の家なんだしさ」
「そんなことできませんよ。あんなにがんばってるのに冷やかしにいったら恨まれますから」
と、無意識ながらも旦那のスーツのポケットチェックしていた桂花は振り返って眉を寄せる。柢王は、顔は可愛いのに大雑把でおおまたぎ、
戦闘能力高いのに家事能力は最低レベルのいとこの顔を思い出し、
「誰に似たのかねぇ。ほんとティアも物好きだよなぁ」
そういうところも可愛いんだよと笑顔で言い切ったその旦那とは初対面から馬が合った。あるいはお互いその嫁に対する尋常でないエネルギーぶりに
同類項を見たものか。だが、柢王の妻の桂花は美人の上に何をやらせても有能で、結婚前には娘を溺愛する向こうの父親から、
『これでは網エビが鯛を釣るようなものではないか! もっタイなさすぎる!』
と、いろんな意味で凍りそうなことを言われたが、孫が産まれてからはその態度は激変。
(やっぱじじい釣るには孫に限るよな)
笑う婿は、お義父さんが特に嬉しいのは冰玉がまだあんまり柢王に似ていないところだということまでは気づかない。
「とにかく勝手口から覗いてみたらわかることじゃん。何なら手伝ってやればいいし、こいつが起きたら日光浴がてら見に行こうぜ」
能天気に言ってのけた亭主に、嫁さんは深いため息だ。
『俺に飯の作り方教えてくれ……』
前髪ぐるるんで両手を絆創膏でいっぱいにしたアシュレイが桂花を訪ねて来たのは先週の土曜の昼下がり。柢王は取材で留守だった。
いつもは元気いっぱい、出された茶菓子はどこまでも食べる旦那のいとこの常にないしょんぼりした顔に、桂花は目を見張った。
話を聞いて理由はわかったが、その、火を通すものの大抵を炭化させる確実なケミストリーの腕前を知る桂花にはうかつな返事はできない。
勝気で人に頼るのが嫌いなアシュレイがわざわざ来たからには尚更で、
「ね、でも、少しくらい出前でも──その方が余裕もできるし、部長さんのお相手もできますよ?」
伺ってみたが、旦那のいとこは首を横に振る。聞けばティアにもそう言われたらしい。が、ティアはアシュレイが作ったものならコークスだって
喜んで食べるはずだ。そんな男は問題外、迷う桂花に、アシュレイはエプロンの前をギュッと握りしめ、
「俺、ティアに何かしてやりたいんだ。あいつが俺たちにしてくれるように、俺だってあいつの嫁らしいことくらいしてやりたい……」
いじらしい決意を込めた言葉に、桂花は再び目を見張る。
初対面の時にはドラ猫吊るして呵呵大笑、心底魂消たが、この赤毛の新米妻は純粋で一途な人なのだ。この前だって冰玉を見て、『すごい早産だったのに、子供って健やかに育つもんだなぁ』と嬉しそうに笑って柢王に遠くを見させていた。いまだ気づかないのはこの人くらいだ。
その前髪と絆創膏から察するに、きっと早起きして自分でなんとかしてみたのだろう。それでも焦げた匂いに家族を起こしただけで
奇跡は
起こせなかったらしい。というより、あの家で内緒で特訓なんて間取り的に不可能だ。
別に、若い新妻が作る料理が劇的に炭だったとしても、部長も腹は立てないだろうが、それでも、自分や家族のためにがんばってくれている
旦那のためになにかしてあげたい気持ちはよくわかる。桂花だって、しめ切り抱えてあちこち原稿もらい歩く旦那のために、冰玉の面倒を見ながら、
家も自分もいつもきれいに、食事も栄養バランスを考えて…と気を使っているのだ。
それなのに、当の旦那といえば、打ち上げだ取材だと午前様のご機嫌さまで帰って来ては、
「冰玉、お土産だぞ〜っ」
と、やっと寝た子を起こしたり、
「なあなあ、こいつも寝てるしさ〜たまには一緒に風呂入ろうぜ〜」
と、『あんたが子供ですかッ!』みたいなことをしたり言ったり・・…・ああ、なんか思い出したら腹が立ってきた。
そういえば、冰玉が産まれる直前、実家に顔見せに行くのを、日帰り出張に行く柢王に言いそびれたことがあった。夕食の支度には
帰るつもり
だったのに、疲れていたのかうとうとして、気づけば夜。慌てて帰り支度しているところへ、柢王が片足スリッパ片足突っ掛けで息せき切って
飛び込んできて『頼むから帰ってく来てくださいっ!!』といきなり土下座したこともあったっけ……。
ふふ…、と微笑んでしまった桂花は、いや、と首を振る。いまはうちの話じゃない。同じ新妻として、アシュレイの気持ちはよくわかる。
桂花は頷くと、アシュレイの手を取って、
「それなら一緒に頑張りましょう。七日もあればなんとかなりますよ」
「ほ、本当か? 俺、がんばるからなっ」
アシュレイも希望に満ちたまなざしで強く頷いて・・…・。
そしてふたりでがんばったのだ。本当によくがんばった。炭化化合物がよーくローストしました×3くらいになる程度には……。
「部長さん、味オンチだといいけれど──」
行く気満々の柢王が、まだ寝ている冰玉にガラガラ鳴らすのをはたきながら、桂花は本末転倒なことを呟いていた。
アシュレイは息をついた。本格的な掃除は昨日桂花が手伝ってくれてすませたから、今日は調理だけ。
「がんばるぞ」
と、コンロの上の魚焼き網の取っ手握りしめたところに、勝手口の戸が開いて、三河屋のナセルが顔を出す。
「すみません! 配達立て込んでて──」
息切って謝るナセルにアシュレイは笑って、
「ちょうどいいタイミングだ。おまえにもずっと配達させて悪かったな」
「そんなことはないですけど……でも、アシュレイさん、大丈夫ですか? なんだったら、俺、お客さん帰るまでいますけど」
どうせ大将年寄りだし、御用聞きはもうひとりの店員のアランがしてくれるから、と言ったが、フリルエプロンフリフリ前髪もちゃんと直した
新妻は毅然と赤い瞳燃やして、
「大丈夫だ。七日も特訓したから今日はできる!」
自己暗示かけるような言葉に、七日同じ調味料を桂花さん宅に配達し続けたナセルは心でため息ついて、
(だから七日特訓したってことは七日目にも完成しなかったってことでしょう?)
しかも今日は肉料理だから魚焼き網は使わないはずだ──思うのだが、緊張顔を笑顔に隠した人妻にそんなことは言えない。
(ほんと、見てるだけって体に悪いよなぁ──)
丸に三の字の前掛けかけた三河屋さんが切ないため息ついた、午前十時だ。
東領が誇る花街で一・二を争うと言われている大店『無憂宮』。
殊に三階は上客のみが入れると言われていて、普通の客は二階の階段から覗くのがせいぜいだ。
その無憂宮の三階を覗いていた酔客の視界で、す、と控えの間の扉が開いた。
店の女に続いて出てきた姿は白い髪に紫微色の肌、そこに浮き上がった刺青が美しい――魔族。
目を剥いた男達に気づいた魔族は、にっこりと微笑みかけて会釈し、すぐに視線を戻す。
魂を抜かれた男達を背に、桂花は澄ました表情のまま、内心で呟いた。
(・・・馬鹿め)
柢王元帥の軍は花街警備を主とする。
兄達の嫌がらせ交じりの任務とは言え、危険は少ないし美人と知り合えるしと、意外と兵士達からは好評だ。『花の男衆』ランキングでも、頼りになる兵士達に投票する女達は多く、そうなるとなおさら、柢王元帥の軍は士気が高くなる。さらには恒例となりつつある、勝ち抜き戦上位者ご招待の宴。ここ東領の王子である元帥主催の宴である。中流貴族の出がせいぜいの兵士達では手が出ない美女と美酒、旨い食事と余興が振舞われるのだ。
今夜の宴の主役は、七班の兵士達だった。
班長以外はあまり親しく話す機会のない元帥と同席し、花街でもトップクラスの妓女に注がれる美酒。肴の旨さときたら芸術的なほどで、値段を聞くことなど、恐ろしくてたわむれにもできない。
「もう一生、こんなところ来られないよな・・・」
しみじみと一人が言えば、隣で同僚がこくこくと肯く。無言なのは口の中に物が入っているからだ。その傍らからすいと徳利が差し出される。
「まあ、そんなことおっしゃらないでくださいな。次の勝ち抜き戦でも勝って、またいらして、ね?」
艶やかな妓女が小首を傾げて微笑みかけると、髪に挿したかんざしがしゃらりと音を立てて揺れた。濡れたような眼差しに見つめられ、つい杯を呷る手にも力が入る。
「よう、楽しんでるか?」
笑みを含んだ声とともに徳利が傾けられた。はた、と見たそこにあるのは第三王子、柢王元帥の顔である。
「元帥! はい、楽しんでます!」
「今夜は無礼講だ、思いっきり楽しんでってくれ。で、班の奴らに自慢してやれよ」
「はいっ!」
自慢の結果、次回の勝ち抜き戦がさらに熱を帯びたものになることは予想するまでもない。
柢王は自身の席に戻ると、楽の音の中、傍らの妓女に尋ねた。
「桂花はまだか?」
「遅いですわね・・・見て参ります」
妓女が膝を浮かせたとき、ちょうど背後の引き戸が開いた。
「――お待たせしました」
あまり機嫌のよくなさそうな桂花の声がして、柢王は待ちかねた様子を見せずに振り返る。
そこにいたのは、普段どおりといえば普段どおりの、白一色の衣装の桂花だった。
「・・・布だな」
「布ですね」
あしらう調子で答える桂花が数歩踏み出す。装飾らしい装飾は足首に巻いた金鎖のみ、踏み出した脚の一方は腿の刺青までが半ば露わにされていて、体に巻きつけるように着付けられた白い布からは両の肩と腕、背中までもがむき出しにされている。
「これでも吾に合わせて作ったそうですが」
「・・・だろうな」
柢王の半歩後ろに膝をついて落ち着いた桂花の、胸と片足以外の刺青を見せ付けるようなデザインである。後頭部で結い上げてまとめた髪もまた、背中の刺青を隠さないようにという意図だろう。
「今日の仕立て屋は?」
「あとでご挨拶をと」
柢王が店の女に尋ねる横で桂花は澄まして座り、招かれた兵士たちは呆けたように目を丸くしている。
紫微色の肌に色濃く浮き上がる刺青――このうえなく魔族らしさを前面に押し出した装いだ。酒の席とは言えこれが許されるのは、享楽に聡い東領の花街の大店であるからに他ならない。他国でこれをやったら間違いなく、桂花も仕立て屋も、あるいは女将も首が飛ぶ。
呆然と己を見つめる兵士たちの眼差しに、桂花は悪戯心で微笑みかける。僅かに首を傾げ、後れ毛を揺らし、普段は刃物のように鋭い眼差しに匂い立つような色香を覗かせて。紅を差した唇が柔らかく綻ぶ様は咲き初めの花のようでもあり、長い間熟成させた酒が喉を滑るときの芳醇さを思わせもした。
「・・・よろしければ、一献」
すぐ傍に膝をつかれれば、白い布に焚き染めたと思しき微かな香りが肌をくすぐる。細身の体に女性的な丸みは存在しないというのに、しなやかな肢体、惜しげもなくさらした肌の肌理、控えめな微笑は、柢王元帥の趣味の良さをいやというほど知らしめていた。
「桂花、こっちに来い」
苦笑交じりの声が副官を傍らに呼び寄せる。
「俺のかわいい部下をあんまりいじめんなよ」
声とともに伸びた手が、白い髪に両側から挿してあった簪を抜いた。解けた髪が刺青の浮いた背を覆い、魔族の美貌にも落ちかかる。紫微色の手がそれをかき上げたときには、桂花の表情はもう、いつもの怜悧なものに戻っていた。
「仕立て屋が随分心配してましたよ。吾にこんな服を着せて、柢王元帥のご不興を買うのではないかと」
だったら着せるな、と柢王は思った。
「見る目が確かなのは褒めてやるよ。ただ、もう少し場を読めなきゃ一流にはなれねえな」
「今、何を飲んでいるんです? 吾にも一杯」
「ああ・・・って、もうなくなってるな。おい、もう少し持ってきてくれ」
酒席で酒を切らす失態を『無憂宮』の女がするはずがなかったが、彼女たちは心得顔で裾を払った。あわせて桂花も立ち上がる。
「では吾は着替えてきます。この格好は落ち着かない」
「えっ! 副官殿、もうですか?」
「もう少し・・・」
惜しげな声に微かに口角を上げたものの、桂花は止まらなかった。
「失礼」
背後で、次の曲を急かす元帥の声がした。
――機嫌が悪いな、と柢王は言った。柢王にとって花街は、天主塔と並んで第二の家というくらいには馴染んでいるが、今日は桂花の機嫌のために保険をかけて、二人だけのあの小さな家に帰ることにしたのだ。
「あなたこそ。吾がお酌して回ってたとき、すごい目でしたよ。隠してたようですけど」
「おまえがあの格好で入ってきたときからだぜ? 事前にどんなのか、確かめとくべきだったな。迂闊だった」
飛びながら、柢王の手が服越しに恋人の体を辿る。
「あなたは吾を着飾らせるのが好きだと思ってましたが」
「本気で言ってんのかよ、桂花」
宙に浮いたまま、柢王は桂花の額に己のそれを当てた。触れそうな距離で、わかってんだろ? と囁く。続いた声と返ってきた答えに、恋人たちは笑った。
見せびらかしたいけど見せ物にはしたくないんだ。
少しくらい妬いてください。・・・たまには。
その夜の家までの距離はひどく遠かった。
桂花は採取したばかりの薬草を家の裏の泉で洗っていた。
自家用でもあるが、商売用の方が多くなった。それというのも金使いの荒い王子様のおかげである。軍の給料は充分良いにも関わらず、それだけではやっていけないくらいには使ってくれるのだから恐れ入る。「本当にお前って働き者だよなー」と呑気たらしく言う顔面を思いっきり張り倒したこともあるのだが、そんなもので反省してくれるような可愛い性格ではない。
というわけで桂花は今日もせっせと生活費のために薬作りに精を出している。
洗った薬草を籠に入れると裏口から家へ入った。濡れた手を拭こうとした時、ふと指輪をしていないことに気が付いた。籠を机に置くと、急いで泉へと引き返し、さっき自分がいた辺りの草を丹念に掻き分けたが見当たらない。泉の周辺は桂花によってきれいに手入れされているのですっきりしている。あればすぐに見つけることができる。しかし、まろやかな金色の光を放つ、上品で華奢なデザインの指輪はどこにもなかった。薬草を干したら夕飯の支度に取り掛かろうと思っていたのに、それどころではない。
桂花は着替えると慌しく戸締りをして外へ出た。
四国随一の繁華街である花街。
メインストリートを最近、花街でちょっと有名な青年が急ぎ足で歩いていた。
白い肌、流れるような黒髪。そこらの役者よりもはるかに美形だが、意外にも薬師である。しかも薬師としての腕もさることながら腕っぷしも強い。
道行く女性達は色めきたち、顔見知りからは次々と挨拶の声がかかる。夢竜という青年はそれに軽く挨拶を返しながら道を進んでいく。こんなにも有名なのだが、街を出た後の彼について知る人は誰もいない。しかし「花街・花の男衆」の筆頭で、警備総司令官であり、さらに領主の三男である柢王元帥が古い友人だと言うので取り立てて不審を抱く者はいなかった。
さて、夢竜は彼の薬を扱っている店のうちの一軒である茶屋へ入っていった。ここでは酔止めや胃薬を置いてもらっている。暖簾をくぐると算盤を弾いていた女将が顔を上げた。
「おや、夢竜さん」
夢竜は挨拶もそこそこに切り出した。
「女将、吾が昼間、薬を卸した時に指輪を落としていかなかっただろうか?金色の」
「指輪?見ていないけどねぇ」
女将は従業員達を振り返るが皆、首を横に振った。
女将は眉を上げた。
「良い人からのプレゼントかい?」
「いや、形見なんだ、母の」
「そりゃあ、大変だ」
女将は気遣わしそうな表情で見つかったら声を掛けると約束をしてくれた。夢竜は礼を言って外へ出た。
「ここではないか・・・」
暖簾を背に桂花は呟いた。
『これ、やるよ』
そう言いながら指に嵌めてくれた。口調は軽く、でもとても大事そうに手を取って。そして柢王は中指に収まった指輪の上から愛しそうに紫微色の指を撫でた。
桂花は「夢竜」の淡い褐色の指を、大切な記憶をなぞるようにそっと撫でた。
柢王からもらった物達で、桂花にとってどうでも良い物など一つもなかった。愛しい記憶が詰まっているものばかりだから、一つも失くしたくはなかった。
必ず見つけなければ。今日寄った店には全て行ってみよう。
桂花は、今は漆黒の髪を背に払うと通りへ出た。
すると
「あら、ごめんなさい」
話しに花を咲かせながらそぞろ歩いていた若い芸妓達の1人と肩がぶつかってしまった。
「いや、こちらこそ」
桂花は軽く会釈を返すと、再び歩き出した。背後では
「きゃー、夢竜さんよ、夢竜さん!」
「すっごい近くで見ちゃった」
「素敵よねー」
彼女達のはしゃぐ声が響いていた。
指輪のことで頭が一杯であった桂花の耳に、彼女達の他愛ない話し声が飛び込んできてしまったのは、話題が自分の恋人のことであったからかもしれない。とにかくそれが意識の間を縫うように届いてしまった。
「そう、それでさっきの続きなんだけど。この街に柢王様の子がいるらしいわよー」
「えぇ、本当に!?」
「芸妓が生んだ子なんだって」
思わず桂花の足が止まった。振り向く衝動を何とか堪えたが、足は前へは動かなかった。指輪から、意識は完全に彼女達の話しの方へと移ってしまっていた。気が付くと桂花は木の陰へ寄っていた。
芸子達は桂花のいる木の側で立ち止まって話しを始めた。
「じゃあ、その子供は王族の血を引いているってわけね」
興奮気味な1人に向かって、もう1人が呆れたように言った。
「でも芸妓の子じゃ仕方ないわよ。所詮、身分違いじゃない」
「そうよー。そんなもの一夜の夢に過ぎないわよね。こんな所じゃよくある話しだもの。期待する方が馬鹿なのよ。それくらい分からなきゃ」
「まぁね。じゃないと惨めなだけよね」
身分違い・・・。一夜の夢・・・。惨め・・・。
彼女達の無邪気な声の一つ一つが桂花の胸に突き刺さる。
まるで自分のことを言われているように思えた。
桂花はゆっくりと息を吐き出した。
あの人の足だけは引っ張りたくない。そうするにはどうすれば良いかをいつも考えていたが、とんだ欺瞞だ。最良の方法を知っているのに、それを無視して必死に頑張ってきた自分はなんて滑稽なんだろう。
噂の的になっている、顔も知らない芸妓を思った。彼女はどうしているだろう。王族で、元帥で、花街の花形である男の子供を産んだことに有頂天になっているのだろうか。それとも現実を思い、一人で惨めさを噛み締めているのだろうか。
身分違いの恋なんて、幸せだと思えてもそんなものは一夜の夢。
眠りにしがみ付いたところで夢は必ず終る。
ちゃんと分かっていたはずなのに、柢王との時間があまりにも幸せだったから。
けれど朝は必ずやって来る。
朝日は隈なく、残酷なほどに全てを明らかにする。
柢王を幸せにする方法はとんでもなく、簡単なことなのに。
それをしなかったのは、彼のことを1番に考えているフリをしながら、実は自分の幸せのことしか考えていなかったからなのだ。
― 吾は柢王の人生を台無しにするところだった・・・。
桂花は唇に苦い笑みを刻んだ。
「愛」を言い訳に1番大切なものを壊してしまうところだったのだから、そのきっかけを与えてくれた芸妓の親子には感謝すべきなのかもしれない。
『あなた、芸妓に子供を産ませたそうですね。吾はそんな男と一緒に生きることはできません』。
あの人だって何も言えまい。まぁ、王族の子供ならその霊力で真偽はすぐに分かるが。しかし今の桂花にとってその子供のことはどうでも良かった。願わくは柢王がその子供を認知して親子で幸せに暮らすという展開はやめてほしいけれど。しかし、そんなことを願う資格は自分にはないのかもしれない。
いつの間にか若い芸妓達の姿は消えていて、夢竜の姿をした桂花は1人木に凭れていた。
「吾は大丈夫だ。もともと1人で生きてきたんだ」
以前、柢王に言った言葉を呟いた。
嘘じゃない。本当だ。1人には慣れている。
あの指輪だって、簡単に失くしてしまうのだからもしかしたら自分が思うほど、思い入れはなかったのかもしれないし。
無理矢理そんな言葉を引っ張り出してみて、無理矢理頷いた。
本当に納得しているのか?という心の声は、納得する、しないの次元ではないという言葉で塞いだ。
平気だ―、平気だ―。
溢れ出しそうな感情を塗り潰すように心の中で繰り返しながら桂花は木から離れ、花街の門へと歩き出した。
もう、指輪を探す必要はなかった。
家に戻ると桂花は夕飯の支度を始めた。話しは夕飯の後にしようと思った。腹が減っているとあの人は冷静に聞いてくれないだろう、という自分でも馬鹿馬鹿しいような理由で夕飯の支度をしている。いや、食事を作っておいてから仕度をしよう、そしてあの人が帰ってくる前に出て行けばよい、何を未練がましく先延ばしにしようとしているのだ、今すぐ手を止めて、荷物を纏めるべきだ ―。心の中で錯綜する声とは裏腹に、紫微色の手は手際よく料理していた。
その時、桂花の横を爽やかな風が通り抜けた。
同時に長くて剛い腕が桂花の細い身体をギュッと抱きしめた。
「いい匂いだな。今日の晩飯は何だ?」
呑気な声が顔のすぐ横から聞こえて、頬を黒髪がくすぐった。
柢王が桂花の肩に顎を乗せて、鍋の中を覗きこんでいた。
「ただいま、桂花」
振り向いた桂花の唇を柢王は軽く啄ばんだ。
「・・・おかえりなさい」
桂花が返事をすると、恋人は嬉しそうに笑った。そんな顔を見ると決意が揺らぐ。やっぱりやめよう、と思いかけた時、「惨めなだけよ」という芸妓の華やかな声が甦ってきた。
「柢王」
「ん?」
首を傾げた柢王と視線が真っ直ぐぶつかった時、桂花の唇から零れたのは、家路の途中で散々考えてきた、どの言葉でもなかった。
「あの指輪、失くしてしまったんです、あなたがくれた」
なぜ、と思った時はもう遅かった。柢王は目を丸くしている。
「だから・・・」
桂花は自分の服をギュッと掴んだ。予定外のことを先に言ってしまったがまだ間に合う。
桂花は今度こそ言おうとしたけれど、言葉は何も出てこなかった。用意していた、柢王を切り捨てる言葉は一片も思い出せない。その代わり、涙だけが後から後から溢れてきた。
柢王は桂花を抱き寄せた。
「何、泣いてんだよ、全く」
「泣いて・・・なんか・・・っ」
「馬鹿だな、桂花は」
本当に馬鹿だと思う。あれだけ考えたのに柢王の顔を見た瞬間に全部消し飛んでしまうなんて。
「何を失くしても、また手に入れればいいじゃねーか。俺は何度だってお前に渡す」
そして柢王は桂花の肩を掴んだまま腕を伸ばして顔を覗き込んだ。
「それにそんなに大事にしてくれてたなんて、スゲー嬉しいよ」
「柢王・・・」
さっきとはまた違う感情に桂花の胸が詰まった。
柢王は桂花の髪を優しく撫でた。
泣いている桂花を見て嬉しかった。
自分が与えた物をそこまで大切にしてくれていたこと。そして失うことに慣れたふりをすることが上手くなってしまっていたのに、失くしたことに対して、悲しいと思い、その感情を自分に見せてくれるようになったことが。
宝石のような容姿で甘えるふりをして、相手の心を思いのままに蕩けさせることはあっても、桂花の心はいつも固く凍えていた。
今はまだ、完全とは言えなくても心を預けてくれる程度には信頼してくれるようになったと思ってもいいだろうと柢王は思った。
柢王の手が桂花の頬を包んだ。紫水晶の瞳が真っ直ぐ柢王を見ている。
自分も桂花の全てを見失わないようにずっと傍にいようと思った。
2人の顔がゆっくり近づいた。
―と、その時。
バサバサっという忙しない羽音が優しい静寂を破った。と、同時に冰玉が窓から飛び込んできた。そして桂花の方へ一直線に向かってくる。嘴には光る物がある。よく見るとあの指輪だった。桂花は思わず叫んだ。
「冰玉、どこにあったんだ!?」
冰玉は桂花の肩に止まると、得意げに羽を広げてピィと鳴いた。愛鳥の言うことは何となく分かる飼い主達であったが、残念ながら例外はある。
桂花はさっさと柢王の腕から抜け出ると冰玉を抱きしめた。冰玉も嬉しそうにピッピチュと囀って桂花に小さな頭を摺り寄せた。
良いところで放り出されてしまった柢王は空になった腕と恋人とを見ながら、何だか素直に喜べない気分であった。
アシュレイを帰したちょうど一時間後に帰宅した柢王を、桂花は嬉しそうに出迎えた。
「今日はずいぶん早いですね」
「雹が降るかもな。四海先生が珍しく〆切前に原稿を書き上げてたんだ」
「それは珍しいですね。降りますよ、雹」
何気に失礼な発言をしつつ桂花は夫のカバンと書店の袋を受ける。
「今日、アシュレイ殿がいらしたんですよ。一時間ほど前に帰られましたが」
「なんだ、あいつまた来てたのか」
「えぇ。例のごとく、どら猫を追ってました」
「プッ、それでまた保護してくれたんだな?サンキュ」
柢王は外したネクタイを桂花に渡し、靴下を脱いだ。
「でも、あんまアシュレイを甘やかすなよ。迷子になったって大人なんだからほっといても平気だって」
う〜ん、と伸びをしてシャツを脱ぎながら柢王は風呂場へと向かう。
「ほっといたら何があるかわかりませんよ?今日だって・・・」
言いかけて桂花は口をつぐむ。あの妙な夫婦のことを話して、わざわざ柢王に心配をかけることはないだろう。それに、きっかけを作ってしまったのは自分で、アシュレイのせいではない。
「今日だって?」
「今日だって・・・吾が居合わせなければ、今ごろまだ迷ってましたよ。迷子になったって認める人じゃありませんから、意地になってドツボにはまり続けるのがオチです」
「ハハッ言えてる。で、ティアが必死に探しまわって、それでも見つからないと半べそで俺たちに捜索願い出すんだろ」
「そうです。だから見かけたら即、保護です」
「保護だな」
クスクス笑う妻の肩を抱いて、柢王は自分が風呂に入っているあいだに書店で買ってきた本を見ておくよう、告げた。
「なんの本だか」
先日など、『新妻も喜ぶアノ手コノ手』などというタダレた本を買ってきた夫だ、ろくな物ではないだろう。
しかも、「こんなヌルイのぜんっぜんダメだ!」とかなんとか喚いていたくせに懲りてないらしい。
ため息をついて袋から本を取りだした桂花の動きがとまる。
『二人のカワイイ赤ちゃんのために、最強!幸運!の名付け本』
「・・・なんて・・無駄に長いタイトル」
苦笑しながら桂花はどこかホッとしていた。
もしかしたら、多忙な夫は子供のことなど頭にないのかもしれない、と思っていたから。
「吾との間に子供を望んでくれている・・」
苦笑が微笑に変わり、胸がいっぱいになる。
さっそく読み始めると、画数によって吉凶があるとか漢字の意味だとかが細かく説明されていて、なかなか興味深い。
桂花はいつのまにか夢中になってあちこちのページをめくっていた。
「いい名前つけような」
気づけば柢王が風呂から上がって、冷蔵庫のビールをとっている。
「けっこう面白いですね、この本」
桂花は栞をはさむと柢王のいるダイニングへ向かった。
「俺、いくつか候補にあげてるのがあるんだ」
「吾も・・・実は考えていたのがあるんです。調べてみたら総合で見てもなかなかいいみたい」
桂花は柢王から缶をとりあげると、ひとくち含んですぐに返した。
「吾も子供は欲しいけど・・・でも、もうしばらくはあなたと二人きりの生活を楽しみたい」
甘えたようにもたれかかって来た桂花の体を、柢王はそのまま軽々抱きあげた。
「おまえ逆効果。今すぐにでも懐妊させちまいそー」
「ばか・・」
時計の針が日付を変えるにはまだまだ時間がある。
柢王は久しぶりにたっっっぷりと妻を可愛がることに決めた。
「そう。奥さん、見ちゃったんだ・・驚いたでしょ」
夕食のあとかたづけを早々に済ませ、部屋に引きあげたアシュレイは、今日のできごとをティアに話していた。
氷暉とのことは「聞かなかったこと」決定のため、報告の必要はない。
「あれは大変そうだ。今日だって家にいたってことは欠勤したってことだろ?」
「ふふ、でもサボリじゃないよ?有休。大事な記念日なんだって。あの夫婦はね、大変そうに見えるけどうまくいってるんだ。傍目から見たらそうは思えなくてもね」
夫婦って面白いね。とつぶやいてティアはごろんと横になった。
「私は君と一緒になれて本当に幸せだよ」
にっこりと笑うティアにつられて、「俺も」と素直にアシュレイも頷く。
「結婚してすぐに借りた家のころも、二人きりの幸せはあったけど、大家族の良さを知らなかったもの」
「ごめん・・・あの時、俺のせいで・・・」
「あやまらないで。あの時、君がリス(タマ)を拾ってきて大家さんとケンカしなければこの家には来ていなかっただろう?ここに来て、初めて私は本当の家族にしてもらえた気がする」
「あの大家は頭きたよなー。リス飼うなら出てけって頭ごなしに怒鳴りやがって」
「でもそのおかげで今がある。私は満足だよ」
――――嬉しい。
自分の実家に入ってくれただけでもありがたいというのに、嫌がるどころか幸せだと言ってもらえるなんて。
「ティア、俺ぜったいお前を大事にする」
「アシュレイ・・・私も。君と君の家族を・・今では私の家族でもあるこの家のみんなを護ると誓うよ」
座っているアシュレイの手を握りしめ、心の中でティアはため息をつく。
(早く日曜日にならないかな)
しかし、いざ日曜日になると、今度はだんだん気分が重くなっていくのだ。
子供の頃でさえ、日曜日を特別なものだとは思っていなかった。
同級生たちが口を揃えて「日曜日の夕方は憂鬱になる」と言っていたが、自分にはまったくその気持ちがわからなかった。
なのに今ごろ・・・結婚してから、身にしみてそれがわかるのだ。
明日からまた会社だと思うと憂鬱になる。
アシュレイとずっと家にいたい。それが無理ならポケットかカバンにアシュレイを忍ばせて出勤したい。
四六時中アシュレイといたい。
こんな風に、ティアは結婚してからというもの毎週日曜日の夕方から憂鬱な気分になるのだった。
「?」
横になったまま物思いにふけっていたティアは、手のひらをくすぐられているような感覚を覚え我にかえる。
「なにしてるの?」
声をかけるとアシュレイはパッとその手を離した。
「どうかした?」
「今日さ、桂花に借りた雑誌に手相占いが載ってたんだ。生命線って知ってるか?」
「うん」
「そこが途切れてると・・・・短命だったりするんだって・・」
「うん?」
アシュレイがなにを謂わんとしているのか察することができずにティアは首をかしげた。
「お前の線、途切れてるみたいに見える」
不安そうな瞳を向けるアシュレイに慌てて起き上がったティアは、そっと妻を抱きしめた。
「やだな、大丈夫だよ。私は君を置いていなくなったりしないよ」
「うん・・・」
「それで君、私の生命線を延ばしてくれてたの?」
「こうすれば線が長くなって、長生きできそうだろ?」
再びティアの手をとり、アシュレイはそこをなぞった。
「〜〜〜〜アシュレイ・・・」
感動して涙ぐんだティアが視線を落とすと、アシュレイの指先は見当ちがいな線をなぞっている。
「まいったな・・・・ほんとに君は――――かわいすぎるっ!」
「ぅわっ?!」
後ろにひっくり返ったアシュレイは、それでも後頭部をティアの手に包まれていたので痛くはない。
「ねぇ・・・そろそろ欲しくない?」
「なにを」
「私たちの赤ちゃん」
「赤っ・・」
顔をまっかに染めた妻をひときわ強く抱きしめたティアは、これまたまっかになった耳元で優しくささやいた。
「生まれてくる赤ちゃんは、君似のかわいくて元気いっぱいな子がいいな」
ずっといっしょ。ずっと愛してる。
きっと―――――あしたもいい天気。
「待てぇぇぇ―――っ!」
聞き覚えのある声が近づいてくる。
「この泥棒ドラネコ〜ッ」
どんどんその声が近くなり、角の所で赤い髪が見えたと思った瞬間 、ギニャッと短い悲鳴(?)が聞こえ、太ったネコが塀のうえから桂花の足元に落ちてきた。
「バカめ。性懲りもなく俺の魚を盗んだりするからだ、天誅!!」
カカカと高笑いを決めたのは、桂花の義従妹であるアシュレイ。
「まったく・・・・あなたという人は。たかがネコ相手にどこまで走ってきてるんですか」
「あれ、桂花?ン、どこだ?ここ」
「ハァ・・また迷子になってる。だいたいこのネコに物をとられるの何度目ですか?」
「いちいち数えてねーけど、ぜんぶ取り返してるぜっ」
胸をはるアシュレイに、『取り返すよりも盗られないようにする方が先ではないか』と心中でつぶやく。声に出さないところが桂花の聡いところだ。
「人をナメやがってムカツク猫だぜ」
敵にぶつけた買い物かごを拾い、ブリブリ怒っているアシュレイの横で、伸びているネコのカラーを桂花が確かめる。
「名前と住所が彫ってあります・・・エンマ?これの名でしょうか。こう度々の泥棒はこまりますね。いちど飼い主の方に忠告すべきなのでは?」
「う〜ん」
「この住所からすると、ここからそう遠くはないですね、吾もつき合いますよ」
「ホントかっ?」
嬉しそうに笑ったアシュレイは、買い物かごから出したビニール袋にネコをぶち込んで、歩き出した。
「A・NA・GO・・・アナゴ・・って、まさか・・・」
怪訝な顔をしたアシュレイをよそに桂花が呼び鈴をならす。
『・・・だぁれー?せっかくいいトコだったのにィ』
その声は、問うたくせに訪問相手の確認もせず、門を解除した。
自動に開いたそれをぬけ、玄関へと足をすすめる。
ド派手なバイオレットの外観、ポーチへ続くスミレの群落。扉の手前、左右対に置かれたダビデ像。窓から見える必要以上にフリルをあしらった薄紫のレースカーテン。インターホン越しのあの対応。
「・・・・・・・」
引き返したい気持ちが二人の中でじわじわと広がる。
桂花がアシュレイに向かって「やはり帰りましょう」と言おうとした時、玄関の扉があいてしまった。
「なぁに?誰?私に用?」
すけすけのネグリジェから見えるバイオレットの下穿はブーメランのような際どさ。
長い髪には、やはりバイオレットのカーラーがいくつも付いている。
前に、紫色を好む人は欲求不満だと聞いたことがあるが、それが正しければ目の前の人物はかなりの不満なのだろう。不満が服を着て歩いているだけかもしれない。
桂花が冷静に観察するあいだ、アシュレイは口をぽかんとあけたまま。
「あ、突然おじゃましてすみません。吾は波野桂花と申します・・・このネコ、お宅の飼い猫ですよね?」
アシュレイの代わりに桂花が前に出ると、相手はネコの入ったビニール袋を一瞥したが、それを無視して桂花に向きなおる。
「桂花。いい名だね・・・私は穴子ネフロニカ。ネフィー様とお呼び」
高飛車に言い放つと、ネフィーは不躾な視線で桂花の全身をなめまわしてきた。
そのあけすけな態度に、不快な表情をストレートに出す桂花だったが、相手はまったく動じない。
「ねぇ・・・・後ろの小猿は外にほっぽっといて、私と楽しいことしない?」
ネフィーの細い指先が、ゆっくりといやらしく桂花の頬をすべる。
唇にその指がきたら噛み切ってやる。と思ったが、寸前でそれは離れていった。
「やだ〜こわい。怖いけど・・いい目だね・・・・なんと言っても色がいい。涙で濡らしてやりたい」
ギリ、と歯をかみしめた桂花の後ろからいきなり、ビニールを破ったネコが飼い主に向かって飛びついた。
「っ!!」
否応なしにそれを受け止めることとなり、しりもちをついたネフィーが悲鳴をあげた途端、すごい勢いで廊下を走ってきたのは、おそらくこの家の主人だろう。
その男を見て、呆けていたアシュレイが「アッ!」と口をおさえた。
「ネフィー様、どうなされたのです?!」
「山凍〜痛いよぉ」
「お前たち、何者だ」
山凍と呼ばれた大きな男がウソ泣きをしているネフィーを抱き上げながら桂花とアシュレイに目をやると、先ほどのアシュレイ同様、「あ」と口をひらいた。ただし、声は出していない。
アシュレイと山凍がたがいに硬直しているのを見て、なんとなく事情を察した桂花が、説明に入る。
「お宅のネコが、こちらの『フグ田アシュレイ』さんの物をたびたび盗んでいくのです。それで――――」
「なぁんだ、バッカみたい。ネコに盗まれるなんてどんだけトロイのさ」
「ト、トロイだとっ、お前のネコの仕業なんだぞっ開き直るな!」
「だからどーしろっての?うちのエンマに鎖でもつけとけっての?・・・・・くさり・・・いいかも」
桂花に流し目を送り、「ムフフ」と笑ったネフィーに背筋が寒くなったアシュレイは、義従姉の肩を抱いてにげるように玄関をとび出した。
「桂花、見ただろ桂花、お前二度とこの辺うろつくなよ?アレは危険だ、変態だっ」
そしてその『変態』の夫が・・・・あろうことか家にも何度か来たことがある、ティアの同僚の『穴子さん』だったとは。
恐妻家だとは聞いていたが・・・・・ちょっと・・・いや、かなりチガウ意味だと思う。
「穴子山凍・・・・一体どういう趣味してンだ・・」
桂花の家に立ち寄り、数冊の雑誌と母(李々)に渡すよう頼まれたローズマリーを受けとったアシュレイは、公園のベンチで風呂敷を結び直していた。
「 この買い物かご小っさいな、ろくに入りゃしねぇ。今度ティアにもっと大きいのを買ってもらお 」
風呂敷と買い物かごをそろえて、ふと顔をあげたとき、公園の前を行く酒屋の御用聞きを見つけた。
「おいっ!三河屋の氷暉っ、ここんとこご無沙汰じゃねーか」
突然呼びとめられた氷暉はアシュレイに気づいて足を止める。
「代わりに教主の旦那が行ってるだろう」
「なんかあったのか?教主の旦那に訊いてもなんでもないの一点張りで教えてくんないし」
「・・・そんなに俺のことが気になるのか」
「え?なんだって?」
「ただの二日酔いだ」
「二日酔いって・・・おまえ呑めないはずだろ?」
「まぁな」
氷暉はこちらへ歩いてくるとベンチに横になり、アシュレイのヒザに、勝手に頭をのせた。
「よせよっ、誰かに見られたら変な誤解されるだろっ!」
「動くな、頭が痛む」
どこまでも自己中な言い分にムッとしたアシュレイだったが、本当に具合が悪いのだろう、顔色の冴えない氷暉を見たら、立ち上がることができなかった。
「なんで飲めもしない酒なんか飲んだんだ?教主の旦那、よくそんな理由で休むの許してくれるな」
許すもなにも、当の雇い主が言い出したのだ。
『酒屋の従業員が下戸では話にならぬ。たしなみ程度、呑めるようになるまで特訓せよ』と。
この命令は、氷暉にとって渡りに船だったため、逆らわずに特訓を開始したのだ。
「・・・この前、お前が言ったんだろう。俺が酒を飲めるようになったら二人で一杯やろうと」
「ハァ〜?人のせいにすんなよ」
「飲みたかっただけだ・・・お前と」
「へ?」
「ニブイ。わかりやすく言ってやる。おまえ、俺とつき合え。俺とつきあえば御用聞きのたびにお前の好きな酒を持って行ってやる」
「バッ、バカな冗談はよせっ!」
「俺は冗談など言わん」
「そんなのドロボーだろっ」
「・・・・・・そっちか。安心しろ、給料天引きだ・・・じゃなくて、冗談抜きでお前が欲しい。俺とつき合え」
たしかに冗談を言っている顔ではない。でも、それならなおさら冗談じゃない。
「誰がつきあうかっ!!」
慌てて立ち上がったアシュレイに、頭をおさえる氷暉。
「だいたい俺はティアと結婚してんだぞっ、分かってンだろっ!」
「それがどうした。そんなもの、俺にとっては障害にもならん」
「こここの不道徳男っ、お前は明日からうちに出入り禁止だ!わかったな!」
アシュレイが唾を飛ばしながら叫ぶのを薄笑いで見ていた氷暉は、その怒った顔に近づいて言い放つ。
「せいぜい俺に隙を見せないようがんばるんだな、若奥さん」
ツンと頬をつつかれて、口をパクパクするだけで言葉にならないアシュレイを尻目に、彼は公園から去って行った。
「・・・・俺はなにも聞いてねぇ。聞こえてねぇ・・・聞かなかったことにする・・」
青い顔をして耳をおさえ、呪文のように繰り返しながら、アシュレイは早足で帰途についた。
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