となりで眠らせて
眠れない。
また、この時期がやってきた。
1年に一回、必ず数週間眠れない日々が続くときがある。
ずっと、学生の頃からそうだった。
眠れないから、睡眠はたまに訪れるうたた寝のみで、まだ身体ができていなかった学生の頃は倒れたり強制入院させられたりもしたが、この厄介な体質とつきあうのももう十年以上ともなればイヤでも慣れてくる。
食べるものはきちんと食べておくとか、時間のあるときは少しでも横になるとか。
多少の弊害はあるものの、そうやってなんとか仕事には支障をきたさずにすんでいた。
「慎吾君が心配してる」
そして今年の眠れない時期のある日、わざわざホテルまで来て、何を言うかと思ったら、高槻の奴は開口一番そう言った。
「泣きつかれたんだよ。貴奨がおかしいって。食事とかはちゃんとしてるけど、どう見ても睡眠だけはとってるように見えないって」
…虚をつかれた。大抵の人間は、食事さえ摂っていればごまかされるのに。
慎吾は気付いたのだ。
「―――俺が言っても貴奨は聞いてくれないだろうからって、私に白羽の矢が立ったんだよ。一応、芹沢には、そういう時期があるらしいとは言っておいたんだけどね。でも私もそのことについてはあんまり知らないから、説得力ないだろうな。自分でちゃんと慎吾君に話してやれよ。心配してるんだぞ、かわいそうなくらい」
そう言った高槻は、どうやって手をまわしたのか、俺の早退願を上に出していた。
「勝手なことしたとは思わないぞ。慎吾君のシフトは今日は昼までで、もう帰ってる。おまえも今から帰れ。ホテルの方は大丈夫だ。おまえの手を煩わす事が多いような時期じゃないだろう?」
…怒る気も失せる強引さに押されて、結局俺はいつもより随分早い帰路についた。
ふと、気が付いた。
この時期になると、いつも必要最低限に人との関わりを避けてきた。
高槻にさえも会わなかった。
みっともないところを見られたくはなかったのと、そんな状態であいつとの逢瀬を重ねても、満足させてやる事ができるとは思えなかったからだ。
それを認めるのは随分、俺のプライドを傷つけた。
だから高槻には、ちゃんとした事情説明をしていなかったのだ、確か。
「どうしても眠れない…?」
慎吾は呆然と呟いた。
「だってそんなのって、ありえないだろ? 不眠症っていうのはわかるけど、そんな、年に一回だけ、数週間も続くなんて…」
「現実にそうなんだからしかたないだろう」
別に俺だって、何もしなかったわけじゃない。
医者にもかかったし、あらゆる睡眠薬を試したし、果ては精神科医にまで行った。
それでもダメだったのだから、もう諦めるしかあるまい。
「…じゃあ! 俺、今日は貴奨と一緒に寝る!」
またこいつはいったいなにを。
「なにを馬鹿なこと言ってるんだ」
「だって! 心配じゃんか! 誰かが隣で寝てたら触発されて眠れるかもしんないじゃんか! いいの! 今日は特別!」
口を開いたけれど、言うべきことは何も出てこなくて。
…やっぱりかなり、眠れない事に神経が参っていたのかもしれない。
隣にひとのぬくもりがあるのは久しぶりだ。
「なあ。まだ眠たくならない…?」
「残念ながらな」
「そっかー…なあ、俺思ったんだけど、言ってもいい? たぶん貴奨にはあんまり楽しい話じゃないんだけど」
慎吾の肩が出ていたから、毛布を引き上げて掛けてやりながら先を促した。
「あのさー…。前に貴奨のお母さん来たじゃんか。そん時言ってたと思うんだけど、あのひと、ちょうどこの季節に、夜中、出ていったんだって。それって関係ないのかな?」
…驚いた。
慎吾の発想にもだが、母の話を聞いても穏やかでいられる自分に。
俺が、変わったのだろうか? 言ったのが慎吾だからか?
どっちもかもしれない。どっちでもいい。
いま、慎吾がそばにいて、心が落ち着いているのは事実だから。
この季節、まだ幼い俺が寝ている間に出て行った、『母親』という大きな存在。
…どうなのだろう。寝ている間に失う存在。それを、俺が怖れているのだとしたら。深層心理にその恐怖を刻み付けられているのだとしたら。
ありえないことではないが…
「…慎吾?」
言うだけ言って、慎吾は眠りに落ちていた。
「子供の寝方だな」
すぐに眠りに落ちるのは子供の証拠だ。
あたたかい。寝息が、やすらぐ。
手に触れる髪の毛が、顔が、身体が。
ここに在る。確かな空気。消えるはずがないという、確かなもの。
おぼえのある気配が、向こう岸からゆるりとやってきた。
それからしばらく慎吾君は貴奨さんと一緒に寝ていたことが健さんにバレて、同じことを強要されたとかどうだとか。