氷が溶けたら
ギリギリギリ・・・薬草を擂りつぶす音が部屋の中に広がる。
その音は柢王にとってはすでに生活音の一つになっていた。
長椅子で昼寝をしていた柢王は気持ち良さそうな伸びをし、音のするほうに視線を流した。
慣れた手つきで桂花が薬を調合している。
紫微色のなめらかな肌に冷たそうな紫水晶の瞳。赤が一筋だけ入った白い絹糸の髪。
綺麗だ。
改めて思う。
じっとしているのが嫌いな柢王であったが、桂花を眺めているのなら何時間でもこうしていられるだろう。
桂花に慣れるということはない。毎日、毎日惚れる一方、愛しくなる一方だ。
機械ような正確さで薬の調合をしていた桂花は強い視線を感じて僅かに肩をゆらした。
桂花は見られることには慣れていた。特に天界に来てからは。
何をしていても、何処にいても視線は身体に絡み付いてくる。
一見、感じなさげに装っているものの嫌悪感だけは拭えない。
けれども、この暖かい視線だけは別だ。
この視線を感じるだけで、安心し癒される。
機械的に調合していた桂花の手の動きが柔らかな舞踏のような手つきに変わっていく。
「なぁ桂花、これから花街に行かねぇか」
「お遊びですか?それなら、吾は女将の所へでも顔を出してきます。頼まれていた薬もできたことですし」
「いや、今日は夢竜じゃなくてさ・・・」
「・・・捜査ですか?」
「いや、違っ・・・とにかく、いいじゃねぇかぁ。たまには変化して遊ぼうぜ昔みたいにさ。なっ」
何を考えているのか分からないが乗り乗りになっている柢王を止める気も失せ、桂花は手早く薬品の片付けを始めた。
今でこそ柢王は東の元帥の一人であるものの桂花を連れて城を飛び出した頃は毎日、花街に繰り出しては賭博や夜遊びを自由奔放に楽しんでいたのだ。
あの頃は毎日、毎日、柢王の魅力に引き込まれていく一方だった。いや、今でもその状態は変わらないなと目の端に柢王の笑い顔を映して思う。
「あははははは、ははははは」
桂花の腕を掴んだまま追っ手を巻き、狭い路地裏に実を潜めると弾けるように柢王が笑い出した。
「ふふふ、相変わらずあなたって人は・・・本当に元帥なんですか。いかさまに、いかさまで返して全額徴収して逃走なんて・・・」
説教じみた口調であるものの、言葉尻は柔らかい。
そして、再度顔を見合わせ、笑い合う。
霊力も魔力も使わず体力のみで全力逃走した二人の額にはうっすら汗が滲んでいた。
蒼龍王の趣向でこの所の花街は木枯らしの吹く季節であったが、その冷たい空気は今の二人にとっては大層心地良い。
額の汗を拭った柢王の手に空から一粒、二粒と霙が舞い落ちてきた。
「変化を解こうぜ」
もとの姿に戻りながら柢王は反射的に握り締めた掌をそっと開いた。
数粒の霙は跡形もなく消え失せ、掌をしっとりと濡らしていた。
二年前の今日、そう桂花を捕獲し、人界から連行したあの時もこんな風に霙が降っていた。その時、桂花は言った。『氷が溶けたら春になる』と。
今でも、それを告げた桂花透明で美しい横顔が鮮やかに甦る。
あの時、俺はこいつの心に張った幾重もの氷を溶かしたいと思った。今もその気持ちに偽りはない。出会ってすぐ、心奪われたあの瞬間から。
「おまえは以前『氷が溶けたら春になる』と言った。桂花、おまえの氷は溶けたのか?春は・・・っ」
突然、桂花が首に腕を回して抱きついてきたので柢王は言葉を飲み込む。
そして、霙から桂花を守る為、自然と回されていた柢王の腕とマントを掴み引き寄せた。
「吾の中には、もう氷はありません。この腕の中はこんなに暖かいのですから」