投稿(妄想)小説の部屋

ここは、みなさんからの投稿小説を紹介するページです。
投稿はこちらのページから。 感想は、投稿小説専用の掲示板へお願いします。

No.511 (2003/11/16 23:47) 投稿者:桐加由貴

期待

 山凍は分厚い扉の前に立ち、手を持ち上げてから一つ大きな深呼吸をした。
 飴色に磨かれた重厚な扉は、主の立場にふさわしい威容を備えて彼の前に立ちはだかっている。全面の浮き彫りは眼を疑うほどに細かく、才能と熟練を兼ね備えた職人の手によるものだと一目で知れた。
 その葡萄の蔓のところに、山凍は拳を持ち上げ、軽く二回叩いた。
「守天様。山凍にございます。非礼は承知ですが、入れていただきたい」
「お入り」
 守護主天ネフロニカの、物憂げな声が響いた。とろけるような艶を持つその声は、任期終了が間近なはずの彼だというのに、いかなる時も変わらない。
「失礼いたします」
 必要以上に堅苦しい礼とともに、山凍はネフロニカの寝室に足を踏み入れた。
「このような夜分にまかりこしました非礼は、幾重にもお詫びいたします。ですが、是非とも伺いたきことがあり、参りました」
「おまえならいつでも来ていいのだよ、山凍、私の雛」
 ネフロニカは夜着のまま、寝台に腰掛けていた。足を組んでいるものだから、服のあわせから練り絹のような肌を持つ脚が膝の上まで見えている。
 色事に奔放な守護主天は、私室であろうと執務室であろうと、情人を引っ張り込むのを躊躇わない。だが今彼は一人であり、部屋の中は一つだけの頼りない灯りに翳っていた。
 線の細い妖艶な面差しが、濃い陰影に沈んでいる。ネフロニカの手には半分以上を葡萄酒で満たされたグラスがあり、寝台の敷布には胡桃色の長い髪が散らばっていた。
 否応なく人を引きずり込む、磁力のような力がそこにあった。立場上備わっているはずの威厳も威容も薄く、代わりに物憂げな眼差しと物言いたげな唇が、肌も露わな姿とそれを気にする風もない鷹揚さが、彼を艶かしく恐ろしい、夜の王として見せていた。
「何の用だい? 山凍。こんな時間に私の部屋に来るなど・・・おまえの忠実な従者に、必死になって止められただろうに」
 くすくすと笑って、ネフロニカは手の中のグラスに口をつけた。
 山凍は立ったままだった。この部屋には椅子もあるが、主の許しなく座ることはできない。そしてネフロニカは、お座り、とは言わなかった。
「ネフィー様。近衛の兵を、クビになさったと伺いました」
「そういえばそんなこともあったね。それがどうかしたのか?」
「その処分の取り消しのお願いに参りました」
 ネフロニカはグラスを灯りにかざした。中の液体の血のような色に、うっとりと視線を投げて唇の両端を小さく持ち上げる。
「なぜおまえが、一介の兵士の処遇を気にする?」
「――その兵が処罰されたのは、先日私がネフィー様の執務室に押し入ったせいだと聞いたからです」
 ネフロニカの表情は変わらなかった。この方は予測しておいでだったのだ、と山凍は思った。
「それが何か? 山凍」
「その兵が必死になって止めるのを、私が無理に押し入ったのです。処分なさるなら私に。彼は咎めないでいただきたい」
「おもしろいことを言うね。それでは王にはなれまいよ」
 ネフロニカはグラスを傍らの小さなテーブルに置き、顎を逸らせて笑った。
「本気で言っているのかな? 私の雛は」
「さようにございます」
「それはできない。子供のような我侭はおやめ。おまえは賢い子だろう?」
「ネフィー様!」
 山凍はその場に跪いた。
「守天様のご不興を買ったのなら、いかようにも償いは致します。ですからどうか、関係ない者を巻き込むのはお止めください!」
「関係ない?」
 ネフロニカは歌うように呟いた。乾杯するようにグラスを掲げ、うっとりと。
「侵入者を許す私の近衛が? 関係ないのはおまえだよ、山凍。黙っておいで」
「ネフィー様!」
「声を荒げるのはお止め。おまえが本当にわからないなら、私が教えてあげよう」
 ネフロニカは一息でグラスの中身を干した。 
「私は、誰も入れるなと命じたのだ。守護守天たる私が、執務室には誰も入れるなと。私の命令を全うできない近衛兵など必要ないよ。そんな者になんの処罰もしないのでは、私に忠実な他の者に合わせる顔がないではないか」
 空のグラスを見つめ、ネフロニカは笑う。その声に空虚なものを感じながら、なおも山凍は言い募った。
「私が無理に押し通ったのです。彼は己の職務に忠実でありました。守天様にとって、得がたい兵でありましょう。どうか・・・」
「おまえの通過を許している時点で、すでに『職務に忠実』ではあるまい?」
「ですから、私が・・・」
「山凍」
 ネフロニカは再びグラスを置いた。
「通ったのがおまえでなかったら?」
「は・・・?」
「いや、おまえであっても。己の地位と力を利用し守護主天の執務室に押し入る者が、私に害意のある者でないと、どうして言えるのだ。知ってのとおり、私は戦う力を持たぬ身。近衛とは、その私を守る者であろう。その務めを果たせない者は必要ないのだよ」
 山凍はなお跪いたまま、じっと絨毯の生地を見つめた。長年この床を飾ってきた絨毯一つですら、毎日使い女がブラシをかけて嵩が減らないようにしているのだと知っている。
 守護主天とはそういう存在ではなかったか。
「ネフィー様はこの天界で並ぶ者のない、貴き御身です。害する者など、天界人にいるわけがございません」
「おまえはそういうところが可愛いのだよ、私の雛」
ネフロニカは喉の奥で笑って、空のグラスを差し出した。
「注いでおくれ。――まあ、今回は近衛の失態を多めに見ても良い。おまえがこのグラスのように、私を満たしてくれるのならね」
 歩み寄った山凍は、葡萄酒のびんを傾ける手を止めた。
「もう少し注いでおくれ」
 機械的にびんを傾けながら、山凍は声を絞り出す。その視界を埋めるのは、ネフロニカの白すぎる脚だった。
「――お許しください、ネフィー様。御身は貴い方にございます。そのようなお戯れは・・・」
「おまえが私を満たす者になるのなら、近衛の処分を取り消してもいいのだが?」
 軽やかな声は明らかに面白がっていた。
 山凍は手が震えないよう、必死で抑えていた。この美しく奔放で淫蕩な守天に、彼は確かに心を寄せていた。だがそれはネフロニカの望む形ではなかった。
 ネフロニカの望みに応えることは、自分と彼の両方を貶めることだった。山凍はそれだけはできなかったのだ。
「お許しください・・・」
 濃い血の色で満たされたグラスを、ネフロニカは自分の唇に寄せた。そして声をあげて笑った。
「本当におまえは、私の予想を裏切らないね、私の雛。今夜はもうお戻り。おまえの従者が、待ちかねてこの部屋に乱入してくる前にね。おまえとて、従者まで処罰されるのは見たくなかろう?」
「――守天様」
「明日になれば、私の気が変わって近衛の処分を取り消すかもしれないね。おとなしく、自分の部屋で明日をお待ち」
 ネフロニカは白い手を振った。それは退出の命令だった。山凍は無言で深く頭を下げ、きびすを返して出て行った。
 ネフロニカは暗い部屋で、グラスを勢いよく仰いだ。飲みきれなかった葡萄酒が唇の端からこぼれる。それは顎を伝って夜着にしみを作った。
「私の、可愛い雛」
 ネフロニカはグラスを放り投げた。長い毛足に受け止められ、グラスは割れることを免れたが、まだ半分ほど残っていた葡萄酒が、最高級品の絨毯に染み込んだ。
「本当におまえはいい子だよ。決して私の予想を裏切らない」
 後ろに手をついて天井を見上げる。自分の髪が手の下敷きになった。
「決して――私に期待させない。私の雛・・・」
 うめくような笑い声が、光の届かない高い天井に吸い込まれて消えた。


この投稿者の作品をもっと読む | 投稿小説目次TOPに戻る