投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
ふいに、そのまなざしがどこか、手の届かないところを見ているように思えることがある。
憂いを含んだ瞳が切なげで、その細い輪郭がいまにも風景のなかに薄れていきそうに思われて。
思わず、その腕を掴まえ、引きよせて、
「どこにも行くなよ──」
瞬間、なにが起きたかわからぬような──不安な夢から覚めやらぬような瞳でこちらを見るきれいな顔を、胸に押しつけさせるようにして
抱きしめると、いつも決まって、束の間の沈黙のあと、胸の奥に、苦笑いするような、かすかな声がこうささやく。
「……どこにも行きませんよ。なにを心配しているんです?」
その問いに、言葉で答えられるものはなく、ただ、
「どこにも行くな。俺がいるから、どこにも行くなよ」
繰り返すしかない、自分がいるのを知っている。
「……桂花?」
頭のなかに重い痛みがあるような、不快な気持ちで目を覚ますと、梁の上にいた冰玉がぴい、と一声鋭く鳴いて、パタパタと降りて来る。
羽ばたきながら、ご機嫌そうにぴぃぴぃ訴える冰玉に、柢王は息をついて、笑みを浮かべる。
「そっか。桂花は薬草摘みか……」
鈍い痛みを感じる体を無理やりにシーツの上に引き起こす。報告を終えたとばかり、ぴぃと叫んで元気に煙突から外へと出ていく冰玉の姿に、
柢王は苦笑いを浮かべてため息をついた。
眠りながら、体が強ばり続けていたのは、たぶん、不安のせいなのだ。目が覚めたら、桂花の姿が消えていて、この部屋のなかに自分ひとりが
残されているような不安が胸から離れずに、意識の奥底でずっと細い体が腕のなかにいることを確認し続けていたからだ。
「……バカらしい、んだよな──」
もう何度目かも忘れたセリフを、自分自身に呟いてみるが、胸の奥を冷たい指で触れられたような、この不安のかけらはいつまでも消えない。
昨夜──愛しあった後の夢のなかで、桂花が何を見たものか。
無意識の低い嗚咽に目を覚まし、抱きしめると、乱れた息にその動揺の強さを表わす桂花の瞳はここではない場所を映してゆれていて、
暗闇のなか、流れる白い髪の先から、夜のなかに溶けていきそうに思えた。
なんで辛い夢を見たのかと、問うことはとうに諦めた。李々のことがきっかけでなくても、桂花のここでの生活は、常に、張りつめた高音の
弦のような鋭い緊張を宿したものだ。触れ方を間違えれば、ふいに断ち切れてしまう気配はいつもある。
自分には、口に出せないあれこれを桂花がその胸に抱えた挙句が夢に流す涙だとしても、それは仕方がない。
ただ──
『なにを心配しているんです?』
かすかな、ささやくその声に答えることができないのは、自分のことを映していないその瞳に、問うことを恐れているからだ。
『本当に、おまえが映していたいのは誰の存在だ?』
ふと、風景を見る目がここから消える時、夢のなごりにとらわれている時──ここにないものに心を奪われている桂花を引き寄せ、
今現在に引き戻す瞬間。切り替わる刹那の桂花の瞳に過ぎる色が、怯えに見えるから。
それは悲しい思いへの怯えなのか、それとも、そこから引き戻される怯えなのか──。
それが最後に不安と悲しみと孤独を与えた人であっても、自分には見せないあれこれを、桂花が無意識に問うのはいつもただひとりの人だ。
その肌に美しく刻まれた魔族の証と同様に、桂花の心の奥底に深く刷り込まれた特別な存在。
絆など信じるなと繰り返したその自分の存在が、いまも、桂花のなかに特別なものとして残っていると知ったら、その人はどう思うのだろう。
その言葉を信じて生きてきた桂花がいまも彼女の存在に涙を流すこと──その思いの強さもまた、絆なのだという矛盾を。
それはきっと、バカげた思いだ。
たとえそのまなざしが自分を置き去りにする瞬間があったとしても、桂花はいま自分の側にいてくれる。未来も約束も信じない、
そんな桂花が自分の『絶対になる』『側にいる』と誓ってくれたことこそが全ての真実だ。
手の届かないまなざしに、誰を見ていたいのかと思う気持ちは馬鹿げている。手を離したらふいにいなくなると思うことは馬鹿げている。
そのまなざしから引き戻す瞬間、消えないように腕に閉じこめるのは馬鹿げている。
それでも──
柢王は息をついた。まだ冷たさの残る胸の上にそっと指を押し当てて、低くつぶやく。
「矛盾…してるのは、わかってんだけどな……」
あの細い、冷たい指先がこの胸の奥底に触れてからずっと、自分はふたつの温度にゆれ動いている。
誰かを、こんなにも愛しいと思う焔のような奔流と、その存在を失うことへの、冷たい不安にゆれている。
*
あの人は、一体なんであんなことを言うのだろう──。
まだ露をたたえた冷たい草を摘みながら、桂花は低くつぶやいた。
悲しい夢に心をゆさぶられる夜。柢王はいつも桂花の体をきつく抱きしめてささやく。
『どこへも行くなよ』
まだあやふやな自分の震える体を包みこみ、呪文のように、
『俺がいるから、どこにも行くな』
そう繰り返す柢王の気持ちは、わからなくないけれど。
そうでなく、ふいに、自分でもなにを考え、なにをしていたか意識していない瞬間、抱きしめて、そうささやくのは一体なにを感じたものだろう。
ハッと、自分がいましがたとらわられていたことを思い出そうとする刹那、無防備な自分の瞳の奥底にどんなものを見るのか、青い瞳に
痛みにも似た色がよぎって、
『どこにも行くな。俺がここにいるから、どこにも行くな』
鼓動の乱れる熱い胸にこちらの頭を押しつけるようにして繰り返すのは、一体どういうことなのだろう。
計りかねて──言葉より確実に、いまここより他にいないと意識を切り替えさせる体温に、心のどこかがすり抜けるような思いを感じながら、
『……どこにも行きませんよ』
どうしてそんなことを聞くのかと、答えの返らない問いをその胸に聞くだけだ。
どこにも行かない……どこへも行けない。
誰よりも、わかっているはずなのに。
桂花は薄い唇に静かな笑みを浮かべる。
意識していないのに──時々、どうしようもない気持ちになって、答えを求めるように記憶の生々しさに心を委ねることもある。
そして思い知る、答えの返らぬよるべなさや、魔族である自分と天界人である柢王との違いに、冷たい指が触れるような、言葉にならない
その気持ちが、消えてなくなることはないかもしれないけれど……。
「それでも、どこにも行かないのに……」
いま例え、目の前に李々が現れても、もう自分はその手は取らない。自分は決して、柢王の手を離さないとわかっているから。
覚悟など、どれだけあればいいのかわからない。不安定な自分の思いが、いつか限界を超えて、何を破壊し、傷つけ、失うことになるかも知らない。
その果てしない葛藤に、耐え続けられるかどうかの自信すらない。
それでも──……
日陰の冷たさはその背に隠して、太陽のあたたかさだけを与えようとしてくれる人。
胸の奥底に、触れさせるのはかれの指だけだ。
それはまるで奇跡のように──
吾の世界を輝きで満たす、黄金の指先。
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