投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
マネージャーを先に帰らせて、柢王は控え室が並んでいる階のロビーのソファに腰掛けていた。女優は控え室でパーティの支度中いうことなので、終れば桂花はここを通る。
何を言うかは決めていない。下手なことを言えばまた怒らせてしまうが、でも上手い言い方も思いつかない。李々の言う「上手い手とは思わないが、素敵な」手段である、気持ちをストレートにぶつけるしかなさそうだ(「素敵」というのが皮肉なのかは考えないでおいた)。
柢王は控え室の方向と時計とを何度も見ながらため息をついた。実は柢王の知らない通路があってそこから出て行ったとか。桂花の色香に迷った女優がパーティを忘れて口説きに入ったとか。空白の時間はどんどん柢王を妄想に浸らせていく。ここで待っていても仕方ないのではないか。いっそ控え室へ行ってみようか。そうすれば人の目もあるし、桂花も頭に血が上らずに済む。そうか、そうしよう。控え室を訪ねる口実は何とでもなる。とりあえず女を気分良くさせるのは難しくない。桂花の気持ちが最優先だが、そちらはその時に考えるしかない。
柢王が勢いよく立ち上がって控え室の方向へ足を踏み出そうとした時、
「桂花・・・」
柢王は呆然と呟いた。
いつものメイク道具入れを提げた桂花が柢王の目の前に立っていた。
桂花は静かな表情で柢王を見つめていた。
「今、終ったのか?」
「えぇ。あなたは何を?」
「お前を待ってた」
「でしょうね」
そこで沈黙が下りた。ややあってから柢王は口を開いた。
「今日、俺がいたこと知ってたのか?」
「いいえ。来てから知りました」
「いること知っても帰らなかったんだな」
「仕事で来ているんですから当然でしょう?それに李々の頼みですし」
「そうなのか?」
「えぇ、昨日の夜に突然言われて。急用で行けなくなったから代わりに行ってくれと。その代わり時間と場所が丁度良いからドラマの方は自分が行くと言って」
「現場は大混乱だっただろうな。大物のお出ましに」
柢王は笑った。
「用事がないなら出ましょう」
そう言うと桂花はさっさとエレベーターのボタンを押した。
2人は地下の駐車場に着くまで黙ったままだった。
桂花は自分の車の前に来ると柢王を促した。
「乗って下さい。送りますから」
「いいのか?」
「マネージャーの方は先に帰したのでしょう?どうやって帰る気だったんです?」
柢王は頭を掻いた。
「それじゃあ、遠慮なく」
そして車は2人を乗せて夜の帳が降りた街へと滑り出していった。
都会は昼も夜も人の多さは大して変わらないのに印象がまるで違う。夜の闇に浮かび上がる色とりどりの灯りのせいか行き交う人々に現実離れしたような浮遊感を感じる。そんな景色が流星のように後ろへ流れていく様子を車窓から眺めながら、柢王はハンドルを握る彫像のような美しい無表情を見た。現実離れと言えば今ほどそれが当てはまる時はない。桂花が車に乗せてくれている。これはまるでデートではないか。デートではないなら別れ話のための場か。柢王は同時に浮かんだ甘い考えと最悪の考えをまとめて追い出した。まだ話もしていないのに桂花が怒りを鎮めてくれるわけはない。まだ付き合ってもいないのに別れ話はできないだろう。唯一あり得るのは「ストーカー行為で訴える」と脅されるくらいだろうか。やっぱり状況は最悪か?
信号で止まった時、柢王は気になっていたことを尋ねた。
「今日、俺がいるってこと知ってたら、来なかったか?」
桂花は真っ直ぐ前を見たまま答えた。
「仕事なら、仕方ないでしょう。収録は見ていました。きっと吾を待つだろうと思ったんです」
「何だ、全てお見通しか。俺はお前のことちっとも分からないのに、何でお前は俺の考えていることが分かるんだ?」
信号が青に変わり、再び車は静かに動き出した。
「次の交差点はどうするんです?」
「あ、右折・・・、って、俺の家に真っ直ぐ行ってくれなくたっていいんだぜ」
「じゃあ、どこ行くんです?そこら辺で放り出しますか?」
「うーん、どっか飲みに行くとかさ」
「飲んだら誰が運転するんです?」
「そしたらホテルで泊まり・・・おっと」
調子に乗りかけた柢王は桂花の一睨みに慌てて首をすくめた。
「やっぱまだ、怒っているのか?」
柢王は聞いてみた。
「なぜ、怒っていると思うんです?」
「だってお前、俺の方ちっとも見てくれなかったし」
「今までだってあなたを見ていた覚えはありませんが」
「でもさ、あれは明らかに怒ってたぜ。俺が事務所に押しかけたこと怒っているのか?」
「そんなんじゃありません。吾の問題です」
柢王はため息をついた。
「そうやってまた閉め出すんだな」
「あなたが踏み込みすぎなんです」
「普段は人のことに踏み込まないぜ。ただ、お前のことだけは何でも知りたいから付きまとうだけで」
「迷惑です」
「仕方ねーだろ?好きなんだから」
「その理屈が通ったらストーカーが容認されるでしょうね」
「まぁな、紙一重っていう自覚はあるぜ」
柢王は笑った。桂花は黙っていた。その後は柢王に道順を尋ねる時しか口を開かなかったし、柢王も話しかけなかった。
「着きましたよ」
柢王のマンションの横で桂花は車を停めた。
「サンキュ、助かったよ」
そう言ったが柢王は車を降りない。桂花も黙ったままだ。柢王はマンションの誰かの部屋の灯りが点いた窓を見上げていた。
「俺とのことも絶対じゃないって思うのか?」
柢王は窓の外を見たまま呟いた。
「え・・・?」
意味が取れなくて桂花は柢王の方を向いた。柢王は桂花の目を真っ直ぐ見つめた。
「俺のお前への気持ちも絶対じゃないって。李々が言ったみたいに。だから俺の気持ち受け付けないんじゃないのか?」
「李々に会ったんですか?」
「ジムで偶然な。その時彼女が言っていたんだ。この世に絶対はないってお前が信じているって」
「あなたの女性関係考えたら信じられる方がどうかしていると思いますが」
「まぁ、そこ突かれると痛いんだけどさ。でも俺は何度だってお前のこと好きだって心から言える自信はあるぜ。李々の言うことなんか信じるなって言いたいんじゃないんだ。でも俺の傍にいるっていうのもお前の選択肢の中に加えてほしいんだ」
「断ってもいいんですか?」
「断ったら頷くまで何度だって言い続けるさ。言ったろ?いつまでだってお前のこと、心から好きでいられる自信はあるって」
「そんなの、信じられません」
「それじゃあ仕事のついでにお前の目でそれを見極めてくれよ」
「・・・?」
「来年、香港映画に出るんだ。ファンタジーでさ、相手が人間じゃないことを知らずに恋をする男の役なんだ」
「それで最後、その男はどうなるんです?」
「それはさ、現場で見ようぜ。一緒に」
「・・・」
「一緒に来てほしいんだ。お前にヘアメイク任せたいし、何よりいつもお前と一緒にいられる」
「・・・前も言ったでしょう?そんな下手なくどき方じゃ駄目だって。あなた俳優なんだから、そんな台詞たくさん知っているでしょう」
「そりゃ無理な相談だな。お前を前にすると平静じゃいられなくなる。そんな状態で気の利いた台詞なんてひねり出せるわけないだろ。それに俺は借り物の言葉じゃなくて、自分の言葉でお前に気持ちを伝えたい」
柢王は視線を逸らせた桂花の腕を掴み、思わず振り返った桂花の目をじっと見つめた。
「好きだ。傍にいてくれ。俺もお前の傍にいたいんだ」
その眼差しが、初めて彼が自分に「惚れた」と告げた時のものと同じだということを桂花は不意に思い出した。そして表情と言動はふざけていても自分を見る時の眼差しだけはいつもこんな風だったということも。
・・・思えばこれに気付くのが恐ろしくてこの男から逃げていたのだ。
誰かに心が動いたらそれは終わりへの始まり。流れる時間が運んでくる別離。裏切りや旅立ち、その形は色々だったけど。でもいつも最後は1人に戻った。空っぽの空間に1人放り出されたような、心の中から凍えてしまいそうなあの感覚はいつも怖かった。そんな繰り返しの中で李々に出会った。自分と同じく1人で生き抜いてきて、自分に1人じゃないことの幸福を教えてくれた彼女だけは特別だった。華やかな環境で大勢の人間に囲まれていても大都会の雑踏に佇んでいるのと変わらない中で、やっと得た唯一の心の拠り所なのだ。
李々以外に心が動くなんてありえないし、そんなのは要らない。でも李々だけで固く閉じていた心のドアを彼は激しくノックしている。何度も何度も要らないと叫んだのにノックはやむ気配がない。
・・・うるさくて敵わない。
ドアを開けたらまたいつか傷ついてしまうのに。でも強引に桂花を攫っていくその腕がとても温かいこともとうに知っていて、そしてそれは眩暈がするほどにずっと桂花を魅了していたのだ。
桂花はそっとため息をついた。
「あのワイン、飲みますか?あなたがくれた」
「今から事務所に行くのか?」
「うちにあるんです。持って帰りましたから」
「え?」
「事務所に置いていたら誰かに飲まれてしまいますから」
「桂花・・・。いいのか?家に行っても」
「来たくないんですか?」
「行くっ、行くよ!」
開け放したドアをそっと振り返る。あの居心地の良い、優しい場所はきっと変わらず自分を待っていてくれるだろう。あそこがあったからドアを開けることが出来たのだ。
桂花はゆっくりアクセルを踏んだ。
柢王は自分の腕の中で寝息をたてる桂花の白い髪に顔をうずめた。
一緒に香港に行くことも了承してくれた。やっと手に入ったけれどまだ桂花が柢王に対して不安に思っていることも分かっている。でも桂花がどう思おうが決して彼を手離すことなどできない。桂花の手が柢王の胸の上をさまよった。その手を取って指先に唇を押し当てる。一度こんな幸せを知ってしまったなら、こんな心地良さを味わってしまったならそれを手離すことなど、どうして考えられるだろう。誰かに対してこんな思いを抱けることはないと思っていたのに。本当に恋は魔力だ。魔法によって思いがけず知らなかった自分が出現した。でもこれが本当の自分なのだ。
一体これからどこへ向かうのだろう。でもその道程はとても楽しいに違いない。だって最高の宝物を手にしたのだから。
李々は行きつけの高級スーパーの通路をゆっくり歩いていた。面白くて質の良い品ばかりだからここはお気に入りの場所だった。見るだけでも楽しい。
豊富な種類の高級ワインが陳列してあるコーナーへ入り込んだ。その中の1本を思わず手に取る。それは数日前、桂花の部屋に行った時に彼の部屋に置いてあったものだ。
『珍しいわね。お酒買って飲むことなんてしないのに』
『貰い物なんだ』
『そうなの?美味しいってすごく評判のワインじゃない。飲んでもいい?』
『駄目っ・・・。あ・・・、もう少し置いておいた方が良いって聞いたから・・・』
あの時桂花が浮かべた苦しそうな表情を見て、李々はジムで出会った青年の、桂花を語る時に見せた青白い炎が閃いたような目が脳裏を過ぎった。それは勘でしかないが、なぜか確信めいていた。
「聞いたって本当のことなんて教えてくれやしないし、それだったら行動観察するしかないじゃないね」
だからトーク番組で柢王と共演するという友達の女優との約束を桂花に行かせたのだ。技術の方は何の心配もなかったが、
「あんなにあっさりと結果が出るなんて、ちょっとがっかりね」
次の日、仕事の報告をする桂花の顔に仄かに浮かぶ、幸せそうな表情を思い出して李々は肩をすくめた。事務所の女の子の話ではあの日桂花は事務所に帰って来なかったそうである。
「ま、子供に頼っていては駄目ね。大人は大人で楽しまないと」
李々はワインを棚へ戻した。そして優美な白い指で軽く弾くとボトルは澄んだ音を立てた。それを少し睨むとハンドバッグから携帯電話を取り出して、出口に向かって歩き出した。
「もしもし。お久しぶりね、お元気?相変わらず例のテレビ局の会長さんから迫られているの?・・・あら、ごめんなさい。ところでこの間、見せてくれるって言っていた新作のネックレス、見せて下さる?ついでにお食事でもいかが?・・・」
Powered by T-Note Ver.3.21 |