藤花宴
天主塔の庭園は、今の季節、藤の花が盛りである。
丈高く組んだ竹の棚に蔓を這わせ、房状の花が合間から垂れ下がる。遠目には密集しているようだが、実際にその下に立ってみると、背の高い男性でも合間を縫って歩けるように、細やかな心配りのもと配置されている。昼間の明るい中で見るのも美しいが、夜、ほのかな灯りに照らされる濃い陰影の花は、それは見事なものだった。
たまには四人で酒でも、と言い出したのは柢王である。当然桂花は参加、場所が天主塔であるのでティアも顔を出す。魔族嫌いのもう一人の幼馴染は、うまい酒が手に入った、のひと言で参加を決めた。
藤棚の下に床几を運んで緋毛氈をしけば、特等席の出来上がりだ。柢王が持ち込んだ酒と桂花お手製のつまみ、それにティアも、天主塔秘蔵の酒と料理長特製の酒肴を運ばせていた。
「・・・手ぶらですか。気の利かない」
「うるせえっ! いきなり言われたんだ、んなヒマあっか!」
「いきなり? 南領では、三日前をいきなりと言うんですか? すくなくとも、差し入れも用意できないほど唐突ではなかったと思いますが?」
あっさり言い負かされて、アシュレイは頬を紅潮させて拳を震わせる。
「まあまあ桂花、まず飲めよ。ほれ、アシュレイも」
「こっちのつまみも美味しいよ。アシュレイの好きなものを、料理長に作ってもらったんだ。食べてみてくれ」
柢王が桂花の口元に自分の杯を当てる。ティアはアシュレイの取り皿に酒肴をのせてやっていた。
鍵形(L字形)に床几を置いて、内側に柢王とティア、ティアの隣がアシュレイで、柢王の隣に桂花が座っている。犬猿の仲の二人の距離を取り、なだめ役が間に入っている形だった。
彼らの傍には灯篭が幾つか灯っている。地面にじかに置くものや、藤棚から吊るしたすり硝子の灯篭。さらに藤棚のところどころに、和紙で囲んだ雪洞(ぼんぼり)などが灯って、垂れ下がる藤の房を柔らかく照らし、優艶な眺めを作り出していた。
「ん・・・ちょっと、柢王!」
押し当てられた杯を傾けられて、桂花の唇から酒が零れる。それを柢王が指で拭った。
「な? 旨いだろ?」
「あなた好みの強い酒ですね」
「・・・そんなに強いのか? 柢王」
「ちょっとな。でも、質はいいんだぜ? 飲んでみろよ」
ティアが恐る恐る、杯の酒を嘗めた。アシュレイは手酌で勝手に注ぎ足して飲んでいる。一人で既に、徳利二本を開けていた。
「おいアシュレイ、独り占めすんな。俺にも回せ」
「ああ」
とアシュレイが徳利を差し出し、柢王が杯に受ける。
「――意地汚い。それでも王子で・・・」
言いかけた桂花の口を柢王が塞いだ。
「まあいいじゃねえか。桂花、もっと飲むだろ?」
「・・・そうたくさんは飲めませんよ。吾はあなたと違って、ザルじゃないんです。どこかの王子様は、ザル通り越して枠のようですが」
桂花は杯に軽く口をつけると、それを置いて取り皿と箸に手を伸ばした。
「守天殿、何か取りましょうか?」
「ああ、ありがとう。そうだな、桂花が作ったもの、全部二個ずつ頼むよ」
「はい」
四季の違いがはっきりしない天界でも、この時季の夜は少々肌寒い。体を温めようと、自然、杯をあおる手も早くなる。強い酒に合わせてひと口大でコクがあるものを多く、と心がけた桂花手製のつまみが一そろいのった皿を、ティアはアシュレイにはい、と手渡そうとした。
「一緒に食べよう、アシュレイ。どれも美味しそうだよ」
「冗談じゃねえっ! 魔族の作ったモンなんざ食えるかっ!」
「アシュレイ!」
「吾は別に構いませんよ。毒なんて入れてませんが、天界人のしかも王族の武将ともあろう者が魔族ごときを怖がろうと、安全かどうか判らないものを自分は食べずに守護主天にだけ食べさせようと、吾の与り知らぬことですから」
立て板に水の勢いでまくしたてた桂花を、アシュレイは射殺せそうな目で睨んだ。桂花はどこ吹く風と、そっぽを向いて藤の花を見つめている。
「・・・アシュレイ。本当においしいよ、これ」
「だろ? ティア。こいつ、普通の料理は旨いんだ。それでなんで薬はあんなにひでーのか、不思議なんだけどな、俺は」
「良薬口に苦しと言うでしょう? 柢王」
「いや、あれはちょっと、その域を越えてるぞ・・・」
冷や汗を浮かべて呟いた柢王を軽く睨んでから、桂花は杯を干した。
「お、いい飲みっぷりじゃねーか。ささ、もう一杯」
上機嫌で酒を注ぎ足す柢王に、桂花は冷たい視線を流す。
「これ、花見の宴じゃなかったんですか?」
「極上の花が、ここにあるだろ?」
ん? と柢王は白い髪に指を巻きつける。
「・・・吾には見えませんから」
「いちゃつくんじゃねーっ!」
柢王は飛んできた杯をパシッと受け止めた。
「あっぶねえなあ、アシュレイ。杯投げるなんて、もう飲まねーのか?」
「うるせえ! 俺の前で、んな魔族野郎とべたべたすんじゃねーよ!」
「アシュレイ! またそんなことを・・・」
「守天殿。おかわり、何か取りましょうか?」
「あ、ああ、頼むよ桂花」
柢王は受け止めた杯に酒を満たして、アシュレイに返した。
「そうカリカリすんなよ。せっかくいい夜なんだ。藤の花が泣くぜ?」
アシュレイは花に目をやり、むきになったようにそっぽを向いた。
「・・・知ったこっちゃねー」
「無粋な」
すかさず冷ややかな声が響いたに至って、ほろ酔い加減だったアシュレイは怒りを燃やして立ち上がった。
「てめえ・・・」
「駄目だよ、アシュレイ。お願いだから抑えてくれ」
「桂花もな。火に油注ぐような真似すんじゃねーよ」
お互いの恋人をなだめつつ酒を注ぐティアと柢王は、二人だけに判るように視線を交わした。昔から共犯者となることが多かった彼らだけに、その視線の意味を取り違えるようなことはない。お互い、それぞれの恋人をなだめるのに苦労しているとあってはなおさらだ。
「ほらアシュレイ、これ飲んで。天主塔秘蔵の酒だよ? 取っておきなんだ」
ティアが自分とアシュレイの杯を満たす。受け取ったアシュレイは、昂ぶった気もそのままに一気に杯をあおった。
「・・・あり?」
ぐらりとアシュレイの上体が揺れる。後ろに倒れこむのを、ティアが腕を引っ張って防ぎ、自分の膝の上に寝かせた。
「・・・本当に、桂花の薬はよく効くな」
「何を飲ませたんです? 吾は今回は、何もいれてませんが」
「以前もらった即効性の睡眠薬。こんなこともあるかと、持ってきておいたんだ」
ティアは膝の上で熟睡しているアシュレイの赤毛を撫でた。
「ああ・・・可愛いよ、アシュレイ」
「それのどこが」
「・・・桂花」
柢王は少々力をこめて、桂花の白い髪を引っ張った。
「おまえも悪いぞ。判ってんのか?」
桂花は答えずに視線を逸らした。そのまま柢王の手を振り解いて立ち上がり、少し離れたところに吊ってある灯篭に手を伸ばす。柢王がそれを気遣わしげに見やった。表面は火傷をするような温度ではないはずだが、中身は火なのだ。
「触るな。あぶねーぞ」
「大丈夫ですよ」
透かし彫りの硝子の灯篭に手をかざした桂花だが、その傍らの、和紙の灯篭の方が気に入ったらしい。視線より僅かに高い位置の、穏やかな灯りを確かめるように手を添えては、その細い指を藤の花に絡め、目を閉じて唇を寄せて、夜の藤を愛でている。
「・・・綺麗ですね」
桂花の紫微色の肌と白い髪が柔らかな光に浮かび上がって、藤の花房に囲まれて佇む姿はまるで現実ではないもののようだった。
恋人が、その肌と髪に似た色彩に埋もれて溶けて消えてしまってもおかしくないような、柢王はそんな錯覚に囚われる。全くもって彼らしくないことだ。
「こっち来いよ、桂花」
その言葉を無視して、なおも藤の花に手を添えて見入っている桂花に、柢王は小さく肩をすくめて立ち上がった。桂花の背後から手を回して、緩く抱き込んでしまう。
「機嫌直せよ。せっかく、こんなに花が綺麗なんだからさ」
「だから眺めてるんです。邪魔だから離れてください」
「やだ」
ティアは幼馴染に忘れられているのも気にならない様子で、アシュレイの寝顔をとろけそうな顔で見つめている。
柢王は桂花の肩に顎を乗せた。
「――ほんっとに綺麗だな。昼間見るのもいいけどさ、夜のほうが風情があって、俺は好きだぜ」
「・・・そうですね。吾もです」
呟いた桂花が、夜風に体を震わせた。柢王は桂花を抱きしめる腕に力をこめる。
「風が出てきたな。柢王」
「そうだな。お開きにすっか? アシュレイも寝ちまってるし」
「ああ。おまえ達の部屋は用意できているはずだから」
「あ、わりぃ、俺達今日は帰るぜ」
「・・・泊まって行かないのか?」
「ああ、ちょっとヤボ用があってな」
「そうか・・・。じゃあ、また。気をつけて」
ティアが寝入ったアシュレイを支えて姿を消す。恐らく、直接寝室に飛んだのだろう。
「ティアの奴、きっと朝まで、アシュレイの寝顔見てにやけてんだぜ」
桂花を覗き込んで柢王はにやりと笑う。
「・・・帰るんですか? もうこんな時間なのに。明日も休みなのだから、泊まって行ってもいいんじゃありません?」
「だってよ、おまえ天主塔だと、嫌がるじゃねーか」
「――吾が何を嫌がるんです? な・に・を」
桂花が柢王の頬をつねろうと手を伸ばす。それをよけて、柢王は桂花の口を直接塞いだ。
「こーいうこ・と♪」
桂花の口調を真似て、語尾にハートマークまで飛ばした柢王から、桂花は顔を背けた。
「それぐらいだったら、別にここでも構いませんよ?」
「それぐらいじゃねーから言ってんだろ?」
白い髪を引っ張って、柢王は桂花を反転させる。まだ視線を合わせようとしない強情な恋人の、僅かに低い双眸を覗き込んでから、柢王は桂花の頬を両手で挟んで持ち上げた。
再度唇を重ねてぎゅうっと抱きしめる。
「さ、帰ろーぜ。せっかく明日は休みなんだから、有効に使わねーとな」
「明日は家中の掃除と毛布の洗濯しようと思ってたんですが」
「俺もやるからさ、な?」
それには答えずに溜め息をついた桂花は、名残惜しげに周囲の藤と灯篭を見つめて、腰に回った手をつねった。