写真
イエロー・パープルの開店前に、花が届けられた。淡い色のバラをふんだんに使った、大きいが品の良いきれいな花束だ。受取人は一樹の名前になっており、小さなカードが添えられている。
『今夜会いに行く』
一言添えられたメッセージに、一樹は微笑んだ。こんなコンタクトの取り方をするのは彼しかいない。突然よこされた花束にも、十分に心当たりがあった。
プロが撮影した一樹の写真が、ようやく仕上がったのだ。知り合いのカメラマンがどうしても撮りたいというのを、写真集に収録したり雑誌に掲載する等、不特定多数の目に触れないのならという条件付きでOKした写真だった。できあがったものは、ほんの少数、身内にだけ額装して配られることになっており、焼き増しされる枚数まで一樹はすべて自分でチェックしていた。
香港の彼は、いつも仕事に忙殺されているような男だ。手渡すまでに時間がかかるのは仕方ないとしても、出来上がったことだけは知らせておこうと3日ほど前に連絡したのだ。
その結果が、この花束とメッセージというわけだ。
「卓也」
「なんだ」
「今夜店を閉めてから、ちょっと出掛けることになると思う」
店を開ける前に急な予定が決まることはそう多くないので、卓也は訝しげな顔になった。「面倒事か?」
「いや。これの送り主が会いに来る予定なんだ。だから店の方、頼むよ」
「わかった。明日の開店には間に合うのか」
「たぶんね」
花束を花瓶に移しながら悪戯っぽく答えた一樹に、卓也はやれやれと言いたげに肩をすくめた。
「無理なら早めに連絡しろよ」
余計な詮索をしない彼のことが、一樹はとても好きだ。
「善処する……うそ、約束するよ」
「そうしてくれ」
そこで会話は終わり、後は黙々と開店準備だ。いつも通りに店を開け、営業スマイルとトークで客の相手をし、しかし夜のお誘いはすべてやんわりと断って、恙なく閉店する。
『CLOSE』の札が下げられるのをどこかで見ていたかのようなタイミングで、彼は静かに現れた。扉の向こうに立ったまま、中に入ろうとはしない。卓也の姿を認めて、軽く会釈をよこした。卓也も同じように無言の挨拶を済ませる。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
一言断って、あらかじめ用意しておいた包みだけを手に、一樹は立ち上がった。気を付けてな、との卓也の声にうなずくことで了解を示し、深夜を過ぎてから訪れた彼と肩を並べる。
「早かったな」
「店が終わる時間は知っているから、それに合わせて来た」
いつものことである。一樹が仕事をしている最中は、滅多に顔を見せないのだ。人が少なくなってから迎えに来るというのが、彼なりの気遣いなのだろう。
「今回はどれくらい滞在するんだ?」
「永泉が必死でスケジュールを調整したが、一日が限界だった。明日の夜には発つ」
「毎回大変だな、おまえの秘書は」
自身もずいぶん世話になっている彼の優秀な秘書を思い浮かべて、一樹は苦笑した。ただでさえ多忙な慧嫻の予定を二日空けるとなると、大変な手間がかかるはずだった。きっとこの男は顔色一つ変えずに100%私的な理由で予定の調整を命じたのだろう。そして、永泉は内心苦笑しながらも数少ないボスのわがままに応えたのだ。心の中で、一樹は永泉に感謝した。本当なら直接会って礼を言いたいところだが、今回はどうしてもはずせない仕事があるとかで、香港に残ったらしい。
慧嫻が運転する車は、いつものホテルへと向かっていた。ここのスイートは広くて使い心地が良いと一樹が漏らして以来、必ずここを予約してくれるようになったのだ。可愛いくらい、律儀でまじめな男である。
あらかじめチェックインをすませてあった部屋にはいると、コンシェルジェが淹れてくれた紅茶を飲みながらしばらく雑談をした。一樹が片手で抱えられる大きさの包みを慧嫻に差し出したのは、一番味の良い二杯目を飲んでいる最中のことだ。
「こんなに早く渡せるとは思ってなかったよ」
「思ったより大きいな」
慧嫻が、軽く目を見張る。
「引き延ばされたんだ。小さいままで良いっていったのに……。さすがにこれだけ大きいと少し照れるな」
同じ写真でも、大きさが変わると雰囲気も微妙に違ってくる。仕上がった現物には、少なからず驚かされた。写真自体は昔からは撮られ慣れていても、桔梗や二葉と違いモデルではない一樹は、ここまで大きく引き延ばされた自分の写真を見るのは初めての体験だったのだ。
「シャワー、浴びてくる」
カップに残った紅茶を一気に喉に流し込んで、一樹は席を外した。目の前で包みを開けられるのが、何となく気恥ずかしかった。
熱めの湯でゆっくり暖まった一樹は、素肌にバスローブだけを羽織ってリビングに戻った。当然だがすでに包みはとかれており、写真は慧嫻の向かいの壁に立て掛けられてあった。じっと写真に見入っている慧嫻の背後からそっと近づき、肩に手を置く。
「どう?」
「良い腕だ。よく仕上がっている。何度も撮り直したんだろう?」
「半端は嫌だからね。納得のいくまで撮ってもらった」
「全体的に柔らかい感じを損なわずに、芯の強いところはきっちり表現されている。それに……」
「それに?」
「色気というか、その、独特の雰囲気がちゃんと伝わってくる。とても良い」
「今日はやけに饒舌だな」
「……生きたままの君を写真に閉じこめたみたいだ。耳を近づけたら、呼吸の音が聞こえてきそうだ」
「褒めすぎだ」
「そんなことはない、これは……」
「黙って」
慧嫻の言葉を途中で遮って、一樹はゆっくり写真を隠す位置に移動した。
「やっぱり、おまえにこれあげるのはやめようかな」
「なぜ」
答えず、一樹はくすくす笑った。
「じらさないでくれ」
「本物の俺が目の前にいるのに、おまえはさっきから写真の方ばっかり見て喋ってる」
「それは」
仕上がりに感心していただけだと続けたいのは分かっていたが、一樹は言わせなかった。「せっかく久しぶりに会ったのに、何で俺が、写真の自分におまえを譲ってやらなきゃいけないのかな?」
慧嫻の困った顔を見て、ますますいじめたくなる。
「それ持って、今から帰る? 俺はせっかくだから一泊していくけど」
「一樹、一樹……」
慧嫻の手が、一樹の腰に回される。払わずにその場にしゃがんで、一樹は男の目をのぞき込んだ。
「いつでもそばにいるその写真と、たまにしか会えない生身の俺と、おまえはどっちがほしいんだろうね?」
からかう口調で言ってやると、一樹を抱き寄せる腕に力がこもった。
「どちらも俺のものだ。誰にも渡さない」
一樹の変化球は、真剣そのものの返答にあっさりとかわされる。
「でも今は、生きて動いている君が欲しい」
ストレートに投げられた剛速球を前に、一樹は降参した。
彼が向けてくれる情熱は、いつもまっすぐで偽りがない。その想いが心地よかった。独占されるその感覚が、時折不安になる一樹をいつも救ってくれた。
自分を包み込むこの男が愛しいと、温もりを感じるたびに思う。
朝が来たらもう一度ちゃんと手渡してやろうと決めて、一樹は男の背に手を回した。そっと力を込める。
時折見せる嫉妬も、一樹には適度なスパイスだ。
夜は更けはじめども、彼らの時間はこれからだった。