永遠(とわ)の雪
天主塔の桜は九分咲きだった。
まだ葉も実も形はなく、執務室から見下ろすと、一色だけの微かな濃淡は、淡く色づいた雲が降りてきたかのようで、合間に見え隠れする枝の茶色が雲の境目にも思える。
四方に枝を広げた樹の幹は案外と細く、少し力をこめたら、簡単に折れてしまうかもしれない。まだ幼い木の枝が額に触れそうになるのを、桂花は紫微色の手でそっとよけた。
風の強い日である。
まだ満開にはなっていない桜が、早くも花びらを風に舞わせている。桂花の白い髪、白い服にかすめるように、はらはらと踊り、泳ぎ、落ちていく。
ところどころ顔を出している根を踏まないように、桂花はゆっくりと奥に進んだ。
「――よう、桂花」
「お帰りなさい、柢王」
振り返った桂花は、静かに微笑んで柢王を迎えた。
「よく吾がここにいると判りましたね?」
「ティアに聞いた。アシュレイも来てるぜ。だから外に出たんだってな」
桂花は黙って肩をすくめた。
「あなたは、桜は嫌いだそうですね」
「別に嫌いってワケじゃねーよ。あんまり好きじゃないだけだ。俺には、色がぼんやりしすぎてな」
「サルもそうだと、守天殿に伺いました。だから、桜の庭にいればいいと」
そうすればアシュレイには見つからないよと、笑ってティアは言った。彼が自分を追ってくることはないだろうと桂花は思ったが、久しぶりの逢瀬にはしゃいでいる守護主天の邪魔をしないために、席を外すことにしたのだ。
人界にいたころ、あの島国で、春が来るたびに桜を見上げていた。あの国の誰もが愛する春の花を。柢王に付き合わせる気はないけれど。
「部屋に戻りますか?」
「いや、もう少しいようぜ」
「いいんですか?」
柢王は手を伸ばした。桂花の肩に積もった花びらを払い、髪に絡んでいるものを一枚一枚取ってやる。
「おまえには薄い色のほうが似合うからさ」
そう言って、摘み上げた花びらをしげしげと見つめる。
「こうやって見ると白いんだけどな。遠くから見ると、色がついてるんだよな」
不思議そうに首をかしげている柢王に、桂花は小さく笑った。
「吾は、もう少し色が濃いほうがいいと思いましたよ。――赤は、李々の色だから」
「白はおまえの色だな」
桂花の髪を手櫛で梳きながら柢王はその背を引き寄せる。払っても払っても尽きることのない花びらを、積もるたびに払い落とす。
「まるで雪みたいだな・・・」
「雪を知っているんですか?」
「そりゃあな。俺は人界には結構行ってるからさ」
「そうでした」
桂花は複雑な気持ちで苦笑した。柢王がそんな桂花の頬に手を当てて上向かせる。
「おまえ、覚えてるか? 初めて会ったとき、なんて言ったか」
一筋だけの赤い尾髪と紫水晶の瞳が、淡い花の中でひどく印象的だった。
「天界に向かったときだ。雲の中を通ったよな」
「・・・ああ」
「雪が溶けたら、さ」
桂花は肯いて口を開く。
「春になる」
柢王が桂花の背に回した腕に力をこめた。抱きしめて桂花の肩に顔を埋める。桂花も柢王の背中に腕を回し、額を柢王の肩に押し付けた。
「昔は、桜が咲いても散っても、あまり気にしてなかったんです。桜は桜で、前の年も次の年も同じだと思っていた。でも・・・」
「ん?」
桂花は、柢王の服を握りしめた手に力を込めた。
「以前は、時間が経つのなんて怖くなかったんですよ。吾はいつも一人で、いつまでも一人だと思っていた。でも、今は・・・怖い」
「なんでだ?」
柢王の声はどこまでも深い。桂花は子供がいやいやをするように首を振った。
「あなたといつまで一緒にいられるか判らない」
「ずっとだろ? 桂花」
「時が経てば、何だって変わってしまうのに」
「変わんねーよ」
柢王は片手を桂花の頭に添えて自分に押し付けた。
「春なんて来なくていいんです。変わらないでいられるんなら、ずっと雪が溶けなくてもいい」
「変わらないから。桂花」
柢王は桂花をきつく抱きしめる。息苦しいほどの力だった。
「俺たちはずっと一緒だろ。何年たっても、何十年たってもさ」
「ずっと・・・?」
「ああ。雪が降っても、溶けても」
桂花は柢王にしがみついたまま、顔を上げて笑った。
「柢王」
「ん?」
「花が散ってしまいます。風、止められませんか?」
「俺が起こした風じゃねーからな」
柢王はいたずらっぽく笑って、桂花の顔を覗き込んだ。
「花がなくなったら、しょーがねーから、来年も一緒に見ようぜ」