愛のバランス 2
「頭がふらふらする…」
グラスの中の水を飲み干した貴奨は、次にそう甘えてきた。
「じゃぁ横になってて…すぐ氷枕もってくるよ。
ついでに熱も測って朝までに落ち着かなかったら病院に連れていくからな」
ぞんぶんに甘えてやろうという気配に、このやろうと思いつつ開き直った俺は、とっくに眠気も吹っ飛んでしまっていて仕方なく健気なナイチンゲールに徹しようと決心した。
慎吾はぱんぱんに張った氷枕と3分間の体温計、レンジで加熱殺菌したタオルを持って貴奨の部屋に戻ると薄暗く照明を絞った室内は熱が下がらなくて少しだけ荒くなった貴奨の呼吸の音だけが聞える。
さっき一緒に飲ませた薬が効いているようで、熱そうに火照った頬の色もずいぶんとひいたように見えて少しだけ安心する。
瞳を閉じていても作る睫毛の影はとても長くて、奇麗な鼻梁から薄く開く唇をたどるように見つめた。
そして見つめた先の唇がふいに小さく動く。
「…光…輝…」
かすかに聞こえたのは、高槻の名前だった。
病気をしたときは人恋しくなると言うけれど、貴奨も片思いしながら大切に思っている相手の夢でも見ているんだろうか…。
そんな想いに慎吾も健のことを思い出して急に寂しくなったが悲しい気持ちに捕らわれないように小さく息を尽くと、汗をかいたパジャマをゆっくりと脱がせてから少し熱めのタオルで身体を拭き、脇に体温計を差し込む。
キッチンに戻って氷枕から中身を取り出して、4等分に分けもう一度部屋に戻った。
計り終わった頃合に体温計を取り出し、首と脇の下の両方に4箇所氷袋を当てる。
37.9度 熱も峠を越えたようだった。
「う…ん…」
少し冷たい刺激が気になるのか、かすかに眉に皺を寄せたが起きる気配はなかった。
「まったく、ずっと見ていても飽きない顔だよなー」
高槻もそうだが目の前の男は、女が放っておかない美しさだ。
ここまでくると恐ろしいほどだけれど、いつもと違って疲労を滲ませるその影と氷袋のはさまれた愛嬌のある姿は、慎吾に少しだけ近くにいても素直に嬉しいと思わせるものだった。
普段もこれぐらい気が抜けてりゃ俺だって話しやすいんだけどな…と心の中で呟く。
脇の下に挟むようにしてあった氷袋が嫌なのか、どかすそぶりをして寝返りを始めた貴奨に慎吾が近づいて、脇の両方を外した。
すると、上掛けの中からするりと出てきた腕に手を取られ、慎吾は飛び上がらんばかりに驚く。
「行くな…」
呟くけれど貴奨の瞳は閉じたままだ。
高槻さんを追っかけている夢でも見ているのかな…と思いつつ、俺は自分の置かれた状況に愕然と固まる。
ベッドの側で手を握られたまま突っ立った状態で、それを
外すことも出来ず身じろぎさえ出来ない。
どうすることもできず、慎吾は「健気な」から「哀れな」ナイチンゲールとなり、貴奨の寝息を聞きながら途方に暮れたのだった。
そして……翌朝。
「若いくせに一晩看病したぐらいで寝込むなんて、体力のない証拠だぞ」
すっかり元気になった貴奨は出かける準備をしながら慎吾にこう言った。
だ、誰のせいだっ!! 誰のっっ!! 大声で叫ぼうとして引っ掛かった喉の痛みに俺は激しく咳き込んだ。
…横にいて看ていただけの俺になぜ風邪が移ったのか? なんて訊かないでほしい…。
あれから俺は必死で爆弾処理班より慎重に腕を抜こうと動いたが、貴奨に寝込んでいるとは思えない強さでベッドに引き摺り込まれ、添い寝をさせられるとは思ってもみなかったんだから!!
今元気だったら、あの時本当に意識がなかったのか問い質したい気分だ。
その後、ぬいぐるみのように抱き込まれた俺が当然眠れるなんてはずもなく、発熱の治まった貴奨の身体にぴったりと寄り添わされたせいで風邪が移ったことは言わずもがなで、あえてどちらも口にはださないが俺がのぼせそうにくらくらする頭でいるのを、涼しい顔をして見やる相手が感謝の様子ももちろん同情も窺えない状況では、「すまん」という言葉など聴けるはずもない。
どちらが割りを喰ったかどうか、秤にかけなくても目に見えて明らかで…。
慎吾は昨晩のようなことがあったら、今後高槻に総てを任せようと強く強く決心した。
「ほら、病院に行くぞ、慎吾」
「い、いいって! ゲホッ…俺病院キライッ!! ゲホゲホッ」
ジタバタしはじめた慎吾だったが、あえなく貴奨に抱きかかえられ病院に向かうはめになる。
そうだよ! こういう奴なんだよっ!!
礼を言われてもいいぐらいなのに嫌味しか吐かない…!!
貴奨のばか野郎〜!
自分にハンディを負わせない「甘えてやった」という不遜な態度の兄の姿。
そしてその姿をありったけで罵る慎吾の怒りは残念ながら悲しくも貴奨の腕にふさがれ、周りに届くことはなかった。