サィレン
「長い金の髪に、白い肌、不思議な色の瞳・・・ですか? はは、あなたのお探しの人はまるで、サィレンのようですね」
たまたま酒場で席を共にした色目人が、手にした酒盃に満たされた酒の水面をうれしそうに覗き込みながら言った。
「・・・サィレン?」
「・・・伝説ですよ。海や水辺に棲む、水精です。上半身は、髪が長くぬめるような白い肌を持つ美しい女。そして下半身は魚という異形の姿を持っています。そして、水辺に近づいた者や、船の上の者を、美しい容姿や声で引き寄せ、捕らえて水底へと引きずり込む・・・美しく、恐ろしい伝説上の生き物です。」
俺が探しているのは人間で、ついでに言うなら、れっきとした男性なのだが。という言葉をとりあえず置いておいて、カイシャンは酔って舌が滑らかになった色目人の話に耳をかたむけた。
水精と色目人の悲しい物語や、魔力を持った美しい歌声で船を引き寄せ、難破させるという恐ろしいサィレンの話は、幼い頃に探し人から教えてもらった忘れかけていた色々な物事を思い出させた。
「あなたは、そのようなものに会ったことがあるのか?」
「まさか! あくまで、伝説ですよ」
色目人は、のどの奥でくすぐったそうに笑って首を振った。
「こちらの国に来るときに長い船旅を経験いたしましたが、残念ながら、お目にかかれませんでしたね」
けれど、と、酒の礼を言って席を立ちかけた色目人は、ふと足を止めて言った。
「もし、そのようなものに出会ったとしても、近づいてはいけません。触れてはいけません。たとえどんなに美しくとも、異形のものと人とはしょせん相容れぬものです。心を奪われれば、深みにはまる・・・。・・・どうぞ、お気をつけなさい」
「・・・水精、か・・・。そういえば、あいつ、いつも水のそばにゲルを構えていたな・・・」
水がなければ人は生きていけないのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
薬草の香りにまぎれてはいたが 、桂花はいつも水の匂いがした。
いつも水にふれているような、ひんやりとした指先や、触れると水のようになめらかな感触を残してすり抜けてゆく髪。
「けど、そう考えるほうが、あいつには当てはまるのかもな・・・」
・・・愛しい男の屍を抱いて、光もささぬ深い水底でたゆたう、美しい異形の姿・・・
『・・・どうぞ、お気をつけなさい』、と言う色目人の言葉がふと耳によみがえった。
・・・・・・心を奪われれば、深みにはまる・・・
「・・・とうの昔に、はまっているさ」
酒盃のふちに額を当てて、カイシャンはつぶやいた。
「・・・桂花・・・」
『・・・柢王』、と幼いカイシャンを胸に抱いて、眠りながらつぶやいた、その、名。
その名をつぶやいたときの、ひどく悲しいようで、どこか甘くかすれた桂花の声。
・・・思えば、あれが、はじまりだったのか。
・・・近づいてはいけない。
・・・触れてはならない。
光さざめく長い美しい髪。
白くぬめるような肌。
こちらを見つめる美しい紫色の瞳・・・
手を差し伸べられれば、きっとその手をつかんでしまうのだろう。
「・・・とりあえずは、俺に別れも告げずにこの広い大陸の人海の水底へと背を向けて逃げるように泳ぎ去ってしまった水精殿を探し出す事が先決だな。」
けれど、彼を見つけて捕えたとき、果たして自分はどうするのだろうか。
『心を奪われれば、深みにはまる ・・・どうぞ、お気をつけなさい』
色目人の残した言葉が脳裏をよぎってゆく。
ため息ひとつついてそれを振り払い、カイシャンは酒場を立った。