もうひとつの『鶴恩』…?
昔々(でもないのですが)ある村に、貴奨さんという男の人が住んでいました。
眉目秀麗かつシャープな物腰で娘たちのハートを鷲掴みな彼でしたが、何故か決まった相手の一人もなく、独身貴族な日々を過ごしているのでした。
ある日の事です。
貴奨さんは勤め先である村の宿屋からの帰り、道端で一羽の鶴を見つけました。
力なくもがく鶴の翼には何と矢がささり、流れる血に真っ白な羽が赤く染まっています。
「……ひどい事をする。食う訳でもあるまいに」
貴奨さんは鶴の身体をそっと抱き上げると、矢を引き抜こうとしましたが……痛いのでしょう、鶴は激しくもがき始めました。
「すまん、少し我慢してくれ……今、これを抜いてやるからな」
貴奨さんは言い聞かせる様に呟くと、優しく鶴の頭を撫でました。
自分を見下ろす瞳をじっと見つめ、鶴は首をたれました。小さく鳴くと、後は大人しくしています……まるで、貴奨さんの言葉が解っているかの様でした。
貴奨さんは何とか矢を抜くと、応急手当をし、鶴を放してやりました。出血はあったものの、どうやら飛べる様子です。
「気を付けろよ。もう、この辺には来るんじゃないぞ…!」
鶴は貴奨さんの周りを一回りすると、その言葉に答える様に高く舞い上がり、見る見る小さくなっていきました。
数日後の、吹雪の夜。
ドンドン、という扉を叩く音に、貴奨さんは訝しげな顔で腰をあげました。
「一体誰だ、こんな時間に……非常識な奴だ」
説教のひとつもしてやろう、と扉をあけた貴奨さんはしかし、雪の中に立っている相手の姿を見て言葉を失いました。
鄙にはまれな、とはこういう事を言うのでしょう。
「……芹沢貴奨さん、ですね…?」
そう言って微笑んだのは、それはそれは美しい青年でした。
降りしきる雪の様に白い肌、思わず触れたくなる様な柔らかそうな髪、髪と同じ色の、透き通った琥珀の瞳。
整いすぎて冷たい印象さえ与えがちなその顔が、しかし今は優しげに貴奨さんを見つめています。
薄い唇に血の気の無いのを見て取った貴奨さんは、取りあえず青年を家の中に通しました。
「私は高槻光輝と申します。山の方から出てきたばかりで、この吹雪に難儀をしております……しばらく、こちらにおいて頂けないでしょうか……?」
聞けば知り合いがいる訳でもなく、全く頼るあてもないと言うので、貴奨さんはその青年を数日間泊めてやる事にしました。
しかし。何日かを共に過ごすうちに、貴奨さんは自分でも驚く程、彼に魅かれていったのです…。
その容貌は言うにおよばず、優雅な身のこなしやふとした仕草、高い知性を感じさせる物の言い様、ちょっとシニカルな目線……どれもこれも皆、のんびり者の多いこの村では出会った事のないものばかりです。
加えて、高槻さんは家事全般も完璧でした。
そして何よりも……『上を目指そうとする姿勢』が彼からは感じられるのです。
いつかはここを出て都へ上がり、一流のホテルで働く。
そんな夢を持っている貴奨さんには、変わらぬ日々をただ過ごす事しか望まない人々の中で、高槻さんの姿はその名の通り輝いて見えました。
(このままずっと、こいつの隣にいられたら……)
貴奨さんは、いつしかそんな事まで思う様になっていたのでした。
「ねぇ、芹沢……ひとつ、お願いがあるんだけど」
ある時、夕食の後の片付けをしながら、高槻さんが言いました。
「お願い? …ふっ、何を言い出すつもりだ…?」
小さく笑う貴奨さんに、高槻さんは真面目な表情である事を告げました。
《自分はこれから三日三晩奥の部屋に籠る。理由は言えないが、その間絶対に中を覗かないで欲しい》と。
「何だ、それは?!」
怪訝そうに言う貴奨さんに、高槻さんはそっと小指を差し出します。
「訳は言えないんだ……だが、私はおまえを信じてる。約束してくれるな……?」
惚れた相手にそう言われてしまっては、どうしようもありません。
貴奨さんは溜息をつくと、差し出された小指に自分のそれを絡ませました。
一日が過ぎ、二日が過ぎ……とうとう三日目の夜がやってきました。
(明日の朝には光輝に会える)
そう思いながらも実は、貴奨さんはその時、既に我慢の限界を迎えようとしていたのです。
彼の姿が見られない事が、こんなにも辛くなろうとは。
貴奨さん自身、こんな風になるとは夢にも思っていなかったので、どうしたら良いのかさっぱり分かりません。
ただ、高槻さんの顔が見たい…その身体を抱きしめたい、頭に浮かぶのはそんな事ばかりでした。
高槻さんの居る部屋の前で、さんざん行ったり来たりを繰り返した貴奨さんは……何往復したのかも忘れてしまった頃、とうとう障子に手をかけてしまいました…。
そっと、音をたてない様に、気配を殺して。
障子がほんの僅か開かれた、その瞬間!
「うっ…!」
ビュオオオッ、と吹き付ける激しい風と雪に、障子が『パァンッ』と音をたてて全開になりました。突風に吹かれた貴奨さんは、とっさに顔の前に腕をかざしましたが、吹き飛ばされて尻餅をついてしまいます。
何とか眼を開けた貴奨さんの前にあったのは……ブリザードを背負って仁王立ちになった、高槻さんの姿でした!!
「決して覗かないと、言った筈じゃなかったのか?……おまえが、約束のひとつも守れない様な男だったとはな……がっかりだよ」
「……高槻……?!」
何が何だか解らない貴奨さんは、ただただ絶句するばかりです。
そんな貴奨さんを冷たく見下ろすと、高槻さんは言いました。
「これでお別れだよ、芹沢。私の事は、もう忘れてくれ……この事を他人に話したらおまえの命はないと思え。自分の死がかかってるとなれば、おまえも約束を守れるだろうさ」
「何だと…? 何を言ってる! 待て、高槻…ッ!」
必死に手をのばす貴奨さんを、再び吹雪が襲います……風がやみ、貴奨さんは呆然と雪まみれの部屋を見渡しましたが。
その時にはもう、高槻さんの姿はどこにも無かったのでした……。
その後、雪に覆われた山の中。
「何で?! どうして行っちゃいけないの、ねぇ、高槻さんっ!」
腕に包帯を巻いた可愛らしい少年が、高槻さんの胸に縋り、涙をためた眼で彼を見上げていました。
「あの人、俺の事助けてくれたんだ! きっと、いい人だよ……俺、あの人の所へ行って、恩返しがしたいんだっ。あの人の弟になって、人間として暮らしたいんだよ…っ」
高槻さんは困った様に眉をひそめ、少年の髪をそっと撫でました。
少年の名は、慎吾。貴奨さんに手当てをしてもらった、傷ついた鶴の化身です……。
「確かに、悪い男じゃない。でも……あれじゃ、駄目だよ。あんな約束も守れない様な人間に、君の秘密が守れる筈がない……もし正体がばれた時、傷つくのは慎吾君だ。私は、そんなのは嫌なんだよ……人間の世界には決して、いい奴ばかりがいる訳ではないんだ」
そして、高槻さんはといえば。
実は彼も、人ではありませんでした……彼の正体は、慎吾君が住む山にずっと昔からいる《雪男》だったのです。
やがて泣き疲れて寝てしまった慎吾君を、そっと横たえながら高槻さんは眼を閉じました。
(彼が、あと数時間、我慢してくれたなら……)
貴奨さんとの生活は、高槻さんにとっても楽しいものだったのです……このまま一緒に……慎吾君と、貴奨さんと三人で、家族の様に暮らせたらいい……そんな事を、ふと夢見てしまう程には。
貴奨さんと高槻さんが……ましてや慎吾君が会う事は、二度とありませんでした。……それからずっと、貴奨さんは独身のままだったという事です。
《完》