夜間飛行
ぽつんと一本立った桜。満開の花が、夜の中、浮き上がるように咲き誇っている。
「・・・綺麗だな」
「お気に召しましたか?」
ここは、桂花が見つけてきた場所だった。柢王にも教えていない、桂花だけの秘密の場所だという。
柢王が留守なので、桂花はティアの手伝いに行っていたのだが、ティアがあまりにも煮詰まっているのを見かねて、、気分転換に外に誘ったのだ。使い女には、早めに寝るから声をかけるなと言い残して。
ふう、と息をついて、ティアは桜の木の根元に座り込んだ。
昼間見れば薄紅に色づいているであろう桜の花も、夜の色に包まれていては仄かに白い。視界を埋める白い花。葉に守られることなく咲いて、散っていく潔い、孤高の・・・。
夜風が冷たいのが、頬に心地よかった。風に乗って届く、これは何の香りだろうか。
「・・・これは、沈丁花の香りです。この先にあるんですよ」
「いい香りだな・・・」
甘く、清涼感のある芳香を胸一杯に吸い込む。。
「・・・眠たくなってきた」
「お眠りになっても大丈夫ですよ、守天殿。吾が起きてますから」
「うん・・・」
隣の桂花の声に甘えて、ティアは木に寄りかかって目を閉じた。
風に揺れる枝の音。甘い香り。冷たい風。
ずっと・・・こうしていられたら。
ぼんやりとそんなことを考えながら、ティアは、音も香りも意識しなくなっていく。どこか深いところに落ちていく感覚。だがそれは、不快なものではなく・・・むしろ、気持ちよいものだった。
・・・不意に意識が浮上する。吸い込んだ風に、甘い香り。頬に柔らかな温かさを感じた。
ティアが目を開けると、地面が驚くほど近くにある。
ややして、桂花に膝枕されているのだと気づき、ティアはうろたえ、身じろぎした。
「・・・お目覚めですか?」
静かな声で、桂花が問い掛けてくる。
「あ、ああ。桂花、私は・・・」
「お眠りになって少ししてから、体が傾いてきたので。この方が安定しますから」
さらに気づくと、ティアの体には、桂花の上着が掛けてあった。
「もう少しお眠りになってはいかがです? まだ時間はありますし・・・。戻ったら、また明日から仕事が待ってますから」
飛び起きようとしていたティアは、その言葉に脱力した。
「そうだな・・・」
柢王に知られたら何を言われるか・・・と思いながらも、ティアは桂花の膝を枕にしたまま、横たわっていた。動く気力がなかった。
「桂花は、寒くないか?」
「ええ、吾は大丈夫です。守天殿は、寒くありませんか?」
「私も大丈夫だ」
ティアは目を閉じた。風の音・・・甘い香り。それと、桂花の体温が感じられた。
誰かに膝枕をしてもらうのは、これが初めてだった。母親がいない上、使い女は誰も、こんなことをしてはくれなかったし、ティアも甘えたことはなかった。
きっと、アシュレイもそうだろうな・・・。
ティアはそう思ったが、もしかしたら柢王も、誰かに膝枕してもらったことなんてないのかも知れない、と思い至った。
こんなふうに、誰かに素直に甘えて、自分を委ねて、そんなこととは、幼い日の自分達三人にとって、無縁のことだったのだろうか。
「桂花は、養い親の女性に、膝枕してもらったことがあったのか?」
「小さい時には」
答えは短かったが、桂花の声は僅かに音色が変わった。
「魔風窟は寒かったので・・・。冷たい岩で体が冷えないようにと・・・」
「そうか」
微かに滲むのは、、懐かしさと思慕の色。
「柢王には、膝枕してやったことは?」
「何度かありますよ。あの人は、あれで甘えたがりですから」
「おまえだから、だろう」
ティアは笑って、仰向けになった。
「こんなことが柢王に知れたら、何を言われるかな」
「大丈夫です。あの人は、あなたに甘いから」
桂花が微笑んで断言する。
「そうだな。柢王は私に甘いから・・・」
ティアは腕を目の上に乗せた。親友の柢王と、まだそうなって時間のたってない恋人のアシュレイ。二人のことは信じているのに、時々思ってしまう。・・・二人が優しいのは自分のことを可哀相だと思っているからだろうか、と。
それを言葉にしてしまったのは、桂花へのティアの甘えだろう。親友にだからこそ言えないことがあって、でも誰かに聞いて欲しくて。
ティアが守護主天である限り、天界人の誰に聞いても、彼が欲しい答えは返ってこない気がして。
「そんなことありません。確かにあなたは守護主天で、唯一無二の存在でしょうけど、柢王はいちいちそんなことを意識してはいませんよ。サルはどうだか知りませんが。・・・そりゃ確かに、あなたは不自由な身の上で、色々大変でしょうけどね」
桂花ははっきりと言った。柢王の、ティアに対する気持は、同情でも憐れみでもないと。
「あの人があなたに優しいのは、あなたを尊敬してるからですよ」
「・・・柢王が?」
「ええ。あの人は、檻の中から飛び出した人だけど、あなたは飛び出すことが出来ない環境の中で、踏みとどまって立派にその務めを果たしている。柢王は、あなたのそういう強さに一目置いて、尊敬しているんです。だから、優しい」
「そうだろうか・・・」
ティア自身は、それほど自分が尊敬に値する存在だとは、思っていないのだけど。
「そうですよ」
桂花は穏やかな声で呟いて、ティアの月光色の髪に絡まっていた木屑を取ってやった。
「あなたに今一番必要なのは自信だと、柢王が言ってましたよ。もっと自分の意志を通していいのにって」
「うん・・・」
「なかなか、難しいでしょうけどね。四天王も天主塔の文官も、使えないのが揃っているから」
辛口の批評に、ティアは苦笑した。だがそれは、ティア自身も思っていたことだったから、何も言えない。
「桂花。もう少し、眠っていいか?」
「どうぞ。ごゆっくり」
桂花が、ティアの上に自分の上着を掛けなおしてくれた。
「今夜のことは、柢王とアシュレイには、秘密だな・・・」
「ええ・・・」
沈丁花の香りに包まれて、桜の花びらが風に舞うのを感じながら、ティアは再び眠りに落ちた。