On Valentine's Day 続・The Key in a wallet
「・・・なにか食ってきたのか?」
ドアが開いた瞬間、鷲尾にそう問われて。
やっぱり・・・と微笑んでしまいそうになる顔をどうにか引き締めて、絹一は彼に抱き締めていたものを差し出した。
「まだ食べてません。・・・今夜は俺のリクエスト、きいてくれるんじゃなかったんですか?」
「それはそうだが」
そう。今夜の食事は、絹一の要望で和食なのだ。
だが絹一のめったにない我侭は和食というだけで、それ以上の具体的なメニューはなかった。
鷲尾さんの作ってくれるものなら、なんでも・・・と少し声を落して囁かれた言葉。
それは今夜逢う約束をした、携帯電話での最後のやりとりの時のこと。
最近、少しだけ自分から甘えてくるようになったが、最後にはどうしても遠慮がちになってしまう絹一にその時、鷲尾は思わず苦笑してしまったのを覚えている。
それと同時に・・・その時感じた、なんとも言えぬ甘ったるい気分を思い出して、鷲尾はクラフトで包まれた花束を受け取ると、後ろからついてくる絹一を意識しながらリビングに移動した。
今、絹一に自分の表情を見られるわけにはいかないのだ。
そう。彼に主導権を握られるわけにはいかないのだ。・・・それに。
『今夜』はまだ始まったばかりだ。
鷲尾は受け取った花の包装を解くと、冷蔵庫の横から丁度飲み終えたばかりのワイン・ボトルを取り上げた。
冷蔵庫から出したミネラル・ウォーターをスリムなボトルに注いでから、そこに細い茎の花を生けた。
絹一に渡されたときには黒い花に見えたものだったが、まじかで見る花の色は、濃い茶色である
水平に広がった小さな丸い花弁はとても可愛らしくて、どことなく慎ましい印象だ。
最後には遠慮がちになってしまう、誰かのように。
「すぐ食事にするか?」
「もう食べられるんですか?」
「いや、もう少しかかるが」
「そうですか。でも・・・お腹すいたし」
「じゃあ、着替えてこい」
「はい」
そう素直に返事をしてから、絹一は寝室に入った。
今の会話の間、ずっと自分に背を向けていた鷲尾の表情を想像して少し赤くなりながら。
(・・・どう思ったかな)
言わずと知れた、花束のことである。
どうしたんだ? とか、自分で買ったのか? とか・・・・・またもらってきたのか?とか。
鷲尾は自分に何も訪ねなかった。
それはやはり、色気のない包装だったせいだろうか。
でもそれは当然だろう。誰だって、あれではプレゼントとは思うまい。
・・・・・自宅用の包装にしてもらった、それはもうひとつの理由。
いつかのバレンタインの夜のように・・・・・自分がまだ蕾だった小さな薔薇のブーケを持ってきたときのように。
今では、あの時よりずっと明確になっている自分達の関係。
あの夜のように甘いジェラシーで始めるのもイイけれど。
それだけではない・・・鷲尾がひとり酒を飲む夜の特別な意味を、たぶん自分だけが知っているから。
素直な、素のままの自分で彼に接したい。そう、思っているから。
今の自分の想いを込めた花にも、ごてごてしたラッピングはして欲しくなかったのだ。
そんなことは、自分の自己満足でしかないのだけれど。
(やっぱり俺って進歩がないかも・・・)
さっきは少し気分が上昇したのに。
はぁ・・・と小さく息を吐き出しながら、いつものように自分の服に着替えて、寝室を出る。
手を洗ってから、キッチンに立ってる鷲尾の横に並ぼうとして・・・やめた。
背を向けた彼が、無言のまま親指でリビングを指したから。
それはそこに座っていろ、ということ。
いつもだったら、役に立たないのは重々承知の上で、それでも怒るか・・・拗ねるかするところだが。
今夜は彼のいうことを何でもきくつもりでいるから。
素直にはい、と言って絹一はリビングに戻った。
そしていつものようにソファに座ろうとして・・・やはりやめた。
ソファではなくクッションを置いて、リビング・テーブルの前にぺたりと座り込む。
正確にはテーブルの上に置かれた、ティーカップの前に。
そのいつもと違う様子の飲み物に、絹一は思わずじっと見入ってしまった。
白いティーカップの中を満たしているのは、たぶん紅茶なのだろうけれど。
「・・・いただきます」
「あぁ」
ちゃんと聞こえてる・・・と心の中でこっそり思いながら、ソーサーに添えられている銀のスプーンを手に持つ。
そして液体の上を薄く覆っている白い生クリームを少し掬って口に運んでから、残りをそっとかき混ぜた。
熱々のカップを両手で包んで、口を付ける前に・・・彼の背中を上目使いに見る。
先ほどからずっと自分に向けられた、何も言ってくれない広い背中を。
そんなふうに子供じみたことを考えながら、絹一はゆっくりと口に含んだ。
その途端。
絹一の顔が真っ赤に染まった。
でもそんな自分の顔を鷲尾に見られでもしたら。
それこそ、自分はなんて言っていいか、わからなくなってしまうから。
どうか振り向かないで、と願いながら顔を覆いつくようにカップを持つ。
それでも最後に残った甘い生クリームをすっかり飲んでしまうと、カップをそっと戻し、絹一はしばらくの間無言で鷲尾の背中を見ていた。
エプロンをして、自分のリクエストに応えてくれている男の背中を。
でも、コンロの前に立っていた男の手がふいに菜箸を置いたかと思うと、そのまま横にスライドして煙草のボックスを掴んだので。
絹一は立ち上がると、ティーカップを両手にキッチンへと入って行った。
そしてシンクにそっとそれを置いて、取りあえずごちそうさま、と礼を言ってから。
咥えた煙草に火を点けながら、『あぁ』となんでもない事のように言葉を返してきた男の横顔をじっと見つめた。
黙って見つめて・・・男が観念するのを待つ。
今度は腕を組んでシンクに寄りかかり、リビングの方を見ている男のことを。
だって、いつも自分からなのだ。
なんでも自分より上手のこの男は、いつだって涼しい顔をして自分に白状させるのだ。
まだ途惑いがちな・・・それでも止めようのない、この気持ちを。
はっきりとした言葉を要求するわけではない。あからさまな態度で縛り付けるわけでもない。
でも自分に言わせれば、そんな鷲尾の態度の方がよっぽど我侭だと思う。
やっとこちらを向きつつ、シンクに灰をトン、と落す鷲尾を見上げる自分の顔はまだうっすらと赤いのに。
「美味かったか?」
本当は柄にもないことをして、照れているくせに。
「・・・・・美味しかったです。・・・とても」
そんなふうに煙草でごまかすなんて、ずるい。
「甘かったか?」
そんなふうに、矢継ぎ早に言葉を重ねてごまかすなんて。
「・・・・・・・・・・・・」
「ん?」
・・・・・ずる過ぎるから。
「・・・そんなに気になるなら、ご自分で確かめたらどうです?」
今ならまだ・・・と続けようとした絹一の頭の後ろに、大きな手がふいにもぐりこんで引き寄せる。
それでも触れる直前、煙草の後だからちゃんと・・・とこれだけは言ってやりたいと思っていたことが言えたので。
目を閉じて彼のことを追いながら、先ほどの紅茶のことを考える。
それは濃い目に淹れたキャラメル・ティーにふんわりと泡立てた生クリームを乗せた 『テ・アラ・ネージュ』。
これがチョコレート味のモカ・ジャバだったなら・・・フィフティー・フィフティーだったのに。
絹一が知る限り、海外では日本のようにバレンタインにチョコレートを贈る風習はない。
そのかわりにカードや花束、宝石やキャンディー類などを日頃の感謝と愛情を込めてプレゼントするという。
そう、つまりそういうことなのだ。・・・それに。
濃い目に入れた紅茶は白い生クリームに覆われて。その姿をはっきりと見ることは出来ない。
それは目の前のダイニング・テーブルに飾られた、カカオの香りのする濃い茶色の花にも重なる。
自分の心は目の前のテーブルの上に曝け出されているのに。鷲尾の本心は生クリームよりア厚い煙に巻かれていて。
そうやって自分の無言の 『告白』 を逆手に取っておきながら。
自分はなにひとつ、言葉にしてはくれないのだ。
・・・・・してはくれないクセに。
「・・・で、なんて名前の花だって?」
意地悪な男。・・・でも、今夜は彼のいうことはナンでもきいてあげるつもりだから。
「・・・・・チョコレート・コスモスです」
さきほどよりも、もっと顔を赤くしながら。
今夜ひとつめの彼の我侭に絹一は応えてやった。