美女と野獣(後編)
目の前に現れたその姿に健さんは一瞬言葉を失いました。
長い毛におおわれた身体。口元からにゅっと覗いているするどい牙。
身の毛もよだつほどの恐ろしい風貌でしたが、不思議と健さんは恐ろしく感じませんでした。
その獣の目は冬の湖のごとく澄んでいたのです。
こいつは悪いやつじゃ無いと健さんは感じ取りました。
「助かったぜ、サンキュ」
「…いいえ…」
臥せ目がちに獣は答えます。
「俺は健。お前は? んていうんだ??」
「人は俺を野獣と呼びます」
「そりゃお前の名前じゃねぇだろ。俺は、お前の名前を聞いてるんだ」
少しの間をあけて、慎吾…、と野獣は答えました。
「慎吾…。シン、か。訳アリか? 生まれたときからそんな姿だったってこたぁないだろうしな」
健さんは慎吾君の側に寄り、ふさふさとした毛並みに手を伸ばします。
びくりとして慎吾君は身体を強ばらせますが、健さんが悪い人ではないとわかったのでされるがままになっていました。
「17・8才まで俺は普通の人間でした」
姿からは想像できないほど可愛らしい声でぽつりぽつりと話します。
その間健さんはずっと慎吾君の柔らかい毛並みを撫でてあげていました。
「ある夜、兄とケンカした俺はむしゃくしゃして森の中へと散歩へ出かけたんです。その時に入ってはいけないと言われている森の泉まで行ってしまって…」
その泉に石を投げたのだと慎吾君は言いました。
森の泉には森を守る神様が住んでいて、そこは禁足地になっているのです。
石を泉に投げ入れた慎吾君は神様の怒りに触れ、野獣の姿にされてしまったのでした。
「兄ちゃんは?」
「俺が戻って来たらもういなくて…。街へ行って仕事をするんだって。俺も連れて行ってほしいって頼んだんですけど…、ダメだって言われて、それで…」
森の泉まで行ってしまったのだと慎吾君は言いました。
「それから帰ってこねぇのか?」
「兄がいたのはもう何十年も昔のことです。きっともう死んでいるでしょう」
慎吾君はずっとずっと昔に生まれていたのです。それが、神様の力によって死ぬこともなく何十年もたった一人で過ごしてきたのです。
「そっか。それからずっと一人ってわけか…」
ふさふさとした毛に顔を少し埋めて健さんはぽつりと呟きました。
「…ずっとってわけにはいかねぇけど…少しの間なら一緒にいてやるよ」
「…健さんは俺のこの姿が恐ろしくないの?」
慎吾君は少し不安そうな声で健さんに聞きました。
「そんなナリしてるけど、お前が優しくていいやつだってのはちゃんとわかる。見た目通りなら朝が来る前に俺を喰い殺してたはずだからな」
健さんは優しく笑って慎吾君に言いました。
慎吾君の目には涙が溢れています。
「一緒にいてやる」と言われたのが嬉しくて嬉しくて。
それがほんの少しの時間だとしても慎吾君は嬉しかったのです。
それに野獣の姿になってからはどんな人でも一目見ただけで逃げて行きました。
この姿を見て逃げなかったのは健さんだけです。
それから二人は古城で暮らし始めました。
慎吾君は少しだけ魔法を使うことができるので、それで食料を調達したり、お城の中を綺麗にしたり、荒れ果てた庭にも木を植え、噴水もつくりました。
そして晴れた日には二人で庭を散歩したりしたのです。
そうするとどうでしょう。
森の動物たちも庭にやってくるようになりました。
ほんの数日前まで人の気配すらしなかったこの城に、今では笑い声が響き、動物たちの訪問もあります。
慎吾君は久しぶりに訪れた穏やかで幸せなこの時間がずっとずっと続けばいいと願いました。
ある夜のこと。
庭で物音がするのを気にした健さんはちょっと見てくると行って出て行きました。
けれど健さんは出ていったきり戻って来ません。
なかなか戻ってこない健さんを心配して慎吾君は健さんを探しにいきました。
すると、一本の木の側でオオカミに囲まれている健さんを見つけたのです。
「健さんっ!!!!」
とっさのことで慎吾君は大声を出してしまいました。
オオカミ達は一斉に慎吾君の方を向きます。
「シン、来るんじゃねぇっ、逃げろ!!!」
健さんは必死に叫びますが、慎吾君の足は竦んで動かなくなってしまいました。
健さんの意識が慎吾君の方へと向いているその隙をつくように、一頭のオオカミが健さんへと飛びかかって行きます。
それを見ていた慎吾君は我を忘れて健さんのもとへと走りました。
長い爪を出して、慎吾君はオオカミを切り裂きます。
仲間をやられたことと、辺りに漂い始めた血の匂いにオオカミ達は興奮し始めました。
「健さんっ、ここは俺に任せて、健さんは逃げてっ!!!」
「ンなこと、できっかっ! お前こそ、逃げろっ!!!」
二人は譲らずにお互いを心配してお互いを逃がそうとしていました。
健さんの前に立ちはだかった慎吾君は一歩も動きません。
オオカミ達は慎吾君に向かって牙を剥いて威嚇をはじめました。
周りはオオカミ達に囲まれ、じりじりと間合いを詰められていきます。
とてつもない緊張感が両者の間には流れていました。
その均衡を崩したのはオオカミ達です。
一頭のオオカミが慎吾君に飛びかかったのが合図となり、一斉にその他のオオカミ達も慎吾君に飛びかかっていったのです。
向かってくる一頭一頭を手で叩き落とし、慎吾君も負けじと牙を剥きます。
多勢に無勢ながらも必死に応戦します。
手も足も血だらけでしたが、慎吾君は決して健さんの前からどきませんでした。
夜が明けてオオカミ達が諦めて退散するころには慎吾君は立っていることすら出来なくなっていたのです。
「俺はいいから逃げろって言っただろーがっ!!!」
「健さんを残して逃げるなんて、できないよ…」
「なんで!!!!」
健さんは慎吾君の身体を抱き締めて叫びました。
「だって…こんな俺に優しくしてくれた初めての人だったんだもん。その人を置いてなんて…逃げられない」
息も絶え絶えに慎吾君は健さんに言いました。
「…っ!! 救急箱取ってくるから、その間待ってろ!」
駆け出して行こうとする健さんを慎吾君の毛むくじゃらな手が引き止めます。
「どうしたっ?」
「もう、いいよ、そんなことしなくても。健さん、ここにいてよ」
「早く手当しないと、助かるもんも助からなくなるんだぞっ!!」
その言葉に慎吾君はゆるゆると首を振ります。
命の炎が消えていくのを健さんも慎吾君もわかっていました。
けれど、健さんはそれを認めたくないのです。
「シンっ!! 手ぇ離せっ!!」
慎吾君は健さんの手を握ったまま離しません。それよりも側にいてと目で訴えています。
根負けした健さんは慎吾君の側に座りこみました。
「健さんに出会えて、本当によかった。きっと…神様が最後の贈り物をしてくれたんだね」
「シンっ、最後なんて言うなっ!!!!」
力一杯に慎吾君の手を握り、声を限りに叫びます。
けれどだんだんと慎吾君の身体からは力が抜けていき、目蓋もゆっくりと閉じられていきます。
「もし…俺が生まれ変わったら…きっと健さんの側に生まれてくるから…」
見つけてね…、という最後の言葉は声になりませんでした。
慎吾君の頬を涙がぽろりと流れ落ちます。
その涙が朝日に照らされてキラキラと輝いていました。
身体はまだ暖かいのに健さんが呼んでも慎吾君は目を開きませんでした。
「シン…、だから逃げろって言ったのによ…」
健さんの手は慎吾君の手を握ったままです。
「俺はずっと二人でいられたらいいと思ってたのにな…」
健さんが慎吾君の毛並みをゆっくりと撫でて悲しみを堪えた声で呟きます。
ぽとりと健さんの頬から涙がこぼれ落ちます。その涙が慎吾君の唇の中へ消えたと思うと、突然、慎吾君の身体が光りはじめました。
「なっ、なんだっ??」
獣の姿だった慎吾君の身体がだんだんと人の姿へと変わっていきます。
眩しくて眩しくて目を開いていることができません。
光がおさまり、目を開けると、可愛い少年が健さんの目の前に横たわっています。
そっと手を伸ばすと、心臓が動いているのが指先に感じられました。
頬に手をやると温もりが伝わって来ます。
そうして慎吾君はゆっくりと目を開けました。
「健さん…」
「シン……」
健さんの慎吾君を思う気持ちが神様の怒りをとき、慎吾君を生き返らせたのです。
生き返った慎吾君を健さんはぎゅっと抱き締めました。
慎吾君も嬉しそうな顔をして健さんを抱き返します。
慎吾君の姿が元に戻ったことで、食器やら燭台に姿を変えられていた使用人達も元の姿にもどり、お城は一気に活気づきました。
それから。
健さんと慎吾君は片時も離れることなくいつまでもいつまでも二人で幸せに暮らしました。