チョコレートの祭典
天界には、「大切な人にチョコレートを贈る日」というのがある。家族だったり、恋人だったり。もっぱら女性から男性へ、日ごろの感謝と愛情を込めて贈るのだ。
「・・・ってわけでさ、おまえからもらいたいんだけどな、俺」
おねだりモードの柢王が、桂花の膝に懐きつつ、細い腰に腕を回して膝枕を堪能してると、桂花が不思議そうに首をかしげた。
「なんです、それ?」
「別にいいだろ、おまえ俺の恋人なんだからさ。それともまさか、俺に愛情ないのか?」
内心、にこやかかつ皮肉げな笑顔で、お気に入りの娼妓からもらったらどうですか、とでも言われるかと思っていた柢王は、意外さを隠しつつさらにねだった。
「いえ、そうじゃなくて・・・その、ちょこれーと? なんなんですか、それ。食べ物ですか?」
「あれ? おまえ、チョコレート、知らないのか?」
「ええ」
あまりに意外で、柢王は思わず黙ってしまった。
桂花はその沈黙に焦ったらしい。
「・・・あの、それって、 どこにでもあるものなんですか? よくある、一般的なもの?」
叱られた子供のような顔の桂花が、慌てて言い募る。その頬に柢王は手を伸ばした。
「そんな顔すんな。別に怒ってるわけじゃねーよ。知らないんなら教えてやるから」
それほど甘いものを好まない柢王の傍にいれば、確かに知る機会はないかもしれない。
柢王は、桂花の頬を撫でた。
「じゃ、今から食いに行こうぜ。着替えろよ」
「やっぱり食べるものなんですか。野菜とか果物とか?」
「違うな、あれは、ま、お菓子だな。甘いんだ」
「いつもの格好でいいんですか?」
「ああ。・・・いや、待てよ」
今の時期、菓子屋はほとんど女達に占領されている。贈り物用に吟味したり、手作りチョコのために味を参考にしたりするために。
周り全てが女でも、柢王は別に気にしないが。
「そうだな、おまえ、髪上げてけよ。そうすりゃ、女に見えるだろ」
「女性同伴じゃなきゃ入れないようなとこなんですか?」
「そうじゃないけど、客の9割は女だからさ」
柢王は、腹筋だけで起き上がった。
天界には妙な習慣があるな、とでも思っているのだろう、まだ不思議そうな顔をした桂花が、着替えるために立ち上がる。
「・・・こんなとこでどうです?」
しばらくして、自身も着替え終わった柢王が呼ばれて行ってみると、長い髪を結い上げた、匂い立つような美女が出来上がっていた。
後頭部の高い位置でまとめて、背中に垂らした髪。着物を深く合わせ、襟足は多めに抜いて、薄い布を幾重にも巻いて帯にして、素足にサンダルを履いている。服そのものはたっぷりした体の線を隠すもので、帯を巻いた腰と、覗く足首の細さを強調することで、下手な女よりよっぽど艶かしい雰囲気を作り上げていた。
既に変化も済ませている。髪は茶色に、肌は白く。瞳は紫のままで、色彩だけを見ればそう華やかでもないが、全体に抑えた色調が大人の妖艶さをかもしだしていて、一人ではとても歩かせられないような出来だった。
柢王は軽く口笛を吹いて賞賛した。
「すっげー美人だぜ、桂花。このまま押し倒したいぐらいだな」
桂花はにっこり笑った。
「当然です」
街に出たついでに、早めの夕食も食べようということになり、柢王はかなり上等の部類に入る店に桂花を連れて行った。
「何もわざわざこんないいとこ・・・」
小声で囁く桂花に、
「いーのいーの。こんな美人を連れてくんなら、これくらいのとこ選ばないとな」
桂花の腰に手を回してエスコートしている柢王が、上機嫌で囁き返す。実際、場末の店になど連れて行ったら、こんな美女、誰に絡まれたっておかしくない。
「すげーいい気分だな。俺の連れが一番綺麗だ」
「だから、当たり前でしょう」
柢王の贈りものの、銀の耳飾りを直した桂花が言い返す。
貴婦人にするように椅子を引いて座らせて、二人であれこれ言いながらメニューを選ぶ。
「食後のデザートはチョコレートのもんにしような。おまえは何がいい?」
「どんなものがあるのか、吾はわからないんですけど」
「あ、そっか」
メニューにも、ずいぶんチョコレートのお菓子が多い。焼きっぱなしのケーキから、チーズと生クリームを巻きこんだロールケーキ、紅茶の葉で風味をつけたムースまで。
その中で柢王は、自分にはチョコレートケーキ、桂花には石畳風チョコを選んだ。できるだけチョコレートそのものの味を体験させようという配慮である。
「半分こしようぜ」
「ええ」
こんな店に来るぐらいだから、柢王もちゃんとした格好をしている。その彼が、美しく装った桂花と仲睦まじげに囁きあっている姿は、どうしても周囲の人目を引いた。
「・・・もう少し、地味な格好してくればよかったですね」
「おまえならどんな格好してても注目されるぜ。綺麗だからさ」
ふう、と桂花がため息をついた。
「なんなら席替えてもらうか?」
「・・・いーえ、ここでいいです。いつものことだし」
「そうだな。羨ましがられてるのも気分いーし」
そんなことを話している最中に、前菜が運ばれてくる。
「ま、食おうぜ」
「ええ」
フルコースの食事である。柢王お薦めの店はさすがにレベルが高く、味もさることながら、皿を下げ、また次の皿を持ってくるタイミングから、客に気づかせないように注意を払う視線の配り方、視界に入っても気にならないような身のこなしまで、実に心地よく、天界人の中ではいつも気を張っている桂花でさえ、かなり落ち着いて食事を楽しめた。
「いい店ですね」
「だろ? メシは美味いし、給仕も気が利いてるしさ」
なんのかの言っても、王子様の柢王である。眼も舌も肥えている。その彼のお墨付きなのだ。
気持ちよくメインディッシュまで片付けて、食後のデザートで、お目当てのチョコレートが運ばれて来た。
桂花は、皿の上の石畳風チョコ・・・四角く切り分けられた茶色の塊を、フォークの先でつついている。
「これが、チョコレート?」
「そ。そんな警戒しないで、まず一つ食ってみろよ。ここのは美味いから。あ、半分くれな」
早速柢王が、フォークを伸ばして二、三個口に運ぶ。
それを見て、桂花も一つ、そっと口の中に入れた。
「・・・」
「どうだ?」
桂花はしばらく沈黙して、初めて食べるチョコレートを味わっていたが、ややして小さく呟いた。
「・・・甘いんですね」
「だろ。で、どうだ? 食べられるか?」
「ええ・・・」
桂花は紅茶で喉を潤す。
「甘くて・・・香りが独特ですね。味も香りも、他の何とも似ていない。でも、おいしいです」
「気に入ったか?」
「ええ」
桂花は数度瞬きをして、改めて皿の上の四角いチョコレートを見つめた。
「これがチョコレートなんですね・・・」
「こっちも味見てみろよ」
柢王が、自分の皿を桂花のほうへ押しやる。
スポンジケーキなら桂花も食べたことがあるので、こちらにはそう抵抗はなかった。
「あ、こっちもおいしいです」
「なんなら全部食っていいぜ」
「いえ、さすがに全部は・・・」
結局、最初の約束どおり半分ずつ食べて、フルコースを終わりにした。
「チョコレート、わかっただろ?」
「ええ、柢王」
「なら、もう俺にくれるよな」
「・・・」
そう言えば、それが発端だった・・・と、桂花が今更思い出している。
「・・・売ってるんですよね?」
「ああ、今の時期は、どこにでもあるぜ」
柢王は桂花の肩に手を回して、夜の街の雑踏を歩いた。
「恋人に贈るものなんですね?」
「愛情たっぷりこめてなー。チョコが愛の証なんだからさ」
「・・・チョコレート一つが?」
紫のままの瞳が、柢王を見上げた。
「イベント、イベント。それだけじゃ表しきれないってんなら、もちろん他のものでもいいけどな。なんなら、チョコに媚薬混ぜるとか・・・いて」
さりげなく足を踏まれて、柢王は声を上げる。さすがの桂花も今の格好では、そうそう殴る気にはならないらしい。
「なんなら睡眠薬でもいれときましょうか?」
「俺が眠っちまってもいいのか? おまえ」
「吾は別に構いませんよ。あなた、普段から付き合いが広くて大変そうですから、たまには夜ぐっすり寝てもいいでしょうからね」
「おまえもな。たまには、夜に眠らせてやろうか?」
そんなやり取りを楽しみながら、二人は街を抜ける。柢王は桂花の体に腕を回して、ふわりと浮き上がった。
「さて、帰るか」
「ええ」
桂花が柢王の首にしがみつく。人が完全にいなくなるところまでは、変化を解くことはできない。
「帰ったら、前払いしましょうか?」
「チョコレートを?」
「・・・もう一つのほう」
耳元で囁かるとくすぐったかった。
「それいいな。そうしようぜ」
柢王は囁き返して、桂花をぎゅっと抱きしめた。