こころひとつ 10
カチャカチャと食器類のぶつかり合う音が聞こえてくる。
音から連想されるのは冷たい水のイメージだが、まだ肌寒いこの季節に使われるのはおそらく温かいお湯だろう。
キッチンでエプロンのリボンを揺らしながら夕食の後片付けをしているのは、俺の親友の小沼桔梗だ。
俺はそんな小沼の背中を見つめながらぼんやりとしていた。後期のテストを終えたのは、先週のことだった。
嫌な事が一つ終わったってゆうのに、俺、池谷忍は憂鬱だった。胸の中に何かがつっかかっているような気分だった。
原因は分かっている。ハワードの事が気になるんだ…。
ハワードと言うのはとんでもない不良であると同時に、スクールの中で孤立していた俺と最初に…友達、になってくれたんだ。
「忍〜、またここ、しわ寄ってるよ!」
そう言って仕事を済ませた小沼は俺に近づいてきて、眉間をおもいっきりしかめてそのまんなかをトントンと叩いた。
「ん〜なんでもない。俺、そんな顔してた?」
「うん。ダメだよ忍、最近元気にないもん。なんか悩んでるんなら俺に話してよ」
「…なんでもないよ。ほんとに平気だから。」
まだ不満そうな顔で小沼が鼻を鳴らす。
「むうう〜。そうゆうの、やだよ。忍は嘘ついてる。俺は忍になんだって言うのに、忍は秘密主義だし…。そりゃ、俺なんかたいして相談にのれないかもしれないけどさ……」
こう言うときの小沼の目はとても真剣だ。俺はこいつになら相談できるかもしれないと思ったんだ。
「……。じゃあさ、一つ、質問してもいい?」
「うん。」
小沼がキラキラしためをむけて頷いた。こいつはほんとに俺のこと心配してくれているんだ…。
呼吸を整えて、ゆっくりと口をひらく。
「なっ、仲の悪い2匹の、猫がいて……、一匹は人気者で大勢の仲間の猫たちがいて…………もう片方の猫は仲間はいるけど、嫌われててなんだか寂しそうなんだ……。おまえならどっちの猫をとる?」
最後のほうは声が震えていた。俺が誰と誰のことをたとえているか、おそらくこいつにも分かっただろう…。
小沼の顔は一気に曇る。怒ってるみたいな口調で小沼は言った。
「決まってるじゃん。俺なら人気者の猫を取っちゃうよ! …それって二葉とハワードのことだよね? 忍は二葉の気持ち、気づいてるんでしょ。………二葉がかわいそうだよ。」
「二葉の気持ち? 確かに二葉は俺に優しくしてくれるけど…」
なおも小さな声で言い返した俺に、小沼は激しく言い返す。
「二葉は忍が好きなんだよ!! 忍だって気づいてるくせに…」
「そんなのわかんないよ。俺は男だし…。俺、ハワードのこと怒らせちゃったみたいなんだ…。」
唐突にハワードとの膠着状態を誰かに聞いて欲しくなったんだ。
実は、こないだから俺はハワードとは一言もしゃべっていなかった。
最後にハワードと話をしたのは、午後からの授業を初めてさぼったあの日だった。
こんな話を聞いてくれるのは、学校には一人もいない。俺が泣きそうな顔をしていたからだろうか? 小沼は鋭かった目つきを少しゆるめた。
「……ごめんね。ちょっとおっきい声出しすぎた。一番辛いのは忍だもんね。でも俺、ハワードにはあんまりいい思い出ないんだ…。いつか忍が泣くような事になったらって思うと…心配なんだ」
きっぱりと言い捨てた小沼にこれ以上ハワードの話をすることを諦めた。
済まなさそうな顔をする小沼の頭を軽く撫ぜて、俺は話を打切った。
「ごめんね。心配させるようなこと言っちゃって…。二葉は大事な友達だし、これからも好い関係を続けたいと思っているよ。」
まだ小沼は心配そうな顔で見ていたが、俺がこれ以上話を続ける意思がないのを見て取ると、何も言わずに俺に体を摺り寄せてきた。
こいつは女の子みたいに細くて、こうやってくっついていても全然違和感がわかない。
二葉やハワードに抱きすくめられたときとは全然違うんだ。二人してソファーの上でぴったりと体をよせていると、なんだかろいろ悩んでいた事とかがどうでもよくなってきた。ただこの温かさにぼんやりと身をまかせたくなってしまう。
時刻はもう11時を回っているだろうか、ここちよい睡魔に襲われて,俺たちがうとうととしかけたとき、誰かが部屋に入って来る気配がした。
卓也さんだろうか? ぼんやりとした頭で考えていると、その足音が近づいて来るのがわかった。こんなところで寝てはいけないのに…。
頭ではそう感じているのに体はピクリとも動かない、うつらうつらとする意識の中で、次に気がついたのは、誰かに抱き上げられているところだった。
こんな事をされたのは小学生のとき以来で、ああ、これは夢なのかなって思った。そのまましばらく抱き上げられていてどこかへ移動しているのがわかる。ベットかな?
人のぬくもりが温かくておおきく息をを吸い込んでみる。
このにおいは拓也さんじゃない…。
そう思った矢先にベットにどさりとおろされる。
うっすらと目を開けると、目の前に大きな人影が見える。ああ、二葉だ…。二葉が抱き上げて連れてきてくれたのだ。俺は夢か幻かよくわからない二葉に向かって、うっすらとほほ笑みかけた。
ありがとう。そういいたかったのだ。
ゆっくりと意識が覚醒してきて、ここがいつも俺が小沼の家に泊まる時に使うゲストルームのベットの上である事がわかった。
二葉がわざわざ運んでくれたんだ。
そう考えると急に気はずかしさに襲われる。お礼を言おうと口を開こうとした時だった。
だが次の瞬間、俺は固まってしまった。
二葉がゆっくりと顔を下ろしてきたのだ。
自分が何をされようとしているのか、俺は唐突に理解してしまった。
二葉の吐息が感じる事ができるくらいまで、顔が迫ってきたとき、俺はおもわずおもいっきり奴の顔を押しのけていた。
「いってぇ…!」
油断していた二葉の声がきこえる。俺に突飛ばされてしりもちをついたみたいだった。
俺は勢い良くベットから起き上がると二葉を思いっつきり睨み付けた。
こいつ、今俺に何をしようとした?
さっき小沼に言われた事が思い出されて頭ががんがんしてくる。
無言で見詰め合う。
一体どのくらいの時間がたっただろうか?
俺はなんだか 興奮して、頬を涙が伝っているのが分かった。沈黙を先に破ったのは俺だった。
「二葉…。なんで? いっ、今何しよう…としたの?」
声が震える。こんなことくらいで泣いてるだなんて、知られたくないのに……。
「忍………おまえ、そんなに泣くほど嫌だったか?」
「なんでこんなことするんだよっ。おっ、男同士なのにっ…。」
何故だか分からないが、いろんな感情が渦巻いて体がカタカタと震えてくる。
そんな俺を見つめながら、二葉が搾り出すような声で言った。
「忍…。俺、俺。忍の事が、好き…なんだ。今のは…、今のは単なる出来心だったんだ…。おまえが嫌ならもう2度としない。………泣くなよ。俺だって、泣きてーよ。」
突然の告白に頭が真っ白になった。
ただでさえハワードのことでノイローゼ気味になるほど不安になっていたところだったから余計に考えがまとまらないのかもしれない。
震えが止まらない。そんなこといきなり言われたってどうしていいのかわからないよ!
パニックでぐちゃぐちゃになった頭ですべての責任を二葉になすりつけてみる。
俺がこの数日間ずっと悩んでいたのだって、ハワードの事だって、全部二葉のせいなように思えてくる。
二葉と出会わなかったら、こんな気持ちはあじわわずに済んだ。こんなふうにぐちゃぐちゃに悩む事もなかったのに。
「そんなこと言われてもわかんないよ!! 俺っ…。二葉は男じゃないか!?」
「そんなこと関係ねーよ!! お前は常識とか建前ばっかにとらわれすぎてんだ!! 卓也さんとキョウの奴だって上手くいってんじゃねーか」
「おっ、俺は小沼とは違うよ…。」
小沼と俺は全然違うのに…。強引な二葉の物言いにますますもどかしい怒りがこみあげてくる。
「もうやだ。もう…、お願いだから俺にかまわないでよ…。二葉といると、時々自分がどうしようもなく小さい奴に思えてくるんだ。俺なんかにかまってくれなったって…。」
俺が言い終わらないうちに、二葉は大きな音をたてて部屋を出ていった。
俺は興奮したままただ泣いていた。
悲しいのとは違った、自分でもコントロールできないもどかしい気持ちが胸の中で荒れ狂っていた。
俺はそのまま泣き疲れて眠ってしまったようだった…。