Sweet or Bitter?
世間一般ではバレンタインデーと呼ばれる、2月14日。
日本では、女性がチョコレートを好きな人や、お世話になった相手に贈るという習慣がある。
絹一もご多分に漏れず、その日は会社の女子社員に本命とも義理ともつかぬチョコレートをいくつかもらい、さらにはギルバートからもチョコレートと花束をもらって、大荷物で帰路についた。
最近は特に忙しいわけではなく、ある程度は退社時間も調節できそうだった。
少しだけ残務処理が長引いた仕事が終わると、絹一は早々にコートを着て会社を後にする。
今日は鷲尾が夕飯を用意して待ってくれているはずだ。
毎年、父親の命日であるこの日は、彼は仕事を入れない。
部屋に着くなり脱いだコートを適当に放り、スーツのジャケットだけを脱いで、グレーのちょっと大きめのセーターをカッターシャツの上から羽織る。
花束と、チョコレートの中からウィスキーボンボンの一箱を選んで、この日のために買ってあった上等の赤ワインを手に取ると、絹一は自分の部屋を後にした。
絹一が自分の部屋のカギを開けてから、再びかけるまでにかかった時間はおよそ5分。
そしてその1分後には、鷲尾の部屋のドアをあけた。
「鷲尾さん?」
とりあえず名を呼びながら自分が来たことを知らせると、勝手知ったる他人の部屋、とそのままキッチンへ直行する。
「お疲れさん。もうちょっとでできるから、その辺座ってろよ」
コンロの上のシチューをかき混ぜながら、あいた隙に手早くサラダを作っていた鷲尾が、顔だけを後ろに振り向けて絹一に笑いかける。
「今日は肉料理って聞いてたから、赤もってきました。あと、チョコレートのおすそわけ。どうせ俺一人じゃ食べられないから」
「サンキュ」
花束とワインのボトルとチョコレートを置くと、鷲尾の横からひょいとコンロを覗き込む。
「ビーフシチュー?」
ことことと煮込まれていたシチューは、じっくりと時間をかけて調理されたとわかる。
食欲を刺激するその香りに、絹一は思わず「おいしそう・・・」と呟いた。
「おいしそう、じゃなくて、おいしいんだ」
鷲尾の笑いながらのセリフに、絹一は「そうなんですけど」と答えながらサラダ用のプチトマトを一つつまむ。
「もう少し時間がかかるんだったら、俺、シャワー浴びてきていいですか?」
急いで帰ってきたから、この寒い中とはいえ、部屋に着く頃にはうっすらと汗をかいてしまっていた。
「ああ、でも早めに出てこいよ。10分くらいで用意しとくから」
くしゃりと頭を撫でられて、絹一はバスルームへと向かう。
自分の手伝いが邪魔にしかならないことは、ここ1年の間でよくわかっているのだった。
きっかり10分でシャワーを浴びてきた絹一は、素肌の上に直接セーターをかぶってタオルで濡れた髪を拭いていた。
テーブルセッティングを終え、絹一が持ってきた花を花瓶に放り込んだ鷲尾は、絹一のためにイスをひいてやった。席に着いた絹一からタオルを受け取り、乾いた部分でやさしくその髪から水分を拭い取ってやる。
「いい匂い。鷲尾さん、もういいですから食べましょう。俺、お腹すいてるんです」
自分の後ろに立っている男の顔を、仰向けに覗き込みながら、絹一は後ろでにその腕をひいた。
「珍しいな。じゃあ、もう一枚乾いたタオルもってくるから待ってろ。このままじゃ風邪ひくぞ」
見上げてくるその額に軽く唇を落とし、鷲尾は乾いたタオルを取りに行く。
テーブルに並んでいるのは、タコとスライスオニオンのマリネとコンソメスープ、レタスとプチトマトのサラダに、メインはビーフシチュー。それと付け合せにテーブルロールがのっている。
戻ってきた鷲尾に、乾いたタオルを髪と首の間に入れられて、やっと食事が始まった。
「うわ、すっごく肉が柔らかい。何時間煮込んだんですか?」
「ああ、昼すぎからだから、5時間くらいかな」
ゆったりと流れる時間は、おいしい食事とワイン、他愛無い会話で成り立っており、それはいつでも絹一をリラックスさせてくれる。
どんなに忙しい一日でも、鷲尾とこうした時間が持てる事で、どれほどストレスが解消されているか知れない。
やさしい空気。
自分を包むそれが、絹一はとても大切だということを、あらためて実感していた。
いつもだと、食事の後はコーヒーを飲みながらゆっくりとすごすのだが、今日は違っていた。
鷲尾がシャワーを浴びている間に、絹一が皿を洗い終える。
そして、バスルームから出てきた鷲尾が用意したものは、一つはキールロワイヤル。
もう一つは、切り分けられたケーキ。
真っ黒いその塊は・・・・・・
「これ、ザッハトルテ?」
チョコレートスポンジにアプリコットジャムを塗り、その上からさらにチョコレートでコーティングする、ドイツの有名なケーキだ。
「ああ、昼間妹が持ってきたんだ。お前と食えとさ」
絹一は色素の薄いふわふわのソバージュヘアを思い出して、ああ、とうなずく。
彼女なら、こういったお菓子作りも得意だろう。
「じゃあ、ありがたく頂こうかな」
頂きます、とケーキにフォークを刺した絹一の行動を、鷲尾は見守る。
「これってけっこう甘いやつだよな。キールよりブラックコーヒーのほうがよかったか?」
「チョコレート自体はあんまり甘くしないはずなんですけど、間のアプリコットジャムがけっこう・・・」
そのまま口に運んで、絹一はしばらく止まってしまった。
「・・・・・・絹一?」
「・・・・・・おいしいんですけど。すっごく。でも、ちょっと変わってるかも。あれ、鷲尾さん食べないの?」
よくみると、鷲尾の手元にはケーキが用意されていなかった。
「いや・・・・・・これだけ甘そうなのはちょっと・・・・・・」
たしかに、しっかりと食事をとった後に食べるには、抵抗のあるケーキである。
「大丈夫ですって。はい」
絹一はケーキを一かけフォークで取ると、鷲尾の口元に運んだ。
渋い顔をしていた鷲尾も、しかたなく口をあける。
「どう? 甘くないでしょう?」
絹一の言う通り、鷲尾が想像していたほど甘くなかった。
「たぶん、スポンジもチョコレートも両方ブラックチョコ使ってあるんですね。ジャムの甘さしかしないや」
「ん、確かにうまいな。あんまり甘くないし。けどこれあと4分の3ホールあるぜ。明日にでも食うか?」
「ザッハトルテは確か日持ちしますから大丈夫ですよ。冷蔵庫に入れとくくらいでいいんじゃないかな」
なんだかんだいいながら、結局2人は皿にのせられた分のケーキを2人で食べあい、2杯目のキールロワイヤルを手にリビングに移動した。
ソファでなく、床に直接座り、絹一を膝の間に抱き込む形でビデオを流す。
絹一の持ってきたウィスキーボンボンをつまみながら流れる映像に目をやる。
しばらくすると、絹一がうとうととしだした。
その手からシャンパングラスをそっと取り上げ、自分のグラスと一緒に近くのテーブルに置くと、本格的に眠りに入った絹一を起こさないように抱き上げる。
「おやすみ」
やさしくその額と、まぶた、頬に唇を押し当てると、絹一の寝息から、キールとアプリコットジャムの香りがした。
「あのジャムでも充分甘かったんだがな・・・」
苦笑しながら、鷲尾は器用に足でリモコンを操作してテレビを消すと、寝室へと入っていった。
ただバレンタインデーというだけで、特に変わったこともなかった一日。
その日常が、どれだけ大切かということを、二人は知っている。