投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
・・・・・ ピシャン・・ ―――
黒い水が波立って、湖面がざわめいた。
揺れる湖面の中央が、金色に光り輝いている。
湖に面した館の階に腰をかけた人物の髪と同じ色だ。長い長い髪の一部は湖にひたされ、
扇のように広がっていた。
そのわずか先の湖面には、中央と南の境、南の太子が魔族を破壊した場所を背景に飛び回
る兵士達が映し出されている。
片膝を立て、もう片方の足は階の上に伸ばし、立てた膝の上に置いた腕の手の甲に顎を載
せ、もう片方の手は扇をもてあそんでいる。 一見懶惰に見えるその姿も、この人物がすれ
ば奇妙に似合う。
それは、この人物が醸し出す誑惑の気配と、並はずれて美しい容姿と、威圧的な金黒色の
眸のせいかもしれない。
今、その金黒色の眸は、わずか先の湖面に映し出される映像ではなく、光り輝く湖の中央
を見据えていた。
波立ち、金の波紋を広げるその中央で、金黒色に輝くひとしずくが浮かび上がり、垂直に
立ちのぼって果てのない冥界の暗闇へと消えてゆく。
冥き再生の水―――・・
それは力となって教主の望むところへ向かう。
また 金黒色のひとしずくが波紋の中央から生み出され、上空の闇へと消えてゆく。
教主の傍らにひっそりと従う赤毛の女がわずかに膝を進めた。
鮮やかな赤毛が流れ落ち、伏せたままの女の白い貌を覆い隠す。
「冥界から天界まで直接力を渡し続けるのは、いかな貴方様でもお体に触りましょう・・・」
ましてや、霊力の満ちた異界の地で力をふるうとなれば・・・
ぱちり、と扇を閉じる音が、奇妙なまでに大きく湖面に響いた。
「・・・何のために閻魔の協力を取り付けたと思っている?」
李々の言葉を冥界教主はわずかな哄笑で退けた。
閉じた扇を李々の伏せた頤にあてがい、強い力で顔を上げさせる。
目と目があった。
「あの、愚かで醜い閻魔に近づいたのは、なんのためだと思っている? 先代の守護守天が
戯れに与えた快楽の味を未だに忘れられないがために、己の養い児にまでおぞましい情欲を
寄せるあの老人に?」
李々は身を引こうとした。金黒色の眸とその声に呪縛される、その前に。
「今頃閻魔は、我があてがった姿形だけはおのが養い児に似た人形に溺れていることだろう
よ。我に感謝すらしながら。」
髪を掴まれてさらに引き寄せられる。激しい痛みが走ったはずだが、李々は瞬きすら出来
ずに、魔王の貌を見上げ続けることしかできなかった。
「・・・そのまま溺れ死んでしまえ老醜め! 偽物ごときで満足できる程度の浅はかな妄執で
手に入れられるとでも?」
呼吸をすることすら忘れたままの李々の喉が小さく鳴った。床についた手は蝋のように白
く、小刻みに震えて今にも崩れ落ちそうだった。
その時、湖面がひときわ光り輝いて李々の視界の端を焼いた。
「――――」
髪が離されると同時にすべての重圧が離れていった。のど元を押さえて浅く息をつぐ李々
に背を向けた教主が湖面を見おろし、ゆっくりと笑う。
「・・・あの兄妹が 魔刻谷に到着したらしいな―――・・」
・・・笑いの発作に見舞われていた柢王をアシュレイが引きずり起こし、脳みそが飛び出る
んじゃないかと思われるくらい揺さぶったあげくに事情を聞き出せたのは、それからしばら
くしてからだった。
ちなみに水の入った大壺を見て笑ったティアと桂花は何も言わずに先に執務に戻ってい
る。
「じゃあ何か、あの岩が、魔界から持ち込まれたんじゃないかと思ってたんだな」
「ああ、治水工事が終わったばっかのあんなとこに、いきなり大岩が生えてること自体が
・・お、おか、かしいから、な」
アシュレイに応える柢王の言葉の語尾が震えたのは、またもや笑いの発作が襲ってきたか
らだ。
口元を押さえて必死で笑いをこらえている柢王をアシュレイはじろっと睨み付け、それか
ら内心で首をかしげた。あの時、足元の岩の色は何色だったかな、と。
激しい噴火を起こす火山のマグマが固まった岩は確かに白っぽいモノが多いので、境界線
の所に立てられていた数柱の岩と混同しても可笑しくはないのだが・・・
「・・・・・?」
何だろう この感じ。
道を行く途中で忘れ物をしたと気づいたのに、何を忘れたのかがわからないような。
「・・・どうした、アシュレイ?」
柢王の声にアシュレイは引き戻された。
アシュレイは考え込むことを放棄した。いくら考えても分からないなら、それ以上の事は
アシュレイにとっては時間の無駄なのだ。
それならば一旦原点に戻ってみればいい。柢王と一緒に現場に行って確認すれば済むこと
だ。
「いや、何でもない。・・・つーか、いつまで笑ってんだよ!いー加減にしろ!」
「・・・おかしな気分だ」
むき出しの岩肌に背をつけて座る氷暉が黒紫色の瞳をすがめて言った。彼の本来の瞳は藍
色。今は魔刻谷に満ちる赤い結界光に照らされてそんな色に見えるのだ。
「何が?」
座る彼の足の間の地面にちょこんと腰を下ろした水城が振り返って問い返す。彼女の白い
肌も髪も赤く染まっている。瞳だけが同じ赤だ。
「目の前にお前がいるのに、お前が見えているのに、頭の中にもう一つの風景が見える。天
界人がうろつき回っている風景が」
「あたしにも見えているわ。氷暉と、その向こうに同じ光景が」
「目障りだな。蛟(ミズチ)を出してあいつら全員川底へ沈めてやりた―――」
頭上でおこった小さな物音に、氷暉は妹を胸元まで引き寄せて覆い被さった。
チリン、カシャン、とくぐもった鈴のような音が頭上で交錯し、彼らからわずかに離れた
場所に、水晶の小片が落ちてきた。それを見届け、兄妹は安堵のため息をついた。
・・・水晶は 魔を祓う。
水晶をこそげ落とされ岩肌をのぞかせる、人一人がようやく腰と背を落ち着かせられる場
所に彼らはいる。 だが彼らの周りは水晶だらけだ。 ろくに身動きもとれない彼らにとっ
てはここは牢獄、いや、拷問部屋にも等しい場所だ。
「水城、お前は別に来なくても良かったんだぞ」
「馬鹿を言わないで。同じ血を持つ者同士の力の共振で氷暉がもっと強くなれるなら、あた
しは氷暉の側にいるほうがいいでしょ。 ・・・それにあの赤毛! この前ここであたしの邪
魔をしたばかりか、私をずたずたに切ってくれたのよ? あいつに仕返しが出来るせっかく
の機会なのよ! それだけでも来た甲斐があるってものだわ」
いまいましげに言う妹を宥めるように氷暉は妹の細いうなじを撫でる。
「もうすぐ結界が閉じる。水が満ちればアレが目覚める。今回俺たちの役目は、水を通すた
めの『管』だ。・・・楽なものだ」
最後の言葉を語る声に不満は感じられない。少なくともこの任務で妹を危険にさらさずに
済むことに氷暉は安堵していた。自分のことはどうにでもなるし、最悪死んだところですぐ
に湖に浮く(そのことについてはよほどの自信がある)。
しかし妹に何かあれば―――彼女が傷つくことさえ氷暉には絶えられない。妹は無用の心
配だと笑い飛ばすが、そういう問題ではない。以前の任務で天界人に肉体を寸断されて湖に
浮いた妹の姿を見た時の衝撃は、未だに氷暉を苛む。
当人は何でもないふりをしているが、時折仕草がぎこちなくなる事を氷暉はとっくに気づ
いていた。おそらく天界人に斬られた傷はまだ完治していないのだ。
(何とかしなければ・・・)
今の状況で妹を守り抜くのは無理だ。もっと根本的な―――
(そこまでだ。考えるな)
己の膝をきつく掴んで氷暉は自分を戒めた。
それ以上は 考えてはいけない。
術の触媒として、黒い水に直接繋がっている今は特に―――
「・・・・・」
あの、水底の修羅達を支配する、美しい恐ろしい魔王が笑む様を思い出し、氷暉は奥歯を
噛みしめた。
―――息苦しい。
蒸気と土埃の舞い上がる現場周辺で地道な探索作業を続けている兵士の一人が、手をかけ
た岩隗にもたれかかるようにして息を吸い込み、吐きだした。この体勢が一番息を吸い込み
やすく感じるのだが、どれほど息を深く吸い込もうとしても、胸の奥まで空気が落ちてこな
い。そして、すぐ息を吐き出してしまう。 まるで、体が息をすることを拒んでいるかのよ
うだ。
そしてこの蒸し暑さ。いや、『蒸す』などという生ぬるいレベルではない。
頭まで湯につかっているような気分だ。
暑いが木陰に入れば嘘のように涼しい、乾燥した南領の気候とは違う。
(少し前までは、こんな感じじゃなかったよな・・・。風向きが変わったのか?)
兵士がちらりと視線を向けた方向の地は、未だ土煙と蒸気を高々とあげ続けている。
あの蒸気が風に流されてここに満ち始めているのだろうか。
胸苦しさを解消させようと浅く息をついだ兵士が、ふと顔を上げた。
「・・・気のせいじゃない。やっぱり、聞こえる」
気が遠くなるくらい 高いところから 水が 一滴 一滴 間隔をあけて落ちて来る
そんな水音が。
「・・・でも、一体どこから・・・?」
汗をぬぐいながら周囲を見回す兵士からわずかに離れた場所の、瓦礫が積み重なって出来
た山が崩れたのは、次の瞬間だった。
「―――・・っ!」
柢王とアシュレイが、そしてわずかに遅れて桂花が弾かれたようにバルコニーの方角を振
り返った。
高々と上がる土煙と蒸気は執務室からでもよく見える。
「ティア!遠見鏡! 境界を映してくれ!」
振り返った柢王の声に弾かれたようにティアが手をかざすと、境界の場所が映し出される。
「―――魔族!」
空中で、高々と伸び上がって身をくねらせる、黒く、長大な姿。
「でかい! ・・・蛇、いや百足(ムカデ)か? ティア!もっと近づけてくれ!」
ティアが遠見鏡を操作するのを嘲笑うかのように長大なモノは身をくねらせて瓦礫の山
に身を沈めた。はじきあげられた瓦礫が空中に舞い上がり、土埃がもうもうと立ちこめる光
景が遠見鏡の画面に映し出される。
「クソッ!隠れやがった!」
「・・・人界の水生昆虫に似ています」
柢王の怒声のかたわらで、いままで食い入るように画面を見つめていた桂花が言った。
「・・・・・!」
柢王の怒声と桂花の押し殺した声をアシュレイは背中で聞いていた。バルコニーから見え
る光景を目を見開いたまま見つめている。
あそこには、南と、天主塔の兵士達が、いる。
魔族が 出現したのだ。それも、巨大な。
あそこには、兵士達が、まだいるのに。
兵士達がいるところに魔族が出た。
「アシュレイ!」
考えるより先に、体が動いていた。気付いた時にはアシュレイはバルコニーの柵を蹴って
飛び出していた。
「あ・・・」
薬草を摘んだ手の甲に、朝露が落ちたその冷たさに、桂花はかすかに息を呑んだ。
秋の早朝。日差しはまだ低く、胸に吸い込む空気は冴えて冷たいが、見上げる空は遠い輝きを予感させる気配を見せている。ある種の薬草を摘むには適した時刻。甘えん坊の恋人を置き去りにして、寝台を抜け出し、林に向かった。
露の降りたつややかな緑の草を、ゆっくりと摘み取る。朝の林は深い緑と露の匂いに満ちている。
手の甲に落ちた水滴は、桂花にふと、何日か前のことを思い出させた。
人間界から戻ってきた柢王が、溶けるほどの夜を過ごした翌朝、食事の席で何気なさそうに告げた人間界での出来事。
菊の節句と呼ばれる吉日。人間たちは長寿を願って朝露を口に含むとか。
そんなもので長生きできれば安いものだと、笑いながら話していたその態度に、いつもと違ったものはなかったはずだけれど。
ふいに抱きしめてきたその腕の強さが、やはりと、苦笑いを誘った。
花の露を口に含んで長生きできるなら。
それをさせたい、あるいはしたいと思うかと。
冗談めかしてでさえ、しかし、口にしなかったのは、優しさだ。
天界人とは寿命も違う桂花には、いつまで柢王といられるかの保証はない。いや、誰の命にも保証はないが、柢王を唯一に天界にいる桂花に、不安を引き起こすことは口に出さなかった、あれはとっさの優しさなのだと。
「まったく、大雑把なのに、聡いんだからな」
苦笑いで、光る朝露を眺める。きらきらと、透き通り、儚くて。
そんなものに願いをかけなくても、自分にはいくつも耐えられることがある。そう笑いたいところだけれど。
正面切って傷つくのなら癒されるけれど、こちらの胸の中に、自分でも知らないうちについている傷。あるいはあまりに辛くて封じ込めた・・・。
そんな痛みすら、見抜いて、温かな腕で癒してくれようとするその顔を見たら、弱気は笑い流し、見ないフリをするしかない。
守られているだけでいいと思っていないから。そんな気持ちも見抜いて、もっと俺を信用しろと怒るのもわかっているけれど。
「まったく、甘いよな」
胸の中にこみ上げてくる温かさ。そして、ふいに肌を過ぎる秋の風のひやりとする冷たさと。
愛しさと不安の両方を抱えながら。
桂花は立ち上がった。
濡れた露草が足元を濡らし、飛び散る。光の珠のこぼれるようなその儚く、透明な美しさに目を細めて。
「多少、秘密があるほうが、恋も盛り上がるよ、柢王」
振り払うように微笑むと、ふたりの家に戻るため歩き出す。
いまだ寝台を恋しがる、甘えん坊の恋人を起こすために。
涼やかな風が草原を吹きぬける。
桂花は肩を震わせ隣を見たが、体温の高いカイシャンにはちょうどいいらしくグッスリ眠っている。
チンキムが自殺して以来カイシャンの教育係りに加わった桂花は、季節の移り変わりに上都と大都を移動する皇帝一家と行動を共にしている。
明日は大都に向う為、来年までこの地とお別れ。この地が大好きなカイシャンは朝早くから宮廷から離れた桂花のゲルに来て最後の追い込みの薬草採取の手伝いをしていた。
十分に薬草が集まり一息入れているとカイシャンはいつのまに眠りに落ちていた。
その寝顔を見ながら桂花は思う。
大きくなったものだ・・・と。
来年にはこの王子も12才になる。
あまり強く見つめていたからだろうか、カイシャンが目を覚ました。
「ふわぁーーっ、気持ちいいなぁ」
「この短い時間にぐっすり眠ったみたいですね」
「ああ、夢まで見た」
上半身を起こし隣の桂花を見て口元に笑いを浮かべる。
「いい夢だったようですね」
「ん。でも半分しか覚えてない」
「忘れてしまう夢は覚えている必要がないからです」
「そうか? 夢にはおまえも出てきた」
「吾がですか?」
「ああ。おまえはイル・ハーン国の物語の精霊のようだった。絹糸の長い髪に一房の鮮やかな赤い尾髪があって、胸や腕には綺麗な模様があるんだ」
「――――――っ」
「・・・桂花???」
「―――すみません。吾が精霊というのに驚いただけです。カイシャンさまは奇抜な夢を見られる」
一瞬で表面の驚きを押し隠し、桂花はにっこりと笑って見せた。
「綺麗なおまえの側には真赤な髪の男と金色の髪をした綺麗な奴もいて・・・皆で俺を呼んで・・・楽しい夢だった」
カイシャンは夢を懐かしむかのように微笑み、またゴロリと草に身を横たえた。
「それなら、どうぞ続きを楽しんでください」
桂花はカイシャンの目蓋にそっと手をのせた。
少し冷たい桂花の手が気持ちよく、カイシャンは目を伏せさっき夢を思い返す。
何故こんなにも懐かしんだろう・・・。
胸にこみあげるこの気持ちは・・・。
カイシャンは無意識に腕を上げると目蓋に乗った桂花の細い指をギュッと握り締めた。
「カイシャンさま」
桂花はそっと声をかける。
返事はない。眠ったようだ。
子供の皮を脱ぎ捨ててぐんぐん成長していくカイシャン。
だが眠っている顔にはまだあどけなさが垣間見れ、桂花は自然と微笑んだ。
だが・・・。
消された記憶を身体は覚えているのだろうか。
消せないほどの思いだったのだろうか。寝入るカイシャンに愛しい男を重ねて呟く。
「面倒臭がりのくせにお節介なんだから」
柢王が注いでくれた愛の深さに胸が熱くなる。
冥界教主に再生されたこの呪われた身体をも熱くさせる思い・・・。
ふいに涙が溢れ出す。
泣いたらダメだ。カイシャンが起きてしまう。
桂花は涙がこぼれぬよう上を向いた。
吸い込まれそうなコバルトブルーの空が果てしなく広がる中、秋風が桂花の頬を優しく撫でてゆく。
それは、常に温かかった柢王の手によく似ていた。
シトロンのグラスにアメシストひとつぶ。
小さな泡を身にまといながら落ちてく紫が、きれい。
耳元からころんと外れたアメシストをアシュレイはふざけてグラスに落とした。以前なら紫水晶がついているアクセサリーは決して身につけなかった彼が、最近さり気ないセンスの良さで使用するようになった事にティアは気づいていた。
「甘すぎた?」
「いや、ちょうど良かった」
あたたかいお茶を用意していたところ「ちょっと甘くてサッパリしたのが飲みたい」と恋人がリクエストしたので、ティアはシトロンをつくって出したのだ。
アシュレイはグラスをゆらしてレモンの香りを楽しみながら氷の間におさまったアメシストを見つめている。
「桂花と一緒じゃなかった?」
「あいつも誘ってたのか」
「うん、声かけといたんだけどな」
「冰玉いたし、どっか散歩でもしてんだろ」
ついさっき、お茶にしようとアシュレイの姿を遠見鏡で探していたら、思わぬツーショットが目に飛び込んできた。
最近のアシュレイは、桂花にたいする心境の変化があらわれ始めている。以前なら慌てて二人の間に入っていたが、その心配も今は無用だ。
ティアは何を話しているのか気になって、そのまま画面に集中した。
『ったく、俺の顔見りゃ攻撃してきやがってしょうがねぇ奴だ』
アシュレイの手から桂花の手に渡った青いものが冰玉だと、すぐに分かる。
『人がせっかく足に絡まった蔓を取ってやろうとしたのに、突っつきやがって』
アシュレイの手の中にいた時は大暴れだったのに、すっかり大人しくなった冰玉。
『冰玉はあなたの事、吾を邪険に扱う敵だと認識しているから』
『なにぃ?いつ俺が――――』
言いかけて、思い当たる事が山ほどありすぎたアシュレイは押し黙る。
『それに。あなたの護衛も相当なものですよ、吾がここに来るたび威嚇してくる』
護衛?と首をかしげると、桂花がアシュレイの後ろに視線をうつした。見ればリスやら鹿やら鳥たちが、遠巻きにして自分達の様子をうかがっている。
『あれが護衛?ハハッ、たいしたもんだな』
『ですね』
二人の会話はウソのように穏やかに進んでいる。
「・・・・・なんだ、思ってた以上に上手くいってるじゃない」
ティアは微笑んで遠見鏡を消し、椅子に腰掛けた。
もともとアシュレイの心は柔軟性が高いから、変な意地を張らなければ桂花との仲だって自分よりも上手く、深く関われるのではないかと思う。
言葉の通じない、人を警戒する野生動物がいつの間にかアシュレイには気を許し、体を触らせているところを見たのは一度や二度ではない。
魔族である氷暉との共存も成功させた彼。
言葉や態度だけではないなにか・・・心の奥深くに届くなにかをアシュレイは発する事ができるのだと思う。
桂花は、言葉は通じるけれど思考に多少のずれがある。アシュレイと氷暉のような関係ならそれでも大した問題ではないかもしれないが、柢王と桂花は恋人同士だ。
桂花が抱える不安を排除してやろうと説得を試みても、彼の思考の根本には柢王が言わんとする事が欠如しているためうまく伝わらない。
それは魔族と天界人という、種族が違うが為のすれ違い。
初めから欠如している考え方をいくら説得されても、分からないものかもしれない。それでも柢王は諦めないのだ。何度でも。いくらでも、桂花に付き合う。
――――――――柢王は強い。
自分の存在が柢王の立場を不利にしてしまう、と桂花が不安になる度・・・・それでもやはり柢王のとなりが自分の居るべき場所なのだと桂花自らが決心するまで、決してその手を離さない。何度くり返されてもとことん付き合う。
自分だって・・・・アシュレイの手を離すつもりなど毛頭ない。しかし、自分に離すつもりが無くても振り払われたまま失ってしまう可能性はゼロではないのだ。
無鉄砲なアシュレイは恋人であり守護主天である自分を守る為に無茶をする事が多いし、短絡的思考で最悪な事態を選ぶこともある。そのたび彼を失ってしまうのではないかという恐怖に立ち向かいながら必死で救い、奪還するのだ。
まだまだ柢王のように上手くはできないが、最近ではそれも自分達のひとつの在り方なのだろうと思えるようになってきた。
「・・・・・アシュレイ、どこへも行かないでくれ」
こんなに近くにいるのに、愛しい体が遠く感じられてティアはすっかり細くなった腕を掴んだ。
「なんだよいきなり。どこへも・・・・ってのは、困るけどな」
満更でもなさそうにアシュレイは甘え上手な恋人の頭を抱いてやる。
「ダメ、どこへも行ってはいけないよ。もうずっとここにいて。私から離れないで」
「お前な〜」
「できない?」
「できるって言うのかよ」
「・・・・・いじわる。それじゃあこうしちゃう」
ティアはシトロンのグラスをいっきに傾けた。
「あ―――っ!?俺のっ!」
驚いてティアの頬を両手で挟んだアシュレイの細腰をつかまえて、いたずらっ子のようにチロ、と舌を出してみせる。
きれいなピンクの舌の上に、紫の石。
「返して欲しかったら、奪ってみせてよ。手は使っちゃダメだよ」
挑発するような瞳に負けじと、アシュレイの顔が近づく。心なしかティアの顔が期待に染まった。
「――――ばぁか。そんな挑発にのるかってンだ、欲しけりゃやるよ」
「・・・・・・失敗」
ティアは残念そうにアメシストを出し、聖水のグラスに落とす。
アシュレイが笑いながら立ち上がって大きな窓を開け放つと、招かれた風に誘われて薄いカーテンが舞った。
グラスの中のアメシストが、わずかな光をとらえてキラリと光る。
「あいつ、呼んでくるか?」
「そうしてもらえる?」
アシュレイは頷くと、開け放った窓から桂花を探しに行った。
優しい気持ちに包まれて、胸があたたかくなる。
こんな時間を満喫したい。
「こっちは大丈夫だよ柢王・・・・・心配いらない。いらないから・・・・・」
早く帰ってきて欲しい。桂花の為にも早く。
今はただ・・・・無事に共存を終えた柢王が訪れる日を、心待ちにしている。
旧暦の九月九日は菊の節句だ。
もちろん、人間界の、それも一部のこと。天界に四季はないし、節句行事もない。神が自分を祝う事はないから当然だが。
ともあれ、その日が重陽と呼ばれるのは、奇数を陽、偶数を陰と考える人間界の考え方に拠るものだ。陽である九を重ねて重陽。この日の朝、菊の花に降りた朝露を口に含むと長寿が得られるとか、肌につけると美人になるとか、ほほえましいまじないがなされるらしい。
「それで、あなたは吾に美人になって欲しいわけですか」
昨夜、人間界から帰ったばかりの柢王が、飢えたように朝食をかき込みながら話した人間界の行事に、桂花は苦笑いような笑みを見せて尋ねた。
必死で食べ物を飲み下した柢王は、
「お茶。そんなことしなくてもおまえは美人だろ。でも、菊の花露飲んだくらいで寿命が延びるなら安いもんだな。菊を飾った市が立って賑やかだったぜ。人間ってほんとにお祭り好きだよ」
桂花の渡したお茶を飲み干し、大きく息をつく。
「それは人の寿命が短いからでしょう。それに祭り好きならあなたと趣味が合うでしょうに。買い食いしなかったとでもいうんですか」
満腹、満足顔の柢王に、桂花は軽く肩をすくめた。家の中に吹き込む、かすかにひやりとする風に目を細めて唇を歪めてみせる。
「なんだよ、つれないな。昨夜はあんなに可愛かったのに」
柢王は席を立つと、桂花の体を背中から腕に包み込んだ。
滑らかな絹の髪に、ひんやりとした肌。美しい刺青に彩られた魔族の体は相変わらず冷たい。それが熱を帯びたらどうなるのかは知っている。その紫水晶のきつい瞳がどんなに鮮やかに変わるかも。
「なあ、今日は一日・・・・・・」
言いかけた柢王を遮るように、桂花が言った。
「今日は一日、片付けです! ずっと留守をしていて埃も溜まっているし、洗濯もあるし。柢王、窓を開けてきてください」
「ええええ〜」
「えええ、じゃありませんよ。窓を開けたら、どこか邪魔にならないところにいて下さい。あなたがうろうろしていたら掃除にならないんですから」
桂花ははっきりきっぱり言い渡して、柢王の手を振り払った。柢王が人間界に出かけるとき、桂花は天主塔に預けられる。その間、かれらの家は無人になる。草原の一軒家、そう大して汚れるとも思えないが、桂花はきれい好きで、空気がよどんだ部屋を嫌った。
「昨夜だって換気しただろう、それに掃除なんか後でもできるじゃないか」
柢王は甘えたが、桂花は断固として譲らなかった。
「後でするのも先にするのも、するのは同じ吾なんです。さあ、早く、ふとんも干したいし」
そういわれると柢王には返す言葉がない。渋々外に追いやられ、目の前に広がる草原を眺めながらため息をつく。
「あれでもうちょっと、遊び好きならなぁ・・・・・・」
潔癖ともいえる桂花の性分に苦笑いして呟くが、それが真実ではないことは自分で一番わかっている。魔族の桂花とここで一緒に暮らすまでのいきさつはいま思い出しても必死だったとしかいいようがない。
思いが通じて、桂花の気持ちが自分に向いてくれていると思えるいま、何が不満ともいえないだろう。例え、その胸の中のすべてが自分のものだと思えなくても。
柢王は空を仰ぎ見た。
東領には蒼龍王の趣味で秋がある。空が高く遠く、草原がきらめいて、透き通るような風の気配はこのままどこか遠くへ連れ去られそうな感じを抱かせる。
もちろんそれは人間界の郷愁をそそるような日暮れを含んだ秋ではないし、そもそも柢王の生まれた場所はここで、帰る家もここだった。ただ、人間界で見たあの、黄金色の花を気高く並べた菊の市、そこをそぞろ歩く人々の幸せそうな顔を思い出す。
人の子が長寿を願い、事々の四季に節句を祝うのは、その命があまりに短いからだ。注意深く、足元に目を留め、いまあるものを味わう事がないうちにその命が終るかもしれないことをわかっているからだ。
「菊の露一つで長生きできるんなら安いもんだ」
それが本当なら・・・・・・いや、まじないでも、安心できるならしてみたいと、半ば苦笑いして思った気持ちを、桂花は悟っただろうか。
魔族は天界人とは寿命も違う、魂もない。桂花がどれだけ生きるのか誰にもわからない。だから。
「俺らしくもないよなぁ」
弱気なのか。天界人が長生きするといっても死なないわけでもない。命の終わりがいつ来るかなど本当は誰にもわからない。それでも。
あなたの側を離れたら、次に行くのは死の国。
腕の中でそう囁いた声がふと思い出されて。花の露一つでその命が永らえるなら、どんな危険を冒してもそれを手に入れる。汚れない朝の露、それ自体がどんなにか消えやすく移ろいやすいものだとしても。安心と言う名の鎧で、その身を包んでいてやりたい。
そんな気持ちがふとこみ上げて、口に出した露の話を、敏感な桂花は悟っただろうか。だから、人の子の寿命は短いからと、苦笑いに受け流したのか。現実主義の自分が見せた迷いを、見ないふりで許したのか。あるいは本当に関心が薄いのか。
その辺りの判断もまだしっかりとは出来かねる。
「まだまだ知らない事が多いってことだよなあ」
柢王は呟き、唇を歪めた。
まだまだ知らない事が多いなら、これから知れる事も多いだろう。いつまで、と胸の不安があるにしろ、それを見せれば桂花が傷つく。命がまだあるいまは、いまある命を慈しむだけだ。
柢王は瞳をきらめかせ、地面に降り立った。
流されそうな風に身を任せながら、大声で桂花を呼ぶ。
「桂花、桂花っ。なあ、やっぱり掃除なんかやめて南領に温泉でも入りに行こうぜーっ」
ふざけたように家に入って抱きついた柢王に、桂花は怒ったり、文句を言ったりして抗ったが。
ふと見交わした目に、何か言葉にならない色があって、柢王は甘えたふりで抱きしめながら、心で固く誓いを立てた。
命がいつ尽きるとしても。
最後の時まで、側にいるから。
だから、いまはただ、命の終りよりを案じるよりも、重ねる胸の真実だけ信じていよう。
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