桜夢
「おにいさん、カイおにいさん、カイさんたら」
それは聞き覚えがあるような、いや、何かが違う?
「もう、こんなところで寝たりしたら風邪ひいちゃいうよ」
違和感に気づいて目をみはる。
「絹一おまえ・・」
「はい?」
短い髪、幼い表情の絹一が小首を傾げて俺を覗き込んでいる。
俺は我が目を疑う。
「どうして・・? 一体どうなってるんだ?」
「ヤダなぁ、寝ボケてるの?」
ふと自分の着ているものが目に入った。
黒のガクラン、ガクラン?
どう観ても小学生の絹一は当然変声期前の高い声、中学のガクラン姿の俺。
俺は内心パニック状態だった。
絹一が俺の髪を払う。
「桜のはなびらがついてる」
俺は桜の樹の下で居眠りをしていたらしい。
「カイおにいさんったら、ぼうっとしてどうかしちゃったの?」
心配そうに俺を覗き込む絹一は、紺のパーカーと半ズボンがとっても似合っている。
「約束したからって、具合が悪いのだったら無理しなくていいのに・・」
当然俺にはなんの約束かさえ分からない。
俺の意識は『31の大人』のものだから。
これは、俺の夢なのだろう。
夢の中でも、絹一に悲しい思いはさせたくなかった。
「大丈夫だよ、桜があんまり綺麗で眺めているうちに寝てしまったらしい」
立ち上がりガクランを払っていると、胸ポケットに映画のチケットが入っているのに気づいた。
それは、春休みのアニメ映画のチケットだった。
「さあ、行こうか」
絹一が嬉しそうに笑うのをまぶしい気持ちでみた。
祖父母と暮らしている絹一は、我儘を言わない子供で躾も行き届いていた。
人目を惹く可愛らしい自分の顔を、ひどく嫌っている。
時々子供らしくない思いつめた表情をすることに、自分では気づいていないようだ。
事情を知っている『31の俺』が冷静な判断を下してしまう。
絹一に関する記憶がするすると頭の中に浮かんできた。
親戚が居て、桜が綺麗なのを知っていた俺は、一年前に友人達と桜を観にやってきて、桜にみとれていた絹一が俺にぶつかったのだ。
絹一を桜の精みたいだと思った俺は、顔を覚えていた。
次に絹一を観たのも桜の下だった。
俺は、絹一に会えるような気がして、いや、会いたくて一人で出かけたのだ。
そして、俺から話し掛けた。
―やあ、また会ったね―と。
近所に親戚が居て、休みには結構遊びにくるのだと話して知り合いになったのだ。
年齢より大人びた絹一と俺は急速に親しくなった。
「おにいさん、今日はありがとう。面白かった」
祖父母に育てられているせいか遊園地や映画などおよそ子供向けの行楽には縁のないままに絹一は育った。
俺が映画のチケットを貰ったので、一緒に観にいかないかと誘った時も、嬉しいよりとまどった表情に俺は胸の痛みを感じていた。
十数年後の二人が出会う日までの、絹一の孤独、歯がゆいほどの人間関係における不器用さを思うと俺の胸は苦しくなる。
「あのさ・・・前から聞こうと思っていたんだ」
絹一は缶ジュースの飲み口を見詰めながら聞いてきた。
「おにいさんは、どうして僕と仲良くしてくれるの?」
これは俺の都合の良い夢だからとは言えない。
たとえ夢だろうと、絹一が悲しむようなことや、傷つくことは俺が出来ないのだ。
「俺はお前のことが気に入っているし、俺もお前も一人っ子で、弟が出来たみたいで一緒に居ると楽しいんだよ、それだけじゃ駄目か?」
絹一が微かに笑って、頭を横に振った。
絹一の境遇に同情はしたくない。
俺も母子家庭の子供だ。
『31の俺』には義理の父親も、可愛い義妹もいるが。
「それならいい。僕もお兄さんが出来たみたいで嬉しいから」
俺を見た絹一の瞳がちゃんと笑っていたので安心した。
絹一にはいつも笑っていて欲しいと思っていたから・・・
「鷲尾さん、ベッドに行きましょう。風邪を引きますよ」
朝方帰宅した俺は、どうやら居間のソファで居眠りをしていたらしい。
出勤まえの絹一はスーツ姿で俺を覗き込んでいる。
英字新聞の切抜きがその手にあった。
「よさそうな英文があったので、目が覚めたらやってみてください」
絹一は折角覚えた英語を忘れないためと言って、今も時々宿題を置いていく。
「ああ、ありがとう。一眠りするよ、お前さんも仕事し過ぎないようにな」
軽く唇を触れ合わせて、絹一を送り出す。
「そうでした、今朝鷲尾さんが中学生の時の夢をみました」
「へえ?」
「鷲尾さんはとっても優しいおにいさんで、一緒に子供映画とか観にいたりしたんですよ」
「映画ねぇ・・・」
「じゃ、いってきます」
俺は一遍に眠気が覚めた。
「まさかな・・・」