rast flower
花びらが落ち始めた淡い色合いの薔薇を、一樹はベース代わりにしていたワイン・ボトルからそっと抜いた。
ゆっくりと歩いているつもりなのに、手の先からはらはらとこぼれては落ちる花びら。
幾重にも重なった花びらはよく目にするものではなくて、花屋でも置いてあるのが比較的珍しい、イングリッシュ・ローズといわれるものだった。
以前までよく出かけていた植物園で、目にすることはあった。
母親が手入れをしている、自宅の庭先でも。
いつも花の手配をお願いしている六本木の花屋で、偶然見つけた薔薇。
自分の目には特に珍しくもなかったはずなのに、気が付いたら自然と手に取ってしまっていた。
それがほんの一週間前のこと。
店の奥のガラスケースの中で、花びらの重さで頭を垂れて咲くその姿に、なんだか言い知れぬ郷愁のようなものを感じて。
自宅にではなく、ローパーの事務所に飾ろうと思ったのも、なるべく人の目に触れないようにしたかったからなのかもしれない。
でも、その花も今日で終わり。
その最後の名残を惜しむつもりで、一樹はキッチンの棚からガラスのコンポートを取り出した。
それから、冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出そうとして・・・やめた。
その代わりに、グレイシャル・ウォーターと記されてある青いペットボトルを取り出した。
最近忍がお気に入りで、ここにストックするようになった水。
残り少ないその水を使うことを、心の中で忍にそっと侘びながら、一樹はキャップを外して器の中にそれを注いだ。
広口のシャンパン・グラスを思わせる大きなガラスの器に、薄く張られた水。
こうして置くと、ろうそくの燭台に見えなくもないな・・・と一樹は思い、いつだったか自分に内緒でこの器にフローティング・キャンドルを浮かべ、一人この部屋で揺れる炎をじっと見つめていた二葉のことを思い出して・・・少しせつなくなった。
あれは城堂が亡くなってしばらくたったころのこと。
だからそのときの部屋は焼けてしまって、今はもうない。それらの面影を思わせるものは、なにひとつ。
そんなふうに思い出しては感じていた、胸を引き裂かれるような痛みも・・・今は。
きれいに張られたクロスを見ながら、いつの間にか塗り替えられていた自分の心のことを思い、一樹は小さく微笑んだ。
水を張ったコンポートに花びらを浮かべて、一樹はそれをテーブルの上に置いた。
ソファには座らず、じゅうたんの上に座りこんでじっと見つめる。
時折いたずらに水を掬い、花びらにかけてみるが、花びらは水をきれいに弾いて浮かび続けている。
まるで油のように弾いて、まだまだ元気なのだから、と必死で意思表示しているようだ。
そんないじらしい様子が、なんだか無性に愛しくなった。
たくさんの花びらに姿を変えてなお、生命力を感じさせるその姿が。
それは土に帰り、再び命あるものに生まれ出でてくることの証。
失った悲しみに包まれているときには、そんなふうには思えなかった自分も、いつの間にか・・・。
「時間と皆に感謝、かな」
呟きながら、一樹は水の上に浮かぶ花びらを指先でそっと弾いた。
グレイシャル・ウォーターとは氷河水のこと。
氷河の中でゆっくりとろ過され生まれる、混じりけなしのピュアな水。
その軟水特有のすっきりとした水が、まるで時間をかけて『ろ過』された自分の心のようにも思えて。
そんなフィルターを通して見る薔薇のことが、よけいに愛しく感じる。
『生まれ変わる』なんて、詭弁だと思っていた。
再び命を授かっても、それはおなじものではないのだから。
でも、『絶望』でしかなかったものが『希望』という名のものに姿を変えることが出来るのなら。
そんな『詭弁』も満更ではない。
花びらを見つめながら、一樹はそう思った。