雨だれ
昨日から降り続いている雨のせいで、部屋の中は夜にはまだ間があるにもかかわらず薄闇に包まれていた。
居間の片隅で膝を抱えるようにしてうずくまったまま、宇佐美悠はもう何時間も同じ姿勢のまま動かなかった。
ひっそりとした空気は息をひそめたままで、雨の音だけが時間が止まっていないことを教えているようだった。
不安と悲しみとに心を侵食されながら、悠はこの数日おびえて過ごしていた。
兄さんがいない。
どうしてよいか分からないまま、ただ帰りを待っているだけの時間だった。
両親はすでになく、兄弟二人暮らしの悠にとっての兄の存在がどれほど大きいか、今さら言葉にするまでもなかった。
静かな部屋にチヤイムの音が響いた。
ハッとして顔をあげた悠は、はじかれたように玄関に向かうと慌ててドアを開けようとして、そのことに気づくと息を整えて立ち止まった。
「どなたですか?」
「悠くん? 江藤だけど」
知っている落ち着いた声に、肩の力を抜いた悠は鍵とチェーンをはずしてドアを開けた。
目の前には塗れた傘と小さな手提げ袋を持った男が静かな面差しで立っていた。
「連絡はあった?」
気使う江藤智也の言葉に悠は黙ったまま首を振った。
「そうか……。あがってもいいかな?」
「どうぞ…」
悠は小さなくうなづいて江藤を家に通すと、初めて薄暗さに気が付いて明かりをつけた。
居間のソファに腰をおろして、目の前の悠を見ながら、江藤はつらそうにため息をついていた。
宇佐美アキが連絡を断ってから5日がたっていた。
恋人である江藤の所に連絡がなく、たった一人の弟にさえ何の連絡もないのは、普段の彼からは信じられない事だった。
仲のよい兄弟で、江藤から見るとブラコンに近いかもと思う程の兄貴っ子の悠はいつも明るく、輝いた目で兄を見ていた。それが今では、不安に瞳を曇らせて、青ざめた頬のまま心細そうにうつむいている。
その姿が痛々しく、江藤はかける言葉も見つからずに困ってしまっていた。
心配なのは、江藤も同じだ。しかし彼と違って、悠は中学生だった。この不安を背負うには悠はまだまだ幼過ぎた。
「先生のところにも行ってないんだろ?」
「写真の先生のとこも、先輩や友達や…僕の知っているところにはみんな、聞いてみたけど、ぜんぜん分からないんだ」
悠は両手で頭を抱え込んで大きくかぶりを振った。
「どうしちゃったんだろう…兄さんどうして…」
今にも泣き出してしまいそうに、声を震わせる悠に江藤は彼の隣に座ると、優しく肩を抱き、力ずけるように言った。
「心配しないで、大丈夫だから」
幾分、人見知りでスキンシップも苦手な悠は、江藤が慰めてくれているのは分かっても居心地が悪く、体を離していった。
兄の想い人という存在は悠にとっては、複雑なものなのだった。
「遠慮しないで、俺のこともう少し頼ってくれていいんだよ」
「ありがとうございます」
つぶやくように言って頭を下げた悠の肩を軽くたたいてから江藤は立ち上がった。
「ちよっと、アキの部屋に入ってもいいかな?」
江藤は今日のもう一つの訪問理由のためにそう言って許可をもらうと、アキの部屋のドアを開け、中に入って行った。悠はそんな江藤の後について行った。
壁を飾るパネル張りの写真以外は簡素な部屋だった。
江藤は部屋の隅に置いてある紙袋を見つけると、それを悠に差し出した。
「これ、この前一緒に買い物したんだ」
「………」
袋の中には明らかにプレゼントとわかるようなリボンの掛かった包みが入っていた。
青いリボンを見つめながら、悠は口を開いた。
「知ってる。この部屋の中、色々探した時に見つけた」
そして、江藤を見上げるとはっきりとした口調で言った。
「でも、誕生日のプレゼントは、兄さんの手からもらいたい」
意外にしっかりとした、それでも張り詰めた心の中が見えるようなまなざしに江藤は胸が痛むのを覚えた。
「そうだね。きっとすぐに帰ってくるよ」
江藤の言葉が単なる慰めだとわかっていたが、悠はうなずいてみせた。
「雨、止まないね。兄さん、寒くないかな?」
悠は自分の体に腕をまわして、震えそうになるのをこらえていた。
雨の音は続いている。
窓の硝子が泣けない悠の替わりに涙を零しているように見えた。