静穏
スーツを脱いでネクタイを外せば、今まで感じてはいなかった疲れがどっと押し寄せて、貴奨は深く溜息をついた。
「溜息を一つつくとね、幸せが逃げて行くんだって話、知ってます?」
そう言って笑ったのは、誰だったか。
「あれ、帰ってたんだ。おかえり」
シャワーを浴びていたらしい慎吾が髪を拭きながらキッチンへと消える。
「なんか飲むー?」
「自分でやるからいい」
「あっそ」
「慎吾、ペットボトルから直に飲むのは止めろ」
「はいはい。……貴奨、疲れてるだろ」
「いきなりなんだ」
「だって、口うるさいもん。イライラしてるから細かいことまで気になるんだろ」
ったくもー。と頬をかるく膨らませた慎吾が、自室へと消えるのを見送って、ぐったりとした体をソファーへと投げ出した……ところまでは、覚えている。
ふと気が付くと、リビングの明かりは絞られていて薄暗く、体には毛布がかけられていた。
いつの間にか眠っていたらしい事に気がついて、よほど疲れていたのだなと自分を振り返る。
小さく静かに流れるピアノ曲も、毛布も、明りも、全て慎吾の仕業だろう。
起こすか起こすまいか迷った挙句の選択であることは容易に想像がついた。
自分なら、容赦無く叩き起こしてベッドに放り込んでいるところだが。
ふとテーブルの上におかれたカップに気がついて、手に取る。
まだ少しだけ温もりを残している、紅茶。
微かにブランデーの匂いがする。
すぐに目が覚めて自室へ帰るだろう自分を見越していたという訳らしい。
紅茶が気分を解すように、久しぶりに穏やかな気持ちで寛いでいる自分に浮かんだ苦笑は、けれど柔らかく、夜の静かな空気の中に溶けた。