嵐のきざし
砂塵にさえぎられながらも、雄大な草原に沈もうとする夕日は鮮やかなほど赤く、夜の色を広げつつある東の空の雲を金色に燃え立たせていた。
長い長い影を背後に黒い剣のように従えながら草原に立つ桂花は、まぶしさに目をすがめながら、ふ、とため息を漏らした。
「遙か西の地に、魂が還る場所があると説いていたのは、人界の誰だったか・・・」
夕日と同じ色をうつして燃え立つ黄金色の髪を風になぶらせて桂花はぽつりとつぶやいた。
ほんとうは そんなものなどないことを桂花は知っている。
けれど、金色に燃え立ちたなびく雲の向こうに、そのような場所があると信じ、祈ることの出来る人間を桂花はほんの少しうらやましくさえ思う。
「・・・そう 魂のないこの身には 」
(・・・魂の記憶は どこにゆくのだろう)
しあわせだった きおくは どこに還るのだろう
かなわなかった ねがいは どこに還るのだろう
とどかなかった いのりは どこに還るのだろう
「・・・還る場所があるのならば、少しは救われるものを・・」
桂花は苦笑とも嘲笑ともつかない笑みを口元に浮かべた。それは、泣き笑いの表情にも似ていた。
「・・・この身には、忘却しか残されていないというのに・・・」
・・・そう 呪われし 不死者の この 身には。
「もう、死ねない」
言葉そのものが呪いであるかのように桂花はうつろにつぶやいた。
「どうして」
どうして
「あの時」
柢王が死んでしまった時に
「吾はすぐ死を選ばなかったのだろう」
このごろ、そのことばかりを考える。
・・・あのとき、桂花は柢王と一緒に死にたかったのだ、と。
魔族である桂花は、魂などしらない。 還るところもない。 魂の再来など知らない。
・・・だから柢王は桂花を連れて行かなかった。
ただ、信じて待て、と。
けれど
「ただ待つことの苦しみを貴方は知らないだろう・・・! 何一つ確かなもののない約束を待って、そこから動くことも出来ず、今日か、明日か、それとも永遠に果たされることはないのかもしれない、と絶望と希望の境の上で揺れる一本の綱のような、ぎりぎりの望みをつないで生きてゆくことしか出来ない苦しみを・・・! そうまでして吾に生きろと言うのか! あなたは! ・・・あなたたちは!」
桂花をつくった、一人の女。 一人の男。
柢王も、李々も、ただひたすら、生きろ 生きろ、と優しく温かい手で桂花の背を押して、押しつづけて、・・・そして桂花をひとり置き去りにした。
愛されているからこそ、そうされたのだということは、理論ではわかる。だが、感情はそれを許さ
なかった。
「貴方の言うことなど聞かなければ良かった!」
最後の最期で突き放されるくらいなら、いっそ、その手で殺して欲しかったのだと。
共に死ね、と言われるほうが桂花にとっては幸福なのだと
桂花が愛し、桂花を愛した二人は、桂花のその性質を深く理解していたからこそ、決して桂花を連れて行こうとはしなかった
「苦しんで、苦しみ抜いて、死んでなお生きろと・・・?!」
そうして、再会することだけにかろうじて望みをつないでいた桂花を待ち伏せていたのは、絶望だった。
わずかな希望を内包した、黒く冷たい残酷な絶望だった。
・・・何も語らない柢王。
・・・何も語ろうとしない李々。
・・・・・変わり果てた 最愛の ひとたち。
その絶望に流されて、桂花はさまざまなことをした。それが桂花をさらに絶望に突き落とした。
絶望に苛まされ、底のない悲しみと苦しみを己の内に抱えたまま、桂花はここにとどまるしかない。
「―――――・・・」
・・・だが この苦しみはいずれ終わりを告げる
呼び覚まされた悲しみは、溢れ、沸き立ちながら流れ逆巻いて暴走し、とどまることのない凶暴な
嵐となって、やがて桂花を粉々に打ち砕くだろう。
桂花は、ただ待っていればいいのだ。
狂気の嵐が 桂花を捕らえる その 瞬間を。
桂花の想いはそれで成就する。
だが
「・・・まだ早い」
両腕を体に回し、桂花は身震いした。
だが、それにカイシャンを巻き込むことだけは出来なかった。
何も知らないカイシャンを巻き込むことだけは出来なかった。
それは
それだけは
断じて出来なかった。
「・・・早すぎる」
目をきつく閉じ、体を抱く両腕に力を込め、桂花はうめくようにつぶやいた。
―――だが、桂花の嵐を呼び寄せたのは、他ならぬ彼なのだった。
・・・あの時。
桂花を求めてまっすぐに向けられた青年の殺意に近いまなざしが 桂花の心を強く揺さぶって、奥底に封じていた深い悲しみを呼び覚ました。
「忘れなさい、人の子よ。・・・吾は、もはや、あなたの思い出の一部にすぎないのだから」
・・・けれどあの時。成長し、最愛の面影をまざまざとうつしながら、桂花が見たことのない激しい感
情をぶつけて首を絞めてきたカイシャンを見て、桂花はついに思い知った。
あの時に死ななかったことを ひどく悔やんでいたことを。
己がどれほど絶望していたのかを。
―――その絶望が、己の内側を 蝕んでいることを
「忘れなさい」
繰り返し繰り返し、応えの返らない言葉を桂花は祈りのようにつぶやく。
「・・・忘れなさい」
彼が幸せであるのならば、そして彼の幸せを見届けることが出来たのならば、桂花はようやく己を
手放すことが出来るのだ。そうして世界を滅ぼすことが出来るのだ。
「忘れて下さい・・・」
涙がひとすじ、ふたすじと頬を滑り落ち、桂花は瞳を閉じて記憶の中の青年に呼びかける
離れれば、そして時間をおけば、それですむと思っていた。
けれど
桂花が姿を消してから二年の間、彼はずっと自分を捜していたのだ。
「・・・駄目ですよ」
そんなことをしてもらう資格は、吾にはないのだから。
追いかけてきてはいけない。あなたはもう子供ではない。
生まれ落ちた時から見守ってきた、最愛の魂のカケラ。
天に選ばれた、温かい血潮と魂を持つ人間。
そう、人間なのだから。
・・・だからこれ以上、そのまなざしとその温かい手で、吾の深いところを揺るがさないで下さい。
「駄目ですよ・・・」
魔物に心を残したりなどしたら
「・・・あなたも 魔物になって しまいますよ・・・?」
・・・日はすでに没し、西の地平をわずかに金色を残すのみとなり、東より迫る夜の色に小さな輝きが混じり始めた。 桂花の影はすでに背後の闇にまぎれてしまっている。
嵐の予感に桂花は自分自身を固く抱いて身震いする
ただ桂花は立ちつくす。闇を背負い、黄昏を見つめながら。