『帰る場所 還る在処』
たとえば酒を飲むなら、夜風にあたりながらが一番いい。
昼寝をするのも、整えられた城の寝室より、乾いた草の上に寝っ転がるほうが気持ちよくて好きだ。
肉にしろ魚にしろ、凝った盛りつけの上品な料理もいいが、俺は、狩った(釣った)その場で炭火焼きにして、あっさり塩や香辛料だけで味付けて食べるのが格別に美味いと思う。
『あなたって人は…。それで本当に“王子サマ”なんですか?』
そう言ってあいつは、なにかにつけ苦笑を零すが。
もともと奔放な性質(たち)で、ひとつ所にとどまっていられない性分だ。
元服したてでまだなんの役職も任務も回ってこなかった頃でも、昼は、自分で天界警備をして怪しい噂の真相を
探りにあちこち動いたり、夜は夜で、新しい情報やツテを得るために、人と会うにしろ、飲み食いや寝るのも、ほとんど花街など城の外で過ごしていた。
鍛錬と刺激を求めに、こっそり魔界に行っていたことすら何度かある。
こうしてあらためて考えてみると、今まで、自分の家であるはずの城でゆっくり落ち着いて過ごす、ということは滅多になかった気がする。
そもそも“家”という概念自体、とりたてて意識したことはなかった。
だが……。
夕暮れ時、風の流れが変わって、辺り一帯が薄闇に包まれはじめる頃。
東領のはずれ、眼下に大きく広がる森のあいまに、ぽつんとひとつ離れて小さな家が見えてくる。
まだまだ蒼龍王には及ばない自分の霊力を注いで建てたもので、もちろん荘厳な蓋天城とは比べるべくもなく、家具や調度品もこじんまりとした質素な造りではあるが。
でも、自分にとっては他のどんな場所よりも居心地の良い、俺達の家―――――
「桂花ー、今帰ったぞ」
玄関先に降り立ち、いきおいよく扉を押し開けて中に入る。
一瞬、ふわっと涼しげな風が広がる。
「おーい」
声をかけながら、穏やかな宵闇に包まれた居間を抜け、明かりの灯る奥の台所をひょいっと覗くと、ちょうど戸棚から器を取り出していた桂花が振り返って、ゆったり微笑った。
「柢王、早かったですね」
そう言って軽く目だけ見交わすと、桂花はすぐにまた、湯気の立ちのぼる鍋に向き直る。
「もう出来ますから。あちらで、お腹の虫と一緒に待っててください」
手際よく仕度をすすめながら、耳ざわりのいい声が応える。
「…ああ」
相づちだけ返して、なんとなく柢王はその場で腕を組んで入り口に寄りかかったまま、すっきりとした桂花の
後ろ姿を眺めていた。
桂花が動くたびに、布でゆるくひとつにまとめられた髪のしっぽが揺れている。
クツクツ………… トントン…………
馴染んだ空間のなか、静かに、心地好い音だけが響きわたっていた。
そうしてしばらくの間、なんとはなしに魅入っていた視線に、ふと桂花が気づいて、
「…なんですか、お腹の虫が大変ですか?」
すっかり柢王を大喰らい大王あつかいして(事実そうだが)苦笑している。
「今日は、あなたの好きな南領の香辛料が手に入ったので。もう少しだけ待っててくださいね…って、ちょっ!?」
ふいにうしろから細い腰をさらって、がじっと肩口に喰いついてやった。
「っ…、と、もう、なに齧ってんですか! 吾はあなたの非常食じゃないですよっ」
ぱこん!
持っていたおたまでハタかれる。
いたずらな手の甲をきゅっとつねられても懲りずに、今は自分よりわずかに低くなった背にじゃれついて、いい匂いのする首筋までガジガジする。
つれない恋人は、腰に絡みついてる腕を邪魔だとばかりに、ぺちぺち払おうとするが。
そんな他愛ないやりとりすら楽しくて、柢王は白い髪のなかに唇をうめた。
夕食後。
さっぱり風呂もすませて寛衣にも着がえて、あとはもう寝るだけの状態だが、このまますぐに眠ってしまうにはなんとなくもったいない気がしてしまう、心地いい夜の、ちょっとしたひととき。
なにをするでもなしに、柢王は、居間の大きめのソファに深く腰掛けて…というか、むしろほとんど寝そべっているに近い状態だ。器用に身体をななめにして肩と首だけもたせかけるような格好で、腹の上にのせた冰玉を撫でてやっている。
桂花からすれば、それでよく関節が痛くならないものだと、呆れるのを通り越して逆に感心してしまいそうな体勢であるが、当の本人と彼の飼いヒナは、ふたりしてさも満足げな様子で寛いでいる。
クククッ クルルルル…………
節ばった指で喉元を愛撫され、気持ち良さげに冰玉が鳴いた。
そんな和やかな雰囲気を背中越しに感じながら、ソファを背もたれに絨毯に足を伸ばして、桂花は薬草類の整理を続けている。
「…いいもんだな、家って」
ふと、柢王が言った。
「家、ですか?」
手元の作業は休めずに聞き返した桂花が、その言葉になにか思い出して、クスッと微笑う。
「そういえば、吾がまだ人間界にいたころ、夕暮れ刻の、ぼやっと赤くてまあるい陽を眺めているのがやけに嫌な気持ちになることがあってね。どうしてかだなんて、そのときは考える気にもならなかったけど…」
どこかしんみりと、少し遠く感じるような口調。
「人間界だけじゃなくって、その前にいた魔界でも、あちこち“住み処”は移ってきましたけど、あのころの吾には“家”と呼べるような場所はどこにも持っていなかったんでしょうね」
新しく調合した薬を、使いやすいよう袋に小分けにしながら話す桂花の表情は、柢王からは見えない。
「家って、そのひとにとっての安らぎの場所…、帰りたいと思う場所…でしょうから」
首筋をおおう長い髪ごと自分の腕のなかに抱き寄せて、柢王は、その隙間からのぞく耳に口づける。
「俺は、おまえに会ってはじめて、本当に帰りたいと思える場所ができたんだ」
「…吾は、さみしいとか人肌恋しいなんて感情、ずっと知らずに過ごしていたのに…!」
柢王の腕に、ぎゅっとしがみつくように紫微色の手が重ねられる。
心から、愛しいと思う。
冰玉と二人一羽で暮らすこの場所も、こうして一緒に過ごす何気ない日常すら、大切すぎて、もう決して失えない。
柢王こそ、自分のなかにこんなにも強く愛しい気持ちがあふれるのを知ったのはいつからか。
それもすべて、傍らに桂花がいてくれたから。
―――――どんなときも、なにがあっても必ず、俺はおまえのところに帰るから
だから、おまえにとっても俺の腕のなかが、いつも心の還る在処(ありか)であってくれるよう―――――