桜爛漫・・・小樽
黄金週間が終わった初日のオフィス。
「ギル・・今、何か言いましたか?」
「桜、桜だ! 日本の心といえば桜だと思わないか?」
突然力説しだしたギルに絹一は仕事の手を休めた。
「東京の桜はとうに終わったと思いましたが」
ギルは両手を持ち上げて首を振っている。
「絹一、日本の桜はまだまだ、終わってはいないよ」
「まさか・・・」
「その通り、やっぱり絹一です。飲み込みが早い」
ギルは上機嫌で絹一の肩を叩いた。
ギルが話を切り出した次の日には、絹一は北海道の小樽に居たどうしても東京を離れられないギルに代わって、日本贔屓のイギリス人夫妻を案内してきたのだ。
絹一にしても小樽は初めてだが、下調べはネットで済ましていた。
ギルが広大な庭園をもつこの温泉宿をどうやって二室も取れたのかは知らないが、桜や季節の樹木で有名な庭園を持つこの温泉宿は、結構テレビ中継も入るほどに有名なのだ。
小樽運河を散策し、ガラス工房などを観光してから温泉宿に落ち着いた。
散策をしてみて庭園の桜も見事だが、庭園の広さには絹一も驚いた。
ギルが取った部屋は露天風呂がついていて、そこから庭園が優雅に眺められるものだった。
ギルは夫妻にだけでなく、絹一にも同じタイプの部屋を用意していた。
ホテルではなく純和風な宿に夫妻はとても喜んでいた。
絹一にとっても、穏やかな初老の紳士と、チャーミングな夫人の相手はそれなりに楽しいものだった。
夫妻の隣の部屋に絹一は入って、目をみはる。
引かれている寝具は二組あり、露天風呂には先客がいた。
「な、なんで、あなたがここにいるんですか?!」
「よう、終わったのか? お前さんも一緒に入るか?」
露天風呂に浸かって、ウインクをよこした男に絹一は呆然とする。
「まあ、話は湯に浸かりながらでもできるだろう?」
絹一の頭の中にギルの嬉しそうな顔が浮かんできた。
ベッド以外で肌を見られるのを恥ずかしがる絹一なので、露天風呂の男は視線を庭園に移している。
絹一は湯に浸かって、溜め息をついた。
「あの人は」
絹一には全貌が見えてきた。
やはり、昨日今日ではこの宿は取れなかったはずだと確信する。
「一体いつからこんな計画を立てていたのでしょう・・」
鷲尾の手が伸びて、絹一を抱き込む。
「どうせ、人様が休むときも仕事ばかりしているだろうから、お前に休暇を取らせたいと言っていたぜ。明日は奴が来るからお前さんは休暇だと伝言だ」
「あなたを巻きこんで?」
単にギルの話しに乗った鷲尾は軽く咳払いをした。
「まあ、結果オーライでいいだろう?」
絹一か簡ら笑いがこぼれる。
「ええ、今回はね」
「・・・いいところだな、桜もきれいだ」
鷲尾の言葉につられて庭へと絹一も目を移した。
「山桜、ソメイヨシノ、しだれ桜、八重桜・・・この庭園では順番にまだ、まだ桜が続くのだそうですよ、でも、」
鷲尾に背中を預けている絹一は悪戯な指を捕まえて、そっと噛んだ。
「あの夜の桜が一番きれいでした」
車のヘッドライトに浮かび上がった一本のしだれ桜が、絹一の目によみがえっていた。
「絹一・・」
その夜寝具の一組は使われること無く終わった。
翌日朝食を済ませて夫妻とギルに挨拶をして、絹一は再び小樽運河の倉庫群に居た
「以前あなたが言っていた通りですね」
「?」
「昨日観たのに、今日のほうが楽しいなんて俺には始めての経験ですよ」
二人が心通わせるきっかけになった、横浜の『シーサイド・パラダイス』でのことを絹一は言っていた。
――同じ場所を見るんでも、まったくちがうことなんだぞ――を、絹一は実感していた。
ヴェネツィア美術館を観て道沿いにオルゴール堂までをゆったりと散策しながら二人は歩いた。
記念写真一枚撮るわけじゃなく、ただ二人の時を楽しんだ。
だが、どんな写真よりも鮮明に心に残るだろうと絹一は思った。
マンションに帰り着いた時日付は変わっていた。
自分の階でエレベーターを降りようとした絹一の腕を鷲尾が掴んだ。
「なあ、絹一」
「はい?」
そのまま引き寄せた耳元で鷲尾がささやく。
「・・・・駄目か?」
絹一は返事の変わりにエレベーターのドアを閉めた。
絹一は嬉しかった。
このまま一人の部屋に戻るのが、なんだか寂しい気がしていたのだ。
鷲尾の部屋はいつ来ても絹一には居心地がいい。
上着を脱ぐと、薄ピンクの花びらが舞い落ちた。
「桜・・・」
絹一の目が自然と口元が緩む。
「桜の花びらが紛れ込んでいたか? 綺麗だったな」
ウイスキーの水割りを絹一に手渡して鷲尾もソファに納まった。
鷲尾はロックのグラスを手にしている。
「今年は思いがけず季節はずれの桜が観れたな」
東京に住むものにとって桜は新年度の頃のものだ。
「ええ、これからの北海道は気候も良く、いいらしいですよ」
思いがけず一泊の旅行が出来た思い出話に花が咲く。
ふと、話が途切れた。
鷲尾があくびをかみ殺した絹一の頬を軽く撫ぜた。
「絹一、疲れたか?」
「俺は大丈夫ですよ、鷲尾さんこそレンタカーの運転や、空港からの運転で疲れていませんか?」
「そう言わずに、寝ようぜ、泊まっていけ」
鷲尾が絹一の水割りがわずかに残ったグラスをテーブルにと戻してしまう。
二人は一緒にシャワーを浴びてベッドに入った。
絹一は鷲尾が抱き寄せてサッサと眠りの体制に入った。
鷲尾にとって絹一を抱くことも、何もせずにこうして眠ることも自然な欲求らしい。
絹一には鷲尾がどうして自然に自分の気持ちを察知してくれるのかが、不思議だったが、狸寝入りの得意な男は、絹一が寝息を立て始めたのを確認してからやっと眠りについた。