投稿(妄想)小説の部屋

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No.212 (2001/03/13 00:50) 投稿者:皐月

桜語り「再び、春」5

 柢王は、しばらく無言で桂花の肩に頭を預けていた。桂花は桂花で、恋人を胸に抱きしめるひとり占めの幸せに浸っていた。そんなふうに、抱き合ったまま互いを無視した空気はふたりの心を静かに撫で鎮める。
 陽は高く、春間近の風は繰り返し衣の上を滑り、また流れ…。
「桂花、愛してるぜ」
 唐突に顔を上げると、柢王はいつもの口調でそう言った。先ほどまでの弱さなど感じられない、充電完了と言わんばかりの笑顔だった。
「なんです、いきなり。今更言われなくても、そんなこともう知ってますよ」
 桂花も華やかな笑みで、ふたりはいつもの空気に戻る。自信たっぷりの柢王と、少しだけ意地悪な桂花と…。
 動き出した柢王にほっとしながら、桂花はとりあえず床に広がった衣を片づけ始める。一枚一枚丁寧にたたみながら、その口元に笑みが浮かんでしまうのは仕方がなかった。
「そうだ。桂花、笛もあるぜ。吹いてみるか?」
 忘れていたらしい笛の存在を思い出し、もうひとつあった荷物を探り始める。
「おまえたちはこういう才に長けてるっていうだろ。…っと、あった。ほら」
 無造作に投げてよこされた笛は、黒と濃茶の中間のような色合いの笛だった。
「吹けるだろ?」
 確認よりも、既に肯定。柢王の、全くいつもの調子だ。
「笛を吹いていたのはもう何年も前です。吹き方なんて忘れましたよ」
「今日はいい天気だし、せっかくだからその衣着て、外で吹いてくれよ」
 桂花を無視し、その白い衣な、とちょうど桂花がたたもうとしていた衣を指し、柢王はさっさと立ち上がる。
「待ってください、吾は…」
 はやくしろよ、とまたもや桂花を無視して言い置き、柢王はもう外に向っている。
 こうなってしまえば柢王のペースだ。こと柢王に関しては、押し切られると意外と弱いのは桂花もわかっていたし、もちろん柢王も気づいている。
 桂花は仕方なく指定された白い衣を手に取った。
 夜着を足元に落とし、その肌触りのよさに驚きながら衣を纏う。ゆったりとした衣はつかず離れず桂花の肌を撫で、さらりと心地よい音を立てる。肩も丈もしつらえたようにぴったりで、本当に桂花への贈り物なのだと実感する。
 しばし衣の感触にうっとりし、桂花は柢王の待つ表へと出る。
 柢王は桜の木の根本に腰を下ろし、気持ちよさそうに目を瞑っていた。
 衣擦れの音に桂花の気配を感じ、柢王は夢から覚めるような仕草で目を開ける。そして真白の衣に身を包んだ桂花を見、自分の見立てに自画自賛の笑みを浮かべまた瞳を閉じる。
 流れる様子を見つめながら桂花は、柢王の座る向かいの木まで行き、幹に背を預けた。
「…少しだけですよ」
 少しの沈黙のあと軽く息を吸いこむ音が聞え、そしてすぐ、高い音色が流れ出す。
 桂花が吹いているのは高麗笛だった。数種ある横笛の中でも細身で短く高い音を出すそれは、桂花のすらりとした立ち姿にはよく似合う。
 透明な音色は、桜を待つ山に、静かに荘厳に、漂い溶けていく。
 桂花は、自らの笛の音に身を任せながら、心地よい風が過ぎていくのを感じていた。同時に何かが閃く。わかりそうでわからない、既視感のような何か。
 森羅万象、有象無象、ダーマ…。それら目に見えないものが、確実に存在するという実感。
 浄化される空気。眠っている感覚。
 肌の上に直接感じ、そして気づく。
 桂花のまわりには、いつも風があると。今過ぎていった風と同じ風が、いつもあると。
 柢王に出逢ってから重ねてきた幾つもの風景が、頭の中を駆け巡る。
 嵐のように抱き寄せてくる腕にも、頬を撫でるような穏やかな寝息にも、桂花はいつも、そうとは気づかず風を感じていた。
 …風もまた、見えないもの。風は何処を起源とし、何をもって終焉とするのだろうか。風を追った人は、いるのだろうか。誰もが感じ誰もが不思議に思う風に、答えはなく、答えを求めることは、無粋ですらあった。
 しかし桂花の風は、いつも柢王から生まれる。何物にも揺るがされることのない、事実。その存在を不思議に思う間もないほど、それは桂花の日常。気づいた時にはもう桂花は風に包み込まれている。傷つけないため、不安にさせないため、見えない風となり、桂花を守る。
 流れ、生まれては消え、消えては生まれ、戯れ…。それは繰り返される泡沫の永遠。
 高麗笛の、最後の一音もまた、長く尾を引き風となる。
「桂花、ケイリンノイッシって言葉、知ってるか?」
 柢王は余韻に浸りながら、開けた瞳で桂花を見つめる。
「ケイリンノイッシ…?」
 突然言い出されたことに面食らいながら、桂花は柢王の瞳に、先程の弱い光が浮かび始めていることに気づいていた。笛の音を聞いているうちに、不安が蘇ってきたのか…。
「おまえの桂の字に林、一つの枝と書くんだ。桂林一枝。綺麗な響きだろ?」
 柢王は立ち上がり、桂花と同じように幹にもたれる。
 「それがなにか…」
「清廉で気高くて、世俗を抜け出ているっていう意味なんだって。おまえみたいだろ?」
 目を閉じゆったりと笛を吹く姿は、白い衣とともに舞い降りてきた、天人のようだった。浦に降り立ったのが天女ではなく桂花だったら、柢王は間違いなく羽衣を盗んでいただろう。俗世に桂花を留めるために。
「他にも色々あるぜ。桂宮は美しい宮殿で、桂舟は美しい舟だ。ケイハクは月の別名。…どうやら桂っていう字には、美しいっていう意味があるみたいだぜ。…なぁ、桂花って、おまえにぴったりだと思わないか?」
 桂は彼の地の大国・中国で、月に生えているといわれる伝説の木だ。月の中には桂で作られた美しい宮殿があって、金桂や銀桂、色とりどりの桂の花が咲く。月の人・桂男は、移ろう季節に桂の花を求め、桂の櫂で舟を進め月に漂う。その月はケイハクと呼ばれ、「桂魄」、すなわち「桂の白い鬼」と書く。
 そして今柢王の目の前にいるのは、紫微色の肌と白く長い髪、「桂花」という名を持つ美しい鬼だった。白も紫も、冴え冴えとした月映えの色。
「おまえと月なんて、似合いすぎて心配になってくるぜ。いつかおまえが月に帰るんじゃないか…ってさ」
 桂花は、恋人の不安の原因を見つける。
 失くしたくないものほど、失くした時の哀しみは大きい。その哀しみを少しでも和らげようと、第六感は何度も何度もその時を想像し、耐性をつくろうとする。
 しかしその努力も虚しく柢王は不安を大きくするだけで、結果、月に帰るという突飛な終わりに辿り着いたのだった。
 ここまでくると、何処からその発想が出てくるのだろうと、恋人の弱気を理解するよりも可笑しさの方が先に立つ。しんみりした柢王を目の端に捕え、めったに笑わない桂花が微苦笑を浮かべ言う。
「なに言ってるんですか。吾は桜の鬼ですよ。…それに、一緒に地獄へ行くんでしょう。吾だけ月に帰れなんて、言わないで下さいね」
 羽衣を纏った自分、桜の木々と照らす月、その影に身を潜め舞を見つめる柢王。第一、浦に生えているのは桜ではなく防砂の木だ。砂地に桜は育たない。そこまで想像し、桂花はさらに笑いを深くする。柢王が同じように考えたかはわからないが、ここまでたどり着くのは容易だろう。
 桂花は腹を抱え、笑い出したことを後悔していた。声を出さない桂花の笑い方は、声を出すよりも腹筋を使う。だから笑い続けるのは苦しい。
「そんなに笑うことないだろ」
 今度は不安よりも不機嫌を露わにし、柢王は腕を組んで桂花を睨む。
 そんな幼い表情も可愛らしく、睨む柢王に申し訳なく思いながらもますます苦笑は止まらなくなる。
「…桂花」
 もういいと言いたげな一瞥を投げ、柢王は桂花に背を向け山の奥に進もうとする。短気なその肩は怒っていても、ただ単に拗ねているだけなのだと桂花にはわかる。
「柢王。待って下さい」
 知らん顔で突き進む柢王も愛しいだけで、桂花は気づかれないように笑いながら、怒った背を追う。
「柢王。すみませんってば。もう笑いませんよ」
 桂花は精一杯可愛らしい声で言い、なびく柢王の衣の裾を掴む。それでも止まる気配はない。
 何処へ行くつもりなのか、若木を折り草を踏み潰し進む柢王はかなりの早足で、桂花はほぼ小走りになりながら、息を切らして攻め方を変える。
「ねぇ、あなたのくれたこの衣、とても綺麗で気に入りましたけど、この時期はまだ寒いんですよ」
 言い終えてちょうど、計算にはなかったくしゃみが続けて二つ。
 桂花を何より心配する柢王は、桂花が寒いと言えばケンカ中でも放っておくことはしない。だからわざとそこを突いたのだが、実際、いくら天気のいい日でも二月の終わりに薄衣一枚では寒かった。
 予想通り、柢王の足はぴたりと止まった。しかし振り向くことはしない。まだ拗ねているのか、不機嫌と心配を天秤にかけ逡巡しているのか…。
「柢王。吾が風邪をひく前に、家に帰ってイイコトしましょうよ」
 広い背中にくっつき、腕は腰にまわして隙間もないほど身体を密着させる。昨晩重ねたばかりの身体も、こうして合わせれば簡単に熱を上げる。互いに不安定な気持ちに揺れていた数ヶ月を、埋めるためにはそれが最善だった。
 背中の全面に感じる体温に、思わずため息が漏れる。
「一年前はこんなじゃなかったのにな…」
「え? なんです?」
 ぼそりと呟いた柢王に、昨夜に意識をとばしかけていた桂花が現実に戻る。
「なんでもない」
 柢王は答え、背中の桂花をひとまわし、胸に抱きこむ。
 口説き落としたつもりが、手中に落ちたのは桂花だったのか自分だったのか…。
 ささやかな疑問を残しつつもとりあえず、眠れない日々を終え、ふたりは日常に戻る。

 終


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