2人だけの休日 5(終)
どうしても夕食のしたくを手伝うと言う絹一に根負けした鷲尾は自分がしていたエプロンを外して彼に放ってやった。
お前は包丁は握らなくていいからと言われ、それには素直にうなずいた絹一は今、ガラスのボールの中身を混ぜている。
「オリーブオイルにマスタードって…意外な組み合わせですよね。」
「そっか? オイルベースだけど、わりとさっぱりしてうまいぞ」
そう言って絹一の手元のボールに細かく刻んだサーモンとホタテを放りこむ。
それをさっくり和えて絹一はガラスの器にきれいに盛り付けた。
ラップをして冷蔵庫にしまう。
他には? と母親の手伝いを初めてする子供のような表情の絹一に、内心少し苦笑しながら鷲尾はだったらテーブルに食器を出してくれ、と食器棚を指差した。
今日のメインは魚と野菜のクリーム煮だった。今、絹一が冷蔵庫にしまった和え物もそうだった。
もちろん、肉より魚が好きな絹一のために鷲尾が用意したものだ。
「このワイン、冷やすんですか?」
「ああ。クーラーに水と氷はってくれるか?」
「はい」
フリーザーからありったけの氷を出して、絹一が水面いっぱいに満たす。
「…すごく高そうな白ですね」
氷につかったラベルを見ながらそうつぶやいた絹一に、飲んでからのお楽しみだと鷲尾は少し得意げだ。
ほどなくしてワインが冷えたところで、メインを皿によそい、和え物を冷蔵庫から取り出して。待ちかねたテーブルを見つめる絹一にまた笑いながら、席についた。
お前が作ってくれた和え物は、実はこの掘り出し物のためなのだと鷲尾は2杯目を絹一のワイングラスに注いでやりながら言った。
ギルバートに泣きつかれて絹一を会社に迎えに行く前、立ち寄った店でそれは偶然見つけたものだった。
「実は俺、白ワインはあまり得意ではないんですけど…これはすごくおいしいです」
俺はただ混ぜただけです、とすこし決まり悪そうにつぶやきながらもお世辞ではなく本心で言った絹一に、熟したフルーツの香りのするワインをグラスの中でゆったりまわしながら、鷲尾は満足そうに微笑んだ。
「種類はシャルドネというんだ。店の主人の話じゃ南仏のもので、あちらはあまり樽は使わないそうだが、これはしっかり樽香を効かせた掘り出し物だそうだ。」
値段も1200円と手ごろだしな、と種明かしをしてみせた鷲尾に絹一は驚いて声も出ない。
思わずじっと見つめてしまってから、絹一は感嘆の溜め息をついた。金をかけることだけが贅沢ではないと言った鷲尾の見識に、つくつく参ってしまったのだ。
「じゃあ…鷲尾さんにとってもこの休暇は少しは意味のあるものになったんですね」
相変わらず、自分に付き合わせてしまっていると申し訳なく思っている絹一に視線でクギをさしながら鷲尾が言葉を繋ぐ。
「ああ。このワインも2番目の収穫だからな」
「二つ目?」
じゃあ一つ目は? と不思議そうに聞いてきた絹一に、一番はお前だとは教えてやらない。
意味ありげな笑みを浮かべてたきりこたえてくれない鷲尾を、やはり不思議そうな顔で見つめた絹一がおかわりしたメインディッシュに口をつける。たっぷり睡眠をとって、食事をして。すっかりリラックスしている自分が鷲尾の一番だなどとはとうてい気付くよしもない。
こんなところはとことん鈍い絹一を、くすぐったい気分で見やりながら、これ以上追求されてはたまらないとばかりに鷲尾は違う話題を振った。
「お前は赤ワインのほうが得意なのか?」
「得意…というわけではないんですけどなんとなく」
「へえ。じゃあ今度は魚料理に合う赤ワインを飲ませてやるよ。」
「魚に赤ですか?」
「そう。赤といえば肉料理と思いがちだが、和洋中どれでもいける赤ワインってのもある。」
「…知りませんでした」
ちなみに川魚の塩焼きにぴったりの赤もあると教えてくれた鷲尾に、どこでそういう知識を得るんですか? と心底感心しながら聞いてきた絹一に鷲尾は一瞬黙った。
そして悪戯っぽく目を細めてこう言った。
「企業秘密」
その言葉に彼のクライアントとのことを想って、絹一があわてて食事に戻る振りをする。
そんな絹一はまるで臆病な人妻のようだ。愛する主人の秘密の恋に気付きながらも、壊れてしまうのが怖くて知らない振りをしつつける可愛い淑女。
「そんなに急いで食うと胃が痛くなるぞ」
黙ってもくもくと食事をしていた絹一にさりげなくクギをさしながら、鷲尾は内心ほほえましくなってしまった。
全く…これで本当に25歳の切れ者の男なのか、と。
別に呆れたわけでも、軽蔑したわけでもない。
ただ…そう…可愛いと思っただけだ。
鷲尾はそんな自分にこそ、心底呆れてしまう。でも、そんな自分も満更ではない。
むしろ…
「…俺も案外、単純な男なのかもな」
「え?」
思わず口をついて出た本音に、聞き取りそこなった絹一がなんです? とまなざしで聞いてくる。
それにやはり曖昧な微笑みを返しながら。
なんでもない、と応えたのはとことんポーカーフェイスの上手い男だった。
絹一を先に風呂に追いやってから、鷲尾は夕食の時に飲んだものとは別の白ワインを開けた。これも同じ店で買ってきたものだ。
ワイングラスを一つだけ出して、今ちょうど髪を乾かしている頃だろう、と絹一の出てくるタイミングを計ってワインを注ぐ。
白は白でも、これはとても甘くて軽いテイストのものだった。
きつい酸味は苦手な絹一のためにみつけた、りんご風味の爽やかな味。きりりと冷やして飲むのもいいが、このワインは少し時間を置いたほうが果実独特の甘味が増すのだ。
「お風呂、お先に」
まさに絶妙のタイミングでやってきた絹一にほら、と鷲尾はグラスを渡した。
「鷲尾さんは?」
「俺も風呂に入ってくるから。先に飲んでろ」
おかわりはご自由に、と冗談っぽく言い置いて浴室に向かう。いつもよりゆっくり入って、しっかり髪も乾かして。
音をたてないようにリビングに戻ってみると。
絹一はソファで眠ってしまっていた。甘いナイトキャップはことのほか絹一のお気に入りとなったらしい。
見ればボトルの半分以上飲んでしまっていた。俺のせいですっかり酒好きになったな、と少し苦笑しながらワインとグラスをかたつける。
小さな策略を見事に成功させた鷲尾は、昨夜と同じように部屋の電気を消すと、絹一の身体を抱き上げて寝室に入っていった。
休暇の最終日。
やはり鷲尾より遅くおきた絹一は、ブランチをとった後また少し眠った。
なんでこんなに眠れてしまうのだろうと目覚めた後、しきりに不思議がる絹一を鷲尾は昼の上映会に誘った。
『Long Goodbye』というかなり昔の映画にギムレットのエピソードが出てきたところで、以前和塩の部屋に夕食をご馳走になりにきたとき、それだけのつもりだったのに、結局…そういうことになってしまって。
泊まってしまういきさつとなった、鷲尾の作ってくれたギムレットは『ギムレットには(お別れには)まだ早い』という誘い文句がわりだったのかと、彼のあまりの気障ぶりに、絹一は一人で赤面してしまった。
途中からなんだか映画の内容が頭に入ってこなくなってしまった絹一を、鷲尾は自分の胸に抱き寄せた。
抱き寄せて、唇を重ねて、抵抗しない彼をそのままそこで抱きしめた。エリオット・グルードが演じるフィリップ・マーロウのそのセリフを聞きながら…
ベット以外の場所で抱かれるのは初めてだというのに、自分の腕の中で素直に感じてみせる絹一を見つめながら、鷲尾はこっそり想っていた。
一度も外に出かけることなく2人だけで過ごしたこの3日間の休暇。
さんざん自分で自分を焦らして。そんな自分のことを、最後に一番の好物を食べるのを楽しみにしているガキのようだと鷲尾は少し呆れた。
呆れながらも全くやめる気がない自分のことも、鷲尾はよくわかっていた。
どうやら、自分の絹一に対する独占欲はかなり強いものらしい。彼には決して悟らせないつもりだが。
でも、こんな休暇もたまにはいい。
結局、この休暇の最後の最後に一番美味しい思いをしたのは、さんざん鷲尾に甘やかされた絹一ではなく。自分の欲望には限りなく忠実な、したたかな男だった。