月下小夜曲
肌に当たる冷たい感触に桂花は身を震わせた。
「ん? ――ああ、悪い」
柢王が首に掛けていた革紐ごと、小さな剣を背中に払う。そして桂花の頭を抱え込むように腕を回した。
「冷たかったか?」
「少し・・・」
呟いた桂花の紫水晶の瞳は、情事の余韻を残して潤んでいる。どこか虚ろなその瞳に映るものがなんなのか、柢王には判らない。それを知るには暗すぎる夜だった。
「俺を見ろよ、桂花」
「見てますよ」
「もっとちゃんと」
頑是無い子供のような我侭に、桂花の白い唇がうっすらと微笑の形をつくる。
「見ていますよ、柢王・・・」
柢王は左手で桂花の頬に触れた。あまり笑うことのない桂花のほのかな笑顔、だが虚ろな眼差しは小さな刺のような不安を呼び起こす。腕の中に捕まえているはずの魔族。だがその視線はときに柢王を素通りしているようで。
「な、桂花」
「なんですか?」
「ずっと俺の側にいてくれな。俺がおまえを守るから」
「・・・どうしたんです? 柢王」
「天界にいるのが嫌になったら、二人で人界に行こうな。どんなことになっても俺がずっと側にいるから、だからおまえも俺の側にいてくれ。離れるな」
「――ええ」
桂花は右手を持ち上げた。抱かれたあとはいつも体が重く、その程度の動作すらおっくうだ。己に覆い被さっている柢王の胸に手の甲を押し当て、少し滑らせる。指先に届いた革紐を人差し指で辿った。
この男の言葉に嘘があると思っているわけじゃない。桂花が天界に耐えられなくなったら、それを柢王に訴えたら、きっと本当に人界に行こうとするだろう。そして二人であちこち流れながら、それなりに楽しくやれる。
だがそれが柢王が望んでいるものではないことも、また桂花の知る事実だった。
自分が何をしても世間には関係なく、世間で何があっても自分には関係ない。そんな生き方は、柢王にはきっとできない。
桂花は柢王に無理をさせたいわけではないのだ。だから、天界に耐えられなくなったら、柢王と離れることになる。
それでは遅すぎるかもしれない、と桂花は漠然と思う。守られているばかりの自分が、柢王のお荷物になっているのは判っている。彼の何もかも――名誉までもを守りたいと思うなら、早く離れたほうがいい。
頭ではわかっているのに。
革紐を指で辿ると、小剣が滑り落ちてきた。柢王の体温に触れていたそれはあたたかかった。
この男と離れたくないとしか思えない自分を、桂花は苦く噛みしめた。
――柢王は無言の桂花の額にそっと唇を落とした。
桂花を天界に引きずってきて、それ以来側から離さないのは自分だ。 天界での生活は、桂花にとって決して楽なものでないのは判っているのに。
自分の生き方に桂花をつき合わせている。どこにでも行ける桂花を繋ぎとめるのは、柢王の愛情だけで。その鎖は、桂花からの愛情があって初めて鎖となるような、柢王だけではどうしようもないものだけど。
ずっと側にいる。ずっと愛しているから。
だから、どこにも行かないでくれと。
柢王は桂花の体温を全身で感じながら、白い髪に唇を押し付けていた。