Alone
始まりは、ほんの些細なことだったのに……。
2月13日。
St.バレンタインデーを次の日に控え、街は寒さとは無縁の熱気に包まれていた。
今年も大詰めとばかりに、デパートではチョコレート合戦が繰り広げられている。ゴディバ、モロゾフ、サティ……など有名ブランドから、バレンタインのみ限定と銘打ったフランスの製菓会社直輸入品まで、所狭しとひしめき合って客を呼び込んでいる。
それを横目で眺めつつ、絹一は一つため息をついて、エスカレーターへ足を乗せる。
向かっているのは、鷲尾が気に入っているメンズの小物を扱う店。
別に、イベントがしたいわけじゃない。それでも、恋人同士が浮き足立つこの時期、彼に何かプレゼントを……と考えてしまうのは、大衆心理なのか日本の経済戦略の餌食なのか……。
そう、それに、ちょうど良いきっかけになるかもしれない。
何か理由が欲しかったところなのだ。
お互いの意地の張り合いをやめにする、ちょうどいい何かを……。
始まりは、本当に些細なことだった。
絹一も、3日前のやり取りを反芻して、ああ、あれがそういえば発端だったっけ、と思い出す程度に。
その些細な発端が、小さなことを呼び集め、いつのまにか、大事になってしまった。
本当はそんなこと思ってもいないのに、相手を傷付ける言葉を口にしてしまって、やっと気づいた。
そして、気づいた頃には、その気持ちのずれは、些細なことではすまなくなってしまっていたのだ。
あとでどれだけ、口から出た言葉を後悔しても、言わなかったことにはならない。お互いに、それが本心でないとわかっていても、謝るための、たった一言が出てこないのだ。
素直に「ごめんなさい」と言えたら、あんなに淋しい夜はなかったのに。
いつもなら手を伸ばせば指先に触れる存在が、触れて欲しいと願ったときに、魔法のように伸びてくる腕が。
手を伸ばしたときに、触れて欲しいと感じたときに、その淋しさが絹一に圧し掛かる。
たった2日。
鷲尾が仕事で何日も家を空けたり、絹一が海外出張で、数週間、時には数ヶ月にわたって離れていたときも、こんなつぶされるような悲しみはなかった。
どんなに距離が離れていても、心が離れていると感じたことはなかったから。
閉店まであまり時間もないせいか、そのフロアはどちらかといえば閑散としていた。
いくつかの店を通り過ぎ、目的の店に足を踏み入れ、ゆっくりと店内を見渡す。すると、すぐに目にとまるものがあった。
パウダースノーのディスプレイの中央に、しっかりとその存在を主張する、ブラックシルバーの腕時計。
光を受けて鈍く輝くそれは、上品過ぎず、どこかにしっかりとした風格を感じさせる。
ふと、後ろから自分を抱きしめた鷲尾の腕を思い出す。
軽く日に焼けた、筋肉質ではないががっしりとした腕。その腕に、この時計はあつらえたように似合うだろう。
「すみません、これを……」
そう思うと、絹一はすぐに店員を呼び止る。
どうやら最後の一点らしく、店員は時計をディスプレイから取り出して、レジへと向かった。
「プレゼントでよろしかったでしょうか?」
にこやかに店員に尋ねられて、「え、ええ、まあ……」と言葉を濁す。
「カードはおつけになられますか?」
との問いには首を横に振った。
やはり自分には似合わないものだから、不自然だろうか?
そう思いつつも、やはりきれいにラッピングされた商品を受け取ると、顔がほころんでしまう。
彼は、喜んでくれるだろうか……。
そう思うと一刻も早く会いたくなって、「ありがとうございました」の声も耳に入らず、早足で店を出る。
いつもは徒歩と電車で帰る道を、デパートの前でタクシーを捕まえて乗り込み、行き先を告げる。
急いでください、と思わず言いそうになるのをこらえて、シートに身を沈める。
喧嘩をする前までは、今日は一緒に過ごす約束をしていた。
鷲尾の父親の命日でもある今日は、彼は絶対に仕事を入れない。そしてここ数年は、必ず絹一と過ごしてくれていた。
そう、約束をしていたわけではないのだ。ただ、お互いにあたりまえのように、その一日を一緒に過ごそうと考えていただけで。
「お客さん、着きましたよ」
普段でもそう大して時間のかかる距離ではない。そろそろ道もすいてくる時間で、タクシーは思ったより早く到着した。
お金を払って礼を言うと、絹一はタクシーを降りてエントランスへ向かう。
程なく降りて来たエレベーターに乗り込むと、絹一は少し迷った。
とりあえず自分の部屋へ荷物を置きに行くべきか、それとも直接鷲尾の部屋へ行こうか……。
自分の手荷物を見て、部屋に戻ることに決めた。会社でもらったチョコレートが、いくつか手荷物にあったし、部屋にあるワインを持っていきたかったからだ。
カギを開けるのももどかしく、自分の部屋へ入る。ソファへ荷物を放り出し、プレゼントの紙袋だけ手にして、キッチンに入る。
まっすぐにワインクーラーへと向かう足が、不意に止まった。
テーブルの上に、見慣れない一輪挿し。
ほっそりとしたクリスタルガラスには、一輪咲きの見事なバラ。その鮮やかな色彩は、あまり物のない絹一の部屋のキッチンで、その存在を主張していた。
メッセージも何もない。
ただ、そのベルベットの深紅だけが、メッセージだった。
もう、絹一にはワインなどどうでもよかった。
かろうじてカギだけはかけて、下へと向かっていくエレベータを無視して、階段を駆け上がる。
チャイムを押してから、深呼吸を2回。
まだ息が整わないうちに、内側から扉が開かれる。
「おかえり」
その声を聴いた途端、絹一は鷲尾の胸に飛び込んだ。
そんな絹一を、鷲尾はしっかりと抱きとめる。
ごめんなさい。
そう、絹一の口からつぶやかれた言葉は、零れ落ちた涙の粒とともに鷲尾のセーターに吸い込まれ、彼の耳には届かなかった。
だが、二人には言葉は必要なかった。
優しく髪をなでてくれる指が、しっかりと背中を抱いている腕が、絹一にはたまらなくいとおしかった。
そして、自分の腕が、鷲尾を抱きしめていることが、たまらなく幸せだった。
2日間の孤独が、ゆっくりと胸の中で融けていく。
そしてそれは、甘い甘いチョコレートのように、お互いの気持ちを包み込む。
あたたかな夜は、やがて降り出した白い粉雪に覆われて、ひと時の眠りについた……。