春が前に君を離れ
彼にとっては不運だったろう。
天界随一と謳われる蒼竜王直轄の花町。さりげなくも厳然たる格付けがあるこの街で、辻に立つ女――男もだが――など、ろくなものではない。
素見(冷やかし)千人客百人の言葉どおり、登楼できるほどの懐具合とは縁のない彼は、そぞろ歩きを楽しむだけのつもりだった。
ふと彼は、道端に佇んでいる女に目を向けた。
闇に溶け込むような漆黒の髪に、浮き上がるような白い肌。身を包んでいるのは大きめの男物で、裾を折った下衣から細い足首が覗いている。上半身には袖なしの上着を一枚羽織っただけで、裾を胸の下で結んでいた。
その素肌に思わず息を呑みながら、男は声をかけた。
「姐さん、どこの店の姫さんだい?」
「姫ではありませんよ」
「夜鷹?」
「商売女じゃないんです」
言葉とは裏腹に微笑みを浮かべた女は、濡れたような瞳で微笑んだ。
「・・・そんな格好で寒くないか?」
「寒いですね」
誘われていると確信し、彼は女の素肌の腰に手を回した。
「じゃあったかいとこへ・・・」
「おい」
横合いからの声と共に、腕の中の女がかっさらわれた。
「悪いけどこいつは俺のなんだ。他の誰かを探してくれ」
茶色の髪の男が女の腕を掴んで立っている。
「――美人局かよ!」
「そんなんじゃねえよ。ちょっと喧嘩したんだ。わりぃな」
男は女の頭を抱え込むように抱き寄せると、片手だけを拝むようにあげてみせた。
憤然として去る背中を見やって、男は腕の中の女の髪に指を通した。
「帰るぞ、桂花」
花街を出てじきに柢王は術を解いたが、桂花は未だ変化したままで、柢王より頭半分ほど背が低い。夜風にさらされながら、柢王は桂花の手をつかんだまま歩いていた。
「…怒っていますか」
「ああ」
言葉とは裏腹の歩調で、柢王はゆっくり歩く。
「おまえは俺が怒るのをわかっていてやったんだ。だから余計に怒ってるぜ。――なぜだ?」
柢王の手の中で冷たい手が強張った。
「…吾がこのままあなたといるのは、いいことじゃない。でも――吾があなたから離れるのはできないから、あなたからそうしてもらわないといけないと思ったんです」
「あのなあ」
「吾はあなたが好きだから。…吾からは離れられない。でも離れないといけない」
低い声で呪文のように己に言い聞かせ。
「あなたに嫌われれば…離れられると思いました」
「…馬鹿」
柢王はため息をついた。
「馬鹿だな、お前」
「吾は…」
「馬鹿だ」
柢王は立ち止まった。桂花の手を取ったままその瞳を覗き込む。
「いいかげん俺を信じろって。桂花」
「…」
「お前が好きだ。本当に。――信じられるまで、いくらでも俺を試していい。でもこんな方法はダメだ」
「他の誰かと、ということですか?」
「お前自身を傷つけるようなことって意味だ。それだけは絶対にするな。次は許さない」
「こんなことでは、吾は傷つきません」
「お前はそんなに安くないだろ?」
なあ、と柢王は瞳を和らげた。
「お前は俺の一番大切な奴なんだから、安売りすんじゃない。値段がつけられるほど、俺の半身は安くない。だろ?」
「柢王…」
「愛してるぜ。そばにいてくれるんだったら、何をしてもいい」
未だ冷たい春の風は肌から熱を奪っていく。繋いだ手のひらだけがぬくもりの残る場所だった。それだけをよすがにどこまで行けるものなのか。
――果てなど知らず、どこまでも、どこまでも行きたいと、願った。