投稿(妄想)小説の部屋

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No.224 (2001/04/01 20:10) 投稿者:桐加由貴

言祝ぎの泉

 カイシャンを探していた桂花は、声を掛けられるまでバヤンに気づかなかった。
「桂花殿。お久しぶりです」
「バヤン殿・・・お帰りでしたか。お早いお着きでしたね」
 バヤンは柔和な微笑を湛えたまま、桂花の隣に並んで歩き出した。
「このようなところにあなたがいるとはお珍しい。何かありましたか?」
「カイシャン様をお探ししているところでした」
 桂花はため息をつきつつ答えた。
 フビライお気に入りのひ孫は、基本的に机に向かっての勉強が得意ではない。それでも、他の学問ならなんとか根気も持つし、それなりに興味もあるようなのだが、語学は嫌いなようで、逃げてしまうことも珍しくなかった。今回もそれで、桂花が席を立った隙に、部屋を出て行ってしまったのである。
 幼い頃から読み書きは苦手だったが・・・と桂花が思い出しながらも辺りに視線を配っていると、バヤンも同じことを思い出したらしく、肩を震わせて笑っていた。
「カイシャン様らしい。剣術や武術には実に一生懸命なのですが」
「笑い事ではありません、バヤン殿。・・・まあ、あなたが帰っていらしたのならちょうどいい。ちょっと手伝っていただけますか?」
「私が・・・ですか?」
 気のせいか、バヤンが逃げ腰になるのに気づかないふりで、桂花は彼の耳に短く囁いた。

 カイシャンは、兵士達の鍛錬場に潜り込んで、彼らの試合を大喜びで見学していた。
「カイシャン様」
 バヤンが呼ぶと、その隣の桂花の姿にカイシャンの満面の笑顔がとたんに崩れて、まずい! という顔になる。
「カイシャン様」
 他の者では気づかないくらいに、桂花の声がきつくなる。叱り付ける時の声だと知っているカイシャンは、慌ててバヤンの後ろに隠れた。
「お久しぶりです、カイシャン様。お元気そうで何よりですね」
 桂花が人前で、この小さな王子を叱り付けると思っているわけではないが、盾にされてしまった責任として、バヤンはカイシャンに先に声を掛けた。
「う、うん、バヤンも元気そうだ。カラコルムはどうだった? 馬空達も来てるのか?」
「はい、あとでカイシャン様に、ご挨拶に伺うと申しておりました」
 話しながら、彼らはカイシャンの部屋へ向かう。一歩下がって歩く桂花から見ると、前の二人の身長差があまりにあるせいで、どちらも話すのが大変そうだった。
(だがもうカイシャン様は、抱き上げられるような年ではない・・・)
「なあ、もう陛下に挨拶は済ませたんだろ? だったら俺の部屋で、カラコルムの話を聞かせてくれ」
「はい、もちろんそうしたいのですが・・・」
「バヤン殿」
 契機と見て、桂花が口を挟んだ。
『先ほどお話したことですが』
 桂花はペルシャ語で言った。
『ご協力いただけますね?』
『しかし桂花殿、私はあまり気が・・・。まだカイシャン様はお小さい。まして、他の勉強はちゃんとなさっているのでしょう? そう焦ることもないのでは・・・』
 仕方なく、バヤンもペルシャ語で話し始める。 
 カイシャンは初めきょとんとしていたが、ややすると、バヤンの服を引っ張り始めた。
「なあ、何を話しているんだ?」
「カイシャン様」
 桂花に、僅かに叱る口調を向けられて、カイシャンは口をつぐんだ。
 そのまま二人はペルシャ語で話しつづける。その間ずっと、カイシャンはバヤンの服を掴んでいた。

 部屋でふくれっつらをしているカイシャンの傍らで、桂花は黙って教本の整理をしていた。
「・・・・・・なあ、桂花」
「なんですか? カイシャン様」
「さっき、バヤンと話していた言葉・・・何語なんだ?」
「ペルシャ語です」
「何か、俺には言えないような話してたのか?」
「というほどのことではありませんが。ただ、今のカイシャン様にお話するのは少々早いとは思っています。それに、バヤン殿にとっては、生まれた国の言葉のようなものですから・・・」
 これでカイシャンが乗ってくれれば・・・。
「・・・やっぱり、生まれた国の言葉の方がいいのか? バヤンはもう何十年も、陛下に仕えているのに」
「どれだけ故郷を離れていても、最初に覚えた言葉は忘れないものです。時には、話したくなることもあるでしょうね」
「・・・桂花も?」
 桂花は一瞬手を止めた。整理を再開しながら、言葉を捜す。
「吾は・・・どの言葉を最初に喋っていたか、もう忘れてしまいましたから・・・」
「だって今、おまえ、最初の言葉は忘れないものだって言っただろ」
「吾は例外です」
 カイシャンがじっと桂花を見つめた。睨んでいるような視線の鋭さは、小さな子供とは思えない程だ。桂花の嘘に勘付いている眼差しが痛くて、桂花は僅かに顔を背けた。
「・・・バヤンは、時々はペルシャ語を喋りたくなるのか?」
「ええ、多分」
「じゃあ、俺がペルシャ語を喋れるようになったら、バヤンは喜んでくれるかな」
「ええ、間違いなくそうだと思いますよ」
「おまえは、たくさんの言葉を喋れるんだろ。その中のどれか一つが、桂花の生まれた国の言葉なのか?」
「多分・・・そうでしょうね」
「その言葉を俺が覚えたら、桂花は喜んでくれるのか?」
 再び桂花は言葉を捜さなくてはならなかった。
「・・・どの言葉でも、カイシャン様が話せるようになられたら、吾は嬉しいですよ」
 カイシャンは唇を噛んだ。この教育係は、時々こうやって、彼の言葉をはぐらかす。それが自分にとってどれだけ嫌なのか、いつまでたってもわかってくれない。
 二人とも黙りこくっていると、先に沈黙に耐えかねたのは桂花のほうだった。
「自分の生まれた国の言葉で話してくれる相手がいるというのは、とても嬉しいことです。これからこの帝国はますます発展して、外国から来る人も増えるでしょう。そんな人々の心を掴みたいとお思いなら、相手の言葉を話せるようになることです。人の心を掴むのも、色々な言葉を覚えるのも、人の上に立つ者には必要なことですよ」
「俺は・・・」
 まだ幼いカイシャンは、うまく言葉にすることが出来なかった。知らない誰かの心を掴むより、おまえの心が欲しいのだとは。そこまではっきりした意思ではまだ、なくても、この気持ちを伝えるには、どんな言葉を習っても無駄のような気がした。
「・・・桂花」
「はい?」
「・・・授業抜け出してごめん。これからは、ちゃんと勉強する。それで、ペルシャ語も、他のいろんな言葉も覚えて、バヤンにも喜んでもらう。おまえの生まれた国の言葉も、どれだかわからなくても、話せるようになる。そうやって俺が話し掛ければおまえも、どの言葉だったか、思い出すかもしれないだろ」
 小さな王子のまっすぐな眼差しに、桂花は射抜かれた。一瞬、体が動かず、言葉が出なかった。
「・・・ええ」
 それだけを言うのが精一杯だった。


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