まやかしの永遠(あい)と、刹那の真実(あい)
三月。
都はいま上都にある。
桂花が草原にある自分のゲルへ帰るのは久しぶりだった。
船の上で乞われたまま旅から戻ると、そのまま都にとどまりカイシャンのそばにいたのだ。
「…すぐに戻ってくるんだろう?」
小さな掌(て)に、きゅっと祈るように服をつかまれて訊かれた。不安げに、だがまっすぐに見上げてくるその大きな黒い瞳に、思わず愛しさが募ったが、必ず三日で戻りますからと、ひとりで出てきた。
桂花のゲルは、上都から馬で一時間ほどの草原にある。
この時期、皇帝につきしたがって上都に入り、皇帝が上都にいる間、草原にゲルをはって暮らす者もいる。
用心にこしたことはない。
草原に帰ったその晩、あたりが寝静まった頃を見計らうと、そっとゲルを出て、桂花は迷わず湖へと足を向けた。
ゲルの近くにある湖は、教主の神殿へと繋がっている。
今までにも知識の補給のために、桂花は一定の間隔で地底に戻っていた。
湖のほとりにつくと、まず変化の術をとき、万が一のために白い布をかぶって紫微色の身体を隠し、一歩水の中へと進み入った。
(もうすぐ柢王に会える…)
知識の補給云々より、この水の向こうには柢王がいる。
そう思いながら、ふと目をやれば、水面に天空の月と人間ではない自分の姿が映っていた。
(そういえば…)
見上げると、今度は空に浮かぶ月に、忘れていた記憶がよみがえる。
「夏の都」と言っても、まだこのあたりの地面は褐色のままだけれど、…確かこんな月の夜だった。
あれは、春。
あの国では、花が咲いていた。
はじめて柢王に会ったのは、全ての命が芽吹く季節だった。
まだ自分のほうが上背があって、子供だと侮れば、すでにその強さはケタ違いで。
その強さに、自分も殺されると思い、覚悟を決めた。
李々に会えず、ここで自分は死ぬのだと。
なのに…。
『悪かったな 殺しちまって』
助けた龍鳥の雛に、桂花は「李々」と特別な名前をつけて可愛がっていた。
その桂花の飼い鳥が、別の魔族に利用されて死んだとき、魔族の桂花に彼はそう謝ったのだ。
『大事にしてるものが居なくなったら誰だって悲しい…と思って』
そうして、問答無用で殺していいはずの魔族の自分を、彼は天界まで連れて行った。
(あなたは、根気よく吾に『あなた』を教えて、十分に『あなた』を刷り込んだ…)
なつかしい記憶は、いまはつらいだけなのに、一度振り返ればとめどなくあふれて、桂花をそこから動けなくさせる。
子供みたいなのに大人びて、まっすぐでひねくれてて、優しくて強くて…少し孤独で、でも甘え上手で、どこまでいっても王子としての誇りを失わなかった男。
あのとき、魔界へ行かせなければ。
せめてあの暗い不安を感じたときに、なにか、なにか自分にできはしなかったのか。
彼を失う以上に怖れることなど、なにもなかった。できることならなんでもした。なんでもしたのに…。
後悔しても、しきれない。時間は戻らないし、彼も二度と戻ってこない。
(わかっているけど…っ)
つと、風が吹いて水に映る月がぶれる。
ここにはいま、あなたの肉体の再現と魂を持つ子供がいる。
それでもあなたとは別物だ。違う、絶対、違う。そう思っていた。
カイシャンを海へ連れ出すと決めた日。
我慢できなかった。もう、待ちたくなどなかった。
おまえは許してくれるだろう?と。
そっくりな瞳で見つめられて、改めてこの子が柢王の生まれ変わりなのだと、桂花は痛切に実感した。
人の表情を読むのが得意で、そのとき誰を優先させるのが自分や周りにとって一番得策であるかを残酷に告げるその瞳で。
おまえは、わかってくれるよな、と。
そう瞳で告げられれば、何度後回しにされようと、桂花は男の甘えを最後には許すしかなかった。
…そしてその結果、桂花はひとりで置いていかれたのだ。
また同じようなことがあったら…。
また、あんな目であの子が吾を見るようなことがあれば…。
吾は…。
「柢王……」
この水の向こうに、吾だけの柢王がいる――。
あなたと同じ目で許しを請うあの子を、あの子の甘えを許さなくてもいいでしょう?
あの子が、吾以外の者を吾の目の前で選ぶ姿をもう見たくないのです。
許さなくていいと、言ってください…。
そうして、唐突に気づく。
自分はいま、地底の柢王に、そう言ってほしくて戻ろうとしているのだろうか、と。
いまだ、桂花のことさえ認識できない人形のようなあの柢王に。
自分が求めているものは、自分が飢(かつ)えているものは、あなたの形なのだろうか。
それとも、あなた自身ではないけれど、あなたの魂をもつあの子供なのだろうか。
水に映る月と自分。
その手を伸ばせば、水に映った自分は簡単に月を手にできる。
自分が求めているのも、そういうものなのだろうか…。
目を瞑ると、桂花は水の中に身体を沈めた。
はじめて柢王と会った季節(とき)。
あれは、全ての生命(いのち)がはじまる春だった。
そしていままた、同じ季節を迎えようとしているのに…。
いや…。
同じじゃない…同じ季節はもう二度と巡ってはこないのだ。
あのとき咲いていた花たちが、枯れて二度と同じ花を咲かせないように…。
百年の休暇。
百年の猶予。
百年の自由。
教主は優しげにそう言ったけれど…。
自由な時間を与えられても、心はいっそう強く束縛される。
柢王の形をした意志のない冷たい人形と、彼の魂と熱い体温を持って、まっすぐに自分を見つめてくる人の子。
たとえあの子に人の寿命が来て、与えられた百年が終わったとしても、この偽りの生がある限り束縛は永遠に続くのだ。
秘密の道の出口はもうすぐ…。
桂花の身体はゆっくりと、再び水面へと浮かび上がった――。