ちび慎吾くん、女装をする(後編)
芦ノ湖についた慎吾くんは大きな船をみてびっくりしたように口を開けています。
「うわ〜〜〜っっ、大きい〜っ」
高槻さんたち4人はさり気なく、慎吾くんの周りを固めています。
昨今、誘拐が流行っていますから、これだけ可愛い慎吾くんならなにかあってもおかしくないと貴奨さんと健さんは旅行前から心配しているのです。
夏休みの箱根には家族旅行の人たちも多くいました。中にも慎吾くんと同じくらいの子供達もたくさんいます。
健さんは素早くざーっと周りを見回すと、慎吾くんを見下ろして小さな声で呟きました。
「やっぱ、シンより可愛いってヤツいねーな」
「あたりまえだ。慎吾が一番可愛いに決まっている」
すかさず貴奨さんが横から慎吾くんには聞こえないように言います。
「んなこたぁ、俺だってわかってますよ。俺のシンが一番だってことはね」
「…『俺の』? …言っておくが、向井君、例え10年後法律が改正されて男同士で結婚できるようになったとしても、俺は君と慎吾を結婚させるつもりはないからな」
「…んなもん、許可なんていりませんよ。さらっちまえばいーんだから」
「慎吾が君についていくと言えば、だろう?」
「言うに決まってるでしょーが。ここ最近の俺への懐きぶりを知らないわけじゃないでしょう?」
だんだんとヒートアップしてくる健さんと貴奨さん。
周りの目も注目を始めます。
「そこの二人、ただでさえ暑いんだから、暑苦しいことを始めないように」
ぴしゃりと高槻さんがいいます。
やはりこの二人を止めるのは高槻さんでしかできないようです。
船に乗り込み、甲板に立った慎吾くんは身を乗り出して、景色を眺めています。
「綺麗だねーっ」
手すりに足をかけ、少しでも遠くを見ようとしている慎吾くんを、後ろからふわりと抱き上げた人がいます。
「あまり身を乗り出すと危ないぞ」
江端さんでした。江端さんがしっかりと慎吾くんを抱き上げて、遠くの景色を見せてくれています。
「ありがとう、江端さんっ。すごく良く見えるよっ」
慎吾くんは江端さんの肩に手を置いて、なおも背伸びするように景色を見ています。
「江端君、慎吾くん」
呼ばれて二人が振り返ると、パシャリ、と高槻さんがシャッターを押しました。
「うん、避暑にきた仲のいい親娘みたいでいい写真が撮れたよ。慎吾くん、私とも一緒に撮ってくれる?」
うん、と慎吾くんは頷きます。
写真撮影が行われているその空間を囲むようにして人が立っています。
貴奨さんと健さんの後ろからは
「可愛いお嬢ちゃんねぇ」
「親子じゃないわよねぇ」
「兄弟かしら」
「でもずいぶんと年のはなれた兄弟じゃない?」
とひそひそ話が聞こえてきます。
「貴奨さん……」
「ああ、マズいな…」
必要以上に注目を集めたくない貴奨さんと健さんはなんとかこの視線の集中豪雨から逃れたいと思っていました。
高槻さんにそのくらいにしておけ、と声をかけようと貴奨さんが近寄った時、慎吾くんが貴奨さんを見上げました。
「俺、貴奨とも健さんとも写真撮りたいっ」
「そうだね、二人とはまだ1枚も写真は撮ってなかったよね。芹沢、ここにしゃがんで」
そう高槻さんは貴奨さんに指示すると、フレームの外へと避けました。
撮影会を止めようとしていたこともすっかり忘れ、貴奨さんは慎吾くんの肩に手をおき、しゃがみました。
「じゃ、撮りますよ」
江端さんの声に慎吾くんが笑います。
パシャリ。
「じゃあ、次、向井君」
「シン、来な」
手を広げてしゃがみます。素直に健さんに近寄ってくる慎吾くん。
その慎吾くんを抱き上げ、自分の首に慎吾くんの腕を回させます。
「健さん、皆見てるよ〜」
「いーから気にすんなって。おら、江端っ!! 失敗なんかすんじゃねーぞっ」
健さんは江端さんにきつくきつくそう言います。
そんな健さんからの檄にもうろたえることなく、冷静沈着にシャッターを押した江端さんはやはり長年の付き合いのたまものと言えるでしょう。
仲よく健さんとも貴奨さんとも1枚ずつの写真に納まった慎吾くんは、皆で写真を撮りたいと言い出しました。
貴奨さんたちがちょうどいい場所を物色している間の時間を逃さなかったのは周りにいた奥様たちです。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「しん…あ、槙子ですっ」
「一緒にいる4人の男性は槙子ちゃんのお兄ちゃんなの?」
「えっと……は、はい」
「あんな素敵なお兄さんがいて槙子ちゃん、いいわね〜」
「うんっ」
慎吾くんは取りあえず、女の子の名前を言って奥様たちの矢継ぎ早の質問に答えていました。
「ずいぶんと年が離れてるのねぇ」
「後妻さんの子供かもしれないわよ」
こそこそこそこそと奥様達は激しい妄想を話し始めます。
なかなか解放してくれない奥様方に、どうしよう〜と慎吾くんが弱り始めた時、天の助け、高槻さんが慎吾くんを呼びにきました。
「ここにいたの? ダメだよ、兄貴達がすごく心配してるから、さあ」
慎吾くんとその場を去る前に、高槻さんは周りにいた奥様方に軽く会釈をしました。
「お相手をして頂いていたようですね、御迷惑をおかけしませんでしたか?」
高槻さんは奥様方ににっこりと営業用の微笑みを浮かべて話しかけました。
「いいえぇっ!! とんでもない。でも本当に可愛らしいお嬢さんですねわね。お兄さんでしたらなにかと御心配でしょう?」
「えぇ、まぁ」
「お嫁になんて行かれたら寂しいですわよねぇ」
「そうですね、できればいつまでも側にいて欲しいと思いますが…」
「他の人の所へお嫁さんなんかに行かないよっ。ずっと皆で一緒にいるんだっ!!」
慎吾くんの言葉に奥様方はあらまぁ、と微笑ましそうに顔を見合わせます。
「でもねぇ、槙子ちゃん、お兄さんとは結婚できないのよ?」
「えっ? でも誰とも血が繋がってないから結婚できるって……」
その一言に場が凍りついた瞬間、高槻さんはすかさずにっこりと微笑み、それでは失礼と貴奨さん達の元へと歩き出しました。
歩きながら慎吾くんは高槻さんの顔を見上げて半分泣き出しそうな顔をしています。
「俺……ヘンなこと言ったかな。ごめんなさい……」
「大丈夫だよ。私達の側にいたいと思ってくれてるんだから、私は嬉しかったよ?」
「……ホント…?」
もちろん、と高槻さんは頷きました。
その言葉に慎吾くんも嬉しそうな顔をしてよかった、と握っていた高槻さんの手をぎゅっと握り返します。
その後立ち位置で多少モメはしましたが、近くにいた人にシャッターを押してもらい、皆で仲良く記念写真を撮りました。
船を降りた5人は少し散歩をして帰ることにしました。
一番先頭を歩いている健さん。その少し後ろに貴奨さん。
慎吾くんがいて、やや斜め後方に江端さん、観光客に呼び止められている高槻さんが一番後ろにいました。
慎吾くんはタタタッと走って貴奨さんに駆け寄ると左手で貴奨さんの手を繋ぎました。
「おい、慎吾?」
そしてそのまま、健さんの元へと走っていきます。
右手で健さんの手を繋ぎます。
「シン?」
慎吾くんはにっこりと微笑んで貴奨さんと健さんの顔を見上げたのです。
左手には貴奨さんの大きな手。右手には健さんの大きな手。
そしてその後ろにはその3人の姿を微笑ましそうに見ている高槻さんと無言でシャッターを押す江端さんの姿。
「左手にはお父さん、右手にはお母さん、そして目に入れても痛くない程可愛い愛娘、って感じだね」
高槻さんはとても嬉しそうにくすくす笑っています。
「箱根、皆で来てよかったねっ。スカートにも慣れたし、俺、文化祭では白雪姫を演じ切ってみせるよ。だから貴奨も健さんも見に来てねっ」
「もちろん」
何を当たり前なことを言っている、と頷く貴奨さん。
「俺が行かねーで誰が行くっつーんだよ」
まかせろ、と胸をどんと叩く健さん。
慎吾くんは後ろを振り向いて、高槻さんと江端さんにも声をかけました。
「高槻さんも江端さんも、文化祭見に来てねーっ」
二人ともしっかりと頷いてくれました。
「うん、俺、がんばらなくちゃっ」
慎吾くんは東京に帰るまで一度もスカートを脱ぐことなく過ごしました。
そして貴奨さんと健さんの心配事も空振りに終わったのです。
東京、芹沢宅―。
「…なんか、いつもの倍以上疲れた……」
リビングの床にへたり込む健さん。
「もう二度と慎吾に女装なんかさせんぞ」
ソファに座って疲れた顔で言う貴奨さん。
「えー。似合ってたからいいじゃないか。ねぇ、江端君」
とても満足そうな高槻さん。
そう言われてもなんと返していいものやら、と思っている江端さん。
「「あんな思いは二度とごめんだ!!」」
健さんと貴奨さんは声をそろえて叫びます。
いつ誘拐されるか、とずっと気を張っていたのがかなりこたえているようでした。
ですが、秋の文化祭ではスカートをもう一度はくことになるという事実を今は頭からすっかり忘れ去っているようです。
(文化祭には白雪姫の衣装一式をプレゼントしようかな……)
と一人その事実に気づいている高槻さんは悪戯を思い付いた子供のような顔をしてそれはそれはとても楽しそうに笑っていたのでした。