投稿(妄想)小説の部屋

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No.274 (2001/06/22 21:45) 投稿者:じたん

告白

 定時を3時間ほど過ぎたオフィスの中には、もう数えるほどしか社員は残っていなかった。
 金曜日だからだろうか。
 なんとなく開放的な気分で、絹一はノ−トパソコンの画面から視線を上げるとゆっくりフロア−を見渡した。
 明日は久しぶりの休暇だった。休日返上で取り組んできた仕事がようやくひと段落したのだ。
 フェラガモの足跡を辿った靴の特集本のフランス語訳の仕事で、この2ヶ月の間にイタリアとフランス、そして日本を3回往復した。
 ビジネスで出向いたのだから当然たいした観光などは出来なかったが、歴史を感じさせる街並みはとても美しく、歩いているだけで絹一を満足させた。
「・・『ヘップバ−ンの恋人』、か」
 有名なハリウッド女優のパトロンであり友人であった男のもう一つの呼び名である。
 イタリアにあるフェラガモの本店の3階はちょっとした展示場になっていて、創立者の彼が自ら制作した靴が置いてある。
 仕事の取材のために訪れた時、孫である現在のオ−ナ−の説明を受けながら、ナイロン糸だけで出来た靴や彼女のためだけに作られたダイアモンドの靴に女性に対する彼の愛情を垣間見た。
 跪いてヘップバ−ンの足に靴を履かせる彼の写真は絹一の脳裏に今も残っている。
 それはある人物を彷彿させるからだ。
 際限の無い優しさでクライアントを包み込み、あっさりと自分の虜にしてしまう男・・・鷲尾カイ。
 初めての契約の時に示された彼の労りを思い出して絹一の唇が小さく綻ろんだ。
「あの・・・穐谷さん。」
 いつのまにかぼんやりしていた絹一は、話し掛けてきた女性に今の自分を見透かされたような気がして、なんとなく気恥ずかしくなった。
「なんですか?」
 絹一は優しく微笑んで、自分の隣に立つ綾瀬涼子を見上げた。
 その途端、彼女の顔がかすかに赤くなる。
 彼女は絹一が在籍している大成書店・翻訳出版部の同僚で、部署内では唯一の女性であった。
 歳は絹一より2つ年上で現在28歳。
 一番の恋人は仕事というキャリア・ウ−マンで、アプロ−チして来る幾多の男性をもやり込める才色兼備であった。
「まだ御仕事ですか?」
「ええ。あともうすこし。」
「私もあと少しなんです。・・もしよかったら、帰り御一緒してもいいですか?」
 正直に言ってしまった事を内心すこし後悔しながら、表情には出さずに問い返す。
「御仕事で、なにか相談でも?」
「相談というか・・・お願いなんですけれど。」
 曖昧に微笑む涼子はこれ以上の話をここでするつもりは無いらしい。
 少なくなったとはいえ、まだ残っている男性社員が数人、さりげなく自分達をうかがっているのがわかる。
「・・わかりました。じゃあ、30分後に1階のロビ−で。」
「はい。」
 意識して事務的にそう告げると、涼子は自分のデスクに戻っていった。
 絹一はなんとなく彼女のお願いがわかったような気がしたが、今はあえて考えるのはよそうとパソコンの画面に視線を落した。

 歩きながらでは話しにくいから、と涼子が絹一を連れていったのは、会社からそう離れていないフランス料理の店だった。
 喫茶店に入ろうとした絹一に、わがままを聞いてもらうのだからと食事でのお礼を申し出た涼子をなんとなく無下にも出来ず、おとなしく付いてきたのだ。
 銀座にあったその店は小さいながらもちょっとしたパ-ティも開けるようで、涼子は以前友人の結婚式の2次回で知ったのだと絹一に言った。
 あっさりした味付けのコ−スに舌つつみをうち、軽いアルコ-ルなら大丈夫と応えた絹一に、涼子はワインをフルボトルで注文した。
 なんとなく、はぐらかしながらあたりさわりの無い話題を振ってくる涼子に本題をうながすタイミングを掴めないまま、絹一は2杯目のグラスを明けた。
「・・実は社内で穐谷さんに憧れてる女の子、多いんですよ。」
 少し酔いの回ってきた涼子が絹一を見て艶やかに微笑んだ。
 魅力的な女性だと思う。
 背は絹一の目線ぐらいでそんなに高いほうではないが、柔らかいクリ−ム色のジャケットとタイトスカ−トの包まれた肢体はスラリとしていて、さりげなくされたゴールドのイヤリングも品がよくグラスに添えられた指先はきれいなネイルが施されている。
「・・その言葉、そっくりお返ししますよ。密かに泣いている男が多いのはご存知でしょう。」
 涼子は今度は小さく苦笑した。グラスをぼんやり見つめて息をつく。
 その様子に気が付かない振りをしながら、ク−ラ−らからボトルを抜いて彼女のグラスにワインを注いだ。
「・・なんとなく、気付いてらっしゃるんでしょう?」
 テ−ブルの上でゆっくりグラスを回しながら視線を外して聞いてくる彼女は今は同僚ではなく、ただの一人の女だった。
「ごめんなさいね。困らせるような聞き方をしてしまって。・・・でも」
 綺麗にル−ジュのひかれた唇が、自嘲するように撓んだ。
「・・いえ。光栄です。社内で睨まれるのはいささか恐いですが。」
 言葉遊びのような自分達の会話に、絹一はふと鷲尾の事を想った。
 彼ならこんな時、どうゆう風に返すのだろう。
 どんな風に・・・かわすのだろう。
 目の前の女性に示せる思いやりがみあたらない自分に、情けなさを感じながら言葉をつなぐ。
「・・すいません。俺は・・・」
「いいんです。・・いらっしゃるんでしょう? 恋人が」
「恋人とは・・言えないかもしれません。」
「でも、大事な方なんでしょう?」
「・・ええ。」
 姿を・・声を思い描くだけで、せつなくなってしまうぐらいには。
 鷲尾の皮肉っぽい顔を思い出して、絹一の口元が微笑んだ。
「妬けるわ。あなたにそんな顔させるなんて・・・」
 自分を振った目の前の男をちょっと悔しそうに見つめながら、年上の女の表情で涼子は微笑んだ。

「どうした?」
 思い出したように小さく笑った絹一を、鷲尾の瞳が覗き込む。
「いえ。・・・なんでもありません。」
 自分の肌に唇を滑らせる鷲尾の髪に絹一が指を絡ませながら微笑んだ。
「おかしな奴だな」
 小さく苦笑しながら鷲尾は唇を重ねた。
 かすかに煙草の味がする鷲尾の舌に、絹一の舌がゆっくり応えていく。
 この気持ちははっきりと言葉には出来ないけれど。
 自分達にはこの距離が一番ふさわしい。そんな気がする。
 全てではないけれど、とても大切で。愛しい、とも思う。
 だからずっとこのままでいたい。この場所にいられる自分ありたい。
 身体を辿る鷲尾の指にせつなく息を弾ませながら、絹一は心の中でこっそり囁いた・・・。


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